第零話 前置き
砂のざらつきが、まだ指先に残っていた。
喉に絡みつくような海の匂い。白く乾いた首の細さ。自分の指に力が入っているのが分かっていながら、止める理由をうまく思い出せなかった、あの一瞬。
僕はアスカの喉を絞めていた。
どうしてあんなことをしたのか、今でも言葉にはできない。嫌われたかったのかもしれない。殴られたかったのかもしれない。それとも、あれだけ壊したあとでも自分がまだ人間の形をしているのか、確かめたかっただけなのかもしれない。
アスカは息をしていた。死んでいなかった。それが嬉しいはずなのに、僕はほっとできなかった。生きているものはまた傷つけられる。僕がまた傷つけるかもしれない。そう思ったら、胸の中が海みたいに冷えた。
空は妙に高かった。量産機も、黒い月も、白い巨人も、もう見えなかった。残っているのは海と砂と、包帯だらけのアスカだけだった。世界の終わりはもっと大袈裟なものだと思っていたのに、本当に終わってみると、こんなふうに波の音だけがやけに近かった。
LCLの匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
補完のあとで戻ってきた感覚は、記憶というより後遺症に近かった。白い海でほどけた知覚が、もう一度“僕”の長さへ巻き直される時に、いくつかの座標だけが完全には戻りきらなかったのだと思う。波の匂いを嗅ぐと、砂浜だけじゃなく発令所の冷たい床まで同時に浮かぶ。アスカの手の温度を思い出そうとすると、首へ掛けた自分の指の力まで一緒に蘇る。感情だけではなく、触覚の方が先に戻ってくるのが厄介だった。
人は時間を線のように覚えているつもりでいる。けれど実際には、匂いと圧力と声の高さでできた薄い膜を何枚も重ねて、その都度「いま」を選び直しているだけなのかもしれない。補完の中ではその膜が全部ずれて、誰の朝と誰の夜かも曖昧になった。だから今こうして砂の上で息をしていても、僕の中ではまだ病室と教室と海が同じ明るさで並んでいる。
それでも、アスカの「気持ち悪い」は一枚だけはっきりしていた。あの一言だけが、白い場所で溶けかけた時間へ重しみたいに落ちたのだ。優しい嘘ではなく、痛い現在の言葉だったからだと思う。誰かが自分の嫌悪を自分の声で言う。その単純な事実が、境目のない世界よりずっと残酷で、ずっと救いに近かった。
もし世界が本当に終わったのなら、もっと大きな音がしてもよかったはずだ。神話みたいな雷鳴とか、全部を納得させる最後の鐘とか。けれど残っていたのは波が寄せて返す規則だけで、その規則の中へ僕たち二人の呼吸が混ざっているだけだった。終末というのは、たぶん巨大な出来事ではなく、これから先も小さな選択を続けなければいけないと分かる瞬間のことを言うのだろう。
普通の朝が来るということは残酷だ。普通の朝は、昨日まで世界が壊れていたことを理由に、今日の選択を免除してくれない。目を逸らすか、支えるか、名前を呼ぶか、黙るか。そういう小さな分岐を、また最初から選ばせる。補完の白さはその面倒を消してくれたけれど、砂浜の朝は消してくれない。だからこそ、たぶんここにはまだ倫理が残っているのだと思った。
母さんの気配。
綾波の白い手。
カヲル君の首を折った感触。
ミサトさんの血の匂い。
父さんの背中。
みんな、まだ体のどこかに張りついている。
それなのに、最後に残ったのはアスカだった。
嫌になるくらい、そうだった。
補完の中で僕は、何度も境目のない世界を見た。痛くない世界。拒まれない世界。優しい顔だけが並んで、誰も勝手に変わってしまわない世界。そういう場所に溶けてしまえば楽になれるとも思った。
でも結局、戻ってきてしまった。
戻ってきて、僕は最初にアスカの喉へ手をかけた。
好きだとか、会いたかったとか、そういう言葉を並べる資格なんてない。そんなの分かっている。分かっているのに、目の前に生きているアスカがいたら、どうしていいのか本当に分からなくなった。
その時、アスカがゆっくり目を開けた。包帯の間から覗く目は濁っていたけれど、それでも確かに僕を見た。
それから、僕の頬に手を伸ばした。
弱い手だった。でも、嫌になるくらい現実だった。
「……気持ち、悪い」
その一言だけが、波の音よりも、風よりも、何よりもはっきり聞こえた。
そうだ。その通りだと僕は思った。
僕は気持ち悪い。世界を終わらせておいて、それでも好きだ嫌いだと誰かに触れようとする、自分のそういうところがたまらなく気持ち悪かった。
けれど、アスカは生きていた。その事実だけが、砂の中に刺さったガラスみたいに、胸の奥から抜けなかった。
波が寄せて、返す。
時間だけが、少しずつこちらへ戻ってくる。
遠くで鳥が鳴いた気がした。そんな普通の音が、どうしてこんなに残酷なのか分からなかった。普通の音は、普通の朝が来ることを意味する。普通の朝が来るなら、僕はこのあとも生きなければいけない。
生きて、誰かと会って、言葉を交わして、自分のしたことを抱えたまま歩かなければいけない。
それが、ひどく怖かった。
波がまた寄せてきて、アスカの肩口まで赤い水が薄く這った。包帯の端が濡れて砂を噛み、首筋へ張りついている。僕は手を伸ばしかけて、止めた。触る資格なんてないと思う。けれど放っておくことも、今さら許される気がしなかった。
アスカが小さく咳いた。喉の奥で海水が鳴るような、浅い音だった。反射で僕は彼女の顔を横へ向け、包帯に触れないよう顎の下へ手を入れた。体は軽かった。軽いのに、支える手つきだけやけに分からない。人を生かす時、人はどこを持てばいいのかなんて、僕は何も知らなかった。
唇の端に赤い海が残っていた。自分の袖で拭う。砂が混じって布がすぐざらつく。アスカは嫌そうに眉を寄せたが、振り払う力はない。それが余計にひどかった。
「気持ち悪い」と言った直後でも、アスカは息をしていた。浅くて、途切れそうで、それでも止まらない。僕はその間隔を数えた。数えることしかできなかった。波と波のあいだに二回。長い時は三回。そんなふうに、世界の終わりのあとで最初に覚えたのが、誰かの呼吸の数え方だった。
遠くには何もなかった。助けも、命令も、駅も、台所も、学校もない。ただ赤い海と砂と、包帯の端と、呼吸だけだった。だからこそ、その全部がやけに大きかった。
もしここで目を逸らしたら、僕はたぶんまた“誰かを失った方”の記憶だけを抱えて生きることになる。失う前に、喉の乾きや、濡れた布の重さや、浅い息の速さを見る。そういうことを一度も覚えないまま、好きだ嫌いだだけで人を語ることになる。
それは嫌だった。
嫌だと思えたことだけが、補完から戻ってきた証拠みたいだった。
海鳴りが遠くなった。白い光が満ちた。波打ち際が消え、空が消え、アスカの指先の温度だけが最後まで残った。
白は優しかったわけじゃない。ただ、全部の境目をいったん剥がしただけだ。優しい顔をしているくせに、人を何も選ばなくていい場所へ連れて行く。そんなものに救われたと言うのは、たぶん卑怯だ。
僕はまだ、ちゃんと痛い方を選べていない。
そう思った瞬間、地面の感触が変わった。
砂ではない。
潮の匂いでもない。
もっと乾いた、夏の街の匂い。
気づいた時、僕は公衆電話の前に立っていた。
受話器の向こうで、まだ顔の見えない女の声が少し苛立った調子で僕の名前を呼んでいた。
『もしもし? 碇シンジ君? 今どこにいるの。そこ動かないで、すぐ行くから』
来い、でも、乗れ、でもなかった。
まず居場所を聞く声だった。
僕は返事をするまでに少し時間がかかった。
補完の白の中で最後に残ったのは拒絶の声で、その前に僕を動かしてきたのは、だいたいいつも命令だった。だから、出撃でも贖罪でもなく、ただ現在地を言えと求められるだけで、喉の奥がうまく動かなかった。
『もしもし? 聞こえてる?』
聞こえていた。
聞こえているからこそ、怖かった。今どこにいるかを言うのは、ここからまた時間へ戻ることだった。海の向こうでも発令所でもなく、夏の街角に立っている十四歳の自分を引き受けることだった。
「……公衆電話です」
馬鹿みたいな返事だった。自分でもそう思う。
でも向こうの声は笑わなかった。
『場所。看板とか、交差点とか。何が見える?』
必要な時だけ呼ぶ声じゃない。
帰る場所へ辿り着かせるために、順番に現在を確かめる声だった。
僕は深く息を吸った。
電柱、コンビニ、夏の光、遠くのサイレン。目の前にあるものを一つずつ見直し、それから、自分のいる場所を言った。