「今日はどこにいきましょうか、エル」
「そうデスネー、ううーーーむ」
雪の降る大都会。ヒトというヒトが川のように流れていくのを、グラスワンダーとエルコンドルパサーは少し遠くの公園で、石のベンチに並んで眺めていた。
双方のウマ耳にはふかふかのカバーが被さっており、着膨れするほどに着込んだコートも相まって完全防寒の構えである。
わずかに白む緑のオアシスには賑やかな子供たちの声、活気あふれる若者たちの少し汚いスラングから紳士淑女の交流まで、社会と人生の縮図のようだ。
そして、聴こえてくる言葉のすべてが、彼女たちが今まさに会話をしているそれとは全く違うものであった。
「ねえエル?いい加減、そのマスクは外したりはしないのですか?」
耳を立てて反応したエルコンドルパサーは、すぐにそれをゲンナリと垂れ、グラスワンダーをじと、と睨んだ。
「ケェ…。もう何回目デスかそれ。このマスクはワタシのアイデンティティなんデス。そうそう簡単に外すワケにはいきまセン!」
そうですか…、とグラスワンダーは表面上悲しそうに耳を伏せた。ちら、ちら、とエルコンドルパサーを盗み見ている。
「アナタ、本当にシタタカになりましたネ…。来年から一緒にやっていけるか、エルは心配デス」
「あら、心外ですね。私は誠心誠意、その役を拝命し全うする構えであるというのに。生徒会副会長として、会長のエルに尽くしますよ?」
だから嫌なんデスヨ、とエルコンドルパサーはため息を吐いた。不安と幾ばくかの気怠さが、白い蒸気になって灰色の空に消えていった。
「生徒会長のエル、副会長の私とキングさん。書記のセイちゃんに、会計のスペちゃん。同期みんな揃って生徒会だなんて、私、わくわくしてしまいます」
「傀儡の生徒会長にならなければいいのですガ…」
「あら。アタマのデキはともかく、実績では貴女が一番なんですよ、エル。凱旋門賞2着だなんて。私たちは誰も貴女に意見なんてできないんですよ?」
うるさいですネー、とぶつくさしながら、エルコンドルパサーはその辺の石ころを蹴って反抗を試みた。無論、グラスワンダーには大した効果は期待できない。
「故郷へ帰るのは、もうしばらく無理かもしれませんネ」
何故このふたりが並んでいるのか。それは両名の出身地に事を発する。日本に生を受けた事実はあるが、彼女たちの両親は米国にある。
学園生活の最中、各々時期を見て帰省などをしていたが、今回生徒会という重要なポジションに就くにあたりその報告を、という両名の思考がまる被り。
それならば、とふたり行動を共にして、互いの家族と対面するなどした。そして帰国予定を明日に残すのみとした今、あてどなく辿り着いた公園で雪に降られているのである。
「忙しくなりますからね」
そうですカ?とエルコンドルパサーは懐疑的だ。
「スズカサンの政権下では特に何をしたとかは聴いてまセンし、我々もそのままでいいんじゃナイでしょうカ。シンボリルドルフサンと同じようになろうだなんてワタシたちには無理デスからネ!………、あっ!イイコト思いつきましタ!」
ぴこん!と耳を跳ねさせてエルコンドルパサーは石のベンチから立ち上がった。
「グラス、ストリートレースを見に行きまショウ!」
■□■□■
バスや電車を乗り継いでいたら昼を回ってしまった。
デトロイトシティ。アンダーグラウンドを体験するにはもってこいの場所だ。
「な、なんだか怪しい雰囲気ですよ、エル」
「怖いんデスカ?鎌倉武士も意外と乙女なんデスネ」
皮肉るエルコンドルパサーにグラスワンダーは心からの笑みを向ける。エルコンドルパサーにとってはこの微笑みのほうが万倍恐怖だった。
駅から程ない、フェンスで仕切られただけの、なんでもないただの運動場。土地だけは有り余っている彼の国である。学園のグラウンドとまでは言わないが、1600くらいは余裕で賄える広さ。周回コースのようなラインは引かれていても、それは芝でもダートでもない、インダストリイな硬さなバ場だ。
「コミュニティでは、10数分後にここでレースがあるとされていマス。ストリートレースはナワバリ争い。勝ったチームがここを使う権利を保つのデス」
へえ、とエルコンドルパサーが謎に得ている知見にグラスワンダーは生返事。その間に、《ナワバリ争い》を繰り広げると思われるウマ娘の集団が現れた。
4つ程に大分でき、ギャラリーも含めると合計は50名を越えた。ただの運動場にとってはイチ大イベントと言っても差し支えないだろう。
ギャアギャアと汚い言葉で罵り合うコミュニティどうし。グラスワンダーにはその言葉の意味が総て理解できる。なんともいえない表情でそれを見つめていた。
「私たちとは、生きる世界が違うのかもしれませんね」
「だとしてモ、どちらが上とか下とか、そういうのはありまセン。皆、与えられた環境デ懸命に生きているんデスカラ。……あ、始まりマスよ!」
あれだけ喚き散らかしていた集団も、レースの準備となると阿吽の呼吸で捌けていく。競走ごとに際しては真摯である、というウマ娘の本能は、世界共通の一種の言語なのだろう。
ただの運動場にゲートなど無いので、その係となったウマ娘が手でその合図をする。
各コミュニティから3名ずつ。あわせて12名のウマ娘たちが、その合図と共に一斉にアスファルトを踏みしめ、蹴り出した。
だだだだだ、という、土を踏みしめる音とはおよそ掛け離れた蹄音が響く。硬く、反発係数の高いアスファルトに対して蹄鉄は殆ど意味をなさない。彼女たちは皆、ただのスニーカーにそのチカラを預けてコースを周回している。
それから2分もしただろうか。序盤こそカラダのぶつかり合いや押し合いがハードに繰り広げられたが、中盤以降はたったひとりの圧倒的な地力が他を蹂躙し尽くすレース運びとなった。膝をつき、疲労に喘ぐ他のウマ娘らを、ギラリと鷹のような瞳で一瞥。退屈そうにアタマを掻きながら、祝福と歓喜に沸く仲間たちのもとへ戻るところであった。
圧倒的なチカラの差。他に好きにさせたうえでそれでも勝ち切るという、単純な速さでは成し得ない、勝てる強さ。
競技ウマ娘としての本格化は既に終え、ピークアウトをようやく受け入れたグラスワンダー。もうレースに対しかつてのような熱は持たないだろうと、そう思っていた。それはこの瞬間に覆ってしまった。
ハッとして我に返ると、隣にあったはずのエルコンドルパサーの姿が失せている。はて、と思い首を回すと、既にグラウンドに割って入り、件のウマ娘に接近するエルコンドルパサーを認めた。
「Hey! Got a sec?《ねえ!ちょっといいデスカ?》」
グラスワンダーがそれに追いつく頃には、エルコンドルパサーはもうそのウマ娘に馴れ馴れしく絡んでいた。
「Huh? Who the are you? Don’t know your fuckin′ face.《あ?なんだお前。知らねえ顔だな》」
「I'm El Condor Pasa. I'm the top uma-musume in Japan. You might know me as a 《G.O.A.T》.《ワタシはエルコンドルパサーといいマス。日本のウマ娘の、その頂点にある者デス。ゴートって言えばわかるかな》」
流暢な英語を操るエルコンドルパサー。しかしグラスワンダーには、エルコンドルパサーの発する言葉の総てが挑発に聴こえてくるのだ。そしてそれはあのウマ娘も同じようで、ただでさえ警戒し、睨まれていたというのに、手えでも出そうな怒気まで呼んでしまった。獲物を狩る鷹のような鋭い眼光が、エルコンドルパサーを貫く。
「What? Damn G.O.A.T? HAHAHA! You should stop joking around, hothouse-bred fuckin′ Jap shit.《G.O.A.Tだって?冗談も程々にしとけよ、温室育ちのクソジャップ》」
向こうが鷹ならこちらはコンドル。エルコンドルパサーは激しい罵倒にも動じず、試すような目でそのウマ娘を挑発した。
その雰囲気に明らかな不穏を感じたのか、堪らずにグラスワンダーが間を割った。
「やりすぎですよ、エル。…I'm sorry. She has no tact whatsoever. I'm Glass Wonder. I'll deal with this idiot later, so will that be enough for you to forgive me?《ごめんなさい。この娘にはデリカシーというものが無いんです。私はグラスワンダー。この娘には後で厳しく言っておきますから、どうか収めてはもらえませんか?》」
エルコンドルパサーは凍りついた。仲裁を試みたグラスワンダーは満面の微笑みを湛えている。だがそれには
《ファッキンジャップと侮られた怒り》
と
《エルコンドルパサーをシメるという確固たる決意》
が隠しきれておらず、その片鱗が言葉の節々に見て取れた。
「No, it won't stay like this. This is a racing venue. This is how we've made a fuckin′ living. Can you understand what that means?《いいや、収まらねえな。ここはレース場。アタシたちはこれで生きてきた。この意味が理解できるか?》」
闘争心を剥き出しにしてくるウマ娘。《私はお前より強い》と言われたようなものであるから、無理もない。茶毛のウマ耳をいっぱいに引き絞って、エルコンドルパサーを睨んだ。
「That's great, that's more like it! Our fights don't need words or violence. Instead, running solves everything. Right?《素晴らしいデス!そうこなくっちゃ!ワタシたちのケンカに、言葉も暴力も要りまセン。走れば、ぜーんぶ解決しマス!そうデスよネ?》」
「You know what's going on, don't you? Bring it on. I'll show you a view you've never seen before, who've always been spoiled by the fuckin′ turf. I'm gonna bury you in this fuckin′ asphalt shit.《わかってんじゃねえか。かかって来いよ。芝に甘えてきたお前たちじゃ絶対に見れねえ景色を思い知らせてやる。このクソったれなアスファルトに沈めてやるよ》」
■□■□■
スタート地点にふたり並ぶ。ヒシアマゾンなら大喜びのタイマンだ。
「んー、ムネがちょっとキツいかもデスネ…」
走る装備など持つはずも無いエルコンドルパサー。例のウマ娘と体型が殆ど同じという偶然、ならばとウェアを拝借したが、少し気に食わない様子。
日本語はわからないが何か失礼なことを考えているなと察したウマ娘は、より強い眼光でエルコンドルパサーを刺した。
「オゥ…。そう睨まないデ…。そ、そういえば、アナタの名前、きいてまセンでシタ。教えてくれまセンカ?…ワッチュアネーム?」
反応はない。無視されたかと諦めそうになったが、ため息と共にそれは返ってきた。
「Hawk. ...Twilight Hawk. ... Call me that, on here.《ホーク。トワイライトホーク。ここでは、そう呼べ》」
黄昏の鷹。なるほどその眼光も頷ける。
「タカとコンドルのタイマンデスカ…!燃えてきマスよ!」
フン、と鼻を鳴らし、トワイライトホークはスタートへの最後の準備にとりかかった。エルコンドルパサーもそれに倣おうとしたとき、背後に気配を感じた。
「エル?」
まるで喉元に薙刀でもあてられたような冷たい言葉がエルコンドルパサーを刺した。ひっ…!と短い悲鳴をあげて硬まるエルコンドルパサー。グラスワンダーはギリギリ隣にも聴こえそうな声量をもって耳打ちした。
「Strike down that bird who′s wannabe outlaw.《アウトロー気取りの鳥さんを撃ち墜としてあげましょう》」
■□■□■
終わってみれば、まったくあっけないものだった。スタートの合図直後、トワイライトホークは隣のエルコンドルパサーにぶつかる寸前まで肉薄し、動揺を誘ってリードを獲りにいった。
ひと周り700メートルの、一般的な半円と直線で構成されたトラック。これを2周して、3周目の最後のコーナーの手前がゴール。だいたい1800メートルプラスマイナスあたりに収まる。
此方では考えられないレベルのラフなスタートに最初こそ動揺したエルコンドルパサー。後れを取り後塵を拝することになったが、彼女は後ろからの追い込みにも定評がある。
2周めを終えたときにはトワイライトホークをその射程に捉え、最後の直線を待たずして追い落とした。
レースとして走るのは初めてのアスファルト。
それも履き慣れない他人のスニーカーで。
そしてアウェイの地。
前線を退いたエルコンドルパサー。
ハンデ、ハンデ、ハンデに次いでピークアウトを迎えているウマ娘。トワイライトホーク
そんな奴に敗けるなどとは微塵も思っていなかった。
それがこうして逆に、アスファルトに倒れ伏して喘いでいる。
「……! ……! Damn!」
地面を殴りつけて悔しがるトワイライトホーク。比較的余裕のある表情のエルコンドルパサーを余所に、始終を見ていたグラスワンダーが寄ってきた。
「Hey, girl. Which one was it that was acting spoiled, the little bird that grew up on the streets?《甘えていたのはどちらでしたか、ストリート育ちの小鳥さん?》」
「Little...? Goooooooood damn! Fuuuuuuck! Fuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuckkkkkkkkk!」
ウマ娘にとって名前はヒトのそれ以上に重要な意味を持つ。鷹を自称するトワイライトホークは《小鳥》となじられ、心の底から悔しそうに顔を歪めて吠えた。
「One... One more time please! I won't lose this time! I can't fuckin′ lose to privileged assholes like you!《も、もういちどだ!次は負けねえ!恵まれているお前らには負けられねえんだ!》」
「何度やっても同じことだとは思いマスガ…」
エルコンドルパサーは若干辟易してアタマを掻いた。
「I’ll keep going ’til I win. And when I do, I’m the motherfucking winner, period! Hey, everyone! let′s stand by for restart!《勝つまで続ければアタシの勝ちだ!おい、お前ら!もういちど準備しろ!》」
こういう争いで、コミュニティの代表切って走るほどの実力。おそらくトワイライトホークはその中心、あるいはカーストの最上位層に居るのだろう。こうしてほかの連中を使い、レースをして、自分を証明してきたのかもしれない。
だが、その号令に動くウマ娘はひとりとして居なかった。
「What are you talking about, after you lost? We can't deal with you anymore. We followed you because you were holy strong shit, but now that you've fuckin′ lost, We have no use for you.《敗けたクセに何言ってんだ?もうアンタには付き合ってらんねえ。アンタが強かったからここまで着いてきたけど、敗けちまったアンタにもう用は無えよ》」
「H.N.T, Lonely little bird.《じゃあな、孤独な小鳥ちゃん》」
つい数分前まで、レースに勝利し、ナワバリを奪ったことを祝い合っていた仲間たち。その誰もが、一転して敗者となったトワイライトホークを冷たく突き放し、チームから脱落させた。
その様を動けずに眺めていたトワイライトホークは、ようやく立ち上がれるほどに回復したばかりであったが、ガックリと膝を落としアタマを垂れた。
■□■□■
「ah... ah...」
仲間を失い、ひとり打ちひしがれるトワイライトホーク。意趣返しがこれ以上なく決まったグラスワンダーは満足して引き返そうとしたが、エルコンドルパサーはそうではなかった。
「I'm looking forward to the day we can run together again.《また一緒に走れる日を待っていマスよ》」
トワイライトホークの涙に濡れた黄色い瞳が、鈍くエルコンドルパサーを捉えた。
「That day will never come. This is the end for me. ...It's a little too late to start over properly.《そんな日は来ねえよ。アタシはもう終わりだ。真っ当になるには…、少し遅すぎたかなあ》」
「Too late? How old are you now?《遅すぎた?アナタは今おいくつなんデスカ?》」
「12. I'll be 13 in February. That's by human standards, though.《12。2月で13になる。ヒトの基準だけどな》」
数歩先にいたグラスワンダー。彼女の耳までその言葉は届き、この場を去ろうとする足を留めた。
「12歳…?それは本当ですか?」
そしてその関心を放置できず、グラスワンダーはまた踵を180度変えて、元の場所に戻ってきてしまった。
「ちょうど春から学園に潜り込める年齢。ピークを過ぎたとは言え、あのエルを一瞬でも抑える脚。それでいて近代的なトレーニングは受けていない。これは…」
ぶつぶつと言いながらトワイライトホークの眼前にしゃがみ込み、その顔をまじまじと見つめた。
「Hey, bird. This uma-musume you lost to once came in second place in the Prix de l'Arc de Triomphe.《ねえ、鳥さん。貴女がさっきから敗けたウマ娘は、凱旋門賞で2着に入ったことがあるのです》」
「L..., L'Arc ?! Is that for real? Are you fuckin′ serious?! Well, there's no fucking way I could've won that shit!《凱旋門賞?!じゃあ、勝てるわけねえじゃねえか!》」
驚きのあまり、トワイライトホークは飛び退いて転んでしまった。あらあら、とグラスワンダーはそれを抱え起こし、ホコリまで払ってやっている。先ほどまでの《刺し殺してやる》と言わんばかりの敵意と怒気は何処へ行ったのだろうか。
「If you truly want to start over properly, we can make that happen.《あなたが真っ当にやり直したいと思うなら、私たちはその助けになれるかもしれません》」
「Your wings may be tattered and in a sorry state right now, but I believe they can soar infinitely high, depending on how you use them.《今の貴女の翼は見るも無残にボロボロですが、やり方次第ではどこまでも大きくなると思っています》」
「Don't you want to go from being called a little bird to a real hawk?《小鳥呼ばわりから本物の鷹に、なってみたいとは思いませんか?》」
■□■□■
「…ということなんです、新堀理事長」
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。正月休みでほとんどのウマ娘は帰省している。そんな折り、グラスワンダーとエルコンドルパサーは、年始の挨拶もそこそこにしておいて、米国より持ち帰った話を理事長に報告もとい相談をしていた。
新堀(しんぼり)と呼ばれた女性。鹿毛のロングヘアにウマ耳、そして前髪には大きな白い三日月が鎮座している。現役時代は泣く子も黙る7冠ウマ娘、またの名を皇帝、シンボリルドルフそのヒトである。
「理事長は次の春までよしてくれ。何故秋川さんが突然私にこの椅子を明け渡したのか、本当に困っているんだ」
シンボリルドルフは苦笑した。
「ついこの間まで《ルドルフさん》って呼んでまシタからネ。突然《新堀さん》になっテも、簡単には直せそうにモありまセンよ」
「人間社会に合わせるとなると、苗字というものは必要だからな。そもそも《シンボリルドルフ》ですら私の本名ではないから、私自身も相当慣れない」
肩をすくめておどけてみせるシンボリルドルフ。昨秋、この学園をイチからここまで育て上げてきた秋川やよい理事長が年度末で退任することが明かされた。理由については完全に伏せられている。
そうしてその後釜にされたのが、弱冠21歳(人間換算)、しかし影響力と実績で言えば右に並ぶ者はない、シンボリルドルフであった。
「秋川さんは、《ウマ娘によるウマ娘のための組織運営》を望んでいた。そのアタマがウマ娘になることで、よりそれを推し進める狙いもあったのだろう」
さて、と逸れかけた話を揺り戻した。
「エルコンドルパサーのハナを奪えるほどの脚を持った、本格化前のウマ娘か」
ええ、そうです。グラスワンダーは表情を硬くして肯定した。
「アンダーグラウンドなストリートのレースでした。アスファルトというバ場、着慣れぬウェア、履き慣れぬ靴、アウェイ、ピークアウトを迎えたエル。ハンデは多様にありますが、それでも彼女をほんの僅かですら抑えられるウマ娘が、今ここに何人いるでしょうか」
「丁度この春で中等部に入学できる歳です。逆に言えば、そういう未発達な肉体で、まともな訓練も受けず、エルコンドルパサーをしばらくの間抑えたという事実は白眉と思われます」
「名を《トワイライトホーク》といいました。エルコンドルパサーに敗れ、ストリートの仲間から見放された今の彼女は震える小鳥でしかありませんが、猛禽たりうる素質は間違いなくあります」
「でなくても、海の外からの風は、他のウマ娘たちにもよい刺激となるのではないでしょうか」
グラスワンダーの《プレゼンテーション》を聴き、咀嚼し、嚥下する。シンボリルドルフは卓上に手を組んで深く思考した。
「…エルコンドルパサーくんは、どう思った?」
ケッ?!
グラスワンダーに全てを任せるつもりだったエルコンドルパサーは、突然話を振られて大層驚いた。
「ほらエル。ほんの数日前の事でしょう?思い出せないなんてことはありませんよね?」
そうですネー、とエルコンドルパサーはしばし考え込む。数秒ののち、考えが纏まった彼女はぽつぽつと話を始めた。
「スタートでハナを獲られたのは…、正直アッチがぶつかってくる勢いで斜行してきたかラ、っていうのもありマス。お互いにちゃんトしていたら、どうなっていたカはわかりまセン。その後は―、簡単に追い抜けテしまった印象はありマスね…。
エルには、グラスのいうような光るものは見えなかったように思いマス」
「ですガ…、そうしてまで勝ちたいという、執念はひしひしと感じまシタ。ワタシがそれをイチバンに受けタのは凱旋門賞でシタが、それと同等…、あるいハそれ以上だったかもしれないデス…」
「………、なるほど」
話を噛み砕くシンボリルドルフ。エルコンドルパサーとトワイライトホーク。年齢や練度からくる力量差はこの際覆しようがない。エルコンドルパサーが感じたことも真実だろう。そしてその《圧倒的なまでの差》の中に光るものを見るとすれば、それを傍観している者である。
「本人はどう言っているんだ?」
食い地味にグラスワンダーが前に出た。
「本人は乗り気です。乗り気、というか、エルコンドルパサーに敗けた負い目や、あちらに新たな居場所を見つける難しさもあるようで。新堀さんの判断次第では、すぐにでも連絡はつく状態です」
沈黙。言い切ったグラスワンダー、言えることのないエルコンドルパサー、おし黙るシンボリルドルフ。壁時計の重りの揺れる音が、室内に嫌に響いた。
「………、………、…………………。………、わかった」
そして新理事長は陥落した。
「だが特例を認めるわけにはいかない。どこの所属にもなってない以上、留学を認めるわけにもいかない。ここに来て、ほかの大勢のウマ娘たちと同じように、普通に試験を受けること。結果如何で希望は叶わない場合があること。これが条件だ。
渡航費は―、私の奢りだ。これは公費ではないから横領にもならないし、贔屓にもならないし、職権濫用にもならない。…これでいいか?」
「面接試験では、生徒会長になっているエルコンドルパサー君にも立ち会ってもらう。いまいちど、直接見て確かめてみるといい」
かくして、折れた星条の翼は、灰色のアスファルトからいまいちど空を目指す権利を得たのである。