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紀元前二三六年――。
風の部族領地の一角。
朝靄の残る大地に、馬の吐息が白く溶けていく。
「藍様、準備が整いました」
静かに声をかけたのは、槍を携えた青年、龍の一族族長代理、龍炎。
その声に、少女は振り返る。
「ありがとう、龍炎」
風藍はすでに甲冑を身に纏っていた。
まだ幼さを残す顔立ちに、戦装束はどこか不釣り合いにも見える。だが、その瞳だけは違った。まっすぐで迷いがない。
「
手綱を握り、自らの愛馬へと軽やかに跨る。
鞍に収まる動きは淀みなく、日々の鍛錬の積み重ねを感じさせた。
「いよいよですね」
龍炎が小さく笑う。
「うん。いよいよだ」
風藍は空を見上げた。
雲ひとつない青空。
風が、静かに頬を撫でる。
「あの日から、七年か」
龍の一族と出会い、彼らを救ったあの日から年月は経ち。
風藍は十四歳となっていた。
この七年、彼女はただ待っていたわけではない。
「……長かったな」
ぽつりと零す。
「ええ」
龍炎が頷く。
「ですが、その分だけ積み重ねてきました。我々も藍様も」
風藍は小さく笑う。
「そうだね」
幼い頃から武将に囲まれて育った。
戦の話を聞き、陣形を学び、地図を読み、戦の流れを考える。
風羅のもとで軍師たちから軍略を叩き込まれた日々。
「ここはどう動くべきか」
「敵がこう来た場合はどう返すか」
問われ続けた時間。
一つでも誤れば即座に否定される。
だが、その全てが今の自分を形作っている。
そして、武もまた同じ。
何度も何度も引いた弓。
指の皮が裂け、血が滲み、それでも弦を引き続けた。
狙う。外す。また狙う。
やがて、私の矢は当たった。
初めて的の中心を射抜いた日のことを、今でも覚えている。
あの時の感覚。
風を読むということ。矢が“届く”という確信。
その全てが、身体に刻まれている。
「女性の身でありながら」
龍炎が静かに言う。
「藍様は誰よりも努力されてきました」
風藍は首を横に振る。
「まだまだだよ」
だが、その言葉に弱さはない。
ただの事実として受け止めているだけだ。
「龍炎も待たせたね」
ふと、そう言う。
龍炎は一瞬だけ驚いた顔をした後、柔らかく笑った。
「いいえ」
首を横に振る。
「この約七年、藍様に仕え、側近として貴方様の歩みを見てきました」
遠くを見るように目を細める。
「軍略を学び、弓を極め、戦う力を身につける。その全てが、今日のためだったのでしょう」
風藍は静かに頷く。
「うん」
龍炎は続ける。
「私もまた、風羅様の軍で実戦を経験させていただきました。戦の怖さも、重さも、多少は知っています」
その声には、わずかな重みがあった。
「それでも」
顔を上げる。
「藍様と共に戦場に立てること、心から嬉しく思います」
風藍はその言葉を受け止める。
そして、少しだけ照れくさそうに笑った。
「龍炎は、私にとって戦の先輩だよ。頼りにしてる」
龍炎が苦笑する。
「それは大袈裟ですよ」
「そんなことないよ」
即座に返す。
「本当の事でしょ」
まっすぐな目。
その視線に、龍炎は一瞬言葉を失う。
そして。
「……は」
静かに頭を下げた。
「この命、藍様に」
拝手する。
風藍は満足そうに頷いた。
「うん、よろしくね」
私たちの所属は、風羅軍第三軍。
その中でも、風藍が率いるのは。
風の部族二十。龍の一族三十の計五十名。
全員が騎馬で編成された、小隊。
だが、その一人一人が精鋭だった。
「藍様の身分であれば」
龍炎がふと思い出したように言う。
「初陣から百人将でもおかしくないはずですが」
風藍はくすりと笑う。
「それ、みんなにも言われた」
「ですが……」
龍炎が首を傾げる。
「私がお祖父様にお願いしたの」
「……え?」
「五什長からやらせてくださいって」
龍炎の目が見開かれる。
「本来、初陣は一兵卒からでしょ? だから、その中で学びたいこともあった」
風藍は前を見据える。
「でも、一兵卒から初陣に参戦するのは断られたの」
「……当然です」
「ふふっ、でもね上からじゃなくて、下から見る戦場も知りたかったんだ」
その言葉に、龍炎は言葉を失う。
この方は……。
ただの“お嬢様”ではない。
戦を理解しようとしている。
そのために、自ら下へ降りた。
「……さすがです」
小さく呟く。
風藍は気にした様子もなく、手綱を握り直した。
「それじゃ、行こうか」
その声は、いつも通り。
だが、その一言に全てが込められている。
「「は!」」
五十騎が一斉に応じる。
次の瞬間――
ドッ!!
大地を蹴る音が重なった。
風藍を先頭に、五十騎が駆け出す。
風が巻き起こり、砂が舞い上がる。
その中心で、風藍は前だけを見ていた。
“将軍の景色”
その夢に向かって。
一歩目を踏み出す。
こうして、風の部族の少女、風藍の初陣は静かに、そして確かに幕を開けた。