研究者たちの会議、午前の部はさて置き、いよいよ今日の午後はミトコンドリアの話なので昨夜は早めに布団に入ってしっかり寝た。難しい話でも集中できるだろう。
そんなわけで午前中は置物として過ごして、午後はウチヤマ塾に参加すべくいつもの場所に向かうとゲスト研究者が五人に増えていた。いや、あんたら本業どうした。
「じゃあ、ミトコンドリアの話をしましょうか」とウチヤマさんの説明が始まった。
ミトコンドリアとは細胞小器官であり、細胞活動のエネルギーを生成している。
呼吸による酸素を使って周囲にある栄養素を分解してエネルギーに変換している。
細胞を成長させたり免疫力を高めたり、病気をやっつける際にも活躍している。
専用のDNAを持っていて母親のものしか遺伝しないらしい。なので人類のミトコンドリアDNAを遡っていくとカメルーンのあたりに住んでいた原初の母親に辿り着くらしく、ミトコンドリアイブと呼ばれているそうだ。
「その人が猿から人間に進化したってことですか?」
「いえ、そうではなく人類の持っていたミトコンドリアがそのタイミングで突然変異したのではないかと言われています」
ミトコンドリアの突然変異。おれの身体に起きているナニカはこれか。
だとしてもこの前までは特別なことなんて…あっ、ワームホールか!
ワームホールを通ったときにミトコンドリアが突然変異して脳が暴走して…???
変異したミトコンドリアが何をしているのか想像していて、ウチヤマさんから呼びかけられているのにしばらく気付けなかった。
「ああ、すみません。一人の女性に辿り着くっていうのがすごいと思って」
妙なことを口走ると明日にでも解剖されてしまうと思い誤魔化したのだが、視線を感じたのでそちらへ視線を送ると少し離れたところからアズマ教授がこちらを見ていた。
解放されたような安堵したような、とにかく奇妙な顔でおれを見ていた。
その後はおれをそっちのけでミトコンドリアの性質についてゲスト研究者がウチヤマさんと話し込む格好になってしまい収穫のない時間を無為に過ごした。
その日の帰り道、クスメギに「遂にミトコンドリアの謎を解いた」と告げると「触りの部分に辿り着いたの間違いだろ」と訂正された。確かにそうだけどさ。
「基礎知識まで届いてないにしろ話ができる下地はできたみたいだから、週末に時間とってウチの部署の見解を教えてやるよ」
「また週末はおまえと一緒かよ。できれば優しく教えてくれる女性がいいんだけど」
「あ?嫌ならやめるけど?」とクスメギは一ミリも笑っていない。
「生意気言ってごめんなさい」と謝って週末はおれの謎を解明する時間になった。
―――――
金曜日の午前中は大学病院で検査を受けた。
久しぶりにMRIに入ったり脳波の検査を受けたが至って通常値だったようだ。
午後は研究者会議に出席して、ワームホール生成の話をぼんやり聞いていた。
会議が終わる頃にアズマ教授と座長のおじいさん先生がやってきて「今日までお疲れ様でした」と唐突に労われた。「え?」と驚いていると、今日で研究者会議はひとまず終了するとのこと。
四週間会議に出席する約束だったはずだけどと思い返してみると、ISの襲撃があって二週目はお休みしていたのだった。
おれが不在でも会議は続けられていて予定通り今日で最終日を迎えたそうだ。緊急招集された先生たちも、いつまでも教鞭を放り投げておくわけにもいかないのだろう。
結局のところ、今日までにおれの身体からはワームホール生成の鍵となるナニカは発見できなかったそうだ。ただしデータは後から見返したときに重要なことが判るかもしれないのでまるっきりの無駄ではないと慰めるような説明があった。
ついでに一週間まるまる休んでしまったので協力費を返金するのか尋ねると、それは返さなくてもいいと笑って許してもらえた。それは無職なので大変ありがたい。
アズマ教授から「長野の地元へ行かれるのですか?」と問われたので「他にアテもないので一度帰ろうと思います」と返事をした。
「一ケ月後ぐらいに経過観察のための検査を受けに来てもらって、様子で月に一度か二カ月に一度また検査を受けてもらいますが、それはよろしいですか?」
「はい。もちろんです。役に立つ自信はこれっぽっちもありませんが」
アズマ教授と座長のおじいさんは、孫でも見るような表情でそれぞれ感謝の言葉を口にした。こちらこそとお礼を述べると二人が手を差し出しているので握手をした。
その後、ウチヤマさんのところへ行って、昨日まで講義をしてくれてありがとうとお礼を言うと、いつかゆっくりお話しましょうと笑顔で言ってくれた。
モンテビデオにいた頃は余所余所しかったというかアズマ教授に気を使ってか一歩引いている感じだったけれど、細胞の話とかをしているうちにちょっと話がしやすくなったような気がする。
帰り道、クスメギに「なんで今日が最終日だって教えてくれないんだ」と言うと「把握してない方がおかしい」とグズる息子を窘める母親のような対応だった。
「そういや引っ越しとかどうしたらいいの?あの部屋っていつまで使えるの?」
「今月いっぱいは契約が残っているから二週間ぐらい引っ越し先探しの時間あるぞ」
「そうか。つってもこっちでやることないし日曜には地元に帰ろうかな。アパートを契約しちゃうまではホテル暮らしな感じか」
「じゃあ送っていってやるよ。時間かかるだろうから道中で例の話してやる」
そんな感じで明後日の朝、東京を発つことになった。