トワイライトホークが初めて踏んだ、日本の春の芝。しり、と草の軋む音と、柔らかく脚を包んでくれる土の感触。推進力を全て受け止めてくれるような感じがした。
白い半袖のシャツに、黒いハーフパンツ。これをここでは《TAISOU-HUKU》というらしい。機能的にはスポーツウェアと変わらないが、階級の低いレースではこのまま走るそうだ。
「あー!」
風に流される緑の絨毯をぼけっと眺めていたら、後ろの方で大声がした。芝を踏む音が、間違いなくこちらの方に近づいている。
「試験で会ったの!覚えてる?!あなたも合格したんだ!いやあ―、私さ、結構ギリギリだったらしくて他の娘たちについてけなくて苦労してるんだけど!あなたはどうなの?」
冬入学試験。言葉が分からずに頭を抱えて震えていたトワイライトホーク。傍目からわかるヤバさに臆して遠巻きに見ていた多勢を余所に、勇敢、そして無謀にも声をかけたウマ娘。快活な印象と共に、前髪の流星が揺れた。
「a...」
相変わらずトワイライトホークは日本語が不自由だった。
「もうとんでもない噂になってるんだよ?あなた、面接試験のとき生徒会長に対して《ビッチ》って言っちゃったんでしょ?!」
この《ビッチ》がよくなかった。米国育ちのトワイライトホークにとって日本語はただの呪文でしかない。だが、その耳はよりによって最悪の言葉だけを正確に読み取ったのだ。
「Hey! Did you just call me a damn bitch?!《おい!お前、アタシのことビッチって言ったか?!》」
まるで瞬間湯沸かし器。トワイライトホークの怒りのボルテージは瞬きの間に振り切れ、ウマ娘の胸ぐらを掴もうと詰め寄った。
「I could sink you into this fuckin′ turf?《お前もこの芝に沈めてやったっていいんだぞ?》」
じりじりと迫るトワイライトホーク。尻尾は逆立ち、ウマ耳は後ろに張り付き、犬歯を剥いて、ウサギを狩る直前の猛禽のような雰囲気をしている。そしていよいよ掴みかかろうとしたとき、
「Stop . That's not what she meant.《やめなさい。彼女の言葉はそういう意味ではありませんよ》」
その更に後ろから声がした。トワイライトホークは怒りに任せてその方を睨むと、先にはグラスワンダーが居た。揺れる芝と共に風と戯れる鹿毛のロングヘア。にこにこと屈託のない笑みを両者に向けて佇んでいるが、トワイライトホークはそれを見て完全に動けなくなってしまった。
「ふ、副会長さん!」
隙を見てトワイライトホークの腕から逃れたウマ娘は、ヨロヨロとわざとらしくフラつきながら、半泣きの表情でグラスワンダーの腕に張り付いた。
「なんか琴線に触れちゃったみたいで…、たぶん《ビッチ》っていうのが悪かったかもしれませんけど…」
再度の用語と登場にトワイライトホークはまたしても熱くなりかけた。視線の先のグラスワンダーは、腕のなかのウマ娘を宥めているように見えて、しっかりこちらを《監視》している。
「This girl is asking if it's true that you called El Condor Pasa a bitch. Are you understand little bird?《この娘は「あなたがエルコンドルパサーをビッチと罵ったのは本当か」確かめたかっただけです。わかりましたか、小鳥さん?》」
かくしてトワイライトホークの誤解は解けた。
ここに来てから―、もっといえば彼女が日本へやって来てから、ようやっと果たされたグラスワンダーとの邂逅。その腕にしがみつくウマ娘への謝罪もそこそこに、トワイライトホークは芝にしゃがみ、恭しく片膝をついた。
「I owe you a debt—a favor. I've come to repay it. Until then, I promise to be your canary, Ms. Glass Wonder.《アンタには恩―、借りがある。そいつを返しにここへ来た。それまでは、アタシはアンタのカナリアだと約束しよう、グラスワンダー》」
あらあら、とグラスワンダーは笑った。
「いい心がけですよ」
ふふ、と踵を返して引き返していくグラスワンダーをぼけっと見送るトワイライトホーク。あのウマ娘がなにか話している声が聴こえていたが、その複雑な心境の彼方に掻き消えていった。
トワイライトホークにとって彼女は恩人である。と同時に自身をここに縛る鎖であり、競ってすらいないにもかかわらず《自らより強い》と確信できる存在だった。
自らより強い存在に抗うことはそうそう―、ウマ娘に植え付けられた本当に抗うなどしなければできることではない。
すくなくともデトロイトのアスファルトではそうだった。本能のままに走り、皮膚を裂く小石にまみれ、強者が弱者をそのチカラでのみもって制す。そのトップだった彼女は今、生まれてはじめて明確に誰かの下に付くことになった。それは、顔面を押し付けられたアスファルトよりも幾分か柔らかく、いくらか心地よささえあるようにも思えた。
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100を優に超える入学志願者。地元で敗けナシ、◯◯のオグリキャップ、△△のシンザン。そういった強そうな肩書を背負う者たち。ここに立っているだけでも、その世代では傑出したウマ娘であることに相違はない。だが、模擬レースという1次試験を経た後、その中から理事長との面談に進むことができたのはたったの21名のみだった。
その21人目、トワイライトホーク。
内容は凄惨たるものだった。
「Get that mother fuckin′ masked bitch out of here right now!《そのマスク女を今すぐつまみ出せ!》」
入室するまでは普通だった。だが生徒会長エルコンドルパサーを認めるやいなや、最初に出てきたのがこの罵声。
不敵に笑い、それを煽るエルコンドルパサーもエルコンドルパサーであったが、怒りに我を忘れたトワイライトホークはそのまま突進。
普段そうそうの事では腰を上げない新堀も流石に実力を行使する運びとなり、当人やエルコンドルパサーはもちろん、理事長である新堀やその秘書エアグルーヴ、そして増援としてやってきたナリタブライアンをも巻き込むどったんばったん大騒ぎの後、守衛たちに身柄を引き渡され、会場から引きずり出されたのだった。
扉の閉まる音と共に崩れ落ちるウマ娘たち。歴史に名を残す者たちといえど、現役を退けば人並みになるものであり、めいめいにゼイゼイと酸素を求め、その場から動けずにいた。
ぴんぽんぱんぽーん♪
《新堀…、ぜえ、新堀だ。グラス…、グラスワンダーくん。これを聴いたら、はあ―、すう―、今すぐ理事長室へ来るんだ》
間抜けなチャイムから聴こえてきた、只事ではない新堀の様子。それを察して、タンポポの蕾をうふふと眺めていたグラスワンダーは血相変えて自室を飛び出していった。
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沈痛な面持ちで卓についている新堀。その脇を固め、若干咎める視線を送るエアグルーヴ。ソファにだらしなく座り込むナリタブライアン。ボロボロのエルコンドルパサー。
明らかに何かあったとわかる、荒れた理事長室。ざっと辺りを見渡し、おおよそ事態を把握したグラスワンダーは頭を抱えた。
「全員の面接は終わった。合格者を決めようじゃないか。―そうだろう、グラスワンダーくん?」
グラスワンダーは、久しく覚えの無かった背筋の冷たさを思い出した。
「全21名のうち20名については、私からは何も言う事はない。ここで存分に競い合ってもらうこととしよう。誰か、これに異議はあるかい?」
額と顎、右腕にガーゼや絆創膏が貼られていたとしても、新堀は新堀。皇帝と呼ばれた往年のオーラに陰りはない。そして彼女の言う《合格者》に誰も口を挟むことはしなかった。
「では、そのように運ぼう―。…さて、本題だが」
微笑みを湛えたまま凍りついているグラスワンダー。学生とオトナという決定的な分類歯あれど、それはまるで同じ社会に生きる上司と部下そのものであった。
「トワイライトホーク。結局、私が彼女と言葉を交わすことは無かったよ。あれは誰の推薦であったかな、グラスワンダーくん?」
淡々と、静かに、しかし極めて冷徹に。グラスワンダーのそれを白氷とするならば、新堀のそれは絶対零度の永久凍土に放られるに等しい。
「―っ、わ、私ですが…」
「噂によると君は、ここにいるエルコンドルパサーくんとの帰省の際に彼女に才を見て、母校の理事長に直談判してまで、そのウマ娘がこの学園の推薦入学試験を受けられるようにしたそうじゃないか」
「え、ええ、そうでしたね…」
新堀は軽くため息をついた。
「暴れる、殴る、蹴る、ついには私の右腕に噛みつきもした。ここまで粗暴なウマ娘には、私はただの1度も出会ったことはない」
そんなウマ娘はこの学園にも居ない、と同義だった。
「模擬レースにおいても特筆すべきことはなし。どうにかこうにかして最後に時間を作って会ってみたが、あれではとても―」
部屋を沈痛な空気が包んだ。
「グラス、グラスはよくやったと思いマス。こういう結果ニなってしまッタのは残念デスが、トワイライトホークはこの学園には手に余りマス。ですカラ―、」
グラスワンダーはゆっくりと立ち上がり、新堀のもとへ歩み出た。いささか引き攣ってはいるが、その微笑みには柔軟さが取り戻されているように見える。
「どうしても、そういう訳にはいきませんか、新堀理事長」
「才あるウマ娘が伸びることを最大限に支援するのが、この学園の役割だ。それを持ち合わせないウマ娘がここで生活したとしても、我々はそれを伸ばす術を持ち合わせていない」
「先にも申しましたが、トワイライトホークにはかのエルコンドルパサーの出鼻を挫き、ハナを奪えるポテンシャルはあります。諸々の課題は当然ありますが―、そんなウマ娘がここにどれだけいるとお思いでしょうか」
「だがそれまでだ。それ以上のことを今の彼女に君はは求められないし、だから今日のレース結果にも繋がる。君は目の前の小石に取り憑かれて、ダイヤモンドになると思い込んでいるだけだ」
「ダイヤモンドも、磨かれる前はただの黒い石です。彼女のそれはデトロイトのストリートで熱せられていましたが、相転移するにはいささか火力が足りません。その《いささか》はここにしかないと私は思います」
「君ならば、その相転移を起こせるとでも言う気か?ウマ娘のトレーナーになる資格が如何に難関で、そのうえでこの学園に居る事がどれだけの難度か知らない筈は無いだろう。君の発言は学生の領分を超えるものだ」
ぐうの音も出ない正論を前に、グラスワンダーは一歩後退。自らもレジェンドだという自負はある。もしやと思い舌戦を挑んだが、新堀の舌はあまりにも複雑に回り、それを捉えることは叶わなかった。
天を仰ぎ、目を閉じて逡巡するグラスワンダー。新堀は、もはや彼女に打つ手なしと心中で断じた。
彼女らしくはないとは思いつつ、事実上の白旗と認めた新堀は
「では、合格者には明日までには通知を―」
と話を纏めにかかったが、そこでグラスワンダーは逡巡を終えて瞳を開いた。
彼女はそのまま新堀の目の前まで歩み寄り、両膝を立てて床に座した。
「私は、あのウマ娘に確かな才を見ました。でなければ、新堀さんに直談判など致しませんし、ここまで食い下がりもいたしません」
自身の膝上に正しく置かれた右の掌。それを掲げ、グラスワンダーは《手刀》の構えをとった。
「それは私の矜持あってのこと。試験の結果はどうしようもありません。公平に平等に機会を設けていただいたことに感謝すらしています。ですがこうしてそのウマ娘の入学が認められないとあらば―っ!」
そして制服の上着をたくし上げ、露わになったワイシャツ、その腹の部分に、さっき作った《手刀》を押し当てる仕草をしてみせた。
「私は腹を斬る覚悟で、これを押し通させていただきます」
「ケッ?!」
「な―っ!」
「はあ?!」
3者3様驚愕のあまり固まってしまい、グラスワンダーはグラスワンダーで、その目が嘘を言っていない。
誰もが思うだろう。彼女が壊れたと。
「…」
ひとり、新堀のみは冷静だった。これは自身を折り、グラスワンダーが押し通るためのパフォーマンスだと新堀は理解した。
新堀の道を塞いだつもりが、実際に進退窮しているのはグラスワンダーの方である。もうこのまま刃を進めるしかないのだから。
のだが、このまま腹を裂かれては非常に困る。困るというか、学園の存続問題にも繋がる。そしてひとりのウマ娘の命が失われることは、たとえそれがパフォーマンスであり、そうする意思が無いということが明確であったにしても、新堀の望むところではない。
「わかった。わかったから。グラスワンダーくん。まず手を仕舞いなさい。冷静になろうじゃないか。血を流しても互いにメリットはない。な?」
「認めてくださると、そういうことですか?」
ぐっ、と今度は新堀が息を詰まらせた。
「そ、それは―、」
「確かに今は誰も気に留めない、薄汚れた小さい小石かもしれません。彼女は鷹を名乗りますが、今日の時点ではひとりで飛ぶこともままならず、親に食べさせてもらうしかない雛にすぎません。しかし私にはその石と、小さな翼が、どうにも輝いているように見えてならないのです。翼を広げ大空へ舞う姿を目にしたいと、そう思ってしまったのです」
しん、と静寂が部屋に降りた。顔を紅潮させ、肩で息をするグラスワンダー。エルコンドルパサーは彼女との付き合いも長い。その長い付き合いでも、こんな真っ直ぐな表情のグラスワンダーを見たことは無かった。
「………。誰かにここまで言わせることも、もはや才能か」
新堀はどさっと席に倒れ込み、天を仰いだ。
「彼女を学園へ招き入れるのは簡単だ。だがそれは彼女にとって不幸なことになるかもしれない。あの日、面接を前に落とされてしまった100人余のウマ娘たちよりも、彼女の評価は劣っていたんだ」
「著しく評価の低い状態からのスタートだ。トレーナーだってなかなか決まりやしない。そしてあの日彼女を見たウマ娘たちからは、彼女がここにいること自体が疑問になり、それは関係に亀裂を生むだろう」
「合格したからといって必ず来なければならないということはない。だがそれは誰彼構わず門を開く免罪符とはならない。
学生という立場の君には何もできない。ここへ来ることになれば、あとはすべて彼女自身で拓かねばならない道だ。そんな修羅の道を彼女に選ばせ、進ませるという覚悟を。たった1日、ほんの数10分の時間を共にしただけのウマ娘に預ける勇気が君にはあるかい、グラスワンダーくん」
グラスワンダーは正座を解いた。ゆっくりと膝を立て、新堀と目線を揃えて、ふうと息を吐き、
「宝石を見て綺麗だと思うのに、1秒も要りません。あとはそれを拾い上げ、角度を変え、どうして綺麗なのか、どこがどう綺麗なのか、時間をかけて理解し、それが活きるところに飾ってやればよいと、そう思っています」
とひと息に言い切った。
「ここまで言われてはな」
新堀は肩をすくめておどけた。
「さっきも言ったが、君がスペシャルウィークくん以外にここまで心酔するのを見るのは初めてだ。もはやそれも才能だろう」
「いいだろう。トワイライトホークくんにも合格の通知を送りなさい。ただし本学は《当事者の意思》が最優先される。彼女が期日までに学園へやってこなければそれまでだ。それはしっかりと覚えておきなさい、グラスワンダーくん」
一礼して理事長室を出ていくエルコンドルパサーとグラスワンダー。廊下を靴が叩く音が遠くなると、新堀は卓に手をついて大きく息をついた。
「本当にあれを学園として迎え入れるのですか、会長」
エアグルーヴは新堀の表情を不安げにのぞき込んだ。双方、相当な疲労がうかがい知れる。ナリタブライアンは表面上我関せずを貫いたが、実情と結果の乖離に思う所はあるだろう。
「ああまで言われてしまっては、仕方ないさ。それにイバラの道であることは間違いない。更に言えば―、そういう生徒を一方的に切る規則が学園にはあるのさ」
「《中等部2年次の10月までに未勝利の生徒は退学を勧告され、勧告を受けた際はそれに従う》ですか…。確かに、そうなる前に心が折れて学園を去る生徒も多々いますし、ハルウララのように未勝利のまま高等部に在籍しているものもあります。生殺与奪を学園に取られているだけで、その行使の例は流石に…」
「それを使うのは、学園の自治を守るためでもある。…まあ、さまざまな理由により使われた試しはないがね。それに…、もし仮に彼女が大成すれば、彼の国とのパイプにもなるだろう。それは中長期的に見ればプラスだ。そういう期待値はある」
すべては彼女次第さ、とごちて、新堀は卓に伏した。
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流石に当日や翌日は自らの言動にそれはもう堪えたが、喉元を過ぎればなんとやら。数日中には帰国する気満々のトワイライトホークは、ケロっとした面持ちで、余ったカネを使い当面の食い扶持を確保しているところだった。
アプリで決済をしようとしてスマートフォンを取り出した時、見慣れたメールの通知に気づいた。
不合格になったことによるグラスワンダーからの恨み言だろうか。捨て台詞のひとつでも送りつけてやろうとそれを開いた時、彼女ははじめて自分を疑った。
やたら容量のあるそれには、
《i did》という短い文章と何かしらの刀の絵文字、そして
試験結果
入学案内
提出書類(既に揃えられている)
希望コースのアンケート
が添付されていた。
そして空白につぐ空白。いくらスクロールしても文章らしきは現れない。
時間の無駄だと画面をペイアプリに切り替えようとしたとき、丁度画面はその最下層へ追いついた。
《Prove yourself to us.(私たちに貴女を証明しなさい)》
それを見たトワイライトホークは、大量のかごに入ったとんでもない量の商品の決済全てをキャンセルし、日本の整ったアスファルトへ飛び出していった。