部屋のあるビルオーナーと会った翌日の午前中、彼から連絡が来た。
喫茶店の店主の娘さんの携帯番号を伝えられ、店の金額について直接話をするよう言われた。話が急すぎて本当にこれでいいのか迷っていたが、連絡をしないわけにもいかないので、もう少ししたら電話を掛けることにして、とりあえずコーヒーを淹れた。
昨夜、アオイさんの店でラストまでいたアヤママと一緒に店に戻る時「ハナちゃん、喫茶店始めたらもうウチのお店では働けなくなるのかしら」と訊かれ返事に困って「いや、買うかどうかも迷ってますよ」と返したが、ママには大きな恩があるし、とはいえ買って遊ばせておくほど余裕もないし。考えがぜんぜんまとまらない。
ひとまず礼儀として店主の娘さんに連絡は入れておくことにする。
「はい。カツラガワです」
「あの、お父さんの喫茶店の件でご連絡させてもらいました、ハナダと申します」
「あー、はい。コマキさんから聞いてます」
「それでですね、電話じゃアレなんで、お会いしてお話を聞かせて頂ければと思いまして。どうでしょう」
「いいですよ。えーと、店に行けばいいですか?」
「あ、いえ、こちらから伺いますけれども」
「いえいえ、お店の中を見てもらった方がいいと思うので。今日がいいですか?」
「ええ。そちらの都合で構いませんので。今日なら今日で大丈夫です」
「じゃあ、お昼ぐらいに行きます。着いたら連絡しますね。この番号でいいですか?」
「はい。よろしくお願いします。失礼します」
ふぅー。なんか店主さんの意思を無視して話がどんどん転がっていく。
いいのかな勝手に話を進めて…
昼前にカツラガワさんから連絡が入る。すぐに下の喫茶店に行く。
本日休業の札はかかっていたが店の中に電気は点いている。ドアを開けて中に入ると30歳ぐらいの小柄な女性がいた。
「え?早くないですか?近くで待っていたんです?」
「いや、ここの上に住んでいるんですよ」
なにか思うところがあったようだが「とりあえず店の中を見てください」と言われ「客席やトイレは行ったことあるので」と厨房の中を見せてもらう。年季は入っているがどこもきちんと掃除がしてあって、大事にされてきたのがよくわかる。こんな場所をこんないい加減なおれが継いでいいのか?
「あの、あなたはここを継ぐ気はないんですか?」
「ええ、私、お料理とかあんまりで。食べるほうは好きなんですけどね。えへへ」
ここまで来てもらってお茶を濁しても仕方ないので正直に話をしよう。
「実は、まだ迷っているんです。喫茶店はやったことないし、こんなにいい雰囲気のお店をダメにしたくないし、かといってお店開けないと家賃もかかるしで…」
「あの、父はいま入院しているんですけど、お時間あれば会ってもらえませんか?」
「え?店主さんに?」と驚くと「はい」とすごく優しい顔で言われた。
なんだろう「実は儂の後継者はお主だと思っておった」みたいな話?嘘だろ?
娘さんの車に乗せてもらって店主さんが入院している病院へ行った。
4人部屋の一画のベッドに店主さんはいた。首がすごく細くなっていて、頬もこけてだいぶやつれている。もうあまり長くないのかもしれない。
「ああ、やっぱりあんたか。うちの店、気に入ってくれてたもんな」
店主さんはしゃがれ声で嬉しそうにそう言った。
「ええ。あの店、本当に気に入ってたんですよ。店主さんのランチが恋しいですよ」
「はは… ありがとう。おれはこのザマだからな。あの店使ってくれると嬉しいが」
「先代が立派すぎて尻込みしているんですよ。店の看板に泥塗りたくないんで」
「あんたの好きにしたらいいよ。元々蕎麦屋のつもりだったんだし。はは…」
「もう少し考えさせてください。ごめんなさい」
考えるも何も泣きそうで逃げたかった。にこにこされるのが辛い。
涙がこぼれる前に勝手に話を切り上げて廊下に出た。
娘さんにビルまで送ってもらう道すがら「あのチョンマゲの兄ちゃん気に入ってくれたし貰ってくれないかな、って言ってたんですよ」と教えてもらった。
こんなのもう断ったら、てめえらの血の色は何色だ!案件だよ。外堀埋まりすぎ。
店主さんが元気ならこんなことで悩まなくてもいいのに…
ふと閃いてしまった。
ビルに着いたら、返事を2,3日待って欲しいと娘さんに告げて車を降りた。