結ぶと解く   作:ながずぼん

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第175話 師匠と胃袋

 アサガオさんたちが地元に来てから3回目の日曜日になる。最初に会ってから一度も顔を見ていない。まさか黙って去るわけないよなと思いつつ、少し不安に。

 ガレットの生地は殻入りの蕎麦粉、挽きぐるみを使って修行をしている。

 火加減や水加減、タネを冷蔵庫で寝かしたり、牛乳を入れたり、試行錯誤してやってはいるものの、最早毎日食いすぎて正解の味がどうなのかわからなくなっている。

 目指すアズマさんの味もすっかり忘れて迷走中だ。助けてアズマさん…

 

 悲痛な心の叫びが届いたのか、12時過ぎに二人がご来店。

 「いらっしゃい」も言わず「おれもう味がなんだかわからなくなっちゃって…」とアズマさんに泣きついた。彼はさっそく厨房に入りおれが作ったタネで一枚焼いてくれた。

 焼き加減はおれのとそんなに変わらない。味もおれの作るものと大差ない。

 

「どうですか?おいしいですか?」と問われ「わかりません…」と答えると「あと一息のところまで来てますよ」とジイジの笑顔を向けられた。

「いまから魔法を使いますから見ててくださいね」と言われ彼の一挙手一投足に注視しているとタネの中に塩をぱらぱらっと少し足した。それを混ぜて焼いて、どうぞと渡され食べてみると、さっき食べたのより数倍おいしい生地になっていた。

「塩だけですか?」と尋ねると「塩だけです。味が薄くてわからなくなってしまったんでしょうね。具材によってはさっきぐらいの方が合うかもしれませんが」と教えてくれた。膝に頭をつける勢いでお辞儀をして感謝を述べた。

 

「それで、なにか食べさせてもらえるのかしら?」

 

 蚊帳の外に置かれたアサガオさんが不満げに昼飯を出せと言う。

 

「ちょっと待っててくださいね。すぐ作ります」

 

 塩を追加したタネを使うとしたら、具の味を想定より少しだけ薄味にしたほうが良さそうだった。具は生ハムの塩気に頼る作戦にした。

 茹でたアスパラに塩を振ってニンニクと弱火で炒め、焼いた生地の上に乗せる。水に通した新たまねぎを被せてサワークリームを薄く乗せる。生ハムを千切って入れて火が通る前にさっさと畳む。真ん中に格好つけてルッコラを突っ込んで完成。

 試食したいところだけど腹ペコが待っているのでカトラリーと一緒に持って行く。お好みでどうぞ的に黒コショウの入ったミルを添える。

 

「現時点での実力です。食べてみてください」そう言ってカウンターに下がる。

 

 アサガオさんはまず真っ二つに切った。迷わず半分にした。

 おいしくなかったときにアズマさんに作ってもらための腹の具合の保険か。

 いよいよ食べ始めたら黙ってぱくぱくと食べている。結構なハイペース。

 半分を食べ終わったらアズマさんにあげるのだと思ったら残り半分には黒コショウをガリガリと掛けて食べ始めた。結局、黙ったまま完食した。

 

「90点ね」と言われた。それは及第点なのか?

 

「お腹を空かせすぎだからマイナス10点よ。空腹は最高のスパイスって言うじゃない?そんなズルして100点にするのはダメだから90点よ」

 

「てことは、なにをすればよかったんですか?前菜のサラダとか?」

 

「さっさと作ってくれたら100点よ。ようするに味に文句ないわ。京都にあなたが来たときにも思ったけど、意外とこういう地味な修行をがんばれるのねあなた」

 

「そんなの、あなたに旨いものを食わせたいからですよ」

 

 そう言うと、見たこともないほどアサガオさんが赤くなった。そして…

 

「それは彼女にとっての殺し文句ですから、二度と口にしないでください」

 

 アズマさんに後ろからボソっと言われた。まじで殺されるかと思った。

 

 アズマさんがアサガオさんから離れないのは運命に導かれし執事なのだから当たり前として、アサガオさんがアズマさんを離さない理由がはっきりとわかった。

 がっしりと胃袋を掴まれているからだった。そして彼はそれを自覚している。

 ヨハンソンの快気祝いのときにメモを取っていたぐらいだし。

『彼女に旨いものを食わせる』それが彼の自身に課した使命であり矜持だった。

 

「アズマさん。おれあなたの料理に向き合う姿勢に痺れました。これから勝手に師匠って呼びますから。やめてくれって言っても呼びますから」

 

「ははは。こそばゆいですが、長年積み重ねてきたものを評価されるのは嬉しいものですね。科学知識は私自信が会得したものではなかったですが、料理なら私の言葉で教えられます。なにか、救われたような気持ちですよ。ありがとう、ハナダさん」

 

「実を言うとね、あなたが『生きることは食べることだ』って言ったときに、ああ、私は最後の男の選択を間違ってなかったんだって思ったの。私はタダヒトさんのご飯を死ぬまで食べて生きるのよ。それってすごく幸せよね。ふふふ」

 

 食後の珈琲も師匠に淹れ方を改めて教えてもらって淹れた。

 当然アサガオさんも満足そうだ。ついでにレディーボーデンも出すと、すごく嬉しそうに食べていた。よそっただけなのにすげえなレディーボーデン。

 

 それでこの街はどうだったか尋ねると「悪くはないわ」という評価だった。

 おれは去るわけだし、どうしてもこの街に住んで欲しいわけじゃなかったからそれ以上は訊かなかった。この二人は車乗らないみたいだから不便だろうし。

 

「さて、お腹も膨れたしそろそろ行くわ。あなたが旅立つ前にもう一度来るわね」

 

「はい。どっちにしろ師匠からの情報がなければ旅立てませんから。それまでに腕を磨いておきます。二人とも気を付けて旅を続けてくださいね」

 

 店を出て行く二人を見送り食器を片付けた。次に会うのは冬だな。

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