「君たちは…、《メイクデビューをした年の次の春までは、同世代としか走れない》ことを忘れてはいないかい?」
「そうなんすよ。どうすればいいっすかね」
灼熱のデッキ、パラソルの下で白く輝く椅子。コーラを飲み干したトレーナーはアグネスタキオンとの話を打ち切ろうと椅子を蹴った。しかし背後からかけられた彼女の問いに真顔になると、杜撰にずらされた椅子を正して座り直した。
「トレーナーの資格を持つ君だ。レースのルールを見落としていたとは考えにくい」
突如崩れた彼の口調にアグネスタキオンは呆れた顔を見せたが、すぐにそれを正して考えを巡らせた。2本目のレモネードが目に見えて減り、彼女の脳へエネルギーを運ぶ。
「エルコンドルパサーくんを倒すという目的を本人から聞いたのは、君との契約が済んだ後だということだね?」
そうなんだよ、とトレーナーは力なく肯定した。
「アイツの話はエルや他の奴らから聞いてはいた。アメリカからわざわざやってきて、エルに師事して模擬レースを勝った。これしか知らなんだ。さっきお前に話した以上のことは無い。だから―、ある程度仲良くなった後にアイツの話を聞いて、ちょっとこれはまずいな、って思ったんだよ」
大の大人が子供に管を巻くのを使用人が不思議そうに眺めている。それに気づいた彼は自身らのカップを指して追加を頼んだ。
「お前さんの言うとおり、公の場でアイツ等が肩を並べる日は来ない。気づいてやれなかった俺も俺だとは思うが―、まさかすぎる」
「違い無いねえ。ジュニア級、デビュー間もないウマ娘が、よりによってエルコンドルパサーに、更に年度内に倒してやるなんて大言を壮語するなんてさ。―仮になんとかなったとして、本気で勝てると思っているのかい?」
話の区切りを見計らっていたのか、いいタイミングで使用人が現れた。コーラとレモネード、それぞれを新しいものと交換して足早に去っていく。「次からは払わない」はずのレモネードを眼前に認め、アグネスタキオンは上目遣いにトレーナーを見た。
「ヒトのものを勝手に頼むなんて、君はどんな神経をしているんだい?」
はン、とトレーナーは笑い、背もたれに体を預けた。椅子が不機嫌そうに軋む。
「黙って餌付けされとけ。…エルの次走は毎日王冠。その後天皇賞を最後に引退だ。エルの担当トレーナーとして、お前さんのいう《なんとか》は有り得ない。残念ながらな」
砂混じりの風が2人を包む。ぴしぴしと顔を叩く白い弾丸に顔をしかめ、頬杖をついたアグネスタキオンは3杯目のレモネードへ口をつけた。
「案外情に流されるタイプではないんだね、君は。私もそうさ。君たちに肩入れする訳じゃあない。ただあの問題児について知的好奇心がくすぐられただけさ」
がたごと、と安っぽいプラスチックの音を立ててアグネスタキオンの椅子が動く。ゆっくりと立ち上がった彼女の顔はどこか遠くを見ているようだった。
「おかげで一連の疑問への答えを得ることができた。私には何もしてやれないが―。…レモネードは有り難く戴いておくとして、このあたりで失礼するよ」
引かれたときとは対象的に、音もなく椅子を定位置へ戻すと、アグネスタキオンはわずかに口角を上げてみせ、宿舎の方へ戻っていった。
………
夜の帳が下り、トレーナーは自室でインターネットの海に溺れていた。ただし闇雲に四肢をバタつかせるわけではない。ウマ娘が紡いできたレースの歴史という流れに乗って時を遡っている。
その源泉までたどり着いても、残念ながら彼の求めるものは無かった。
「…」
頭を抱えるしかない。調べれば調べる程、中央―URAにいる以上、トワイライトホークの願いは叶わないという事実が輪郭を強めるだけだった。
エルコンドルパサーの引退を延ばすとか、そういう問題ではない。こちらではどうにも出来ない制度そのものが、2人の決着を禁じている。トワイライトホーク自身も恐らくそれを知らずにトレーニングを続けているし、ホープフライヤーに至ってはその発想すら無いだろう。
もはや正しい手段での解決は不可能であった。
時計は23時半を指している。明日も早くからホープフライヤーのスプリントを見る予定だ。パソコンの電源を切り、ベッドへ飛び込もうとしたとき、彼のスマートフォンがそれを引き留めた。
……
「おはよう」
「「「おはようございます」マス!」マス」
翌朝。海浜。日陰。いつものように本日のメニューを言い渡す陣形だが、エルコンドルパサーをはじめ3人のウマ娘たちの視線は別の方へ向かっていた。
「トワイライトホークは今日もエルに付け。エルもいつもみたく頼む。お前のトレーニングは…、あ、そう。今日はマネージャー居ねえからな、自分らで全部やれよ。」
気のない返事の2人。エルコンドルパサーを先に、荷物をすべて持たされたトワイライトホークともどもグラウンドへ消えていった。
「お前さんは、こっちだな」
残ったホープフライヤーと、トレーナーが今日特別に呼んだ、もう1人のウマ娘。エルコンドルパサーたちの向かったグラウンドとは別の、トレーニング用の運動場へと場所を移すことにした。
「いつまでぼけっとしてんだ。ただのナリタブライアン先生だろうが」
ガチャガチャとスプリント用の用具を取り出している間も、ホープフライヤーの瞳の焦点は定まらない。
「お前さんが昨日頼んで来たんだろうが。実のある練習がしたいって」
そうですけど―、と彼女は恐縮していた。
「まさかナリタブライアン先生を呼んでくるなんて思わないじゃないですか。精々私は、こう…」
「生憎、俺はお前さんの担当じゃねえんだ。アイツの世話してくれてんのは助かってるが―、お前さんの競技人生左右する権利は無えよ。本来ならここに来れてるかも怪しいんだ。諦めてしっかり先生の指導に従え」
そう言い放つと、トレーナーは有無もなしに踵を返して去っていった。
呆然と立ち尽くすホープフライヤー。少しの風でも、彼女の心は折れてしまいそうに見えた。
「あいつの言うことは正しい。担当トレーナーの無い生徒は、この期間中も割り当てられた教官のもと学園での指導があり、トレーニングをしたければそれに従わねばならない。それをエルコンドルパサーの《マネージャー》という体で合宿に帯同させ、こうして私を呼びつけて個人指導までさせているんだ。あいつも、あいつなりに報いたい気はあるのだろう。不器用極まりないが」
ナリタブライアンは苦情混じりに彼女の肩を叩いた。
「先生…」
レースを退いてからは、学園の理事長であるシンボリルドルフの杖として体育教師をしている。ホープフライヤーやトワイライトホークの入学選抜試験にも彼女は試験官として関わっていた。
「まさか本当に入学させるとはな」
ナリタブライアンの独り言はホープフライヤーの耳に届かず風に掻き消えていった。
「…さて。これまでは授業での全体教練でしかお前を見ることが無かったが、今日はいい機会だ。トレーナーの資格は持たないが私も教鞭を振るう者。お前が少しでも前に進めるよう、その一助として全力を尽くすことを約束しよう」
肩掛けの小さなスポーツバッグから、四角く厚みのある物体を取り出す。ナリタブライアンはそれを鼻の頭より少し上に貼り付けると、未だ呆気に取られているホープフライヤーへ向けナリタブライアンは微笑んだ。
「だからお前も、今日はお前の事だけを考えろ。あいつらの《影》に急かされる必要も、焦ることも無いんだ」
同じものをもうひとつ取り出したナリタブライアンは、それをホープフライヤーの鼻梁に貼る。強者感…を覚えるには至らず、いささか芋っぽくなってしまったが致し方あるまい。
「自分だけの世界へ行こう。まずはそこからだ」
……
「―そうデス。欲をかいテ前に伸ばしすぎても駄目デス。大事なのは引き込むチカラよりも蹴り出すチカラなんデス」
大グラウンドでは、エルコンドルパサー監督のもとトワイライトホークのスプリントトレーニングが行われていた。差しという戦い方を覚えたトワイライトホーク。走法はある程度ものになったものの、走り方については未だフィジカル頼りの面が強くあった。
瞬間的に末脚を爆発させ、ものの数歩でトップスピードへ乗せる。これが差しの脚質であり絶対的な武器であると、エルコンドルパサーは自身の経験や、あの日モンジューに差し切られた思い出から結論づけていた。
「カラダ落としテ!Keep low down!思いっきり前に跳ねる勢いデスヨ!」
加減速を繰り返すインターバル走。対岸のトワイライトホークへ声を張り上げるエルコンドルパサーは、隣に忍び寄る影に気づかなかった。
「随分と楽しそうですね〜」
こちらへ来てから久しく聞いていない、極めて耳障りのよい、しかし吐き気を催す程鋭利な声色。驚愕のあまり飛び退いたエルコンドルパサーの視線には、いやにケミカルなスポーツウェアを身に着けたグラスワンダーがいた。
「ケエッ?!ぐ、グラス!な、何をしているんデスか、こんなトコロデ…」
うふふ、と笑みを崩さないグラスワンダー。その表情を変えないまま、僅かに顎をしゃくって見せた。
「まったく。生徒会長はワタシなんですガネ…」
エルコンドルパサー口を尖らせて、渋々に腰を滑らせてベンチを譲る。ありがとうございます〜、と気の抜けた礼を返し、グラスワンダーはそれに甘えた。
「…順調なようですね」
息を入れて加速するトワイライトホークを眺めて、グラスワンダーは柔らかく微笑んだ。エルコンドルパサーらの陣営に渡り、自らの手を離れた後もなんだかんだ気にはしていたのだろう。
「エエ。そうデス。彼女はワタシを倒す為に―、その機会は永遠に無いとも知らずに、愚直に走り続けテいマス」
「どういうことですか?」
珍しく瞳を露わにしたグラスワンダー。じ、とエルコンドルパサーを見つめて彼女は問うた。
「そもそも、デビューしたばかりのジュニア級ウマ娘は、少なくとも次の年の春までワタシたちと走るコトはできまセン。そういうルールデスけど、グラスも知らないわけ無いでショ?そしてその春、ワタシもグラスも学園を卒業してしまいマスから、あの小鳥サンとは走れないのデス」
正しい。これ以上なく、冷酷なまでに正しかった。グラスワンダーも顎に指を当てて思案している様を呈している。
「ねえエル?3年前。貴女が海外へ渡る前の冬です。最後に貴女が日本で走ったレースを覚えていますか?」
「最後デスカ?確かURAファイナルズの決勝でシンボリルドルフサンにギリギリ勝った記憶がありマスガ…」
そこまで言うとエルコンドルパサーは耳をビンと立てて閃いた。
「そうですよ、エル。今年は4年にいち度のURAファイナルズ。ジュニアもクラシックもシニアもありません。貴女たちは絶対に、同じレースで肩を並べられるのですよ〜」
あくまで平坦な口調のグラスワンダー。道を見いだしたはずのエルコンドルパサーは表情を変え、訝しげにそのニヤケっ面を見据えた。
「そこマデ、全部考えてイタんデスカ?」
「そんなことはありませんよ、エル。全て私の思い通りなら、小鳥さんは《私の》ものでしたから」
何も変わらず優しく笑っているはずなのに、グラスワンダーの背後には真っ黒に渦巻き蠢く何か。エルコンドルパサーにはそれが見えた。
「…ですが、URAファイナルズにも枠というものはあります。実績をあげるならばシニアが最も強く、そしてジュニアが最も不利です。小鳥さんはジュニア級ですから…、朝日かホープフルかの掲示板―、可能なら1着が欲しいですね」
トワイライトホークへ視線を移した途端に霧散したそれに安堵して、エルコンドルパサーは口を開いた。
「小鳥サンの出るレースは知りませんガ、それくらいにはしてみせマスヨ。そのつもりデス」
「そうですか〜。それで、どうですか?自分の首を裂きにくる鷹の爪を研ぐ気分は」
結構な時間話し込んでいた。制止の合図の無いまま走らされ続けたトワイライトホークは疲弊してフラフラであった。
「オーケイ!もういいデスヨー!」
膝から崩れ落ちたトワイライトホーク。やれやれとエルコンドルパサーは椅子を蹴って立ち上がった。
「いいデス。とてもいい気分です。ゾクゾクする程にネ」
視線だけグラスワンダーへ向けてそう言うと、エルコンドルパサーはトワイライトホークの方へ駆けていった。