あれから――兄貴である悲鳴嶼行冥が最終選別を無事に終え、鬼殺隊の剣士として旅立ってから、さらに二年の歳月が流れていた。
この二年の間に、山あいの稽古場と寺を中心に、数々の変化が訪れていた。
まず最も顕著だったのは、歳玄自身の外見と肉体の変貌だった。
十三歳という年齢を迎えた歳玄の背丈は、すでに五尺八寸余り――(およそ百七十五センチメートル)にまで達していた。この大正の初期という時代背景において、十三歳の少年としては文字通り異例の、圧倒的な大柄の体躯である。
しかし、それはただ無暗に背が高いだけのヒョロりとしたものではなかった。綾之丞の課す過酷な地獄の特訓と、自ら編み出した凄まじい肉体鍛錬の果てに、無駄な脂肪が極限までそぎ落とされ、それでいて鋼鉄のワイヤーを幾重にも束ねたかのような強靭な筋肉が、その引き締まった骨格を隙間なく覆い尽くしていた。
その爆発的な筋力と、前世から受け継ぐ土方歳三の戦闘勘、そして極限まで高められた「全集中的な呼吸」の常時発動が噛み合った結果、現在の歳玄の身体能力は、かつてあれほど高くそびえ立っていた師匠・桜庭綾之丞すらも、あらゆる面で凌駕するに至っていたのである。
「――『"桜の呼吸 壱ノ型・桜花一閃"(おうかいっせん)』」
静まり返った山頂の稽古場。乾いた空気を切り裂くような鋭い金属音とともに、歳玄の腰の鞘から抜刀された一太刀は、目にも留まらぬ神速の軌跡を描き、綾之丞の持っていた木刀を遥か彼方へと吹き飛ばした。
「……まさか。ここまで……ほんの数年で、完全に手がつけられないほどの怪物に仕上がるとはな」
木刀を弾き飛ばされた綾之丞は、苦笑いを浮かべながらも、その黄金色の瞳には隠しきれない深い賛嘆の色を宿していた。
「……全部、お師匠の徹底したご指導と、あの地獄のような特訓のおかげですよ」
歳玄はゆっくりと刀を鞘に納め、乱れのない呼吸を整えながら淡く微笑んだ。
「……よく言うさ。それにしても、『桜の呼吸』か。よくぞまぁ、あんな恐ろしい実戦特化の型を独力で編み出したものだ」
綾之丞が感嘆するのも無理はなかった。
歳玄が長い思案と幾多の死線の記憶を総動員し、自らの肉体と魂に完璧に馴染ませて作り上げたもの――それが、「桜の呼吸」だった。
桜の呼吸は、元来の五大流派の一つである「水の呼吸」から派生させた独自の派生系だった。その最大の特徴は、あらゆる状況において初撃の一太刀が必ず「抜刀」の姿勢、あるいはそれに準ずる超加速の初動から繰り出されるという、徹底的な一撃必殺の剣型にある。
無駄な予備動作や無駄な軌道を一切排除し、極限まで直線的かつ合理的でありながら、対象の抵抗や変則的な動きに対しては水の呼吸が持つ柔軟な流れの軌道を融合させる。すなわち、硬と柔、直線と曲線の理合いを極限の次元で両立させた、まさに「剛柔無双」の戦闘体系へと進化させていたのだ。
だが、歳玄にはまだ不満があった。
前世、幕末の修羅場を生き抜いた土方歳三が最終的に自らの奥義にまで昇華させた、あの必殺の歩兵剣術――「虚狼」だけは、まだこの十三歳の肉体では完全に再現できていなかった。
それは、純粋な身体のサイズや筋力の絶対量が足りないのか、あるいは骨格や腱の成熟がまだ追いついていないためか。あるいはその両方か。
(……『虚狼』のあの凄まじい踏み込みと、全身のバネを極限まで爆発させる負荷は、今のこの肉体でもまだ少し負担が大きすぎるか。壱ノ型との相性自体は抜群のはずなのだがな……)
心の中で舌打ちを一つしながら思案に耽る歳玄の背後から、不意に別の声が割り込んできた。
「ん? 歳、今なにかボソボソと言っていなかったか?」
「……いや、何でもねぇよ」
「ちょっと、ちょっとあなたたち! 真剣で稽古するなって、何回言えば分かるんですか!」
ピシャリと冷ややかな、しかしどこか幼さの残る凛とした声が稽古場に響く。
振り返ると、そこにはこちらに向かってトコトコと小走りで駆け寄ってくる二つの可愛らしい影があった。
綺麗に髪を下ろし、おっとりとした気品を漂わせる姉の胡蝶カナエ。そして、髪を綺麗に結い上げ、少しツンとした勝気な眼差しを向けている妹の胡蝶しのぶ。
この二人の少女がこの寺にやってきたのは、およそ一年前のことだった。
当時、任務で山を巡っていた兄貴・悲鳴嶼行冥が、鬼に襲われて絶望の淵にいたところを救出し、身寄りのない彼女たちをそのままこの寺へと引き取ったのだ。それ以来、彼女たちはこの山奥の寺で、歳玄たちと共に家族のように暮らしていた。
「この程度の立会いで、俺らが大怪我するわけねぇだろ」
「怪我をしてからでは遅いんですよ! なんでそんなに平然と言えるんですか!」
「まぁまぁ、しのぶ、落ち着いて」
「でも姉さん!」
猫のようにフンスと鼻息を荒くして噛みつこうとするしのぶを、カナエが後ろから優しく、しかしガッチリと羽交い締めにするようにして制止する。
「この程度で騒いでたら切りないわよ。それに、歳くんの強さはしのぶもよく知っているでしょ?」
「……それは、まぁ、そうですけど……だからって心配しちゃいけない理屈にはなりません!」
「あらら、しのぶったら、本当は歳くんのことが心配で心配でたまらないのねぇ」
「なっ……! 姉さん、変なこと言わないでくださいっ!」
顔を真っ赤に染め上げて必死に否定するしのぶの頭を、カナエがくしゃくしゃと優しく撫でる。
ちなみに、現在の年齢設定で言えば、カナエが歳玄の一つ年上の十四歳、しのぶが歳玄と全く同じ同い年の十三歳だった。歳玄から見れば、二人とも可愛い「妹分」のような存在である。
「まぁまぁ、お二人さん。稽古の話はそこまでにして、そろそろお腹も空いたことだし、家に帰ろうか」
綾之丞が穏やかに声をかけ、一同は揃って寺へと歩き出した。
「「「はい」」」
◆
夕暮れ時。温かい湯気が立ち上る食卓を囲みながら、その話題は唐突に切り出された。
「――歳。お前、そろそろ『最終選別』に行ってきなさい」
食事の箸を止めることもなく、綾之丞があまりにもサラリと言ってのけた。
「……おぅ。分かった、そろそろ行く頃合いだと思っていたところだ」
「「えっ……!?」」
驚愕の声を上げたのは、向かい側に座っていた胡蝶姉妹だった。特にしのぶは、持っていたお椀を取り落としそうになるほど目を丸くしている。
「いやいやいや、ちょっと待ってください! 最終選別って……あの、命を落とす人間も少なくないって噂の、あの恐ろしい選別ですよね!? なんでそんなに、今日の夕飯の献立でも決めるかみたいに落ち着いていられるんですか!」
しのぶが信じられないといった様子で身を乗り出す。
「ふふふ。まぁまぁ、しのぶちゃん、そんなに慌てなくてもいいだろう」
「慌てますよ! 仮にもお師匠であるあなたに勝てるくらいの腕前だとは言っても、相手は人間の常識が通じない本物の鬼なんですから! 落ちる確率がゼロだなんて言い切れないじゃないですか!」
「そう言う問題じゃないでしょ、お師匠様!」
しのぶだけでなく、普段は穏やかなカナエまで珍しく強い口調で抗議の声を上げる。
「じゃあ、お前らはどういう心配をしてるんだよ」
「そ、それは……ほら、色々と……!」
「しのぶったらもう。……素直になりなさいよ。歳くん、しのぶはね、あなたが最終選別で傷を負ったり、二度と帰ってこなくなったりするのが怖いのよ。いくら歳くんが剣の腕が立つからって、命に絶対なんてないんだから」
カナエが呆れたような、しかし切なさを帯びた優しい笑顔を向けながら、しのぶの本当の気持ちを代弁する。
「なっ……! わたし、わたしは別にそんな、そんな心配なんか……!」
しのぶは耳まで真っ赤に染め上げ、そっぽを向いて小さく唇を尖らせた。
(……そう言うことか)
歳玄は内心で小さく息を吐いた。いつも自分に対して何かと突っかかってきたり、生意気な口を利いてきたりしていたのは、裏を返せば彼女なりの不器用な気遣いや、大切な居場所を失うことへの恐怖の裏返しだったということか。
思えば、彼女たちもまた、過去に鬼によって大切な家族を奪われた哀しい過去を背負っている。これ以上、身近な人間が自分の前から消えていく姿など、見たくもないのだろう。
歳玄は箸を置くと、真っ直ぐに二人の少女を見据えた。
「お前たちが何と言おうと、俺は行く。鬼をこの手で斬るために、ここまで強くなってきたんだからな」
「歳……」
「心配するなとは言わん。……だから、俺を信じろ。俺の剣を、そして俺の背中を信じて待っていれ」
その静かで、しかし絶対的な重みを持つ声音に、カナエとしのぶは息を呑んだ。
「「歳(くん)……っ」」
「って、なんで姉さんまでそんな真剣な顔して赤くなってるんですか!」
「あら? 私だって、可愛い弟分――いや、大切な家族である歳くんが心配なのは本当だもの」
「もうっ……!」
言い合いを続ける姉妹のやり取りを横目に、歳玄は静かに食事を再開した。
コイツらがこの寺に流れ着いてもはや一年が経つ。時の流れというのは、本当に早いものだ。自分がこうして修行に明け暮れている間にも、日本中のあちこちで、数え切れないほどの人々が鬼の餌食になり、命を落とし続けている。
兄貴である悲鳴嶼行冥は、最終選別を終えて鬼殺隊に入隊して以来、その圧倒的な実力と不屈の精神で急速に階級を駆け上がり、現在は「柱」のすぐ下にまで位置する最高峰の隊士として日々命懸けの任務をこなしているという。
弟である自分が、いつまでもいつまでも、この山奥の寺の温かい庇護の下に甘えているわけにはいかないのだ。
◆
夜が、さらに深く更けていく。
とうとう、歳玄が最終選別へと発つその日の夜が訪れていた。
囲炉裏の中で、赤々と燃え盛る炭火がパチパチと小さく音を弾かせる。その静かな光だけが、薄暗い部屋の中をぼんやりと照らし出していた。
「……明日、発つんじゃないの?」
ぽつりと、胡蝶しのぶが膝の上で両手を強く握り締めながら呟いた。
彼女の目は、どこか赤みを帯びているように見えた。
歳玄は手入れをしていた刀の鞘を拭う手を止めず、淡々と答えた。
「いや、今夜だ」
「は……!?」
しのぶだけでなく、少し離れた場所に座っていたカナエすらも、思わずといった様子で目を見開いた。
「今夜って……こんな真夜中にですか!?」
「あぁ。夜のうちに山を下り、選別の行われる山の手前で野営する。余計な体力や日中の暑さに体力を奪われたくねぇからな。合理的に動くのが一番だ」
あまりにも合理的すぎる歳玄の返答に、しのぶは言葉を失い、ただ口をパクパクと動かすだけだった。
一方で、胡蝶カナエは静かに、どこか諦めたような、それでいて誇らしげな笑みを浮かべた。
「……本当に、あなたらしいというか、少しも緊張していないのね」
歳玄は特に返事をせず、ただ静かに立ち上がった。
身なりを整え、腰に日輪刀の代わりの修行刀をしっかりと結びつける。
「……行ってくる」
その一言だけを残し、歳玄は玄関の方へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……っ!」
しのぶが弾かれたように立ち上がり、歳玄の背中に向かって駆け寄る。
「なんなのよ、そのさっぱりした態度は! もっとこう……何か言うことあるでしょ!? 例えば、その……『すぐに戻る』とか、『怪我しないように気をつけて』とか……!」
言葉が詰まり、しのぶの瞳に大粒の涙が浮かび上がってきた。
歳玄はわずかに足を止め、振り返った。その表情には、いつもの冷徹さではなく、どこか穏やかな温かみが宿っていた。
「寂しいのか?」
「っ……ち、違うわよ! 別にそんなんじゃないわよ!」
「あら、私は寂しいわよ、歳くん。こんな冷たい男を置いていかれるなんて、お姉ちゃん悲しいな。何か慰めの言葉でもかけてくれないの?」
「姉さん、変なちょこちょこ茶化さないでくださいっ!」
「……はぁ。まったく、仕方のねぇ奴らだ。……二人とも、少しこっちに来い」
歳玄に手招きされ、胡蝶姉妹は戸惑いながらも彼の前へと歩み寄った。
そして、歳玄はまだ自分よりも少し背の低い二人の少女の頭の上に、そっと大きな掌を乗せた。
「俺たちは――家族だ」
「「っ……!?」」
「ここが俺の家であり、お前たちが待っている場所が、俺の帰る場所でもある」
その言葉は、飾り気のない、しかし紛れもない真実だった。血の繋がりがなくとも、あの地獄のような夜を越え、この山奥で共に笑い、共に飯を食った日々の記憶は、間違いなく彼らを「家族」へと変えていた。
「……だから、必ず生きて帰る。だから、少しだけ待っていてくれ」
「……っ……うっ……」
しのぶは、あふれ出そうになる涙を必死に堪えようと、唇を血が滲むほどに噛み締めながら下を向いた。これ以上何かを言えば、声が泣き声になってしまうことを分かっていたからだ。
「うん……私、信じているから。必ず、必ず帰ってきてね、歳くん」
カナエはもう我慢できなくなったのか、そのまま歳玄の頑丈な胸元へと飛び込み、しっかりと抱きついた。
「ほら、しのぶも。意地張ってないでさっさと来いよ」
「う、うぅ……! 姉さんに言われたから、仕方なくなんだからね……っ!」
口では文句を言いながらも、しのぶもおずおずと近づき、カナエの背中を押されるようにして歳玄の腕の中に飛び込み、小さな体を震わせながら最後の抱擁を交わした。
そして、その場にはもう一人、すっかり忘れていた(あるいは無視されていた)大人物がいた。
「……いや、一応私もここにいるんだがね。師匠としての一言とかはないのかな、歳くん?」
部屋の隅で腕を組みながら苦笑していた綾之丞が声を上げる。
「お世話になりました、お師匠」
「あぁ。……歳のことは、お前の実力を知っているから心配はしていないが……油断して風邪とかだけは引かないように気をつけるんだぞ。変なところで抜けているところがあるからな、お前は」
「……分かってるさ」
歳玄は師匠に対して深く一礼した。
そして、今度こそ一切の迷いを断ち切るように背筋を伸ばし、歩みを止めることなく、夜の闇に包まれた玄関の戸を開けた。
「「いってらっしゃい……!!」」
背後から、二人の少女の震える、しかし力強い見送りの声が響く。
歳玄は振り返らなかった。ただ右手を軽く上げてそれに応え、そのまま家族の待つ家を後にして、最終選別の待ち受ける鬼殺隊の試験場――藤襲山(ふじかさねやま)へと続く夜道へと踏み出したのだった。
◆
とある、人の気配のない静まり返った夜道。
上空には、冷たく冴えわたる月明かりだけが、歳玄の孤独な背中を白々と照らし出していた。
(……いよいよ、最終選別か)
この二年間、地獄のような極限の特訓を、文字通り命懸けで乗り越えてきた。
呼吸は完全に「常中」の域に達し、昼夜を問わず体内の血流と酸素の循環を途切れさせることなく、肉体と精神を限界まで研ぎ澄まし続けている。肉体の筋力も、剣の技量も、もはや「並の鬼殺隊士」の領域を遥かに超越していた。
(だが――)
歳玄は足を緩めない。歩みを進めるごとに、その足音は静かに、しかし確かな重みを持って夜の地面を踏みしめていく。
(どれほど技術を極めようとも、どれほど強大な筋力を手に入れようとも、油断や驕りが一瞬の死を招く。……それを一番よく知っているのは、他でもないこの俺だ)
どれほど凄腕の剣士であろうとも、ほんの一瞬の不意打ちや、想定外の毒、あるいは夜闇に潜む無数の雑魚鬼の群れに囲まれれば、命などあっけなく散る。病魔には勝てず、意図せぬ事故に巻き込まれて命を落とす可能性だって、確率論としてゼロではない。
慢心した瞬間から、人間はただの「脆い肉の塊」へと戻ってしまうのだ。
ひゅぅ……と、冷たい夜風が吹き抜ける。
その風に揺られ、道端の木々から一枚の桜の花びらが剥がれ落ち、闇夜の中にひらひらと舞い散った。
刀の柄に添えられた掌が、微かに熱を帯びる。歳玄の瞳孔がわずかに収縮し、五感が周囲のわずかな気配すらも逃さぬよう極限まで尖っていく。
これから待ち受けているのは、人間を喰らう醜悪な化け物どもが巣食う、血塗られた生存競争の舞台。
だが、恐怖など微塵もない。そこにあるのは、自らの手ですべての因縁を断ち切り、大切なものたちを守り抜くための、凍てつくように冷たく、それでいて燃え盛る炎のような闘志だけだった。
夜はまだ深い。
歳玄の鬼殺隊への幕が、今、静かに開こうとしていた。