咸陽王宮では、反乱終結を祝う宴が盛大に開かれていた。
大広間からは酒を酌み交わす兵たちの笑い声が響き、山の民と秦軍が肩を並べて戦勝を喜び合っている。
つい数刻前まで命を奪い合っていた戦場とは思えないほどの賑わいだった。
しかし――。
その喧騒から少し離れた王宮の一角。
風藍隊の陣だけは静かな時間が流れていた。
兵たちは黙々と武具を磨き、鎧を整え、馬の脚を確かめている。
勝利の宴に浮かれる者は誰一人いない。
明朝には再び戦場へ戻る。
それが彼らの日常だった。
「その槍、傷が入ってるぞ」
「ここは俺が直しておく」
「馬の蹄鉄も替えておけ。長距離になるぞ」
什長たちが兵へ指示を飛ばし、龍炎も一人一人の装備を見て回っていた。
その少し離れた場所で風藍は夜空を見上げている。
咸陽の空。
内乱が終わったとは思えないほど静かだった。
……もう帰るんだね。
王宮での戦い。
左慈との死闘。
成蟜との対峙。
そして――。
秦王・嬴政との出会い。
どれもまだ夢を見ていたような気がする。
けれど、自分たちの居場所は王宮ではない。
言うまでもなく戦場だ。
そう思った時だった。
「朝には出立するのだな」
落ち着いた声が背後から聞こえた。
振り返る。
そこには、秦王・嬴政。
その傍らには昌文君。
さらに数名の近衛兵を伴っていた。
「……大王様」
龍炎が真っ先に気付き、片膝をつく。
「「ははっ!!」」
それに続くように風藍隊三百名が一斉に膝をついた。
王が自ら兵の陣営へ足を運ぶ。
それだけで兵たちの緊張は一気に高まる。
風藍も前へ出た。
「お越しいただきありがとうございます」
嬴政は静かに頷いた。
「宴には顔を出さぬのか」
少しだけ口元を緩める。
風藍も笑った。
「兵のみんなが明日の準備をしていますから。隊長だけ楽しむわけにもいきません」
その返答に嬴政は小さく笑う。
「なるほど。お前らしいな」
昌文君も静かに口を開いた。
「見事な統率であった。勝利した後ほど兵は緩みやすい。それを理解している隊長は案外少ない。」
風藍は照れくさそうに笑う。
「お祖父様に口酸っぱく言われて育ちましたから。」
「勝った後こそ兵を締めろ、と。」
「……風羅らしい。」
昌文君が懐かしそうに笑った。
「風藍。」
嬴政が兵たちへ目を向ける。
「お前だけではない。」
「ここにいる三百名もまた、命を懸けて戦った。」
「皆、よく駆けつけてくれた。」
その言葉に兵たちの背筋がさらに伸びる。
王は一人一人までは知らない。
それでも自分たちを見てくれている。
それだけで胸が熱くなった。
「「ありがたき幸せ!!」」
三百人の声が夜空へ響く。
昌文君が一歩前へ出る。
「風藍、正直に言おう」
その表情は真剣だった。
「儂はお前を見誤っていた」
静かな言葉だが、重い。
「噂ばかりが先行していた。若き三百人将、風羅の孫、女武将。話だけならいくらでも作れる」
風藍は黙って聞いている。
「だが今回、儂はこの目で見た。左慈討伐、王宮突入、門の制圧、成蟜陣営の崩壊。その全てに、お前たち風藍隊がいた」
昌文君は深く息を吐く。
「お前たちがおらねば。反乱終結まで、さらに多くの血が流れていたであろう。……感謝する」
風藍は静かに頭を下げる。
「ありがとうございます。ですが、本来なら祖父が参戦する予定でした。私たちは代理に過ぎません。」
昌文君は首を振った。
「代理であろうと、戦場で結果を残した者こそ武将だ。その功績は消えぬ」
嬴政も続ける。
「だからこそ。今回の功績をもって、お前を五百人将くらいになら推薦してやることができるぞ」
その言葉に。
「なっ……!」
龍炎が思わず顔を上げた。
兵たちにもどよめきが広がる。
五百人将。
三百から五百。異例中の異例。
しかも十六歳の少女に対して。
昌文君でさえ少し驚いたように嬴政を見る。
だが嬴政は真っ直ぐ風藍だけを見ていた。
「どうだ。受けるか」
静寂。
誰もが返答を待つ。
龍炎に兵たち、昌文君も。
そして嬴政も。
風藍はゆっくりと顔を上げた。
「……ありがたいお話です」
「「おおっ!」」
一度深く礼をする。
そして。
「ですが、その話はお断りさせてください」
「「ええっ!!?」」
兵たちから一斉に驚きの声が上がる。
「風藍様!」
「何故です!」
「五百人将ですよ!」
「滅多にない機会です!」
龍炎も思わず声を上げた。
「藍様!私は受けるべきかと思います。功績は十分です。」
風藍は笑って首を振る。
「ありがとう。でもね」
兵たちを見回す。
「私たちは。ううん、私はまだ三百人将として学ぶ事がある」
一歩前へ出る。
「地位は誰かに与えられるものじゃなくて、戦場で積み重ねて認められた結果として掴みたい。私はそう思ってる」
静かな声。
だが、誰よりも強い決意だった。
「もしここで昇格したら。きっと私は、一生。“公にされなかったあの内乱で特別に昇格した武将”って言われ続ける」
兵たちが息を呑む。
「それは嫌なんです。私は、誰が見ても納得する武功で。上に上がって見せます」
沈黙。
嬴政はじっと風藍を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「そうか、ならば止めぬ。武で地位を掴みたいか」
「はい」
「ならば」
嬴政が右手を差し出す。
「楽しみにしている。上がって来い。風藍、お前がどこまで昇るか俺が見届ける」
風藍は少し驚き。
ゆっくりその手を握った。
「はい。大王様……、いえ、政様が中華統一へ進む時。私は必ず、貴方様の隣で戦っています」
嬴政は強く握り返した。
「期待している」
その瞬間。
王と若き将の間に、新たな約束が結ばれた。
その様子を見つめる昌文君は、小さく微笑む。
(信という剣。そして風藍という弓。大王は実に面白い人材を得た。)
その確信は、日ごとに強くなっていくのだった。