神はサイコロを振らない。
アインシュタインがそう言ったのはおれでも知っている。それがどんな意味の言葉だったのか知ったのはこっち東京での学者先生たちとの会話でだったけれど、量子論にかかればおれが引き起こしたタイムリープまで一応科学として説明できてしまうのだから否定したくなる気持ちはよくわかる。
「そろそろ寝ようと思うけど、その前に一つだけ教えてくれ。おまえこの部屋に来てからいきなり自分の話をしだしたけれど、どうしてだ?旅の仲間として理解を深めたいってことか?」
「フェアじゃないからだ。いずれ私はお前の全てを知る。そうでなければお前を元の世界に送ることはできないからな。だから先に私の全てをお前に教えようと思った」
おれの全てを知る?じゃなきゃ帰れない?それってどういう意味なんだ?
それについて訊ねようとしたけれど、エルリカは「寝る前にランプを消してくれ」と言ってベッドで横になり、まるでスイッチを切るように彼女は眠ってしまった。
ホヤの上から中に向かって息を吹きかけるとランプは消えて部屋は真っ暗になる。
目が慣れるまで待って、ベッドまで移動してエルリカの隣で横になる。
ベッドの領土境界線にはちゃんと杖が置いてあった。雑なんだか思慮深いのか。
ハードな山登りと魔法バトルのおかげか、目を瞑ると意識がすーっと闇に溶けた。
―――――
目が覚めると一瞬ここがどこなのかわからなかった。通路の方から部屋に薄明かりが差し込んでいるのを見て、ワイアレアレ山の洞窟であることを認識する。
左肩の辺りが温かくてそちらに目をやると至近距離にエルリカの顔がある。
めっちゃくっついて寝てる。領土侵犯も甚だしいと思ったら杖はエルリカの向こう側に移動されていた。
薄いシーツのような布切れ一枚じゃ確かに寒いのはわかるが、いくらその気がなくても身体が反応してしまうのでそっとベッドから抜け出る。
この棲み処に来てからあまり水分は摂っていないが出るものは出るので外へ。
洞窟の外に出ると、早朝ではなく日が登ってから結構経っている明るさだった。ただ、辺りは真っ白でまじで半径50cmぐらいしか視界がない。
ここはまさに雲の中のようだった。足を踏み外さないように左手を岸壁に沿わせながら濃霧の中を小便ができそうな場所を目掛けて歩く。微細な水の粒が身体に触れて顔も髪もびしょびしょになっていく。
するとちょっとした崖のような場所に辿り着いたので用を済ます。谷底へ落ちていく小便を眺めながら、あいつトイレとかどうしてんだろうなと不思議に思う。
用を済ませたら右手を壁に沿わせて来た道を戻る。途中でいい感じの水たまりがあったので手を洗ってピッピと水を払う。少し進むと右手に洞窟の入口があり、中へ入って部屋へ戻る。エルリカは起きていて「お前、どこに行っていた」と尋ねてきた。
「トイレだけど」と答えると「場所は知っていたのか?」と言われ「は?なんの話だ?」と訊き返すとトイレは所定の場所があるらしい。水洗化もしているそうだ。
場所は後で教えてもらうとして、きょうの予定を訊ねると、ひとまず買い出しに出て夕方までには戻るから、おれは洞窟の外で一人で訓練をしていろと言われる。
そしてトイレは所定の場所で済ませるよう強めに言われる。
「知らなかったんだから仕方ないじゃないか。洞窟の中でされるよりマシだろ?」
「お前は招いた客がトイレの場所がわからないからって庭で糞尿を垂れるのを仕方ないで済ませられるのか?」
「ああ、いや…、そうだな、すまん。訊ねるべきだった。庭で小便してごめん」
こんな山の上にトイレがあるなんて思わないじゃん普通。あるなら言えよ!と思いつつも、確かにその可能性を考慮しなかったおれも悪いと思い謝った。
「初犯だから執行猶予としてやろう。それでお前の訓練なのだがまずは能力の精密操作を会得してもらう。ソルベレ粒子は対象全体に作用させると無差別に構造を崩すからな。構造の中で特定の結合だけを選択的に切断する技術がなければ情報構造は扱えない」
ヨハンソンのHIVを連鎖のように解いたときに、確か「情報構造そのもの」って言われた気がする。あの連鎖反応をやっちゃいけないということか。
「わかった。それで具体的にはなにをどうすればいいんだ?」
「雨粒を霧に変える。ウォーターウィップやアイズジャベリンを霧散させたように水分子を気体にするように分解してはだめだ。あくまでも水滴をもっと細かい霧状にする局所的で精密な干渉の訓練だからな」
「気体にしちゃダメで霧にする?おれが触ると気体になっちゃうんだけど…」
「よく観察して、解くという意味をよく考えろ」
エルリカはそう言ってまずトイレに案内してくれた。洞窟から出た右手の奥に岩をくり抜いたようなアルコーヴ状の窪みがあり、中に岩に穴を開けた便座らしきものがある。しかも穴の下にはちょろちょろと水の流れがあって水洗になっている。
「これ、うんことか滝からそのまま下に流れ落ちるわけ…?」
「………、この水は一度山に浸透する。一日に数回程度なら詰まりもしないし固形のまま滝を落ちたりしない。しかしお前は本当にデリカシーというものがないな。言うことがまるで子供だ」
トイレの説明が済んだらエルリカはさらにここへ来たときの洞窟から離れるように歩いて行く。霧が濃く1mも離れると姿が見えなくなってしまう。彼女の後をついていくと霧の中の地面に下りる階段が現れ「あっ!」と声が出た。
「ここから山を降りれば夕方までには帰って来れるからな。おまえは食糧の心配はしないで訓練をしていろ。水滴は岸壁から流れ落ちてくるからそれを使うといい」
エルリカはそう言い残すと階段を降りて行ってしまった。
それは昼飯は抜きになる宣言でもあった。まじで晩飯はちゃんと食いたい。
とりあえず居住空間のある洞窟の方へ戻り、水が垂れてくる岸壁の元へ行く。