日本での最初の休日を迎えた。
定職に就いていないのだから毎日が休日のようなものだけれども、いちおう研究協力者として平日は拘束されているのだから土日はやはり休日だ。
出掛ける準備をしているとドアがノックされ、外には私服のサクラさんがいた。
「おはようございます、休日に付き合ってもらってありがとうございます」
「おはようございます、いい天気でよかったですね。なかなかの散歩日和です」
サクラさんは普段のスーツ姿でも若く見えるのに、黒いニットにジーンズとスニーカーという格好だとさらに若く見える。並んで歩けば父娘まであるかもしれない。
こどもたちの学校があるから奥さんが実家にいるとは思えないが、数カ月も音信不通なわけで、もしかしたらこどもを連れて戻ってきているかもしれない。
そんな時にこの人と一緒に目の前に現れたら駆け落ち相手と別れ話をしに来たと思われるかもしれない。同行者にサクラさんを指名したのはマズかったのかも…
難しい顔をしているおれに「トイレぐらいなら待てますよ」と明後日な方向の気遣いをしてくれる。「いや、すぐ出ますんで」とアパートを出る。
本郷三丁目の駅まで歩いて大江戸線に乗り御徒町方面へ。
土曜日だからか車内はそれほど混んではいないが、それでも座れるほど空いてもいない。吊革に掴まりながら窓に映る自分の顔を見ればめちゃくちゃ緊張している。
それを感じ取ってかサクラさんも話し掛けてはこない。
駅までの道すがら説明したとおり蔵前で降りて、水戸街道へ出てタクシーを拾い浅草方面へ向かう。電車とは違って道路はそれなりに混雑している。
浅草駅周辺はかなり混雑していてなかなか車が進まない。
こんなことなら都営浅草線に乗り換えればよかったのかもしれない。
後部座席のおれとサクラさんはそれぞれに黙って窓の外を眺めていた。
やがて渋滞を抜け車はスピードを上げ、言問橋の交差点で北に向かう。
浅草高校の前でタクシーを降りた。
少し北に歩いて路地に入ると胃がキリキリとしてくる。
サクラさんは感心のないフリをしつつも、ちらちらと様子を伺っている。
頭の中がめちゃくちゃで言葉が出てこない。不安で逃げ出したい気分でもある。
三叉路を曲がったところで奥さんの実家が見える。白い二階建ての家。
初めて訪れたとき、敷地目いっぱいに建っている家を見て驚いたのを思い出した。
家の前まで来て初めて「ここです」と声を発した。
玄関ドアの脇の表札の名前が記憶のものと違うことに気付いて固まる。
後ろから「どうしたんですか?」と心配そうに声を掛けられた。
「名前が違うんです…奥さんの家の名前じゃない。知らない人…」
「も、もしかしたら知らない間に引っ越されたのかもしれないじゃないですか」
「そんなことありますか?だって何十年も住んでる持ち家で引っ越す理由がない…」
「マンションの方が便利だって戸建てを売って引っ越す人もいるみたいですよ」
無理筋。サクラさん自身もそれは承知の上で整合性を図ろうとしている。
「住んいでる方に話を聞いてみます」
ムカムカする胸とキリキリする胃を抱えたまま、勢いだけでチャイムを鳴らす。
スピーカーもカメラもない、ただメロディーが流れるだけのチャイム。これは記憶と同じ。外壁も窓も目の前にある玄関ドアも記憶と同じ。表札だけが違う。
家の中から廊下をぱたぱたと歩く音がしてガチャリとドアが開いた。
開けられたドアの向こうには全く見覚えのない中年女性が立っていた。
絶句していると「どちらさま?」と怪訝そうな顔で女性は言った。
名前が違うのだから義母さんが出てくるわけがない。いまここに住んでる人に事情を聞くためにチャイムを鳴らしたことを思い出した。とはいえ何と切り出したものか。
「突然すみません、伺いたいことがありまして。少々お時間よろしいでしょうか」
言葉が出てこないおれの代わりにサクラさんが声を掛けてくれた。
住人の女性は猜疑心に満ち満ちた表情を浮かべながら「はい?」と返事をする。ドアノブに手を掛けたまま。次の言葉を間違えると閉められてしまう。
サクラさんはバッグから身分証を取り出して「私、外務省の調査で参りましたサクラザワと申します」と言って女性に見せると、女性は「外務省?」と驚きながら警戒心を少し弱めた。
サクラさんはすらすらと適当な理由を言って、いつからここに住んでいるのか尋ねると、女性は話を信用したようで「40年以上前から住んでいる」と答えた。
嘘だ!と問い詰めたかったのを必死で我慢した。
「以前に住まわれていた方をご存じですか?」とサクラさんが問うと「土地を買って建てたから前の住民はいない」と女性が答える。
これ以上追及のしようがなかった。こんなにあっさりと不在が現実になるなんて。
「ありがとうございます、お手数おかけしました。それでは失礼します」
サクラさんは深々と頭を下げ「行きましょう」と退散するよう促した。
ぐったりするような気持ちのまま頭を下げ、その場から離れた。
なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ…頭の中はなぜ?で一杯だった。
ときどき振り返って声を掛けてくれるサクラさんの後をついて歩いた。なにを言っているのか耳に入って来なかったが、とにかく彼女に手を引かれるままに歩いた。
このことの理由を少し考えては行き止まりに辿り着き、また別の理由を考えては行き止まりになる。まるで言い訳を許してくれないお説教をされているようだ。
そのうち何も考えられなくなって空っぽになってしまった。