――家を飛び出した後日。
ついに、鬼殺隊の生死を分かつ最終選別の地――藤襲山に、俺は無事に辿り着いていた。
山を一望すれば、麓から頂上付近に至るまで、目が眩むほど鮮やかな藤の花がこれでもかと咲き誇っている。その紫色の絨毯は、夜の闇の中でも妖しく、そして美しくライトアップされたかのように揺れていた。
だが、その美しい花々の内側には――人肉を喰らう醜悪な鬼どもが、餌食を求めて牙を研いでいる。外の美しさと内の醜悪さが歪に混ざり合う、まさに死の楽園だった。
山の麓に集められたのは、十数名の若い剣士たちだった。
皆、一様に顔面を青ざめさせ、極度の緊張からか冷や汗を流しながら、これから挑むべき暗い山を見上げていた。恐怖に足が震えている者もいれば、手を合わせしきりに震わせている者もいる。
そんな重苦しい空気の中で、不意にざわめきが起きた。
「……おい、見ろよ、あの野郎」
「なんだあいつ……歳いくつだ? デカくねぇか……?」
ひそひそと、周囲の隊士たちから怯えを含んだ声が漏れ伝わってくる。
それも無理はない。この場において、歳玄の存在はあまりにも異質で、圧倒的に浮いていた。
この時代の平均的な成人男性の身長を遥かに上回り、十三歳にして五尺八寸余り――百七十五センチメートルに達する大柄の体躯。師匠である綾之丞の元で限界まで鍛え上げられた、無駄な肉が一ミリも存在しない、鋼鉄のように引き締まった筋肉の鎧。
さらに、白いリボンで美しく結ばれた長髪、目立った容姿ゆえの類まれなる美貌。
そして何より――
「「「……っ!」」」
周囲にいた同期の剣士たちは、歳玄が意図せずとも放ってしまうその強烈な殺気と、修羅場をくぐり抜けてきた者だけが纏う異様なプレッシャーに気圧され、思わずごくりと生唾を飲み込んでいた。誰もが、本能的な恐怖から歳玄の周囲数メートルに近づこうとはしなかった。
静まり返る集団の前に、ひっそりと二人の小さな影が現れた。
案内役の子供たち――白髪と黒髪の、表情の読めない童子だった。
「これより、鬼殺隊最終選別を始めます」
「この山には、鬼殺隊士が捕らえた鬼たちが閉じ込められています」
「外に出ることはできません。どうか、七日間生き延びてください」
淡々と、感情の起伏のない声で告げられる“試験”のルール。
だが、それは綺麗な言葉で飾られていようとも、本質的には純粋な“弱肉強食の殺し合い”、生き残りを賭けた残酷な戦場に他ならなかった。
「それでは――どうぞ」
その言葉が言い終わるか終わらないか。
ザッ、と乾いた足音を立て、誰よりも早く、迷いなく最初の一歩を踏み出したのは歳玄だった。他の者たちが躊躇う中、彼はまっすぐに死の森へと足を踏み入れる。
山へと足を踏み入れた瞬間――。
ゾワッ、と、全身の産毛が逆立つような悪寒が肌を粟立たせた。
「……いやがるな」
研ぎ澄まされた五感が、暗がりのあちこちから発せられる複数の生臭い殺気を感じ取る。
それは一匹や二匹ではない。飢えた獣の群れが、獲物の匂いを嗅ぎつけて一斉に牙を剥こうとしている気配だった。
ガサッ――背後の暗がりから、木々の枝を踏み鳴らす嫌な音が立ち上る。
振り向くよりも早く、歳玄の身体が反射的に動いた。
「桜の呼吸――」
胸の奥で息を吸い込むと同時に、全身の血流が爆発的な勢いで加速する。肺胞の隅々にまで行き渡った酸素が、細胞の隅々に闘気を送り込み、世界を――周囲のすべてを、極限までスローモーションへと変えていく。
「――壱ノ型……」
腰の鞘に右手を添え、重心を落とす。
「“桜花一閃(おうかいっせん)”ッ!!」
ズバンッ――!! と、大気を切り裂く衝撃音が夜の森を揺るがす。
抜刀の神速から繰り出された一撃は、目にも留まらぬ一筋の閃光となり、背後から襲いかかってきた鬼の首を文字通り両断した。さらにその剣圧と流麗な軌道の余波が、近くに潜んでいた別の鬼の首筋すらも正確に薙ぎ払い、二つの醜い生首が宙へと舞い上がった。
「な、なんだこの鬼狩りは……っ!」
「見習いの新人しか来ないって聞いてたはずじゃねぇのかよ……!」
「ふざけやがって、話と違いすぎるじゃねぇか……っ!」
歳玄のあまりにも異常な戦闘力を目の当たりにした周囲の他の鬼たちは、恐怖に顔を引きつらせ、気後れして後ずさった。
「……面倒だ。これ以上雑魚に構っている暇はねぇ、一太刀でまとめて終わらせてやる」
冷徹な視線を向けながら、歳玄が静かに告げる。
「な、何をする気だ、この化け物が……!」
「――桜の呼吸・弐ノ型」
歳玄は再び構えを取り、微かに息を吐き出す。
「“散華”」
振り抜かれた歳玄の刀から、無数の細かく、そして猛烈に研ぎ澄まされた斬撃の嵐が放たれる。それはまるで、春の嵐に巻き上げられた“散りゆく花びら”の群れが、標的を美しく、そして残虐に包み込むような軌跡だった。
気付けば、周囲にいた鬼たちの全身が数え切れないほどの線で切り裂かれていた。
「がっ……あぁぁぁっ……!」
鬼たちの断末魔の悲鳴が、夜の闇の中に虚しく溶けていく。
斬り刻まれた肉体は瞬く間に崩れ去り、黒い灰となって夜風に散っていく。その光景は、血塗られた惨劇でありながら、どこか儚く美しい桜の散り際を想起させた。
「……脆いな」
歳玄は小さく吐き捨てると、鮮血に濡れた刀の血振るいを一つ行った。
シャキン、と刃についた黒い血が飛び散り、冷たい月光を弾いて宙に美しい弧を描く。
(これが……本当に、鬼殺隊の最終選別なのか?)
拍子抜けだ――。
そう、心の中でわずかに油断が生じかけた、その瞬間だった。
ゾ ワ ッ――!!突如として背筋を撫でる、先ほどの雑魚どもとは明らかに“質の違う”、冷たくてねっとりとした殺気の波が歳玄を襲う
「……っ」
歳玄はピタリと動きを止め、静かに視線を上空へと跳ね上げた。
鬱蒼と茂る大木の枝の上。
そこに、そいつは――“いた”。
「ククク……今のは中々見事だったぞ、人間のお嬢ちゃん……いや、凄腕の坊主か?」
異様に長く伸びた、蜘蛛のような気味の悪い四肢。木の幹や枝に絡みつくようにして、逆さにぶら下がる不気味な影。
その顔は人間のものではなく、あちこちが歪に裂け、口元にはぞっとするようなねじ曲がった笑みが張り付いている。
だが、何よりも異様なのは――
(……濃い)
漂ってくる血の匂いの質が、先ほどまでの雑魚とは比較にならないほど濃密だった。この山に閉じ込められている間に何人もの人間を貪り食い、異常なまでに変異した、歴戦の肉体。今までの鬼とは、明らかに“格”が違う。
「テメェ……この山で、何人喰いやがった」
歳玄の冷ややかな問いかけに、鬼は首を不気味にコキリと傾げた。
「さぁな……そんなもの、多すぎて数えきれんわ!」
「ただ――」
ぐんっ――!!言葉の終わりを待たずして、空間が爆ぜた。
一瞬で距離が消え飛び、歳玄の目の前にその巨体が襲いかかる。
木の上から地面へと、文字通り滑空するような急襲。
そして、その強靭に発達した巨大な腕が、凄まじい風圧を伴って振り下ろされた。
「お前のような“極上の上物”は、本当に久しぶりだぁっ!!」
振り下ろされる鉄拳の如き腕。この巨大な質量と膂力による殴打を受け止めれば、いかに肉体を鍛え抜いた歳玄といえど、ただ無傷で済むはずがなかった。骨が砕け、内臓が破裂する致命的な一撃。
だが――それは、攻撃がまともにヒットしていればの話だった。
歳玄は一歩も引かず、その凄まじい重みを、自らの愛刀の刃でしっかりと受け止めていた。
「……やはりな。ただの泥人形とはわけが違う」
ギリギリィッ、と、互いの武器と肉体がぶつかり合う鍔元で、凄まじい力が拮抗する。火花が激しく飛び散り、足元の地面がバキバキと音を立ててひび割れていった。
「他の薄汚い雑魚どもとは、手応えが違うようだ」
歳玄の琥珀色の瞳が、わずかに、しかし鋭く細められる。
「いいぞ、お前……! 最高だ、少しは俺を退屈させずに楽しませてくれそうだぜ……!」
次の瞬間――
バチッ……!!と歳玄が踏み込んだ反動で、周囲の地面が粉々に砕け散り、土煙が盛大に弾け飛んだ。
「桜の呼吸――」
体内の呼吸法がさらに深く、一段階上の領域へと沈み込んでいく。
心拍数は一定の落ち着きを取り戻しながらも、神経の隅々は極限まで研ぎ澄まされ、時間の流れが完全にその支配下に置かれる。
「参ノ型――」
刀を後ろへと引き、重心をぐっと低く落とす。
身体のバネをすべて一点に集中させるための、静かなる構え。
それはまるで――嵐が訪れる直前の、恐ろしいほどの無風の静寂だった。
「――“花影・連斬(かえい・れんざん)”ッ!!」
ズンッ……!!一歩たった一歩の踏み込みで、空間の距離が完全に消滅した。
神速の刃の一閃…だが、歳玄の攻めはそこで終わらない。
二閃、三閃、四閃――!放たれる幾重もの斬撃が、まるで夜闇に咲き誇る満開の桜の“影”のように複雑に重なり合い、鬼の退路を完全に塞ぐ。
鬼の視界に映し出されたのは、もはや少年の姿ではない。
ただ、自らの肉体をズタズタに切り裂くために舞い散る、“咲き乱れる桜の残像”のみだった。
「がっ……あぁっ……!? なんだこれ、見え……身体が、バラバラに……っ!」
腕が宙を舞い、胴体が幾重にも裂ける。鬼の断末魔の悲鳴が、広大な森の隅々にまでこだました。
しかし、歳玄が一度踏み込んだ刀を止めることなど、あるはずがなかった。
「や、やめてくれ……! 頼む、許してくれ、もう人を喰わな……ぐぅっ!」
見苦しく命乞いをする目の前の悪鬼に対し、歳玄は冷酷な眼差しを向けたまま吐き捨てる。
「テメェは、命乞いをする人間共の泣き声を聴きながら、それを見逃してやったのかよ」
「あ、あがっ……! ひっ……!」
「答えられねぇなら、その汚ねぇ首を置いていけ」
最後の冷徹な一撃が、鬼の首を完全に胴体から引き剥がした。
それからというもの、歳玄の日々は「鬼を一方的に狩る作業」の連続だった。
幸い、今年の最終選別の同期の中には突出して戦闘力の高い者がいなかったこと、そして歳玄自身が休むことなく山の奥深くへと自ら獲物を求めて歩き回ったため、他の剣士たちが怯えて隠れている間に、歳玄の周囲だけは異常なほど鬼の数が減っていった。結果として、彼はこの最終選別における鬼の討伐記録を、過去に例を見ないほどの数字で大幅に更新していくことになった。
そして――。
試験の最終日。
七日目の早朝、東の空が白み始め、眩い日の光が山々を黄金色に染め上げる頃、俺は血に汚れた足取りで森の入り口へと戻ってきた。
周囲を見渡してみれば、怯えながらも生き残った他の同期の姿が何名か確認できる。だが、初日にあの山へと足を踏み入れた人数と比べれば、その数は見る影もないほどに大幅に減少していた。誰もが疲弊し、生きて戻れた安堵に打ち震えている。
その殺伐とした空気の中で――
歳玄は、ただ一人、静かに、そして圧倒的な存在感を放ちながら立っていた。
返り血で黒く染まった羽織をまといながらも、その琥珀色の瞳は一切曇ることなく、冷徹なまでの光を湛えている。
「――これにて、七日間の最終選別を終了とします」
静けさを破り、案内役の少女の声が響き渡った。
「皆様、ご無事で何よりでした。おめでとうございます」
「本日より、皆様は正式に――鬼殺隊の一員となりました」
その告げられた言葉に、生存者たちから安堵のため息や、小さく泣き出す者の声が漏れる。
だが、その中で、歳玄はただ一人――。
皆が帰還の喜びに浸る中、一人だけ背後にある暗い山の奥をじっと見据えていた。
(……弱い)
(あんな化け物どもを何匹斬り伏せたところで、今の俺は成長出来ないだろう……まだ足りない)
(こんなものでは――あの忌々しい上弦の鬼どもに、そしてすべての元凶であるあの怪物には到底届かない)
「俺は――」
歳玄は、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「この程度の力では、高みへは届かない」
だが、その瞳の奥底に燃え盛る炎は、安堵の色など微塵も帯びていない。そこにあったのは、底知れない“渇望”だった。
さらなる強さへの飢え。より強大な敵を欲する、剣鬼としての業。
すでに「柱」に匹敵するか、あるいはそれを凌駕するほどの戦闘力を有しているにもかかわらず、歳玄の心は決して満たされることはなかった。
最も恐ろしいのは、その圧倒的な「強さ」そのものではない。
その強さを手に入れてなお、まだ足りないと飢え続ける、底なしの「強さへの渇望」にこそあった。
頂点へ至るための、血塗られた覚悟を完全に決めた歳玄の足を止めるものなど、この世のどこにも存在しない。
何はともあれ――。
こうして、一人の規格外の剣士が、正式に鬼殺隊へとその第一歩を踏み入れた。
後に、人呼んで――
“桜を纏いし剣鬼”と呼ばれるようになる、異例の男。
歳玄の物語は――
ここからが、本当の、そして血塗られた始まりなのだ。
――【最終選別編・完】――