10時すぎに起きて部屋を掃除した。洗濯は昨夜済ませてある。
昼に食べるものを買い出しに行きがてら、銀行に寄って金を下ろす。
アメリカでクレジットカードをちょこちょこ使っていたので先のことを考えて通帳記帳する。ジャージャーと印字をする機械音がして通帳が吐き出される。
通帳には見慣れない印字があった「コクサイソウイキン」とある。150万円。
え?なにこれ?新手の詐欺かなにかか?
すぐにアズマ教授に連絡をする。どんなお金かわからない150万円が海外から振り込まれているけれど心当たりはあるかと尋ねると、全くないとのこと。NSAが検査協力費を出すことはあるかと訊くと、そういった契約もなかったらしい。
えー、なにそれこわい…この金には絶対手を付けないようにしようと思った。
食材を買って喫茶店に行く。買ってきたのはベーコンときのこのガレットを作るための材料だ。まだ昼まで少し時間があるのでネットでレシピを調べて、自分で食べるものを作ってみる。ホワイトソースはレトルトだけど。
食ってみた感想は、改良の余地ありありありありアリーデベルチ!だった。
食い終わる頃にクスメギとアヤママがやってきた。
喫茶店にやってきたクスメギとママに「いらっしゃい」と声を掛けると「ハナちゃん本当にこのお店を始めるのね」とママに微妙な顔で言われた。
まだ営業許可も取っていないしガレットだってあのザマだ。店を開けるには100年早い。がんばってこの店に相応しいレベルにならないと。
「おれも座りたいからそっちに座って」とテーブル席に座ってもらった。
そして「素人のうまくもなんともないガレット食う?」と尋ねると、食べる食べるというので、順番ねと言って、さっきの工程で二枚焼いて二人に食べさせた。
二人とも美味しいと口にしたが、それはマスターのやつを食ってないからだ。
珈琲を3つ勘で淹れてテーブルに持って行き、二人の前に座る。
「さて、ママはアサガオさんのこと、こいつから何か聞いている?」
「アサガオさん?もしかしてサトルさんが女王って言っていた人?」
サトルさん… クスメギってサトルって名前だったんだ。初めて知ったよ。
「彼女のこと伏せたまま話できないんだけど、喋っちゃっていい?サトル君?」
「あんたに下の名前で呼ばれると気持ち悪いな…いいよ喋っても。アヤさんはそこらで洩らすような人じゃないし」
アヤさん… 本名だったんだ。初めて知ったなあ。なんか蚊帳の外だなあ。
「えーと、それじゃあ検査の話からね。月曜がMRIと脳波の検査で~」
検査内容について話をした。体力測定とメディシンボールの話は鉄板だった。
脳波検査がいろいろの引き金になることはとりあえず言わなかった。
ただ、日本での検査と似たような結果が出ていたと説明した。
そしてヨハンソンの話をした。彼がゲイだということは言わなかった。二人には関係ないし。とにかくHIVウイルスについて教えてもらって一緒に退治したと話した。
「ちょ、ちょっと待って。あんた医療行為みたいなことまで手を出してるのか?」
「ああ、うん。何をどうすればいいのかしっかり教えて貰わないと無理だけど。こっちにいる間に勢い余って癌の除去したけど転移細胞見逃して根治できなかった」
「ねえ、その癌の患者さんて、もしかしてここの店主さんじゃない?」
「えっ?」なにかまずいことでも起きたのか?
「昨夜聞こうと思っていたのだけど、店主さんの病院へ一人で行ったのでしょう?」
「はい。ここを買うって話になったときに、店主さんが元気になるのが一番いいと思って… 人の身体の中の細胞を触るのは前にやったことがあったから…」
「そう、勘違いしないでよく聞いて。店主さんね、お年明けぐらいに亡くなったの」
すーっと全身の血が足元に落ちていく感覚がある。店主さん…死んじゃった…
「それでね、このビルのオーナーさんがお葬式に行ったときに、娘さんから聞いたんだって。あのチョンマゲの兄ちゃんが病院に来て祈ってくれたから少しだけ長生きできたって、息を引き取る前にそう言っていたんだって」
あのとき店主さん気付いていたのか…
でも感謝されるようなことはできていない。本人の意思を無視して勝手にやって中途半端で満足した挙句に死んじまった。感謝なんかされる資格は…店主さんがカウンターの向こうで微笑んでる顔を思い出して涙が止まらなくなった。
アヤママが隣に来てよしよししてくれている。昨日もアサガオさんにされた。
おじさんなのになんだか泣いてばっかりだな。
「すみません、ちょっと顔洗ってきます」そう言って厨房で顔を洗った。
席に戻って成田空港でアサガオさんに言われたことを話した。できるのに覚悟がなくてやらないのは偽善だって言われたこと。その言葉があったからヨハンソンのカミングアウトを聞いて一緒に戦わないかと言ったと。
「昨夜から貫禄っていうか余裕を感じてたけど、この歳になっても成長してるんだな。見直したよ。すげえよあんた」
「たったいま、みっともなく泣いてたけどな」
果たしておれは奴が言うように成長しているのだろうか。
能力の使い方は経験で広がっているけれど、人として成長している実感はない。