朝の冷えた空気が残る選手控室。エルコンドルパサーとそのトレーナー、そしてトワイライトホークは互いに明後日の方向を見て椅子に座り、そわそわと手足を遊ばせていた。
春は遠のくも梅雨を迎えるには早い6月。今日はその年度に挙行される最初のメイクデビューである。
トワイライトホークにとって、G1だとかクラシックだとか、よくある目指すべきレースに興味はない。エルコンドルパサーを直接叩きのめす為に1日も早く前に同じ土俵に立ちたくて、とにかく公式戦での勝利を急ぎたいという彼女の意向でもあった。
「いいか。何度も言うが今日ここに来ている未勝利、あるいはデビュー前のウマ娘たちと比べて、お前のフィジカルは圧倒的なまでに優位だ。だからまあ、後のことは―、付け焼き刃ながら言えることは言えたし、お前もやれてるとは思う」
模擬レースで収めた最初の勝利から半月と少し。勝てる走りを目指す為、トレーナーはエルコンドルパサーと指導を分業することにした。彼はトワイライトホークへ、主に精神面や戦略について深く説いた。前回の勝利体験をフィードバックする、ただぶっちぎるだけではない、互いの腹を探る駆け引き。後先考えずに逃げるよりかは、後ろで構えでレースを観察し、距離とバ群を照らし合わせながら自分の勝ち筋を見出してゆく。その方が強いに決まっていた。トワイライトホークは彼との対話を通して、我慢することもまた勝利への道との解を得た。
難しい言葉は彼女の耳にはまだ入らない。ホープフライヤーも、英語に秀でているわけではない。分業、とは云ったものの、彼らのコミュニケーションには否応なしにエルコンドルパサーがその間に入ることとなり、生徒会の業務を他に投げてまで、彼らの橋渡しに奔走した。
その一方で走法の指導にも抜かり無く、トワイライトホークに新しく生まれた「差し」という概念を鋭く研いでやっていた。
***
「いいデスカ?ワタシが良いと言うまでは絶対にワタシを抜いたらダメです。……絶対にです。マスト!」
そう言われてからもう10kmは走らされている。トワイライトホークは眼前のエルコンドルパサーを抜いてしまいたくて堪らなかった。苛立ちと本能がクビをもたげてくる。その度、
「イライラに負けたらただの動物ですからネ。ワタシたちはウマ娘。知性を持った種族だからこそ、勝ち方を考えられマス」
という説教を思い出して、知性の無い動物に成り下がることを許さずに、歯を食いしばって後ろに控え続けた。抜こうと思えば簡単に抜けてしまいそうで、それでいて決して楽ではない。エルコンドルパサーはその絶妙なラインを維持し、敢えてトワイライトホークの本能を煽りながら前を取り続けていた。
ウマ娘同士の肉体言語というものは互いによく作用する。エルコンドルパサーの伝えたいこと。日本語ではその全ては分からずとも、言いたいことは走れば何となく伝わる。四方八方構わずに剥かれていたトワイライトホークのチカラは今、確かな目的意識のもと、自らの勝利を齎す武器として磨きをかける段階へ至っていた。
「今デス!GO!」
巡航距離は15kmに達しただろうか。マイル用コースの後半部分にさしかかったところである。一周するまで残り700メートルくらいのところで、エルコンドルパサーは合図をした。
「ッッッッ」
やっと来た。トワイライトホークは抑え続けてきた本能と苛立ちを全て脚力に変えて、土を深く踏み込んでエルコンドルパサーを交わした。
既にとんでもない距離を走らされている。疲労も溜まっている。衝動を抑え続けていたから精神的にも同じだ。だが、前を明け渡したはずのエルコンドルパサーが後ろにピタリと付いているのを感じる。
「ッッッッAAAAAARRRRRRGH!」
コーナーを抜けて最後の直線。身体は悲鳴を上げている。心も折れてしまいそうだ。
けれども彼女はエルコンドルパサーにだけは差し返されたくなかった。遮二無二腕を振り回し、吠えながらゴール地点を通過したのは、トワイライトホークにとって久方振りのことであった。
***
「…、さ、流石に緊張してきマシタね」
2本前のレースの出走ファンファーレが聞こえてくる。制服姿のエルコンドルパサーは椅子から立ち上がり、二の腕をもう片方の掌でさすった。
「今朝のウォームアップを見て思っタように。小鳥サン。アナタは今日ココを走るダレよりも速イ。ソレは今になっても変わりまセン。問題は―」
走法だな、とトレーナーが引き継いだ。
「時期が時期だ。こんな早くに出てくるウマ娘たちはトチ狂ってると俺は思うよ。逆に言えば、さっさと勝ち星稼いでデカいレースを見据えてる奴らが集まってる。それを前提にしても―、さっきも言ったがカラダの完成度だけでいえばお前がイチバンだ。…それだけで勝てるほど甘く無えってことは、お前がイチバンよくわかってる筈。そうだな?」
トワイライトホークはまだ日本語に対する理解が浅い。だがその言語に溢れた生活を強いられ、嫌でもその言葉に包まれることで、彼らの、彼女らの言っていること、指していることがなんとなく理解しつつある。
「…ああ」
それがあっての、この同意だった。
「ならいい。俺やエルがお前に教えたこと。それさえ守れば、お前はあのセレブレーションを誰にも邪魔されずに披露できる」
トレーナーの話が区切りを迎えたところでコンコン、と控室の扉がノックされた。帽子をかぶったスタッフがトワイライトホークを呼びに来たのだ。直前のレースが始まる前には、パドックでその姿をファンに見せなければならない。
「―あァ、そうだ」
スタッフに先導され部屋を出ていこうとするトワイライトホーク。まさに扉を閉めようとしたその隙間から溢れたトレーナーの独り言が彼女を暫しそこに留めた。
「I'm pissed off too. Shut them up with a win.《俺も結構ムカついててな。お前が勝って、周りを黙らせろ》」
………
《8番、トワイライトホーク!4番人気です!》
アナウンスされ、トワイライトホークは観客にその姿を晒した。
パラパラと立ち見のニンゲンたちがまばらに見える。本日は目立ったレースも無し。有名なウマ娘の出走も無し。新馬戦や未勝利戦、あっても◯勝クラス程度のものしか行われない競バ場は静かだった。散歩のついでに来ているのかすらわからない老人たちのやる気のない拍手に出迎えられ、トワイライトホークはその長閑さに拍子抜けしてしまった。
「a... I'm going to win...」
ひと言求められても、月並みの言葉しか並べることができなかった。
目を白黒させながらお立ち台を下りようとしたとき、次の―、9番のウマ娘と肩がぶつかった。
「あら失礼。…、んん―?アンタ、もしかすると中央の問題児かしら?」
白に近い鹿毛にピンク色のメッシュ。如何にもシティガールですよ、としたウマ娘は段の上からトワイライトホークを見下ろした。
「なァに、なんか喋りなさいよ。…もしかして日本語わからないの?オーケイメーン?あはははは!」
黄色い瞳で高笑いしながら、そのウマ娘はパドックの裏に消えた。
コイツは殺す。
手が出なかったのは今日までの特訓の成果だ。
ケンカは手ではなく脚で。リングじゃなく芝で。トレーナーにも、エルコンドルパサーにも口酸っぱく言われたことだ。彼女にはまだリスペクト精神が備わっていない。敗北することでしか育たないものもある。だから今はせめて、争いの全てを芝にぶつける矜持を持ってほしいというふたりの意図だ。
トワイライトホークがいつか殺す者たち。そのリストの最初に書かれているのはエルコンドルパサーという事実は変わらないが。
アメリカからやってきた問題児の噂はすでに広く通っており、こと今日においても、さっきのシティガールを気取ったファッキンピンキー以外にも、好奇の視線に晒されていた。しかしその絶対数はどうしたって少ない。学園すべてから向けられる視線に比べればピースオブケイクもいいところだ。
トレーナーの言う通り、気に食わなければ勝てばいい。それこそが、ウマ娘という種族に備わった本能に、誰が誰の上にいるかを直接示す唯一の方法なのだ。
………
レースの始まりを告げる駆け足のファンファーレ。観客席の少し上の位置から、ホープフライヤーは心配そうにその始終を見届ける構えでいた。
4月に入学して、5月に初めての模擬レース。そしてそれからひと月もしないうちにメイクデビュー。
トチ狂っている。
そう思った。そして今日、トワイライトホークと共に走るウマ娘が多く居るという事実が、よりホープフライヤーを悩ませた。
「今日勝ったって、クラシックのスタートラインは同じなのに…」
ホープフライヤーやトワイライトホークは学園の中等部に属している。そのうち第1学年ではなく、未勝利でないウマ娘に限り、任意の年度を控える冬までに、クラシックへ、あるいはティアラ戦線へと名乗りを上げることが可能なのだ。しかし走り出せば最後、もう二度とその舞台へ上がることは叶わない。そこを終えたウマ娘たちは、中等部、高等部関係なく「シニア」級ウマ娘としての扱いを受けることとなる。
だから大抵、9割9分5厘のウマ娘らは、限られた期間において身体的に最も成熟した状態の中等部第3学年、満を持してそちらへと舵を取るのだ。
「ところがどっこい、そういうわけじゃないと思うねえ」
顔をしかめるホープフライヤーの隣に、鹿毛のウマ娘が腰掛けてきた。ところどころハネた髪がそよ風に揺れる。
「隣、失礼するよ。私はアグネスタキオン。君たちよりふたつ上で…、皐月を獲ったのさ」
知らない理由は無い。皐月を最初に―、芝から降りた超光速の因子《タキオン》。ジャングルポケットやマンハッタンカフェとバカをやっているばかりだと思っていたが、その理不尽なまでの速さにホープフライヤーも目を剥いてテレビに齧りついたものだ。
「速いと、強靱《つよ》いはまた別の話だったと思い知ったよ。そして私はただ速いだけだった」
そんなことはどうでもいいのさ、とアグネスタキオンはおどける。まさにゲートの開こうとしている芝へと視線が移った。
「君はあの問題児と仲良くしていたね」
なぜ自分はまともです、みたいなツラが出来るのか大いに疑問を持ったが、G1ウマ娘であり先輩でもある彼女に、ホープフライヤーが返す言葉は無い。
「私はたびたび君たちのトレーニングを遠くから見させて貰っていてね。…ああ、変な目的とかでは無いよ。…本当だ。―ま、まあ、そこから私があの問題児について思ったことが」
成熟の異常な速さだ。
アグネスタキオンがそう言ったとき、ゲートは開かれ、ウマ娘たちは皆完璧なタイミングで飛び出していった。
《今ゲートが開かれました!1番人気フロイドディスカスは4番手、3番人気のザマゼンダシティは他を引き離して逃げにかかったか!それを追うようにタビラシフターとナカハラファンキー位置取り争い!トワイライトホークは7番手比較的後方に控えております!》
どどど、と芝を蹴る音が観客席まで聞こえてくる。序盤の展開に「ふゥん」と鼻を鳴らしたアグネスタキオンは、話を続けた。
「前後のウマ娘と体格を比べてご覧よ。明らかにあの問題児のカラダは他よりも分厚く、力強く、そしてしなやかだ。詳しいことはよく知らないが、アッチで相当に走り込んだのだろうね。そしてこれを私は―、途上ではなく早熟であると考える」
表情を変えずにコーナーを回るトワイライトホーク。確かに、そのカラダは前後のウマ娘よりもやや厚みがあり、仕上がっているように見えなくもない。しかしホープフライヤーにはそれがレースを左右するほど決定的なものには思えなかった。
「君は、なぜウマ娘の脚が筋肉にまみれているかを考えたことはあるかい?…まあ、後々習うことではあるけれどね」
ホープフライヤーはかぶりを振った。
「そうかい。これから言うことは先生たちのそれとは違うことだ。いいね。…ウマ娘の脚力は、その骨格を破壊するほどに強い。自分を壊す覚悟なら、今の君の脚でも凱旋門を獲れるだろう。しかしなぜそうしないのか。できないのか。それは君や私の脳が、生存本能がそれを拒否しているからだ」
第3コーナーあたりからトワイライトホークがスルスルと難なく順位を上げていく。数秒とないうちに、彼女の前はザマゼンダシティのみになっていた。
「その自壊から脚を守るために、私たちはトレーニングを重ね、弱い部分に筋肉の鎧を纏うのさ。そしてそれが分厚ければ分厚いほどに、出力のリミッターも上がっていくと考えている。あの問題児は他よりも早く成熟しているが為に、他よりも多くの筋肉を脚に纏い、自壊のリミットが他よりも高いのさ。だから―」
《第4コーナー回ってトワイライトホーク!大逃げの9番、ザマゼンダシティを表情変えることなく捉えました!並ぶ隙すら与えず先頭トワイライトホークはあっという間に3バ身先!ザマゼンダシティは苦悶の表情だが粘れるか!》
「それが保たれているうちに、獲るものを獲っときたいんだろうね」
最終直線、トワイライトホークと他の差は広がる一方だった。
《トワイライトホーク先頭!3バ身差これは決まったか!顔を上気すらさせずに今ゴール!トワイライトホーク、後方からどうにか食らいつくザマゼンダシティに2.5バ身差で勝勝利を得ました!ウイニングランは1歩、2歩踏み込んでジャンプ!勝利を祝う雄叫びをあげています!》
早熟と衰え。眼下の芝で勝利のセレブレーションを叫ぶ友の姿を、ホープフライヤーは眉をひそめて見つめていた。
………
あっけないものだった。大逃げのファッキンピンキーも、その後ろにいる先行も、自身の後ろも。スタート直後から後方に控え、バ群に気配を消して10数秒を共にしただけでわかる。これなら勝てる。トレーナーの言う通りだ。
中盤、少しだけ踏み込むとまるで世界が地面ごとこちらへ寄ってくるかのような感覚。まるで自分から手繰り寄せるかのようにして前は迫ってきた。
全速力を出しているような感覚はない。ただ強く芝を踏んでいるだけ。踏む程に流れてゆく芝を見送っていると、いつしかゴールゲートすらもその中に収まった。
彼女の前には誰もいない。どうやら誰が上で誰が下なのか、その優劣はここに決したようだ。決して待ち侘びたわけでは無いが、公式戦での初勝利である。ファッキンマスクドビッチを伸す土俵へ近づいたし、グラスワンダーへの義理もとり敢えずは果たせた。
何より、トレーナーとの約束通り、その証明である魂のセレブレーションを誰にも邪魔されずに捧げられる。
右手をヘリコプターのように回転させながらウイニングラン。三段跳びの要領でステップを踏み、両腕を高く振り上げて大きく跳び上がった。身を後方へ翻すと、ようやくゴールを割ってくる後続たちが目に入った。彼女たちに思い知らせてやらねばならない。誰が勝ったのかを。恨めしげにこちらを睨みつけているファッキンピンキーが一体誰を煽ってしまったのかを。
この時間、この場所で今最も強いのは誰かということを。
「Siuuuuuuuuu!」
トワイライトホークの咆哮は、まばらな観客たちに届く前に風と初夏の匂いに掻き消えていった。
「おやおや、ジャングルポケットもびっくりの雄叫びだね―」
ヒトの耳には届かずとも、ウマ娘の耳にはしかと響いた彼女の魂。観客席のアグネスタキオンは、にやりとしてそう言い残すと日差しの向こうへ去っていった。