戦いは終結を迎えた。
だが、広間を満たす空気は、まだ張り詰めたままだった。
床には無数の傷跡。
砕けた石畳。
流された血。
そして倒れた兵たち。
つい先ほどまで死闘が繰り広げられていた証が、生々しく残されている。
この戦いが決して喜べるだけのものではないと、そう物語っていた。
その広間の中央で縄で拘束された男が膝をついている。
王弟――成蟜。
王宮を支配し、自らを秦王と称した男。
だが今の彼に王の威厳はない。
衣は乱れ。髪は散らばり。顔には恐怖と焦燥が浮かんでいる。
彼はもう、罪人だ。
その前に立つのは、秦王・嬴政。
静寂が続き、誰も言葉を発さない。
広間にいる全員が、この瞬間を見守っていた。
やがて風藍は静かに前へ出る。
「嬴政様」
嬴政が視線を向ける。
「ご無事で何よりです」
短い言葉。
だが、その中には安堵があった。
嬴政は小さく頷く。
「ああ、お前もな」
それだけだった。
しかし不思議なことに、その一言だけで場の空気が引き締まる。
王がそこにいる。
それだけで人は安心するのだと、風藍は思った。
だが――
「何をしている貴様らァ!!」
怒号が響いた。
成蟜だった。
「早くこの縄を解かんか!!」
暴れる。
だが拘束された身体は動かない。
「離せ!!」
状況が分かっていないのか、命令するように声を荒げるばかり。
「俺は王だぞ!!」
誰も反応しない。
その様子に成蟜はようやく気付く。自分の状況に。
周囲を見る。味方の姿はない。
家臣たちは捕らえられ。
兵たちは武器も気力も失っている。
そして。
自分を見つめる視線。
その全てが敗者を見る目だった。
「ま、まさか……」
顔色が変わる。
「こんな事が、俺たちは……負けたというのか……?」
返事はない。
それが答えだった。
「き、貴様ら……」
成蟜の声が震える。
「何を黙っている!!」
叫ぶ。
喚く。
怒鳴る。
しかし誰も従わない。
その姿はもはや王族ではなかった。
癇癪を起こすただの子供だった。
風藍は静かにそれを見つめる。
(これが……王族同士の争いの結末)
本来なら兄弟。
同じ血を引く者同士。
だが、王位というものは、それすら切り裂く。
「成蟜」
嬴政が歩き出す。
一歩。また一歩。
静かに。
だが確実に、近づいている。
「く、来るなァ!!」
成蟜が叫んだ。
顔を歪める。
「下賤の血を引く貴様が!!」
怒鳴る。
「王を名乗るな!!」
その目には憎悪が宿っていた。
幼い頃から抱き続けた優越感。
王族こそ至高。血筋こそが全て。
それだけを信じて生きてきた男。
「この俺こそが真の王だ!!」
「……」
嬴政は止まらない。
成蟜が叫ぶ。
「聞いているのか!!大王であるこの俺が――」
その瞬間だった。
「言いたいことは、それだけか」
低い声。
空気が震えた。
「!」
成蟜の顔が固まる。
嬴政の目。
そこには怒りがあった。
だがそれ以上に、失望がその感情を隠せない。
「な……」
成蟜が息を呑む。
次の瞬間。
ドゴォッ!!
拳が顔面へ叩き込まれた。
「がっ!?」
広間がどよめく。
誰も予想していなかった。
王が、自ら拳を振るうなど。
だが嬴政は止まらない。
もう一歩踏み出す。
「成蟜」
静かに言う。
「お前は勘違いをしている」
拳を握る。
「生まれの良さが人の価値の全てだと」
ドゴッ!!
二発目。
成蟜の身体が揺れる。
「ぐっ……!」
嬴政の瞳が鋭くなる。
「王族だから偉い。貴族だから優れている。平民だから価値がない」
再び拳が振り下ろされる。
ドゴォッ!!
「がぁっ!!」
血が飛ぶ。
だが嬴政は止まらない。
「そんなものは幻想だ」
さらに踏み込む。
「人の価値は」
拳を握る。
「その者自身が決める!!」
ドゴォォン!!
渾身の一撃。
成蟜の身体が大きく揺れた。
広間は静まり返ったまま。
誰も声を出せない。
嬴政は成蟜を見下ろした。
「お前では王になれぬ」
低く。重く。断言する。
「絶対にな」
その言葉は拳より重かった。
成蟜は震えていた。
反論できない。いや、叫ぶことも言葉を発することもできない。
ただ。
敗北だけがそこにあった。
嬴政は拳を下ろし、広間を見渡した。
そこには無数の兵がいる。
味方も敵も、傷ついた者たちが。
「分かっているのか」
静かな声。
しかし広間全体に響く。
「お前の欲のために」
倒れた兵を見る。
「どれだけの者が死んだ」
血の跡を見る。
「どれだけの家族が泣くことになる」
誰も言葉を返せない。
嬴政の声には怒りだけではなかった。
悲しみと責任、王として背負う覚悟があった。
風藍は思う。
(この人は……)
玉座に座るだけの人じゃない。
国を背負う人だ。
嬴政はゆっくり振り返る。
そして高らかに声を上げた。
「勝敗は決した!!」
その瞬間。
全員が顔を上げる。
「これ以上の流血は不要である!!」
力強い声。
戦場全体へ響くような声だった。
「全軍に告ぐ!!」
嬴政は宣言する。
「武器を捨て投降せよ!!」
ざわめきが走る。
反乱軍の兵たちが顔を見合わせる。
「命は保証する」
その言葉に。
誰もが目を見開いた。
「なっ……」
「命を……?」
信じられない。
反乱軍、それも敗軍だ。
普通なら処刑されてもおかしくない。
だが嬴政は言った。
「必要最低限の犠牲で終わらせる」
そして。
力強く続ける。
「それが王の決断だ!!」
沈黙。
次の瞬間――
「聞こえなかったのかァ!!」
信が前へ出て剣を振り上げる。
「とっとと武器捨てて降伏しやがれ!!」
怒鳴る。
「この戦は俺たちの勝ちだァ!!」
「「おおおおおおおおっ!!」」
秦軍と山の民たちが吠えた。
その圧力に押されるように。
ガラン――
一本、また一本。
武器が落ちる。
反乱軍の兵たちが膝をつく。
そして、誰かが泣き崩れた。
生き残れたのだ。
その瞬間。
長かった反乱は終わった。
その光景を見ながら。
龍炎が小さく呟く。
「藍様」
「うん」
風藍は頷く。
「凄いね」
素直な感想だった。
龍炎も静かに頷く。
「我らとは見ている景色が違いますね。数も、そして質も」
「うん」
風藍は微笑む。
「でも」
視線の先には嬴政。
「だからこそ」
小さく呟く。
「あの人の下で戦う意味がある」
龍炎も笑った。
「ええ、そうですね」
その言葉に迷いはなかった。
「あの方が、私たちの王様でよかった」
その後。
嬴政は玉座の間へと向かう。
重厚な扉が開く。
王宮の中心、秦国の象徴。
玉座。
誰も言葉を発しない。
嬴政は静かに歩く。
そして、玉座へ腰を下ろした。
その瞬間、空気が変わった。
誰もが理解する。王が帰ってきた。
玉座を奪われた少年王ではない。
秦国を導く王として。嬴政がそこに座っている。
昌文君が頭を垂れる。壁が跪く。
山の民も、秦軍も。全員が頭を下げる。
秦王、帰還。
その事実が咸陽全土を震わせた。
宴は夜まで続いた。
酒が運ばれる。肉が焼かれる。
それから、戦士たちの笑い声が響く。
「飲め飲めェ!!」
「今日は無礼講だ!!」
河了貂は料理を抱えて走り回り。
信は肉を奪い合い。
壁は頭を抱える。
その光景を見て風藍は思わず笑った。
その時。
楊端和が隣へ来る。
「風藍」
「うん?」
「我らは明朝、山界へと帰る」
風藍は少し驚いた。
「もうですか?」
楊端和は頷く。
「ああ」
そして遠くを見る。
「まだ山界は一つではない」
王としての顔だった。
「中華へ出る時のため」
静かに続ける。
「その時までに全てをまとめ上げる」
風藍は笑う。
「そっか」
そして視線を向ける。
玉座に座る嬴政。
その傍らにいる信。
未来へ進む者たち。
「楽しみですね」
「お前も来るか?」
「なっ!? 楊端和殿!」
突然の勧誘に、龍炎は目を見開く。
「落ち着いて龍炎。私はいかないよ」
龍炎も頷く。
「え、ええ」
「私は今まで通り、こちらで頑張ります」
戦は終わった。
だが、これは始まりに過ぎない。
秦王・嬴政。元下僕の信。
そして風藍たち。
後に中華を揺るがす者たちの物語は、今ここから、本当の意味で始まるのだ。