翌朝、朝食を付けていなかったのでゆっくり寝てクスメギからの連絡を待った。
チェックアウトぎりぎりの時間にようやく連絡が来てロビーに向かう。
クスメギは二日酔いだと言っている。頭が痛いらしい。
とりあえずクスメギの部屋のチェックアウトを済ませて、一週間の連泊で部屋を取ってあるおれの部屋に上がる。フロントの職員に不審な目を向けられるかと思ったが特に咎められることもなかった。
「おれ、ちょっと散歩行ってくるから寝てろ」
そう言ってクスメギを部屋に残し外に出た。特に行くアテもなかったが、昼ぐらいまでぶらぶらして時間を潰そうと思って歩き始めた。
すぐに駅に着き、昨夜歩いた道沿いには仕事で携わった飲食店もあるので、どんなふうに変わっているのかを見に行くことにした。
外から見てわかる店は3店舗あり、そのうちの一つは店の名前すら違っていた。
残りの二つは色合いとかガラス越しに見える内装が違っていた。
おれが仕事を通じて社会に与えた影響はことごとくないものになっている。
顧客のためだけでなく街の景観としてどうあるべきかと心を砕いた時間が何も認められなかった気分になった。なったのだが、元の世界でも街の新陳代謝として改装があるのは当然なので、そういうものだと割り切ることにした。
記憶では、山間の田舎街を歩いている人間はあまりにも減ってしまったので、この通りにある個人経営の喫茶店の類はことごとく廃業していた。
はずだったのだが、営業している店を見つけたので入ってみることにした。
三階建てのビルの一階にある靴屋の脇にある階段を上がると喫茶店の入り口に出た。
入口の扉を開けるとドアベルがカランカランと音を立てて来客を告げる。
店の中はコーヒーと煙草、かすかに埃、あとソフトクリームの甘い香りがした。
「いらっしゃい」とかすれた声の店主に迎えられ、どこでもどうぞと言われたので四人掛けのソファテーブルの席に座る。ガラスの天板の下に珈琲豆がぎっしり並んでいる。
椅子はソファではなく木製のベンチにクッションが敷いてある。心地良い堅さ。
「フレンチコーヒーをひとつください」とカウンターの向こうの店主に注文すると、小さく返事をして珈琲を淹れ始めた。
静かなソロピアノが流れている中に、ゴリゴリと豆を手で挽く音やコポコポと湯が沸く音が重なる。カチャカチャと陶器のカップを準備する音が聞こえてくる。
少しすると珈琲の香ばしい香りが店の中を漂い始め、ほどなく目の前に珈琲が運ばれてきた。早速一口飲んでみると深煎り豆らしい苦味の強い味ですごく美味しい。
さっきホテルを出たところのコンビニで買った煙草をポケットから取り出す。
店に入る前にドア横の張り紙で確認していたので「灰皿お借りできますか」と店主に言うと、小さく返事をして灰皿を持って来てくれた。
ウルグアイに飛ばされて以来、吸える場所とタイミングがなくずっと我慢してきた煙草に火を点ける。世の中は禁煙まっしぐらだが止める気はサラサラなかった。
煙を吸って吐き出すと、なにかが戻って来た感覚があった。
日常なのか習慣なのか。この店は記憶にないのだけれど、以前からこうしてこの店で珈琲を飲んで煙草を吸う時間があったような懐かしい感覚があった。
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3本目の煙草を吸い終わり、少しだけ残しておいた珈琲を飲み干す。
店を出るときに「ごちそうさまでした」と店主に言うと「また来てくださいね」と笑顔で見送られた。こんな店をやりながらの暮らしに憧れのような気持ちがあった。
ホテルを出て一時間も経っていなかったので、もう少し歩くことにする。
りんごの木が植えてある並木まで出て並木沿いを歩く。りんごの並木は珍しいらしいのだけれど昔からそこにあるので珍しいとは思ったことがない。
角のパン屋は記憶のまま営業をしていたので店に入り、タンドリーチキンのベーグルとピーナツクリームが入ったパンを買った。
以前からよく食べていたパンなので、そのままでいてくれてよかった。この世界にはそういう怖さがある。
パン屋を出てどこに行って食べようかと少し悩む。できれば高いところがいい。
街全体が見渡せて記憶と違うところがあるのか確認できるところが。
美術博物館の屋上なら街がだいたい見えると思いついてそこへ向かった。
博物館の屋上へは建物の中に入らず建物脇の大きな階段から直接登る。
街の南側半分がよく見える場所へ行くと、細かい部分は見えないが、通った高校もスーパーも神社も変わりないように見えた。
その後、北側の半分が見えるところへ移動する。
視線の先の丘の上に並ぶ家々の中に自宅の屋根が見えていたのだが二階建てでなく平屋になってしまっているので見えなかった。
「あそこだけ変わってんのかよ」と苦笑いをしてベンチのある場所でパンを齧る。
異世界転移とかマルチバースっていうのはもっと全然違う世界なのだと思っていたが、ほとんど同じでこんな微妙な自身のルーツに関わる部分だけが違うだなんて。
しかし、その喪失箇所は自分のこと限定なものだからけっこうダメージがでかい。
ピーナツクリームのパンの最後の一かけらを口に放り込んだら、屋上から降りてホテルに戻った。