8000歳の『豚の帽子亭』のマスター 作:三日坊主の三太郎
「ついに!遂にこの日が来た!!」
彩葉は先ほど買ったばかりの買い物袋を抱きしめる。
中には、スマコン、仮想空間「ツクヨミ」に没入できるコンタクトレンズ型デバイスが入っている。本体価格は12万もする。薄い楕円形のケースに収められたそれは、見た目だけなら普通のコンタクトレンズと変わりない。しかしこの小さなレンズの中に、現実と見紛うほどの世界が詰まっていると思うと、手が震えた。
生活費も学費も全て自分で賄わなければいけない苦学生からすれば、痛すぎる出費だ。しかし、これがあれば、よりリアルな自分の推しと会える。そう考えると実質ダメージ0。
あの馬鹿マスターに毒されたのか、はたまた元から頭のネジが緩かったのか、そんなギャンブル中毒者のような言い訳を頭に、彩葉は浮き足立って自宅に向かう。
自宅に着くと、早速スマコンを装着してログインする。
ログインすると、現れたのは酒場でライブを観たときからの永遠の彩葉の推し、月見ヤチヨだった。
「ーー太陽が沈んで、夜がやってきます。でも!出掛ける前に、その格好じゃあつまらない!」
目の前にキャラメイクのウィンドウが表示されるが、彩葉にとってはそれどころではない。目の前にヤチヨがいる。生ヤチヨがいる!頭では、それが本物ではない事なんてわかっている。しかし、推しを目の前にしたオタクは総じてIQが激的に下がるのだ!
「や、やや!ヤチッ…はぁーはぁーこひゅ!コヒュ!」
あまりの興奮に、彩葉が呼吸困難に陥る。
「大丈夫彩葉?」
ヤチヨが心配そうな顔で、呼吸困難に陥っている彩葉の顔を覗き込む。
それによって彩葉は、自分がヤチヨを心配させていることに気づいた。
「はい!大丈夫です!今大丈夫になりました!」
彩葉の背筋が自分がでも驚くほど伸び、反射的に敬礼のような姿勢になってしまう。
「そっか!じゃあそこのウィンドウで自分のキャラを作ってね!」
「イエッサー!」
そのときの彩葉の指の動きは、光すらも置いてきぼりにした。
キャラメイクが終わると、ツクヨミに飛ばされた。
「ヴエエ!!」
何かに躓きはちゃめちゃに転ぶ。倒れた体を起こして、顔をあげるとそこに広がっていたのは、現実ではあり得ないほど澄み渡った夜の街だった。
空は深い群青色に染まり、無数の星が宝石のように瞬いている。街灯は柔らかな琥珀色の光を落とし、石畳の路地を優しく照らしていた。遠くでは楽器の音が微かに響き、誰かの笑い声やグラスの触れ合う音が混ざり合って、夜そのものが呼吸しているかのような空気を作り出している。
彩葉は呆然と立ち尽くした。
「これが……ツクヨミ……あれ?さっきヤチヨ私の名前呼んだ?」
頭が正常に戻り、先程までの記憶を振り返っていると、一枚のチラシが空から降って来た。
そのチラシを手に取って読んでみると、
「『豚の帽子亭。初心者の方はバーニャエール半額』?」
「え゛?」
〆
彩葉がスマコンを買う少し前。と、かぐやがヤチヨとしてライブをする少し前。
メリオダスのスマホがバイブレーション機能により、持ち主に通知を知らせた。
このマスターのスマホは、昔の看板娘に買えと言われたので一応買ったが、連絡先にはその娘しかおらず、ゲームや動画も見ないので、豚に真珠というように、無用の長物になっている。
しかし、そのおかげか、たまになる通知音には敏感に反応する。
「ん?」
ポケットからスマホを出して、通知を確認する。そこには『夢がちょこっとだけ叶ったから見に来てよ!』と親に良いテストの結果を見せる子供のような文章が書いてあった。
メリオダスはその文を見て、嬉しそうに顔を綻ばせて、返信を打つ。
『行けたら行くわ』
そう送った直後に着信がきた。
「行けたら行くわって何!?絶対来てよ!絶対だよ!!」
スマホ越しでも分かるくらいの大声が耳に飛び込んでくる。メリオダスは思わず端末を耳から離した。
「うるさ」
キーンとする耳を小指でほじる。
「うるさくない! ……来てくれるんでしょ?」
一転、急に声のトーンが落ちる。さっきまでの勢いはどこへやら、今度はまるで捨てられそうな子犬みたいな声になっている。
「行くっつったって俺は場所が何処かわからねえぞ?」
「あ!それは大丈夫!まず12万円で…」
ブツ
12万円と言い切ったところで通話を切った。前も言った通り、『豚の帽子亭』は結構カツカツなのだ。そんな中、ポンっと12万円を用意できるわけがない。
一応、メリオダスの趣味に使っている金を回せば余裕で用意できるが、この男、そんな事をする気は毛頭ないのである。
着信音が店の中を響くが、無視を貫き通す。
今は平日の昼間なので、彩葉は当然客もいないので、メリオダスが無視を貫き通すための環境が完全に整っていた。
着信は十数回を数えたところで、ようやく止んだ。
静寂が戻った店内で、メリオダスはカウンターを拭きながら、これで終わりだと思っていた。そう、思っていたのだ。
———バンッ。
勢いよく何かが扉に当たる音がした。
メリオダスはゆっくりと扉を開ける。
扉の前には、プンスコという擬音が似合う表情をしているウミウシの姿をした元看板娘…かぐやがいた。
「電話出ないから来ちゃった☆」
メリオダスは勢い良く扉を閉めた。
「あー!!待って待って!閉めないで!12万円無くても良いから!」
「何してんだ。早く中入れよ」
ぶつくさ言いながらも、かぐやは店に入ってくる。相変わらず周りも照らすような天真爛漫な笑顔を張り付けたまま、カウンター席にするりと腰?を下ろした。
「んで?俺はどこに行きゃ良いんだ?」
「ふふん!どこにも行かなくて良いのだ!そう!これを着ければね!!」
そう言ってかぐやは、どこからか小さなケースを出した。
「テレテテッテテースマコン〜」
かぐやは胸を張り、どこか聞き覚えのある効果音を自分の口で再現しながら、両手でそれを掲げた。小さな楕円形のケースは、店内の照明を受けて鈍く光り、妙に仰々しく見える。安っぽい登場の仕方とは裏腹に、それがただの小道具ではないことだけは、妙な存在感から伝わってきた。
メリオダスは半目のまま、それをじっと見下ろす。視線には露骨な警戒と、ほんの少しの嫌な予感が混じっていた。
「……名前からして嫌な予感しかしないな」
「失礼な!今世界中で話題の最新デバイスだよ!?知らないの!?」
「知らね。必要ないからな」
即答だった。
かぐやはショックを受けたように肩を落とし、大げさに天を仰ぐ。
「時代に取り残されてるよマスター……。ほらこれ、仮想空間《ツクヨミ》に入れるやつ!現実とほぼ同じ感覚で遊べるの!触れる!歩ける!歌える!泣ける!」
「なら現実でいいじゃん」
「そういう話じゃないの!」
かぐやが腹に向かった突撃してくるが、メリオダスは椅子ごと少し後ろへ体を引くことによってそれを避けた。
かぐやは口をぷっくらさせて遺憾の意を示すが、すぐに切り替えてケースを開く。
ぱちん、と軽い音。
中には二枚のレンズが収まっていた。透明で、薄く、あまりにも普通すぎて、逆に現実感がない。こんな小さな物で世界が変わるなど、にわかには信じ難かった。
だがかぐやの目だけは、本気だった。
冗談を言う時のきらきらした光ではない。何かを達成した人間特有の、抑えきれない期待と誇らしさが宿っている。
「……夢、ちょこっと叶ったんだろ?」
メリオダスがぼそりと呟く。
かぐやは一瞬だけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。だから最初に見せたい人、メリオダスがいいなって思って」
その言葉は、あまりにも自然で、純粋なものだった。
店内の空気がわずかに静まる。昼下がりの酒場には客もおらず、外から聞こえるのは遠くの車の走行音と、風に揺れる看板の軋む音だけだ。
メリオダスは頭をかきながら、視線を逸らした。
「……別に俺じゃなくてもいいだろ」
「よくないの」
即答だった。
さっきまでの軽い調子とは違う、妙に真っ直ぐな声。
その温度に押されるように、メリオダスは小さく息を吐いた。
「で?これ付けりゃいいのか」
「そうそう!すぐ終わるから!痛くないよ!」
「注射じゃねえんだからその説明やめろ」
ぼやきながらも、差し出されたレンズを指先でつまむ。想像していたよりも軽く、存在していないかのような薄さだった。ほんの少し力を入れれば壊れてしまいそうで、逆に扱いに困る。
鏡代わりにスマホの黒い画面を使い、慣れた手つきで目に装着する。
片目。
そしてもう片方。
瞬間——
視界が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
メリオダスの立っていた酒場は、跡形もなく消えていた。
「なんだ…ここ…」
「へへーん。どう?すごいっしょ!」
「いや。凄いって言ったってここ
真っ白じゃん」
あたり一面に広がるのは、白い世界。いや、雪とかの比喩では無くマジでただ白いだけの世界。
境界も奥行きもなく、ただ均一な白がどこまでも続いている。目を凝らしても焦点が定まらず、距離感が狂う。立っているはずなのに、浮いているような奇妙な感覚が足裏をくすぐった。
「今はまだ。ね!ここからどんどん賑やかになって行くよー!」
メリオダスが声の方向を向くと、先ほどまで店の前でぷりぷり怒っていたウミウシの姿はどこにもない。代わりに立っているのは、見覚えがあるようでいて、決定的に知らない少女だった。滑らかな長い髪が光を受けて揺れ、白い空間に淡く影を落とす。肌の質感は妙に現実的で、呼吸に合わせて胸元がわずかに上下しているのが分かるほど精巧だ。作り物のはずなのに、存在感だけは生身以上に強かった。
かぐやはくるりとその場で回る。
髪がふわりと広がり、見せつけるようにポーズを決める。自分の変化を褒められるのを確信している子供のような、隠しきれない期待が表情に滲んでいた。
「惚れても良いんだよ♡」
得意げにウインクを決める。
だがメリオダスの反応は、一拍遅れてからの「だれだ?」だった。
「ひどー!8000年も一緒だったのにかぐやのことわかんないの!?」
「俺が知ってるのは、わがままで考えなしのウミウシのかぐやだな」
かぐやが「ひーどーいーよー」と自分の肩揺らすのを止めさせて、メリオダスは話を切り出した。
「で?俺をここに連れて来たのはなんでだ?本当に夢がちょこっと叶ったところを見せたかった。ってわけじゃねえだろ?」
「う〜ん?えっと…なんだっけ?」
「……」
「あー!!待っひぇ!ほっぺひっぱらひゃいで!おもいひゃしたから!」
メリオダスは無言でつまんでいた頬を離す。かぐやは両手で自分の頬をさすりながら、わざとらしく涙目を作った。
「暴力反対……痛覚フィードバックは無くても、心は傷つくんだからね?」
「愛の鞭ってやつだ」
「絶対違うでしょ!?」
白い世界に二人の声だけが響く。音は不思議と反響せず、吸い込まれるように消えていく。
かぐやは一つ咳払いをして、改めて背筋を伸ばす。
「本題ね。本題。夢がちょこっと叶ったって言ったでしょ?」
「言ってたな」
「でも夢が完全に叶うのはまだまだなの。もっとこのツクヨミにいろんな場所を作らないと。そこでね!メリオダスにはいろんな人が集まって交流し合う酒場のマスターをやってほしいなって!現実でもやってるんだし簡単でしょ?それにメリオダスならずっとそこでマスターできるしね!」
かぐやは両手を胸の前でぱん、と合わせる。期待に満ちた目がまっすぐメリオダスを射抜く。「メリオダスならやってくれるよね?」という声が、その視線から伝わっていた。
メリオダスはしばらく黙ったまま、周囲を見渡した。
「つまり、ここで店やれってことか」
「そう!」
かぐやは勢いよく頷いた。長い髪がふわりと揺れ、白い空間に淡い軌跡を描く。
「ツクヨミってね、まだ“場所”が足りないの。ライブ会場とか戦闘エリアとか、そういう派手なのは作ろうって言われてるんだけど、まだみんなが帰って来れる場所は案にないんだよ。なんていうか……拠点?居場所?そういうの!」
言葉を探しながら両手を動かす仕草は、昔と何も変わっていない。8000年前に初めて会った頃と同じ、少し不器用で、それでも伝えようと必死な動きだった。
「だから、メリオダスにやってほしいの。誰でも来れて、騒いでもよくて、ちょっと疲れたら座れる場所。……わたし、あの店好きだったから」
最後の一言だけ、少し小さくなる。
「別に良いぜ。でも酒場の名前は『豚の帽子亭』で、でっけえ豚の上に建てる。そこだけは譲れねえぞ」
間髪入れずに返ってきた条件に、かぐやは一瞬きょとんと目を瞬かせたあと、ぱあっと顔を輝かせた。
「いいよ!!むしろ最高じゃんそれ!!」
こうして、ツクヨミにも変テコなマスターが経営する変テコなネーミングの変テコな酒場、『豚の帽子亭』ができるのだった。