9時、携帯のアラームで起きる。目が半分しか開いてないままコタツにいる二人に向かって「おはよう」と声をかけ、昨夜の仕返しとばかりに目の前で素っ裸になって熱めのシャワーを浴びるとようやく目が覚めた。
素っ裸でシャワーから出るとアサガオさんにガン見されていてこっちが恥ずかしくなった。あのおばさん耐性ありすぎだろ。
「忘れ物はないかしら?」と訊かれ「もう全部スーツケースに入れてあります。登山用品は東京で買うから中身スカスカだけど」と答える。
「珈琲を飲む時間はありますか?」と師匠に言われ「そうですね、11時のバスなのでまだ余裕あります」と言うと「じゃあ下でお茶にしましょう」と誘われて喫茶店へ降りる。
師匠の淹れてくれたフレンチコーヒーは、店主さんの淹れてくれたのと同じぐらい美味しかった。「これも最後なのか」と思わずこぼすと、師匠はいつものように孫を見る目で「豆は向こうでも売ってるはずですから精進してください」と微笑んだ。
アサガオさんからはエルリカさんに依然動きがないと教えてもらった。
「彼女に会ったら、あのとき置いていってごめんねって言っていたって伝えて」
「嫌ですよ。そんなの他人から聞かされて納得する子供は宇宙に一人もいませんよ。それはアサガオさんが直接言わなきゃ意味がないです。ここに来るようには言いますよ。1500年の女王がなにを弱気になってるんですか、相手は自分の娘なのに」
「そうね、そうよね。直接謝らなくちゃいけないわね。もし謝っても許してくれなかったら脳に直接謝罪を植え付けてやろうかしら。あははは」
不意に弱気になった彼女だったけれど、すぐいつも通りに戻ってくれて安心した。
高速バスに乗り込む時間が迫るにつれ焦燥に駆られる。やり残したことは?言い忘れていることは?こんな特別なお別れは体験したことがない。
2杯目の珈琲を飲み干したら、勤めて明るく「じゃあ行きます」と言って荷物を取りに行こうとすると、アサガオさんに抱きつかれた。
「こちらの世界にやってきたのがあなたで本当によかった。1500年、タダヒトさんと巡り合うのを待って、そしてあなたに繋がるのがわたしの運命だったと信じられるわ。ありがとう。Wenn du zurückkommen kannst, komm zurück」
彼女はぽろぽろと大粒の涙を流してそう言ってくれた。最後にわからない言葉で何かを言われたのだけど、だいたいの想像はつく。言いたくないけど言わずにはいられなかった彼女の気持ちが本当に嬉しくておれも泣いていた。泣いたっていいだろう。
彼女が身体を離すと今度は師匠とハグをした。初めてかもしれない。
師匠の身体は歳の割にがっしりしていて、好々爺みたいな風貌からは想像できないほど強そうだった。あの山荘を上り下りしていたからかもしれない。
「私からは、とにかく感謝しかありません。彼女の願いは私の願いでもありましたから。ウルグアイで会ったのがついこの前のように思いますが、私の心配が無用なほどあなたは良い人間だった。そして人はいくつになっても成長できるのだとあなたは教えてくれました。私はこれからの人生を彼女とこの店に捧げますから安心して。どうかお元気で」
おれは師匠にそこまで褒められるような立派な人間じゃない。だけど、彼に失望されないようそういう人間であるように生きていきたいと思った。
「あははは。キリがないから行きますね。あ、見送りはいいですからね、バスの中で恥ずかしいことになるから。二人ともこの街に来てくれてありがとう。いつまでも仲良く元気で」
そう言って店を出て部屋から荷物を取って下に向かう。喫茶店の中を覗くと二人が手を振っているので数秒足を止めて手を振る。そして足元だけを見て階段を降りた。
スーツケースを転がして駅前のバス停に着く。出発の15分前。
煙草を吸おうと思って少し離れた広場の方へ行くと、広場の隣の駐車場からクスメギとアヤさんがこちらに歩いてくるのが見えた。
「どこまで水臭いんだよ!あんたは!!」
結構遠目からクスメギが叫びながら来る。完全に喧嘩腰だ。また殴られるのか?
そう思っていると奴を追い越してアヤさんが駆け寄ってきて頬をビンタされた。
え?えええ?なにこの暴力夫婦。こわいんだけど…、つかすぐそこに派出所あるけど捕まったりしないのかな。
「黙って行くなんて!バカっ!ハナちゃんのバカ…寂しいって言ってたのに…」
アヤさんは泣きながら弱弱しくおれの胸を叩いている。そして気が済んだらぎゅっと抱きついてきた。おれはアヤさんの髪をよしよししながら正直な気持ちを言った。
「二人にもきょう会いたかったけど、会ったらほら、こうなっちゃうじゃん!おれこれからバスに乗って東京まで行くんだよ?こんなメソメソのおじさん気味悪いじゃん。だからこっそり行こうとしてたのに…格好つけさせてよ…」
「ダメよ。私をこんなに幸せにしておいて最後にお礼も言わせないだなんて。ハナちゃんに出会ってから私の人生は想像もできなかったことばっかりになったわ。嬉しいことばっかりに。本当にありがとう私の前に現れてくれて。いつか戻ってきてね」
アヤさんはさっきひっぱたいたおれの頬をやさしく撫でてくれた。
交代するようにクスメギが目の前に来るとあばらが折れる勢いでハグしてきた。
「俺は…俺は、さよならは言わない。あんたはいつか戻る。向こうで家族に会って、家族と一緒に遊びに来い。あんたならできるって信じてる。だから行って来い。戻ってくるのをアヤさんと待ってるから。飯作って待ってるから」
「おまえまで泣きやがって。どうすんだよこれ、サングラスとか持ってねえんだからな?あとな、帰れるかどうかもわかんねえのに戻って来いとか無茶だろ。けど、散々世話になったおまえの頼みだからやれるだけはやってみるよ。いままでありがとな」
バスが到着した。その場で二人に別れを告げて急いで乗り込む。
いろいろ思い出すとまた涙が零れるから、目を閉じてハワイのことだけを考えた。
第九章【継承編】了