適当に一ケ月と見積もった修行期間だったが、科学の申し子みたいな存在と対峙するに至るまで果たしてそんな期間で解く能力が使いこなせるようになるのだろうか。
多少の不安を抱えながら初日がスタートする。
まずは水の分解の復習から。これはもうコツを掴んでいるから大丈夫。
小皿の上の水の電子を操作すればぶくぶくと泡を噴いて空になる。
次は意思の強弱を覚えるため、桶の中の水を分解する。
表層に泡は発生するものの、一気に空気に変えるのは難しい。解く電子の数が膨大で、一つ二つとやっていたのでは埒が明かない。これこそがイメージなのだろう。
夕方までやっても桶の半分が精一杯だった。
翌日も一日中、桶に向き合い大量の水を水素と酸素に解く訓練。
しばらくやって昨日と同レベル程度には空気に変えることはできたが、そこから先はうまくいかない。何度もやっているうちに水面がぐあんっと歪んだ瞬間があった。
アサガオさんに「あれが正解か」と尋ねると「それは偶然で別の方法、いずれ習得する必要があると」の返答。しくった。どうやったのかよく覚えていない。
この日も桶の半分ちょいで終了。
夕食を頂きながら、翌日からアズマ教授は留守になると聞かされる。
大学へ行かないといけないらしい。食事の世話はアサガオさんがしてくれるそうだ。
寝る前に教授から「彼女に手を出したら殺しますよ」とまじで凄まれた。
翌日、よくやく水の結び方がどんなものか把握できた。
一度には桶いっぱいの水は解けなかったが連続して3回で桶は空になった。
午前中ははっきり覚えるため同じことを繰り返した。
お昼はアサガオさんのおにぎり。さてはこの人、料理は苦手なのでは疑惑が浮上。
午後は小さな石英結晶、つまり水晶をケイ素と酸素に解く練習。
原子が六角形に並んでいると聞かされたので、そこを千切るイメージでやる。
最初は手こずって微動だにしなかったが、電子をバラバラにするイメージを持ったら割とあっさり水晶は消滅した。厳密にはケイ素と酸素になったんだけど。
一日でここをクリアできたので誇らしかったが、アサガオさんは当然でしょ?みたいな顔しかしなかった。そして晩御飯はインスタントの袋のラーメンとおにぎりだった。
この人、いくら能力で健康体を維持できているにしても食事が酷すぎる。
翌日から動いているものがターゲットになる。
まずは落ちる水滴から。底に小さな穴を開けた桶に水を張って脚立の上に置く。
桶から落ちる水滴を地面に落ちる前に解けたらハンバーグを焼いてくれるそうだ。
彼女はおれができないと思ってその褒美を提示してきたのだろう。やってやる!
結果、無理だった。水滴が落ちるのめっちゃ早い。水ならチョロいと思ってたけど、視認→イメージ→操作とやっていると地面に着いてしまう。
視認したらイメージと操作を同時発動しないと無理。明日はハンバーク焼かせる!
5日目の午後、夕方近くに落ちる水滴をクリアする。連続で解けるようになる。
視認してからのリズム感が大事だということを知る。
夕食はハンバーグですよねと確認すると、それは昨日だけの話と言われ、あまり具の入っていない焼きそばをご馳走になった。
タダ飯だしいいんだけどさ。いいんだけど!
6日目の課題は難易度が急上昇した。おまけに意味がわからなかった。
飛んでいる虫の羽音を消せと言われた。昆虫をバラバラにすればいいのか尋ねると、そうではなく羽音を消すのだと言う。
よくわからないまま、そこらへんを飛んでいる虫に意識を集中する。
これのどこを解けば…?
6日目は虫を眺め続けて終わった。まじで虫を見てただけ。
―――――
10日目、ようやく課題の意味を理解する。
ここまでに虫の羽根の動きにパターンがあることを知った。そこに虫なりの意味がある。逃げているとき、食料を探しているとき、単に移動しているとき。
目には見えないが、そのパターンごとに身体の動かし方が違うはず。
「羽音を消す」というのは、その運動そのものを解くイメージをすればいい。
虫をぼんやり眺めて、そこにある虫の運動をイメージしリズムを感じる。いまこいつは食料を探している最中であることを知覚する。すると飛んでいる虫が波になった。
その波形に触って乱してやると、虫はフラフラっと上手く飛べなくなった。
これでよかったのかアサガオさんに尋ねると、周波数や構造波という「波」をイメージすることが課題の目的だそうだ。瞬時には無理だけど、まあどうにか「波」は見えた。
そして今夜はごちそうよ!と嬉しそうに言うので、遂に本気の料理が出てくるのかと思いきや、夕方に教授が戻って来た。そして予告通りに夕食はラタトゥイユとタラのムニエルだった。久しぶりのご馳走に涙が出そうだった。
翌朝、教授の作ったクロックマダムを食べていると今日から屋内だと言われた。
食べ終わると寝室へ行くよう言われたのでベッドに座って待っていると、「鏡に映る自分を世界と切り離して」と目の前に古い姿見が置かれた。
「じゃあ、がんばって」とだけ言われて部屋のドアが閉じられた。
ちょっと何を言っているのかわかんないんですけど…
―――――
自分で設定した期限まで残り5日。どうにか課題をクリアした。と思う。
課題が抽象的すぎてなにをしたらいいのかわからないまま、鏡の向こうの困惑している中年を眺める時間が続いた。
じっと見ていると鏡に映る自分が誰だかわからなくなってきた。これはまずいと思い自分のことを確認する。名前や年齢や元の世界のこと。
そんなことを何日も繰り返すうちに、ぼんやりした意識の向こう側のことが気になり始めてきた。
二週間ほど瞑想のような時間を過ごして、ようやく自分と世界との繋がりは情報であると知覚する。意識=情報はぽつんぽつんと世界と繋がっている。それが自我の境界であり、その向こう側に意識を集中させると、おれの意識は世界に溶けていった。
視覚の端がどこまでも広がり、音の奥行がすごくある。身体は軽いのか重いのかわからない。「おれ」はいない。おれは世界の中にバラバラに入り込んでいる。
このまま元に戻れないのかと思ったが、トランス状態からは割と簡単に戻れた。
開けっ放しになっている目をいったん閉じるようなイメージを持てばよかった。
果たして「切り離す」という意味がこれで合っているのかわからなかったが、部屋から出てアサガオさんにおれの意識の話をしたら、それで正解よと言われた。
自我の相対化とか観測の解除とか言っていたけれど、さっぱり意味がわからない。
ただ、あのトランス状態であれば見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる感じはあった。とんでもない力がおれにあると初めて自覚した瞬間だった。
だけど戻ってしまえば悲しいかな理科の苦手な中年なのだった。