ランカイが倒れた。
王宮本殿を揺らしていた咆哮も消え、そこに残るのは重苦しい静寂だけ。
誰もが理解していた。勝負は決したと。
成蟜の最後の切り札は潰えたのだ。
「ぐ……ぐぅ……」
玉座の前で唸るランカイ。
その巨体はもう立ち上がれない。
そして――
「ひ、ひいいいいぃぃぃ!!」
最初に崩れたのは成蟜ではなかった。
周囲を取り囲んでいた文官たちだった。
「に、逃げろ!!」
「もう終わりだ!」
「王宮が落ちるぞ!」
「助かりたい奴は急げぇ!!」
蜘蛛の子を散らすように一斉に扉へ殺到する。
しかし。
「押すな!」
「押しておらん!」
「くっ……扉が開かぬ!」
「ひぃぃぃ!」
出口へ殺到した人々は互いを押し潰しながら混乱する。
その光景を見て、成蟜が顔を真っ赤にした。
「貴様らァ!!」
怒声が響く。
「逃げるな!!」
震える指を向ける。
「我が家臣であろうが!!戦え、 戦わんか!!」
だが誰も振り返らない。
「死罪だ!!」
成蟜は叫ぶ。
「全員死罪に処すぞ!!」
しかし。
その言葉に従う者はもう一人もいなかった。
「おい! 聞いているのか!」
成蟜自身が理解していた。
終わったのだと。
「ぬぅぅぅ……」
顔が歪み、汗が滴る。
王族として生まれて以来、感じたことのない恐怖だった。
味方も敵も入り乱れた巨大な戦場。
もはや玉座も権威も意味をなさない。
そんな成蟜を見下ろしながら、信が剣を肩に担ぐ。
「どうした」
静かな声。
「さっきまでの威勢はよ」
成蟜が睨む。
「き、貴様ら……」
声が震えていた。
「愚民の分際で……」
顔を引き攣らせる。
「王族であるこの俺を斬ろうというのか!?」
「それ以外ねぇだろ」
信は即答した。
「なっ……!」
「俺たちがしてるのは、戦争なんだからな」
その一言が。
成蟜の心を砕いた。
「……っ!!」
膝が崩れる。
信の言葉はあまりにも単純だった。
だが正しい。
王族だから。貴族だから。
そんな理屈は戦場では通じない。
勝った者が生き。負けた者が倒れる。
ただそれだけ。
「成蟜様」
風藍が静かに前へ出る。
「降伏してください」
穏やかな声だった。
だが芯は揺るがない。
「この国の王は嬴政様です」
「くぅぅぅ……!」
成蟜の顔が歪む。
その瞬間だった。
バッ!!
成蟜が突然踵を返す。
「なっ!」
壁が叫んだ。
「逃げたぞ!」
「追え!!」
だが。
風藍は慌てなかった。
「大丈夫ですよ。壁さん」
静かに言う。
「もう咸陽に逃げ場はありません」
その言葉通りだった。
成蟜は王宮を飛び出し、戦場へと駆け込む。
だが、そこは既に地獄絵図だった。
王都咸陽全体が戦場と化している。
味方も敵も入り乱れる混戦。
その中で――
「成蟜様!?」
驚きの声が響く。
振り返った成蟜の前にいたのは。
肆氏。
成蟜派を支える丞相だった。
「なぜこのような場所に!」
肆氏の顔が強張る。
「まさか本殿で何か――」
「制圧された!!」
成蟜が叫ぶ。
「制圧!? 一体誰が……」
「回廊から入ってきた猿共だ!!」
「なっ!?」
肆氏の顔色が変わる。
「左慈が敗れたというのですか!?」
信じられない。
あの左慈が。王宮最強の剣士が。
「肆氏!!」
成蟜が胸ぐらを掴む。
「貴様は丞相の参謀であろうが!!」
必死だった。
「なんとかしろ!!なんとかせんか!!」
その姿はもはや王ではない。
怯える一人の子供だった。
その時。
「……成蟜か」
低い声が響く。
成蟜が振り返る。
遠くから近づいてくる一団。
先頭に立つ男を見た瞬間。昌文君が目を見開いた。
「成蟜……何故こんな所に」
そして全てを悟る。
「まさか」
嬴政も静かに言った。
「やってくれたようだな」
その時だった。
「ンフフフフフ」
奇妙な笑い声。
誰もが振り返る。
そこにいたのは。巨大な男。
常人より頭一つ以上高い巨体。
分厚い唇。独特の口調。
そして。
戦場そのものを支配する圧。
「王騎……」
昌文君が呟く。
明らかに空気が変わった。
秦国六大将軍。怪鳥・王騎。
その名だけで戦場が静まる。
「王騎……!」
肆氏の側近である魏興が馬を進める。
刃を向けた。
「一つ聞きたい」
怒気を帯びた声。
「何故偽りの首を差し出した」
王騎は微動だにしない。
「納得できぬ返答ならば――」
魏興が言い終える前だった。
ヒュン――
何かが閃いた。
次の瞬間。
ズバァァァッ!!
魏興の身体が真っ二つになる。
「な……」
周囲が凍り付く。
王騎の大矛。ただ一振り。
それだけだった。
馬上にいた将を一撃で両断した。
「こ……これが」
誰かが呟く。
「王騎……」
怪物。
まさしくそれだった。
王騎は何事もなかったかのように空を見上げる。
「降りそうで降らない曇天」
不気味に笑う。
「嫌いではありませんねぇ」
誰も動けない。
そんな中、王騎はゆっくり嬴政へ向き直る。
「何をしに来た、王騎」
嬴政が問う。
「少々」
王騎が笑う。
「秦王に聞きたいことがありましてねぇ」
その時。
成蟜が駆け寄る。
「王騎!!」
救いを見つけた顔だった。
「良き所に来た!!」
王騎なら。
六大将軍なら。
全てをひっくり返せる。
そう信じたのだ。
しかし。
王騎は見向きもしなかった。
「コココココ」
不気味な笑い。
「残念ですが」
視線すら向けない。
「貴方様には用はありませんよ」
「なっ!?」
成蟜が固まる。
「ふざけるな!!」
怒鳴る。
「俺は秦王だぞ!!」
王騎は嬴政へ視線を向けた。
そして、静かに問う。
「大王」
戦場が静まり返る。
「貴方様は」
王騎の目が鋭くなる。
「どのような王を目指しておられます?」
誰も息をしない。
六大将軍が王を試している。
そう理解したからだ。
だが、嬴政は迷わなかった。
一歩前へ出る。
それから、堂々と言い放つ。
「中華の唯一王だ」
沈黙。
誰も言葉を発しない。
やがて、王騎の口元がゆっくり吊り上がる。
「ンフフフフ」
笑った。
「悪くない答えです」
その目の奥に。
ほんの僅かな興味が宿る。
そして――
「あの……」
場違いな声が響いた。
「なんだ?戦が止まってるぞ」
全員が振り向く。
そこには。
本殿から出てきた風藍たちの姿。
「……?」
王騎が視線を向ける。
成蟜はその姿を見て再び青ざめた。
「ひぃぃぃ!!」
完全に怯えている。
そんな成蟜を無視し。
王騎は風藍を見る。
「お嬢さん」
「は、はい」
「お名前は?」
突然の質問に風藍は少し戸惑う。
「風藍……です」
すると。
王騎の目が細くなった。
「ンフフフ」
どこか納得したように笑う。
「なるほど、そうですか」
そして。
「貴方が風羅さんのお孫さんでしたか」
「え?」
風藍が目を丸くする。
「祖父のことをご存知なんですか?」
王騎は答えない。
ただ意味深に笑った。
そして嬴政へ向く。
「大王」
「?」
「面白い人材を揃えておりますねぇ」
その言葉には。
確かな評価が込められていた。
信。龍炎。風藍。
そして嬴政。
王騎はその全員を見ていた。
未来を見るような目で。
やがて、大矛を肩に担ぐ。
「さて」
振り返る。
「今日はこの辺りで失礼いたしましょう」
配下たちが動き出す。
「中々楽しい問答でした」
王騎は最後に笑った。
「面白い者たちとも会えましたしねぇ」
そして。
大きく手を振る。
「全軍」
声が響く。
「撤収です」
「「ハッ!!」」
一斉に動き出す王騎軍。
その圧倒的な存在感を残したまま。
怪鳥・王騎は戦場から去っていった。
残された者たちは誰も言葉を発せない。
だが――
風藍だけは感じていた。
あの将軍とは、きっとまた会うのだろうと。