【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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間話一 戻らない昨日

「前の時」、つまり逆行する前の僕は、この夜を経験していない。

 

 少なくとも、分裂する使徒戦のあとで自分の記憶そのものを剥がされるような使徒に遭った覚えはなかった。

 

 前に近い流れも、僕が少しずつずらしてしまった枝も、だいたいは知っているつもりでいた。けれど、知らない夜はたいてい、こちらが「ここまでは大丈夫だ」と思った場所から始まる。

 

 だから記憶にない未確認の反応が上がった時、僕は嫌な予感を消せなかった。

 

 使徒の反応は、夜の保守区画で見つかった。

 

 この前の戦いの残骸処理がようやく片づきかけた頃だった。

 

 使徒の波形に似た不規則な信号が上がる。

 

 零号機、初号機、弐号機が順番に出撃した。

 

 相手は大きくなかった。

 武器で狙える形を取る前に、そいつは一度だけこちらを向いた。

 

 顔はなかった。

 なのに、見られた感じだけがあった。

 

『シンジ君、下がって!』

 

 ミサトさんの声が飛ぶより早く、何かが初号機の視界いっぱいに広がった。

 

 白い。

 白いのに、その奥で別の色が何重にも明滅している。警報、断片、知らないはずの天井、知っているはずの声。頭の中で記憶の束が無理やり引き剥がされるみたいな痛みが走った。

 

『初号機、応答して!』

 

 アスカの声。

 綾波の声。

 ミサトさんの声。

 

 どれも遠い。

 どれも知っているはずなのに、置き場所が剥がれていく。

 

 次に目を開けた時、天井は白かった。

 

 病室だった。

 

 寝台の脇に、濃い色のジャケットを着た大人の女性がいた。少し離れたところに白衣の女性。その後ろに、青白い少女と、勝気そうな茶色い髪の少女がいる。

 どの顔にも見覚えはあった。

 けれど、その見覚えがどこから来たものなのか、僕の中ではまだどこにも繋がっていなかった。

 

「……ここは」

 

「病院。ネルフ付属の」

 

 濃い色のジャケットを着た大人の女性がすぐ答えた。そのあと、わざと分かりやすく言い直す。

 

「私は葛城ミサト。今はあなたと一緒に暮らしてる、って言うのが一番早いわね。保護者みたいなもの」

 

 白衣の女性が続く。

 

「赤木リツコ。検査を担当しているわ。医者だと思ってくれていい」

 

 青白い少女は短く言った。

 

「綾波レイ」

 

 茶色い髪の少女は、少しだけ顎を上げる。

 

「惣流・アスカ・ラングレー。あんたと同じ、エヴァパイロット」

 

 名前を順番に聞かされても、まだ札を胸に貼られただけみたいだった。覚えろと言われれば覚えられる。でも、その音が目の前の人間にきちんと結びつかない。

 

「分かる? 自分の名前」

 

 保護者と名乗った人、葛城さんに聞かれて、僕は口を開いた。

 

「碇シンジ」

 

「年齢」

 

「十四」

 

「お父さんの名前は」

 

「碇……ゲンドウ」

 

 そこまでは出る。

 けれど、白衣の人、赤木さんが次に「あなたは何に乗っていた?」と訊いた時、喉が詰まった。

 

「……分かりません」

 

 沈黙が落ちた。

 

 赤木さんは表情を変えないまま、手元の端末へ何かを書き込む。

 

「意味記憶は残っている。日常動作と一般知識も大部分は保たれているわね。欠けているのはここに来てからの自伝的記憶、それから」

 

 そこで一度、まっすぐこちらを見た。

 

「あなた自身の中で、異様に強く反復されていた別の層の記憶」

 

 何のことかは分からない。

 分からないのに、その言い方だけが妙に胸へ引っかかった。

 

「エヴァも?」

 

 葛城さんが低く聞く。

 

「手順は身体に少し残っているはず。でも、本人がそれを“自分の記憶”として繋げられない」

 

「要するに、覚えてないってことでしょ」

 

 アスカと名乗った子が苛立った声で言う。

 

「そう」

 

 赤木さんは短く頷いた。

 

「未確認使徒はまだ生きている。昨夜のうちに区画から逃げた。放っておけば、また同じことをしてくる可能性が高いわ」

 

「じゃあ、今のこいつをまた乗せる気?」

 

「乗せるためにも、まずは安定させる」

 

 葛城さんが腕を組んだ。

 

「学校へは行かせる。いつも通りの生活を残した方が、戻る足場になる」

 

「いつも通りって」

 

 アスカと名乗った子は吐き捨てるように言った。

 

「あたしと一緒に住んでて、エヴァに乗って、使徒に襲われるのが?」

 

 言葉の棘の強さに比べて、顔色は少し悪かった。

 腹を立てているのか、怖いのか、その両方なのかまでは、今の僕にはまだ分からない。

 

 葛城さんは疲れた顔で息を吐いた。

 

「そういう意味じゃないわよ」

 

 その後の説明を、僕は半分くらいしか覚えていない。

 覚えているのは、僕がこの街へ来てからのことをほとんど失くしていることと、何かがまだ終わっていないらしいことだけだった。

 

 * * *

 

 学校は、僕の知らない“昨日”をいちばん容赦なく見せた。

 

 教室の扉を開けた瞬間に、何十人分もの視線が集まる。知らない人たちではない。たぶん昨日までの僕は、ここでちゃんと暮らしていたはずだ。なのに、その繋がりが自分の中にない。

 

「碇」

 

 背の高い少年が最初に立ち上がった。

 

「ワシは鈴原トウジ。お前のクラスメイトや。昨日までのこと、ほんまに抜けとるんか」

 

「一応……そうみたい」

 

「一応て」

 

 眼鏡の少年が椅子を鳴らして近づいてくる。

 

「相田ケンスケ。クラスメイト。たぶん友達。エヴァとか使徒とか、そのへんまで本当に覚えてないの?」

 

「余計なこと言わない」

 

 出席簿を抱えた少女がすぐに遮った。こちらへ来て、少しだけ声を落とす。

 

「洞木ヒカリ。学級委員。席、分かる?」

 

「……たぶん」

 

 視線を巡らせると、一つだけ“そこだ”と分かる机があった。理由は説明できない。けれどそこへ身体が先に向く。

 

「合ってる」

 

 洞木さんは、ほっとしたように言った。

 

「良かった」

 

 席へ着く時、隣の列から強い視線を感じた。惣流さんだった。朝から機嫌が悪い顔をしている。けれど、ただ怒っているだけの目ではない。

 

「何」

 

 思わず訊くと、惣流さんはすぐに顔を背けた。

 

「別に」

 

 それだけだった。

 

 ホームルームのあと、教室はすぐ普段の騒がしさへ戻ろうとした。授業、連絡事項、配布物。黒板の端には文化発表会の進行表と、音楽室使用時間の紙が貼られている。見た瞬間、それが少し懐かしいと思った。

 

「碇君、昼休み空いてる?」

 

 洞木さんが聞く。

 

「え?」

 

「文化発表会の、弦の入りだけ確認したいの。昨日は途中で抜けたから」

 

「弦?」

 

「チェロ。あんたが受け持ってた」

 

 チェロ、という言葉だけで、指先に微かな感触が戻る。木の胴を膝で挟む角度。弓の重さ。開放弦を鳴らした時の腹に落ちる振動。

 

「やれるかもしれない」

 

「かもしれない?」

 

「分からないけど、触れば何か思い出す気がする」

 

 それを聞いていた背の高い少年が、妙な顔でにやっとした。

 

「ほな、昼休みは音楽室集合やな」

 

「面白がって騒がないでよ」

 

 洞木さんが先に釘を刺す。

 

「確認するだけなんだから」

 

「分かっとる、分かっとる」

 

「ぜんぜん分かってない顔してる」

 

 二人は笑ってごまかした。

 そのやり取りを見ていると、ここにはちゃんと昨日までの続きがあるらしいと分かる。僕だけが、その続きへ遅れている。

 

 昼休みの音楽室で、僕はケースの留め金を外した。

 

 中にいたのは、細長い木の身体だった。

 触れた瞬間、知らないはずの重さが手に馴染む。エンドピンを伸ばす。膝で支える。弓を持つ。そこまでの動きが、考えるより先に出た。

 

「……ほんとに残ってるんだ」

 

 自分で呟くと、洞木さんが少し明るい声を出した。

 

「良かった」

 

 後ろでは何人かが譜面を広げている。相田君が歌詞を読み違え、鈴原君が笑い、洞木さんが止める。青白い少女、綾波さんは静かに譜面を見ていて、惣流さんだけが歌詞より僕の左手の方を気にしていた。

 

 弓を引く。

 低い音が、部屋の床へまっすぐ落ちる。

 一音、二音。複雑なものじゃない。でも、それで十分だった。全部を忘れたわけじゃない。言葉に出来ないだけで、身体の奥にはまだ昨日の名残が沈んでいる。

 

「弾けるじゃない」

 

 惣流さんが、少しだけ意外そうに言う。

 

「そうみたい」

 

「バカシンジのくせに」

 

「何?」

 

「別に」

 

 前奏の代わりに、洞木さんが手拍子で拍を取る。僕が同じ小節へ低音を置く。そこへ声が重なる。完全じゃない。でも、誰か一人がずれるとすぐに分かる。逆に、全員が同じ拍へ乗れた瞬間も分かる。

 

 その感覚は、どこかで知っていた。

 もっと巨大な身体で、もっと取り返しのつかない場面で、たぶん僕は同じことをやっていた。

 

 練習のあと、片づけを手伝っていると、惣流さんが譜面台を抱えてこちらへ来た。

 

「持ち方、逆」

 

「え?」

 

「そっちだと角が床に当たる」

 

 言うだけ言って、譜面台をひったくるみたいに持ち替えさせる。その手つきが早い。慣れている。

 

「ありがとう」

 

「別に」

 

 言い方は素っ気ない。でも、そのまま立ち去らない。

 

「惣流さん」

 

「……その呼び方、やめて」

 

「え」

 

「堅いのよ」

 

 少しだけ考えてから、付け足す。

 

「アスカでいい」

 

 洞木さんが向こうで聞こえないふりをした。たぶん聞こえている。

 

「じゃあ、アスカ」

 

 呼んだ瞬間、アスカが一拍だけ固まる。

 怒るのかと思った。けれど、怒鳴りはしなかった。

 

「何よ」

 

「僕たち、前はもっと仲が悪かった?」

 

 自分でも妙な質問だと思う。

 でも、今のその子の怒り方は、ただの他人へ向けるものとは少し違う気がした。

 

「……悪かったわよ」

 

「今は?」

 

「面倒」

 

 即答だった。

 

「でも、それは仲悪いっていうのとはちょっと違う」

 

 そこまで言ってから、アスカは自分で余計なことを言った顔をした。

 

「ごめん」

 

「そこで謝るなってば」

 

 呆れたように息を吐く。

 

「ほんっと、そういうとこ」

 

 そう言われても、何のことか分からない。分からないのに、その言い方が少しだけ懐かしかった。

 

 * * *

 

 記憶を失くしてからの僕は、物をまっすぐ見すぎていた。

 

 夕方の廊下で重い教材を運んでいる洞木さんがいたら、半分持つ。返却箱がずれていたら直す。アスカが怒っている時は、怒っていると分かる。前の僕がそれを出来ていたのかは知らない。でも、今の僕はそうするしかないと思った。

 

 アスカはそのたびに少しずつ顔をしかめた。

 

 優しいからではない。

 たぶん、余計だったからだ。

 

「何よ、その顔」

 

 帰り道、とうとう聞かれた。

 

「顔?」

 

「困ってる人見るとすぐ手が出るみたいな顔」

 

「だって困ってたら」

 

「前はそんなに素直じゃなかった」

 

「そうなんだ」

 

 アスカは歩きながら舌打ちした。

 

「そうよ。もっと面倒で、もっと捻くれてて、でも……」

 

「でも?」

 

 その子はそこで黙った。

 黙ってから、歩幅だけは少し緩めた。僕が自然に並べる速さまで。

 

「……今のあんた、変」

 

「ごめん」

 

「だから謝るなってば!」

 

 怒鳴ってから、自分でもおかしくなったのか、少しだけ笑いそうになるのをこらえていた。

 

「変だけど、その方が話は早いのよ」

 

 その言い方が、少しだけ優しかった。

 

 夜、葛城さんの家で夕飯を食べている時も、空気は妙だった。

 僕にとっては初めての食卓に近いのに、みんなにとっては昨日までの続きらしい。座る位置、皿の取り方、ペンペンが魚を狙う順番まで決まっている。僕だけが少し遅れる。

 

「シンジ君、味噌汁取って」

 

「はい」

 

 自然に手が伸びる。どの棚に何があるかも、少しなら分かる。身体が先に覚えている。

 

「ほんと、そこだけは残ってんのよね」

 

 向かいのアスカがぼそっと言った。

 

「どこ?」

 

「家事」

 

 それからすぐに、いかにも嫌そうな顔で付け足す。

 

「あと、変に気がつくとこ」

 

「それは残ってていいんじゃない?」

 

 葛城さんが軽く言ったら、アスカはむっとした顔で箸を置いた。

 

「良くないわよ。調子狂うもの」

 

 そのまま席を立ち、食器を流しへ持っていく。怒っているように見えて、皿の置き方は乱暴じゃない。

 

 見送ってから、僕は小さく聞いた。

 

「僕って、あの子を困らせてますか?」

 

 葛城さんはすぐには答えなかった。

 

「困らせてるっていうか、予定外なんでしょ」

 

「予定外?」

 

「うん。あの子、準備してないことに弱いから」

 

 その説明で全部が分かるわけじゃない。

 でも、分からないなりに、あの子が怒っている理由が少しだけ人間的に見えた。

 

 その夜、僕は客間で寝る前に一度だけSDATの再生ボタンを押した。

 流れてくる曲は知らない。知らないのに、巻き戻す指だけが正しい位置を知っている。

 

 ドアの向こうで、あの子の足音が一度だけ止まった。

 

「……まだ起きてる?」

 

「うん」

 

 襖が少しだけ開く。

 その子は寝巻きのまま、でもちゃんと睨める顔で立っていた。

 

「明日、また学校来るの?」

 

「そのつもり」

 

「ふうん」

 

 そこで帰ればいいのに、帰らない。

 

「怖くないの」

 

「何が」

 

「何がって……エヴァとか、使徒とか、そういうの」

 

 怖い。

 怖くないと言ったら嘘になる。思い出せないものほど、輪郭だけで人を脅かす。

 

「怖いよ」

 

 正直に言うと、その子が少しだけ目を丸くした。

 

「でも、今日みんなを見てたら」

 

「うん」

 

「僕、たぶん逃げるのは嫌なんだと思う」

 

 それは誰かに教わった理屈ではなかった。

 思い出した過去でもない。ただ、教室と食卓と、あの子の怒った顔を見ていたらそう思った。

 

 その子はしばらく黙っていた。

 

「……変なの」

 

「そうかな」

 

「前より、よっぽど」

 

 言いながら、襖の縁へ手を置く。

 

「でも」

 

「でも?」

 

「今の方が、ちょっとだけ人間っぽい」

 

 言ってから、自分で何を言ったのかに気づいたのだろう。その子はすぐに顔をしかめた。

 

「忘れなさい」

 

「覚えておく」

 

「そういう返事するのも、前はもっと下手だった」

 

 それだけ言って、襖は閉じた。

 

 * * *

 

 翌朝、警報が鳴った。

 

 使徒の反応は学校のすぐ外ではなかった。けれど、進路がこちらへ向いていると分かるだけで、教室の空気は一瞬で変わる。チャイムと避難放送、机を引く音、泣き出しそうな子の呼吸。

 

 洞木さんが真っ先に立った。

 

「窓側から順番! 押さない、走らない!」

 

 トウジが後ろの列を回し、ケンスケが廊下の様子を見る。綾波さんはもう立っていて、アスカは不機嫌な顔のままでも出口側を塞がない位置へ移っていた。

 

 僕の身体が、そこで勝手に動いた。

 

 避難経路。角の曲がり方。階段で詰まりやすい場所。そんなもの、説明された覚えはないのに、足だけが知っている。

 

「こっち」

 

 気づけば、一番後ろの子の手を引いていた。

 

「急がなくていい。止まらないで」

 

 声に出すと、それが自分の声で少し驚く。

 

 校庭へ出た所で、空気が一度だけ震えた。遠くの地面が白く波打つ。昨日の夜、僕から記憶を剥がしたあの“顔のない何か”が、今度はもっとはっきりした輪郭で立っていた。

 

『パイロットは直ちに本部へ』

 

 拡声器越しの声は聞き覚えがあるのに、まだ名前より役目の方が先に分かる。葛城さんの声だった。

 

 アスカがこちらを見る。

 その目は「来るの」と訊いていた。

 

 怖い。

 でも、逃げたくはない。

 

「行く」

 

 言った瞬間、アスカの顔が少しだけ変わった。ほっとしたのか、腹が立ったのか、両方かもしれない。

 

「じゃあ遅れないで」

 

 それだけ言って走る。

 僕も後を追った。

 

 * * *

 

 発令所の空気は、昨日の病室よりずっと冷たかった。

 

『相手は昨夜の未確認使徒と同一。精神侵食に加えて、模倣能力あり』

 

 赤木さんがモニタを切り替える。

 波形の上に、見覚えのないはずの戦闘データが重なる。光線、分裂、虚像。どこかで見た気がするものばかりだった。

 

『あなたの記憶を剥がした時に、過去の戦闘パターンまで盗んでる可能性がある』

 

「最悪じゃない」

 

 アスカが吐き捨てる。

 

『だから三機で出す。綾波は射線確保、アスカは前衛、シンジ君は――』

 

 葛城さんが一瞬だけ言葉を止めた。

 

『自分で選びなさい』

 

 その言い方だけで、今の自分がまだ完全には信用されていないのだと分かった。

 それでよかった。信用されなくても、ここにいたいと思ったからだ。

 

「……前に出ます」

 

『理由は?』

 

 赤木さんの声。

 

 分からない。戦術だけなら、もっと正しい答えがあるかもしれない。

 でも、答えは一つしか出てこなかった。

 

「アスカを一人にしたくないから」

 

 通信回線の向こうで、前衛の少女が息を呑んだのが分かった。

 発令所は一瞬だけ静かになる。

 

『了解』

 

 短く返したのは、葛城さんだった。

 

 エントリープラグへ沈む。

 LCLの感触が怖い。怖いのに、身体のどこかはこれを知っている。手順が手へ戻る。視界が開く。初号機の腕が、自分の腕より少し遅れて上がる。

 

『シンジ』

 

 通信が開き、あの声が飛び込んできた。

 

『無理しないで』

 

「うん」

 

『でも逃げないで』

 

「うん」

 

 そこで、かすかに笑ったような気配があった。

 

『それでいい』

 

 戦闘は、記憶がない方がむしろ見えやすい部分もあった。

 

 余計な説明がない。目の前の危険と、隣の二機の動きだけを見ればいい。赤い機体が前へ出る癖。青白い機体が射線を空ける癖。二人の間に自分の身体を差し込む位置。全部、頭より先に身体が知っていた。

 

 使徒は途中で、父さんの顔を見せた。

 黒い手袋。冷たい目。拒絶の輪郭。

 

 胸が縮む。

 けれど、今の僕はその拒絶へ意味を積み重ねていない。怖い。ただそれだけだ。だから一瞬で済んだ。

 

『右!』

 

 葛城さんの声で身を捻る。光線が肩を掠める。弐号機がその隙へ蹴り込む。零号機が後方から拘束射を撃つ。三人の動きが一度だけ綺麗に噛み合う。

 

 コアが見えた。

 

『今!』

 

 射線が開く。

 僕の口が、考えるより先に動いた。

 

「行く!」

 

 零号機の支援でコアが一瞬だけ剥き出しになる。初号機のナイフがそこへ届いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 

 教室。

 使徒。

 アスカの怒鳴り声。

 ミサトさんの台所。

 綾波の沈黙。

 前の時の痛みと後悔。

 それでもやり直したいと思っていた自分。

 

 失っていた昨日が、形を変えたまま一気に戻ってくる。

 

 眩暈がした。

 でも手は止まらない。

 

 ナイフを深く押し込み、コアが割れる。

 白い身体が内側から崩れ、精神を引き剥がしていた圧が一瞬で消えた。

 

『シンジ君!』

 

 今度は、はっきりミサトさんの声だと分かった。

 

「……大丈夫です」

 

 そう答えた時、自分の声が昨日までの自分のものへ戻っているのが分かった。

 

 * * *

 

 病室の天井は、昨日と同じ白さだった。

 

 違うのは、そこへ意味が戻っていることだった。ここがどこで、なぜ自分が寝ていて、誰がどんな顔でこちらを見ているのかが全部分かる。

 

「戻った?」

 

 ミサトさんが聞く。

 

「はい」

 

「どこまで」

 

 リツコさんが静かに確認する。

 

「ここに来てからも、その前も……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「全部、きれいにじゃないです。でも、分かります」

 

 言いながら、自分でも変な感じがした。

 戻ったはずなのに、昨日の“何も背負っていない僕”が完全に消えたわけでもない。あの時の感覚が、薄い皮みたいにまだ内側へ残っている。

 

 ミサトさんが少しだけ力を抜いた。

 

「よかった」

 

 そのあと、大人たちは結果確認のために部屋を出た。残ったのは、アスカと綾波だけだった。

 

 綾波はいつもの顔でこちらを見る。

 

「もう、分かるのね」

 

「うん」

 

「そう」

 

 それだけ言って頷き、先に出て行った。

 

 アスカだけが残る。

 腕を組んだまま、ベッド脇の椅子へも座らない。

 

「……何よ」

 

「何って」

 

「戻ったなら、なんか言うことあるでしょ」

 

 ある。

 ありすぎて、何から言えばいいか分からない。

 

「ごめん」

 

「最初にそれ言うと思った」

 

 即答だった。

 

「でも、今はそれだけじゃないでしょ」

 

 アスカは少しだけ視線を逸らし、それから小さく続ける。

 

「昨日のあんた、変だった」

 

「うん」

 

「人の荷物持つし、思ったことすぐ口にするし、変にまっすぐだし」

 

「……うん」

 

「前よりずっと面倒で、前よりずっと分かりやすかった」

 

 そこで一度だけ息を止める。

 

「でも、ちょっとだけマシだった」

 

 僕はしばらく何も言えなかった。

 昨日の僕は、もう戻らない。あの軽さも、あの無防備さも、そのままでは二度と来ない。

 それでも、そこにいた僕がアスカへ向けたものだけは、今の僕の中にも残っている。

 

「僕も」

 

 言葉を探してから、ようやく続ける。

 

「昨日のこと、全部は覚えてないけど、なくしたくないと思う」

 

 アスカがこちらを見る。

 怒るかと思った。茶化されるかと思った。どちらでもなかった。

 

「じゃあ、次にまた忘れたら」

 

「うん」

 

「今度はちゃんと覚えたまま、同じこと言いなさいよ」

 

 それだけ言って、そっぽを向く。

 

「逃げるのなしで」

 

「うん」

 

「返事だけはほんと素直」

 

 呆れた声だった。けれど、その呆れ方は昨日より今の温度に近かった。

 

 翌日の昼休み、ヒカリは何事もなかったみたいに譜面を僕の机へ置いた。

 

「今日、来られる?」

 

「行く」

 

「そう。じゃあ最初から合わせるわよ」

 

 トウジとケンスケはその横で、また何か面白いことを言いたそうな顔をしていた。ヒカリが先に睨む。

 

「二人とも、今日は静かに」

 

「まだ何も言うてへん」

 

「顔がそう言ってる」

 

 教室に笑いが戻る。

 後ろからアスカが「バカ」と小さく言う。

 綾波は窓際で譜面を開いた。

 

 昨日は、もう戻らない。

 記憶を失くしていた時間も、そこでしか言えなかった言葉も、そのままでは二度と来ない。

 

 でも、戻らないからこそ残るものがある。

 前の時にもなかったこの夜を、僕はきっともう繰り返せない。

 それでも、あの時のまっすぐさだけは、なくさないでいたいと思った。

 

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