【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第九話 瞬間、心、重ねて

朝の下駄箱を開けた瞬間、紙が雪崩れた。

 

 白い封筒、色付きのメモ、名前もない短い手紙。昨日まではただの空箱だった場所が、一晩で誰かの思い込みの集積みたいになっている。

 

「ちょっと、何よこれ」

 

 アスカが眉を吊り上げる。

 

 横ではケンスケが案の定カメラを構えていて、トウジが「朝から景気ええなあ」と笑っていた。ヒカリがすぐに二人を叩きに来る。

 

「相田君、鈴原、そこ散らかしたままにしない。惣流さんも踏まない」

 

「踏むに決まってるでしょ、こんなの」

 

 言いながら、アスカは本当に一通だけつまみ上げて、それからうんざりした顔で全部をヒカリへ押しつけた。

 

「処分しといて」

 

「自分でやりなさいよ」

 

「読む気しないもの」

 

 そのやり取りだけで、朝の廊下の温度が一段上がった気がした。

 アスカが来てから、学校は少しだけ騒がしくなった。うるさくなったという方が正しいかもしれない。でも、ただ騒がしいだけじゃない。皆が、教室の中に急に増えた色と速度へ無意識に引っぱられている感じがあった。

 

 ホームルームの終わり、ヒカリが教壇の前に立って出席簿を閉じた。

 

「来月の文化発表会、そろそろ出し物決めるから。今日の放課後、残れる人は残って」

 

「展示でええやん」

 

「楽なのはつまんない」

 

「劇は準備が重い」

 

「合唱が無難でしょ」

 

 もう勝手に話が始まっている。

 世界がいつ壊れてもおかしくないみたいな顔を、地下ではみんながしている。そのくせ地上へ戻れば、文化発表会の出し物でもめる。滑稽だと思う。でも、その滑稽さが少しだけありがたかった。

 

「碇君」

 

「え?」

 

「チェロ、弾くんでしょ」

 

 ケンスケとトウジが露骨に目を逸らした。

 

「少しだけ」

 

「それなら、合唱の出だしだけ手伝って。今日は音楽の先生の音取り笛があるけど、持ってこられる日だけチェロで音を取ってくれると助かるの」

 

 断ればよかった。

 断ってしまえば、また少し外側へ立っていられる。クラスの中に役割を一つ持つのは、あとでなくした時に痛いから。

 

 でも、口を開いた時には別の言葉が先に出ていた。

 

「……下手でもいいなら」

 

 ヒカリの顔がほっと緩む。

 

「助かる。決まりね」

 

 その横で、アスカが腕を組んだまま鼻を鳴らした。

 

「へえ。バカシンジ、そういうの出来るんだ」

 

「ちょっとだけだよ」

 

「ちょっと、ね」

 

 言い方が少しだけ意地悪で、少しだけ面白がっている。そういう声音の違いを、最近の僕は妙に拾ってしまう。

 

 その日の午後、使徒が来た。

 

 最初の一撃は、ほとんど勝ったように見えた。

 アスカの蹴りが決まり、僕が追い込み、コアを砕けると思った瞬間、使徒の身体が真ん中から割れた。割れたというより、最初から二体になるための継ぎ目がそこにあったみたいだった。

 

 二つの核。

 二つの身体。

 二体を、完全に同時に叩かなければ倒せない。

 

 片方を追えば、もう片方が死角へ回る。アスカの加速に僕が半拍遅れる。僕が受けに回ると、アスカが前へ出すぎる。たった半歩。たった半拍。それだけの差が、八十メートルの身体では取り返しのつかないずれになった。

 

 最後は国連がN²爆雷で使徒を一時停止させた。

 街の上に白いきのこ雲みたいなものが一度だけ立ち、残されたのは六日という数字だけだった。

 

 六日で、二人の動きを合わせる。

 発令所の空気は、それを冗談として受け取ってくれない硬さをしていた。

 

 * * *

 

『完全同時攻撃が条件よ』

 

 リツコさんの声は、いつもより余計なものが少なかった。

 モニタには初号機と弐号機の動作波形、視線移動、関節トルク、心拍変動が並んでいる。綺麗に揃っているように見えても、拡大すると山と谷がずれていた。

 

『コンマ数秒でも遅れたら、次は同時撃破にならない。片方が生き残れば、また分裂、またやり直し』

 

「じゃあどうすんのよ」

 

 アスカが即座に噛みつく。

 

『合わせるの』

 

 ミサトが言った。

 

『食べる時間、歩く時間、訓練の時間、寝る時間。六日間、徹底的に一緒にする』

 

「最悪」

 

「僕も反対」

 

『却下』

 

 速かった。

 

 最初のシミュレーションは、散々だった。

 右へ踏み込むだけでぶつかる。回転で視野が噛み合わない。僕が受けに残ればアスカが前へ出すぎる。アスカが僕の遅れに苛つけば、僕は余計に身体が固くなる。

 

『初号機、半拍遅い!』

 

『そっちが先走りすぎなのよ!』

 

 通信越しの怒鳴り合いがそのままモニタの波形に出る。最悪だった。

 

「話にならないわね」

 

 リツコさんが淡々と言う。

 

「この子が遅いのよ」

 

「違う。アスカが速すぎるんだよ」

 

「はあ?」

 

 言い返した瞬間、発令所が一度だけ静かになった。

 アスカより先に口を開いたのは、ミサトだった。

 

『じゃあ、綾波』

 

 短い指示だった。

 

 零号機ではなく、シミュレーション・ルームにレイが入る。

 アスカの代わりにレイが入り、僕と同じ動作をなぞる。開始から三手目で、波形が不気味なくらい揃った。

 

『見た?』

 

 ミサトの声に棘はなかった。

 ないのに、逃げ場もなかった。

 

 アスカが唇を噛む。

 僕も黙るしかない。

 

『どっちが悪いかじゃないわ。揃え方がまだ分かってないの。二人とも』

 

 リツコさんがマヤさんへ目を向ける。

 

『マヤ、音声同期のテンポパターン、候補を全部出して』

 

「はい」

 

 その日の結論は、「理屈だけでは足りない」だった。

 動作を合わせるには、先に身体へ拍を入れた方が早い。歩幅、呼吸、重心移動。言葉より先に、同じ小節へ身体を置く必要がある。

 

『ダンスみたいなもんよ』

 

 ミサトが言った時、僕は冗談だと思った。

 でも発令所の誰一人、笑わなかった。

 

 * * *

 

 文化発表会の準備は、使徒を挟んでも止まらなかった。

 

 放課後の音楽室には、譜面台と折り畳み椅子と、埃のにおいがあった。窓の外では校庭が少し赤くなっていて、部活帰りの声が遠い。

 

 ヒカリが出欠表を持って立ち、前列と後列を手早く決めていく。アスカは「面倒」と言いながら最後列へ立ち、トウジとケンスケは声変わりの途中みたいな不安定な声で笑っていた。レイは渡された楽譜の角を揃え、僕は教卓の横でメトロノームと音取り笛を預かっている。

 

「碇君、最初の音だけお願い」

 

「うん」

 

 音取り笛を軽く吹く。

 古いメトロノームの振り子が、机の上で小さく拍を刻み始める。学校の音だと思う。

 

 ヒカリが手を上げる。

 

「はい、息吸って。一人で前へ出すぎない。自分の声は消さない。でも、隣を置いていかない」

 

 その言い方に、僕は一瞬だけメトロノームの振り子へ伸ばした指を止めそうになった。

 

 自分の声は消さない。

 でも、隣を置いていかない。

 

 それは、今日発令所で聞いたどんな説明より、二人で戦うことの感じに近かった。

 

 最初の音を出す。

 ヒカリが手を振り下ろし、声が重なる。最初はばらばらだ。トウジが少し走り、ケンスケがつられて上ずり、アスカは正しい音程で正しいより半歩前へ出る。ヒカリがすぐ止めた。

 

「惣流さん、半拍早い」

 

「は?」

 

「だから半拍。今のままだと後ろがつられる」

 

「それ、みんなが遅いだけでしょ」

 

「そういう時に合わせるのが合唱」

 

 ヒカリは一歩も引かなかった。

 それから少し考えて、言い直す。

 

「……長いわね。アスカ、半拍だけ待って」

 

 教室が一瞬だけ静かになり、それからケンスケがにやっとした。

 

「お、委員長」

 

「うるさい、相田君。次はあなたが遅い」

 

 笑いが起きる。アスカはむっとした顔をしたが、文句を言うより先に次の小節へ入った。

 

 もう一度、最初の音。

 今度はさっきよりましだった。完全には揃わない。でも、誰か一人の正しさで押し切るより、少しずつ真ん中へ寄った方が、ちゃんと曲に聞こえる。

 

 練習が終わると、アスカは真っ先に譜面を閉じた。

 

「こんなのにまで合わせろって、ほんと面倒」

 

「みんなでやるものはそういうものでしょ」

 

 ヒカリが譜面を回収しながら言う。

 

「出席取るのは順番でいいけど、歌は順番じゃ駄目なの。誰が半歩前に出るか、誰が吸い直すか、そういうの見て決めないと崩れるから」

 

 アスカは鼻で笑おうとして、少しだけ失敗した顔をした。

 

「委員長って、そういう細かいことまで見てるのね」

 

「見ないと回らないもの」

 

 それからヒカリは、ごく当たり前みたいに続ける。

 

「だから、こういう時はアスカでいい」

 

「え?」

 

「惣流さんって呼ぶと、出席簿の人みたいでしょ。歌の時までそれだと遅い」

 

 アスカは少しだけ目を丸くした。

 すぐにいつもの顔へ戻ったけれど、その一拍の遅れだけは隠しきれていなかった。

 

「好きに呼べば」

 

「じゃあそうする」

 

 そのやり取りを、僕は教卓の横から見ていた。

 名前を変えるだけで、距離がほんの少しだけ動くことがある。そういうことを、ヒカリは学級委員の理屈みたいな顔でやってのける。

 

 音楽室の扉が開き、ミサトが顔だけ覗かせた。

 

「はい、二人とも。日常終了。訓練行くわよ」

 

 教室の空気がそこで少しだけ切れた。

 クラスメイトはそれ以上踏み込まない。踏み込めないのだと思う。僕とアスカがこのあと何をするのか、細かいことまでは知らないし、知らないままでいい距離もある。

 

 ヒカリは譜面の束を抱えたまま、ただ事務的に言った。

 

「明日の放課後、出だしとテンポだけ先に合わせるから。碇君、来られたら来て」

 

「うん」

 

「惣流さん――じゃなかった、アスカも、出るなら遅れないで」

 

「はいはい」

 

 それだけだった。

 助けてもらうとか、手伝ってもらうとか、そういう形じゃない。ただ学校は学校の用事を続けていて、僕たちはそこから遅れて地下へ戻る。その並び方の方が、ずっと自然だった。

 

 * * *

 

 同居訓練は、思った以上に逃げ場がなかった。

 

 朝起きる時間を揃える。歯を磨く時間を揃える。朝食の速度を揃える。通学の歩幅を揃える。寝る前まで同じテンポで動かされる。

 

「監視社会」

 

 アスカが食パンを齧りながら言う。

 

「ほんとだね」

 

「そこで素直に同意しないでよ。むかつく」

 

 理不尽だった。

 

 夜は客間に布団が二組並び、その間にガムテープで線が引かれた。アスカがそれを見て、嫌そうな顔で顎を上げる。

 

「絶対越えないでよ。この線、あたしの“エリコの壁”だから」

 

「エリコ?」

 

「壁っぽい名前なら何でもいいのよ」

 

 分かったような分からないような理屈だった。

 

 最初の二日、僕たちはひたすら失敗した。

 

 朝の歩幅は揃っても、戦闘の踏み込みでずれる。日常で同じテンポを刻めても、いざ攻撃となると僕はどこかで半歩引いてしまう。合わせようとした瞬間に、逆に怖くなる。

 

 アスカはすぐに気づいた。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「合うのが嫌ならそう言いなさいよ」

 

「嫌じゃない」

 

「じゃあ何」

 

 言葉に詰まる。

 嫌じゃない。むしろ、合ってしまう瞬間の方が、怖いくらい気持ちがいい。

 目の前のアスカの動きが、自分の身体の続きみたいに読めてしまう。そこまで近づいてしまう感覚が、僕にはまだ上手く扱えない。

 

「……気味が悪いんだ」

 

 絞り出した答えに、アスカが目を細める。

 

「誰が」

 

「僕が」

 

 アスカは盛大に息を吐いた。

 

「ほんっと説明が下手」

 

 怒っているのに、投げはしない声だった。

 

「ぴったり同じになれって言ってるんじゃないの。ずれるならずれるで、こっちが分かるようにしなさい」

 

「分かるように?」

 

「そう。黙って一人で逃げるのがいちばん感じ悪いの」

 

 その言い方だけが、妙に残った。

 

 その夜、僕は一人で足運びを確かめていた。

 客間の狭い床で、一、二、三、四。半歩。止める。回る。SDATのリズムに合わせても、身体のどこかが勝手に怯む。

 

「まだやってんの」

 

 振り向くと、襖の影からアスカが見ていた。寝巻きで、髪だけ下ろしている。

 

「うるさかった?」

 

「少し」

 

 嘘だと思った。本当にうるさいなら、もっと早く怒鳴りに来る。

 

「続けなさいよ」

 

「え?」

 

「見ててあげる。あんた、一人だとすぐ変な所で止まるから」

 

 ソファへ座る。腕を組む。文句ばかりなのに、最後までちゃんと見ている。

 

「右足、遅い」

 

「分かってる」

 

「分かってないから言ってるの」

 

「厳しいな」

 

「当たり前」

 

 途中であくびをしたくせに、僕が止まるとすぐ目を開ける。その付き合い方が妙に年相応で、少しだけ安心した。

 

 消灯後もしばらく眠れなかった。

 同じ部屋の少し向こうに、アスカの寝返りの音がある。布団の擦れる音、短い呼吸、たまに鼻を鳴らす音。どうでもいいはずのものが、やけにはっきり分かる。

 

「まだ起きてる?」

 

 暗闇の向こうから、アスカが訊いた。

 

「うん」

 

「訓練のこと考えてる?」

 

「少し」

 

「なら、一個だけ覚えなさい」

 

 布団が小さく鳴る。

 

「自分の拍を消さないこと。合わせるって、飲み込まれることじゃないから」

 

 昼の音楽室でヒカリが言った言葉と、ほとんど同じだった。

 自分の声は消さない。でも隣を置いていかない。

 

「……うん」

 

「あと、勝手にいなくなるみたいに外れるのもやめて」

 

「うん」

 

「返事だけは素直」

 

 少しだけ笑ったような気配がして、それから沈黙が落ちた。

 

 夜中に、体温で目が覚めた。

 

 アスカがいた。

 

 いつのまにか線を越えて、僕の布団のすぐ脇まで来ている。半分眠ったままなのか、目は閉じたままだ。呼吸だけが浅くて、少し熱い。

 

 僕は動けなかった。

 起こすべきだと思う。元の場所へ戻すべきだとも思う。でも手を伸ばした瞬間に、この近さごと壊れる気がした。

 

 アスカの指先が、僕の胸元を少しだけ掴む。

 何かを確かめるみたいな弱い力だった。

 

 顔が近い。

 髪の匂いがする。石鹸の匂いと、寝具のぬるい匂いが混ざっていた。

 

「……アスカ」

 

 耐えきれず、小さく呼ぶ。

 

 睫毛が震えた。

 半分だけ目が開き、焦点が合うより先に今の距離だけが分かったらしい。

 

「っ……な」

 

 次の瞬間、アスカはものすごい勢いで飛び退いた。自分の布団まで戻って、そこでやっと息をする。

 

「い、今のなし!」

 

「君の方から来たんだろ」

 

「知らないわよそんなの!」

 

 小声なのに必死だった。必死すぎて、こっちまで息が乱れる。

 

「とにかく忘れなさい!」

 

「無理だよ」

 

「なんでよ!」

 

「だって……近かったから」

 

 言った瞬間、暗闇の向こうで布団が大きく鳴った。

 

「寝る!」

 

「うん」

 

「うん、じゃない!」

 

 それ以上は続かなかった。

 

 翌朝、アスカは露骨に僕を見なかった。見ないくせに、歯磨きの順番がぶつかると必要以上に肩が強張る。ミサトが「寝不足?」と聞いたら、必要以上に大きな声で「平気!」と言い返した。

 

 分かりやすすぎて、何も言えなくなった。

 

 * * *

 

 最後の前日、もう一度シミュレーターへ入った時、僕は昼の音楽室を思い出していた。

 

 ヒカリの指揮は、誰か一人を正解にしない。

 遅い人を捨てるわけでも、速い人を褒めるわけでもない。全員が同じ小節へ戻ってこられる位置を探していた。

 

 それなら僕たちも、同じにならなくていい。

 同じ小節へ戻ればいい。

 

『初号機、弐号機、パターンB再開』

 

 マヤさんの声。

 モニタの向こうでミサトが腕を組み、リツコさんが波形だけを見ている。

 

『アスカ』

 

 僕は初めて、通信越しに迷わずそう呼んだ。

 

『何よ』

 

『僕が受ける。君は先に半歩だけ前』

 

『遅れないでよ』

 

『うん。遅れるなら分かるようにする』

 

 一拍だけ沈黙があった。

 それから、アスカが小さく息を吐く。

 

『……それでいいのよ』

 

 そこからの波形は、初めて綺麗だった。

 完全ではない。少しずつずれては戻る。でも、ずれた時にどこへ戻ればいいか、二人とも知っている波形だった。

 

 * * *

 

 当日、使徒は再び二つに割れた。

 

 白い身体が左右へ開き、二体が別々の笑い方みたいな顔をこちらへ向ける。前回と同じ光景のはずなのに、見え方が違った。恐怖が消えたわけじゃない。けれど、僕の中には戻るべき拍が一つある。

 

『パターンDDD、開始!』

 

 ミサトの号令。

 

 初号機と弐号機が同時に加速する。

 踏み込み、反転、着地。僕が半歩遅れればアスカが埋める。アスカが前へ出すぎる前に、僕が受ける。合っているというより、外れそうになるたびに同じ小節へ戻っている。

 

『今!』

 

 声が重なる。

 こちらからも、向こうからも。

 

 最後の跳躍で、初号機と弐号機が左右から同時にコアへ届いた。赤い核が二つ、まったく同じ瞬間に割れる。十字光。爆風。解除音。

 

 エントリープラグの中で、大きく息を吐いた。

 視界の端で弐号機が膝をつき、それでもすぐに立ち上がる。それだけで身体の力が抜けそうになる。

 

 格納庫でプラグを降りると、アスカが腕を組んだまま待っていた。

 

「何よ」

 

 待っていたことを認めるのが嫌みたいな声だった。

 

「音楽室で、ヒカリが言ってたこと」

 

「は?」

 

「自分の声を消さない。でも隣を置いていかないって」

 

 アスカは一瞬だけきょとんとして、それからものすごく嫌そうに顔をしかめた。

 

「何それ。委員長理論?」

 

「たぶん」

 

「ほんっと生真面目」

 

 そこまで言ってから、口元が少しだけ緩んだ。

 

「でも、今日は使えたわね」

 

「うん」

 

「次は最初からそれやりなさいよ」

 

「努力する」

 

「努力じゃなくてやるの」

 

 言い返す声に、もう前日の刺みたいなものはあまり残っていなかった。

 

 * * *

 

 翌日の放課後、僕は本当に音楽室へ行った。

 

 使徒戦の翌日なのに、文化発表会の譜面はちゃんと机の上へ置かれていて、ヒカリは当たり前みたいに出欠を取っていた。世界が昨日みたいに終わりかけても、学校は学校の続きから始まる。

 

「碇君、音取れる?」

 

「うん。昨日よりは」

 

「そう。なら今日は最後まで」

 

 メトロノームの横へ立つと、アスカが最後列からこちらを見ていた。

 目が合うと、少しだけ顎を上げる。

 

「遅れないでよ、合図」

 

「そっちこそ」

 

「言うようになったじゃない」

 

 ヒカリが手を上げた。

 

「はい、行くわよ。自分の声は消さない。けど隣を置いていかない」

 

 最初の音を出す。

 

 教室の声はまだ完全には揃っていない。けれど前より少しだけ、同じ小節へ戻るのが早くなっていた。

 

 たぶん僕たちも同じだった。

 

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