芝に僅かながら被った淡雪を霧散させながら、トワイライトホークは中山競バ場を走り回ってコンディションを確認していた。
はじめて着る勝負服。
はじめて履くシューズ。
はじめて装着した蹄鉄。
久しぶりのはじめて尽くしという感覚に新鮮さを覚えながら、その段取りの悪さに対する不満も、ターフを踏みしめる力としてぶつけていた。
何せ彼女がG1レースを走るにあたって用意された勝負服一式は、昨夜に一行の宿泊先へと直接届けられたばかりなのだ。
勝負服に限らずレースにおいてその道具を変えるときは、試着や実走での調整を入念に行うことが推奨される。自分の身体に馴染ませたうえで実戦へと臨むのだ。
それを鑑み、12月の上旬には届けられるようにしていたのだが、それを4日もオーバーしてから遅延が明るみになった。学園をはじめとする各機関はこれに猛抗議するかたちで問題を定義したのだが、URAは
「予測できないトラブルによる遅延」
の一点張りに黙秘を貫き、この不毛な争いは今日、ホープフルステークス本番を迎えても落としどころは見つかっていない。
ポリエステルで出来た軽いスポーツシャツ。ややフォーマル寄りな装飾が施されているが、トワイライトホークの希望通り、G2グレード以下のレースで身につける体操服、ともすればそれよりもゆとりのある感覚で風に靡いている。
発達した太腿の更に二回りほどの足入れで構成された半ズボンはヒザ下までの長さで、靴下は脛まで引っ張り上げられている。それを上下共に黒いインナーパッチの上から着用しているのだ。
「白をベースに金色のライン。靴はワッザファッキンビッグなスニーカーがいい。余計な装飾はいらない」
デザインを決める際に彼女の希望した要素はこれ以上なく完璧に落とし込まれていた。
「お前サッカー知ってんのか?」
これを見たトレーナーの第一声がそれだった。この勝負服のコンセプトはトワイライトホークがレースで勝利したときのセレブレーション
「Siuuuu!」
に基づくもので、それは彼女が憧れている―と思われる―サッカー選手に発するのであり、勝負服の色彩は明確にそれを意識したものとしかいえなかった。
「まあ、あの奇行もこれで実になるんなら、いいか」
ほとんどのウマ娘は、勝負服のデザインに己の思想や人生観、競技生活の全てを投影する。それは色だったり、アクセサリーだったりするわけだが、トワイライトホークはその全てを
《憧れ》
にシフトしていた。ここへやって来るまではデトロイトで生きるか死ぬかのレースをしていたのに、そういうところは13歳相当であった。
コースを幾らか周回したトワイライトホークは、服のフィーリングをかなりモノにしていた。
悪くない。
インナーパッチは体操服の時から下に着込んでいたそれと同じ製品。シャツもパンツも―、ゆったりとしたサイズのため動作に全く干渉することがない。靴の重さも丁度よい。まるで裸でコースを走っているように感じた。
「それがアナタの勝負服?ウォーミングアップウェアの間違いではなくて?」
フィーリングに満足し、ついに憧れを体現する喜びに小さく拳を握っていたところ、トワイライトホークの後方から最早聞き慣れた、神経の全てを上から下まで逆撫でするような甲高い声が呼び止めた。
「サイズが変わるならアレですけど、勝負服が新しく作られるなんてことはそうそう無いのですわよ?そんな―、ただ走るだけみたいな見た目でよかったのですか?」
相変わらずムカつくファッキンピンキー…、ザマゼンタシティがいつの間にか芝へ降りていた。トワイライトホークよりわずかに背は低いが、顎を天に向け、精一杯に見下す姿勢をとっている。
ドギツイ赤紫に金色の装飾と白いフリフリ、そういう趣味としか思えないロリータファッション。お前だって今日の目的が給仕か何かだと勘違いしてやいないか。
そう言ってやろうと思ったが、自分の―、非常に、まことに遺憾ながら事実にもとづき、師事するという言葉を使うが―、ファッキンマスクドビッチのけったいな勝負服が脳裏に浮かび、目の前のクソピンクが関係を知らないとはいえ、もしもそれであのクソマスクの服装を突かれると返す言葉も無く、飲み込まざるを得なかった。
「…ま、それはレースでは関係ありませんわね。アナタも、言われて悔しかったら勝って証明してみなさいな」
トワイライトホークとザマゼンタシティの直接対決は2回。そのいずれも先着されておいてこのクソガキピンクは何を言っているのだろう。トワイライトホークの喉元まで出かかった買い言葉が口から溢れてしまったとき、ザマゼンタシティは既に踵を返して既に10と数歩は脚を進めていた。
………
……
…
「今日もお前さんの勝ちだ」
レースのスケジュールはトントン拍子に進んでいく。やがて呼ばれた出走者控室で、トワイライトホークら一行は最後の打ち合わせに興じていた。
「見ろ。まだ締め切りじゃあないが―、圧倒的1番人気。オッズはなんと2.1倍だ。これから駆け込みでまだ下がる可能性だってある。新記録だ」
スマートフォンの情報サイトを更新しながらトレーナーがはしゃいでいる。エルコンドルパサーもそれを覗き込んではニヤついていた。
「2番人気のザマゼンタシティに直接対決で2戦2勝。小鳥サンを推さない理由がモハやありまセンネ」
オッズという言葉が何を意味するのかはトワイライトホークにはわからない。エルコンドルパサーの言葉は難しすぎてそもそも翻訳できない。トワイライトホークは引き攣った笑顔でやり取りを眺めていた。
「どうだ、初めてのG1は」
それを知ってか知らずか、トレーナーは話題を変えてトワイライトホークに会話のボールを投げた。
「今ここに来ているたくさんの人間の中で、応援がいちばんデカいのがお前だ。いちばん多くの人間たちが、お前が勝つと信じている」
「そう思うと怖くなるか?逃げ出したくなるか?―誰でもそうだ。ここに居るエルも、グラスワンダーも、あのテイエムオペラオーだって、控え室から出ていくときの顔は険しいもんだ」
「それを前へ進むチカラに変えられた奴等だけが、勝てる。そして生き残る。サバイブするんだ」
トレーナーがひと呼吸おいたところを測り、そしテ、とエルコンドルパサーが口を挟む。
「そしテ、あの日グラスの言っていタ《prove》はその先にありマス。これガ、彼女が望んだモノを掴むにいちバン近い道」
「URAファイナルズでワタシに勝つつもりなら、ソレを掴まないとお話にもなりまセンネ」
トワイライトホークは反抗とも殴り返しとも採れる視線をエルコンドルパサーに送った。彼女にとっては先にもいったように不本意ながら師であるが、同時に自分の生き方を全て否定した敵でもある。ここへ来て色々なものを得たが、最終的な目的にブレはない。このクソマスクを芝の上で叩きのめすこと。それが今日までの原動力だ。
「まあ、俺たちは外野からモノ言うだけだからな。お前が当事者なんだぜ、ザ・パーソン」
めいめいにトワイライトホークに最後の言葉をかけ、トレーナーとエルコンドルパサーは控え室から去っていった。廊下から届くふたりの足音が、扉が閉まるのと同時に断絶される。久しぶりにトワイライトホークはひとりになった。
「…ッ!」
ぶるりと身震い。緊張からか恐怖からか、それとも武者震いかなんて彼女にはわからなかった。ただ心はもういっぱいいっぱいで、ただ早く始まって1秒でも早く終わってほしい、この心持ちから一刻も早く解放されたい心理だった。
3週間ほど前、グラスワンダーに仕組まれた並走トレーニングを思い出す。グラスワンダーはもちろん、スペシャルウィークも、セイウンスカイも、キングヘイローも、みんなヘンだった。
ヘンにでもならなきゃこうも強くはなれない、とも思った。
そして今、
この心理状態ならヘンにでもなる
と彼女は強く感じている。
控室のモニターではふたつ前のレースが始まった。ファンファーレを聴きながら最後の準備を始める。
改めてシャツとパンツを身に着け、デカくて軽い、それでいてフィットするスニーカーを履こうとして―、
カツ―ン…
金属が床を打つ音と一緒に、持ち上げた右のスニーカーがふ、と軽くなった。
何だろう、とは思ったものの特に気にもとめなかった。そのままスニーカーに脚を通し、トワイライトホークの視線が床に移ったとき―、
本来その裏に取り付けてあるあずの蹄鉄がそこに落ちていた。
「oops…」
彼女はこれを軽く考えていた。デトロイトに居た頃から、走るために奪った靴にはそもそも蹄鉄が付いていて外れることなど無かったし、ここに来てから貰う靴も同じ事だった。
拾い上げた蹄鉄には数カ所のボルトや釘のようなものが付いており、それと同じだけ靴裏に穴が空いている。
これを元通りハメてしまえば、また走れるものだと、そう思っていた。
スポ。
スポ。
スポ。
付けど外れ、付けど外れ、付けど外れ。固定するという発想に至らない彼女に、その靴を修理することは不可能であった。
ハマらない。戻らない、直らない。
蹄鉄のあるなしは彼女にとって重要ではない。だが、《事前に提出した装具で走ること(臨時のテーピングなどは除く)》とあるレースの規定に違反することとなり、そもそも出走することができない。それはトワイライトホークも知っていた。
事の重大さが少しずつアタマの中を侵食し、状況の理解が進むごとに彼女の額には汗がにじんだ。
クソが。
直前に送ってくるからこうなるんだ。
URAへのあらん限りの罵倒がトワイライトホークの喉元まで浮いては消えていく。
それはそれとしてコイツをどうするか思案する。トレーナーを呼ぶか?呼んでどうなる?そもそも「Shoe came off the hoof.」って日本語で何て言うんだ?
しかもそれでどうにかなるとは限らない。靴の手入れは学園の装蹄師に任せていたし、自分でそれをしげしげと眺めたこともない。数秒逡巡し、いずれにせよひとりでは何ともし難いと結論がついた。
化粧台に乗ったスマートフォンをひったくりかけたとき、締め切られた控室の扉が叩れた。
誰だ。
この状況を他人に知られるわけにはいかない。そのままチクられて終わりだ。特に来客があのクソピンクだったらもう目も当てられない。
暫く息を凝らしていると、ガチャリ、とノブが回され、ゆっくりとそれは開き始めた。
「ホークちゃん、あの…」
果たしてそれはホープフライヤーだった。ふたりの視線が夏ぶりに交錯する。
「どうしたの…?」
額に汗するトワイライトホークを見て不思議な顔になったホープフライヤーは、まもなく床に転がった蹄鉄を目にした。トワイライトホークが片手に持っている靴と合わせて、それがなにを意味しているのか。彼女にはすぐに理解できた。
「…!」
血相変えたホープフライヤーはそのまま踵を返し、扉を閉めるのも忘れて走り去ってしまった。
そうしている間にレースは終わる。
荒れたバ場の復元や招集など体制を整えるのに時間はかかるが、それでもホープフルステークスの出走まで残された猶予はあと1本。本当に時間がない。いよいよ焦りに全てを支配されたトワイライトホークはスマートフォンを今度こそひったくってトレーナーを呼び出すが応答はない。2回、3回と試しても結果は変わらなかった。
クソが。
もう自分で何とかするしかない。
スマートフォンが破壊されるのにも構わず化粧台へ投げつけると、トワイライトホークはテープでも何でも、とにかく体を成すために使えそうなものを探し始めた。
マスキングテープ…、弱い。
セロハンテープ…、これも弱い。
針金…、強度を出すには短い。
アロンアルファ…、そもそも着かない。
どれだけ探しても、簡素な控え室にそれに使えそうな物は無い。
終わりだ。このまま無為に時を過ごし、招集に来た係員に見つかって失格になるんだ。
トワイライトホークがそう覚悟―、諦めてたとき、控え室の扉が再び、今度は乱暴に開かれた。
「WHAT THE...」
叫びかけたトワイライトホークの目線の先には、息を切らして鉄の箱を抱えたホープフライヤーが立っていた。
「貸して」
有無を言わさず彼女はトワイライトホークからスニーカーをひったくり、床の蹄鉄を取りあげて化粧台へ置いた。トワイライトホークによって破壊されたスマートフォンは、こんどは何の躊躇いもなくホープフライヤーの腕に払われて粉々になっていた。
ガツン、と音を立てて床に置かれる鉄の箱。中に入っている何からしきがガシャン、とさらに大きな音を立てた。
錆にくれたそれを半ば力任せに開くと、釘にネジにボルトにナット。更にペンチ、ハンマー、そして電動工具までがぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。
「蹄釘が細かったんだ。ホークちゃんの踏み切る力に耐えきれなくて折れてる」
靴の底面に沿って綺麗に折れた蹄釘の成れの果て。ホープフライヤーがつま先を幾らかハンマーで叩くと、りん、りん、と甲高い音を立てて銀色の棒が床に転がった。
「太くするしかないけど…、あんまりやりすぎてもバランス崩しちゃうし。フィッティングのことまで勉強してないからなあー」
口で不安を吐きながら、それに反してホープフライヤーは迷いのない手つきで新しい蹄釘を数本手に取る。折れたものと比較するとほんの数ミリ太い。そして競技の、特にトップを争うウマ娘たちにとってその僅かな重みの変化が、走りのフィーリングに直結するのだ。
「…仕方ない。ごめんねホークちゃん。この釘、今の蹄鉄には入んないから。釘穴を広げさせてもらうね」
蹄鉄に残った釘を靴と同じく落としながらホープフライヤーは淡々と告げた。またしても工具箱に手を突っ込み、もはやどうやって入っていたかすらわからない電動工具を取り出した。
「応急的なものでしかないけど―!」
細かい凹凸の刻まれた鉄の棒が高速で回転を始める。それを既存の釘穴に当てようとしたとき、ホープフライヤーの額から汗が滴った。
「…!」
手も震える。私に直せるのか。正しく寸法を測ったわけでもない。そもそも実践はこれが初めてで、そのための勉強だって半年もしていない。
それでも私が、目の前のジュニアトップウマ娘の蹄鉄に手を付けていいのか。
生まれた僅かな迷いは一瞬、彼女の手を完全に止めた。
「―、いや!」
ぎゅっ、と目をつむったホープフライヤーは工具を床に叩き置くと、ポケットから四角い長方形のテープを取り出した。いつかナリタブライアンに「周りでなく自分の世界を見る」ことの象徴として貰ったテープと同じものだ。
それを同じように鼻梁に貼り付けると、今度こそホープフライヤーは工具を握りしめ、蹄鉄から火花を散らして作業に入った。
バチバチと赤い光を飛ばす蹄鉄を前に、トワイライトホークはただ呆けていることしかできない。
なぜ今になってホープフライヤーが現れたのか。
そしてなぜ蹄鉄を触る技術を身に着けているのか。
夏から今までの間に彼女になにがあったのか。
わからないことだらけだった。
やがて火花は収まり、ホープフライヤーは電動工具をハンマーへ持ち替えた。
「経が広がるから、靴の穴は埋めなくてよさそうだね」
スニーカーを裏返し、痕跡に合うように蹄鉄を合わせて、端から釘を叩き込んでいく。金属どうしがぶつかる音がかん、かん、と規則的に、かつリズムよく響いた。
「ごめんね、避けちゃってて。あたしさ、不安だったんだよ。これからもホークちゃんの友達でいていいのかってさ」
叩きながらホープフライヤーは語り始めた。
「どんどん先にいっちゃうホークちゃんを、追いかけらんなくなっちゃって。情けない話だけどね」
蹄鉄を両端から固定していく彼女の手つきは彼女自身のこれまでに反してどこまでもまっすぐで、純粋だ。
「夏、一緒に合宿したとき、ナリタブライアン先生に《自分の世界へ行け》って教えて貰ったんだ。それをレースに繋げることは、ちょっと難しかったけど」
7本の釘全てを打ち終え、微妙な位置ズレを外から叩いて修正する。良さげと見るや完全に釘を埋めてしまい、体裁を取り戻したスニーカーをトワイライトホークに抱かせた。
「今はこれが、私の《世界》」
呆気にとられたままそれを抱くトワイライトホークへ笑いかけ、ホープフライヤーは頬をかきながら苦笑した。
「元通り、ってわけじゃないけどね。重さも変わっただろうし。あくまで今日を走るだけのモンだと思ってよ。―えっとね、use only today!」
そう言いながら、ホープフライヤーはどうやって仕舞われていたかわからない工具類を、どうやって仕舞ったのかわからないままに箱に収めた。
それを眺めながら、トワイライトホークは直ったスニーカーを脚にはめて感覚を確かめている。カツン、カツン、と蹄鉄が床を踏む音が幾らか響いたところで、控え室に備えられている無線が鳴り出した。
「―あ、時間か」
招集には間に合った。トワイライトホークのスニーカーは取り敢えずどうにか走れるだけの体裁を取り戻した、かのように思える。バ場へ出る前にURAから最終チェックを受けるがいちいち外したり重さを測ったりはしないだろう。
「…thanks.」
かつて隣にいた友人にどのような態度を取ればよいのか思い出せないまま、時間に追われて控え室を出ようとするトワイライトホーク。その前をホープフライヤーが塞いだ。
彼女はポケットから例のテープの余りを取り出し、自身がしたのと同じように、トワイライトホークの鼻梁へそれを貼り付けた。
「What!?」
驚いてそれを引っ剥がそうとするトワイライトホークの右手を、ホープフライヤーはそっと包んだ。
「お守り」
お守り。
守る。
Protector?
トワイライトホークには物理的な言葉ばかりが浮かんでくる。怪訝な顔をしたのを見て、何か勘違いをしていると汲んだホープフライヤーは言葉を続けた。
「アミュレット…?うーん、…あ、チャーム!イッツ、チャームだよ、ホークちゃん」
チャームという単語が入って、トワイライトホークが今見ていたホープフライヤーの始終が繋がった。
自分に貼られたのと同じものがホープフライヤーの鼻にもついている。蹄鉄を前にしたホープフライヤーは自分の領分に迷っていたが、これを貼り付けることでそれを振り切ってみせた。
これはきっと《勇気》だ。
トワイライトホークにどうにかなって欲しいというよりは、ホープフライヤー自身がトワイライトホークの隣に立つ覚悟のようなものだと彼女は感じた。
芝の上で切磋琢磨するライバルとしてではなく、鷹の広げた翼をより遠くへ飛ばすための尾翼として。
「…アリガトウ」
困惑から表情は変わり、少なくとも戦う顔になったトワイライトホークが廊下へ駆け出していくのを、ホープフライヤーは小さく手を振りながら見送った。
「願掛けとかゲン担ぎとか、するタイプじゃなかったんだけどなあ、あたし」
ひとりになった控え室。ホープフライヤーは自嘲しながら、飛び散った煤やら鉄粉やらを室内に立てかけてあった帚で集めていると、だだだだだ、という乱暴な駆け足と共に、またしても控え室の扉は雑に開けられた。
「おい!―、うわあ、もう行っちまったか!」
これも夏以来久しぶりに顔を合わせる、トワイライトホークのトレーナーであった。
「あ、こんにちは…」
あまりにも再会が突然すぎた。ホープフライヤーには何も気の利いた言葉が思いつかない。ここに居た理由も、アタマが回らずにろくに説明できない。
「…?」
しかしトレーナーは目ざとかった。焼けた鉄の匂い。床の上に集められた黒い粉。そして手を汚したホープフライヤーに、鉄の工具入れらしき箱。
「…もしかして、落ちたのか」
こくん、とホープフライヤーは顎を引いた。
「俺たちがここを出て暫くして、何回か着信があったんだ。全く気付かなかったが―、アイツ、もう出ていっちまったんだよな」
またホープフライヤーは顎を引いた。
「なあ、まさかとは思んだけどな?本当にまさかとは思うんだが、まさか、お前さんがどうにかした、なんてこたないよな?」
三度、ホープフライヤーは顎を引いた。
トレーナーは状況を飲み込むまで―、それに向き合うだけの勇気を持つのに少し時間を要した。
「―走れるのか」
「1本くらいなら、大丈夫、…だと、思います」
だと思いますだと?とトレーナーは目の前のウマ娘を詰めた。
「もしレース中に落鉄したらどうする。それが後ろに跳んで行って、後ろにケガでもさせたら―、ケガで済まなかったら、どうするんだ」
怒るでもなく、なじるでもなく。トレーナーはただただ起こりうるリスクを冷静に説いた。
「お前さんが夏からベルトライト先生んとこに通ってるってのは聞いてたけどよ…。まだこんなこと出来るレベルじゃあないだろう?それに―、レース内外に関係無く、何かあったときにウマ娘を守れるのはそのトレーナーだ。お前さんはひとりじゃないか」
「有事の責任は、お前さんだけじゃとても抱えきれんぜ」
今からでも止めに行くか?とトレーナーはブツブツと思案を始めた。下を向いたきり気まずそうにしていたホープフライヤーは、その「止める」という言葉に反応して思わず顔を上げてしまった。
「エルコンドルパサーさんと戦うっていうあの子の目標を。ここにやってきた理由を。それを守るには走らなきゃダメなんですよね?それをやり通すには―、こうするしかなかったんです」
「それでアイツ自身や、他の連中を危険にさらしてでもか?」
そりゃそうだ。普通に考えたらこんなことは有り得ない。中途半端な応急処置で、2000メートルもつかもたないか、伸るか反るかのギャンブル。その賭けに負けた時には、自業自得では済まない事態が待っているからだ。
「…今から言うことは、トレセンに居て、少なくとも幾らかのレースを経験してきたウマ娘としてはダメなことなんでしょうけど」
迷ったとき、ホープフライヤーは鼻にテープを貼る。そしてそれでも進めないとき、彼女はそれに触れる。そうすると、不思議と勇気が湧いてくるのだ。
「事は起こった後に考えたらいい。落鉄を気にしてたら、多分誰もが逃げ以外を選ばなくなりますから」
「もしそれで何もなければいいでしょ?なんかあったら―、その責任はトレーナーさんに行っちゃいますけど」
トレーナーは大きくため息をついて壁に垂れかかった。
「知らずに走らせても監督不行き届き、知ってて走らせたらそれはそれで大問題。大変だぜ、これ」
「そしてトレーナーさんはきっとあたしも守ってくれるから、《チーム》として責任取ってくれるんですよね」
はあ?!と素っ頓狂な声がトレーナーの喉から飛び出した。
「それで、もしホークちゃんが無事に帰ってきたら、そのときはあたしも仲間に入れてください」
「前門の鬼、後門の虎。お前さんはどっちなんかね」
どっちかっていうと虎が好きですね、とホープフライヤーは笑った。そしてまたトレーナーはブツブツと壁に向かって独り言を流し始めた。
危ない橋だ。しかもどれくらい脆いかわからないときた。トワイライトホークはもう芝の上。石橋を叩く機会すら既に無い。そのうえ、橋を架けた本人すらその強度を保証しきれていないのだ。
なにより、レースは中断不可能なタイミングへと入っていた。
「…ああ、もう!」
壁を両手で殴りつけ、額をグリグリと擦りつけて悶えたトレーナーは、その部分を赤くしてホープフライヤーと向かい合った。
「アイツが無事に帰ってきたらお前さんは晴れて俺たちのファミリー。もし途中で蹄鉄が落ちて誰かにケガでもさせたら、守ってくれる奴が居ないお前さんのことは、当事者のトレーナーである俺が守らにゃならん。
どう転んでもお前さんは俺たちの間に入るってことじゃねえか。…後ろにグラスワンダーとか居ねえよな?」
「…退学まで覚悟しとけよ」
そのときは養ってくださいね、と軽口を叩いて、ホープフライヤーも控え室から出ていった。見送るトレーナーには、ものの数分のやりとりで徹夜残業3連チャンと同じくらいの疲弊と心労が乗しかかった。7割ほどヤケクソでソファに尻を墜落させる。タバコを取り出そうとして―、人としてそれは躊躇われた。
「希望へ飛んだか―、いや、飛ばされたか?」
ファンファーレはすぐそこであった。