【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾話 マグマダイバー

修学旅行の話が出た時、アスカは珍しく本気で機嫌が良かった。

 

 沖縄。海。水着。加持さんと買い物に出た帰りの袋を、アスカはリビングの椅子へ投げるみたいに置いていた。浮かれているのが丸分かりで、見ているこっちが少し気まずいくらいだった。

 

 だから、戦闘待機で中止だと告げられた時の怒り方も、いつもよりまっすぐだった。

 

「なんでよ! 修学旅行くらい行けるでしょ!」

 

「行けない。今回は待機優先」

 

 ミサトさんは言い切った。アスカは噛みついたが、そこで話は終わらない。

 

「勉強できる時間が増えたと思いなさい。日本の学校にも、まだ慣れきってないでしょ」

 

「成績の話は今しないで!」

 

 アスカはそう怒鳴って部屋へ引っ込んだ。けれど翌日、プールサイドで問題集を広げている僕の横へ来ると、沖縄へ持っていくはずだった水着の上からタオルを羽織ったまま、いきなり僕のノートを覗き込んだ。

 

「そこ、式が雑」

 

「見なくていい」

 

「熱膨張のとこで詰まってるんでしょ。だったら、こう」

 

 アスカの指がノートの上を走る。式変形が早い。日本語の教科書にはまだ引っかかるくせに、理屈の方は迷いがない。

 

「さすが大卒」

 

 つい口に出てしまってから、しまった、と思った。

 

「……何で知ってるの?」

 

「誰だったかな……」

 

 苦しいごまかしだと自分でも思う。

 

「ふーん……。まぁ、日本語で引っかかるだけ。理科と数学は別」

 

 言い方はいつも通り棘がある。でも、少しだけ得意そうだった。

 追及がそれ以上なくてほっとした。

 

 その日の夕方、本部に戻ると空気が変わっていた。

 

 浅間山火口。

 観測機。

 パターン青。

 

 モニターの中の火口は、見ているだけで喉が渇くほど赤い。蛹のまま眠っているみたいな使徒の輪郭を、リツコさんが冷たく分析していく。今回の目標は殲滅ではなく捕獲。できるだけ原形を保ったまま生きて回収する。

 

 それを聞いたアスカは、さっきまでの不機嫌を引きずったままでも前へ出た。

 

「弐号機で行くわ」

 

 その決め方だけは速い。

 

「当然ね。D型装備の適合は弐号機が最優先。降下後の接近戦も、現時点ではアスカがいちばん向いてる」

 

 ミサトさんが補う。スクリーンには耐熱装甲、冷却配管、拘束用の捕獲ケージ、緊急浮上用のワイヤー図まで並んでいた。

 

 僕はそこで初めて口を開いた。

 

「僕と綾波は?」

 

「地上待機。非常時の回収班」

 

 リツコさんが即答する。

 

「火口内で戦うのは弐号機のみ。初号機と零号機はマグマ内運用に最適化されていない。あなたたちの役目は、引き上げと、失敗した時に生きて連れ戻すこと」

 

 失敗した時。

 

 その言い方に、喉の奥が少し乾いた。

 

「要するに、あたしが潜って、あんたたちは上で見てればいいってこと」

 

 アスカは腕を組んで言った。

 

「見てるだけじゃない」

 

「でも、戦うのはあたし一人」

 

 その通りだった。

 反論できない。

 

 発令所を出る途中、僕は通路の角で足を止めた。

 

 加持さんが、見慣れない背広の男と低い声で話していた。相手はネルフのIDを下げていない。資料封筒の受け渡しが見えて、僕は思わず息を潜めた。

 

「政府側には“捕獲優先”で通しておきます」

「助かるよ。こっちも無茶はさせたくない」

 

 加持さんがこちらを振り向く。目が合った瞬間には、もういつもの飄々とした顔へ戻っていた。

 

「シンジ君。大人には大人の宿題があるんだ」

 

 冗談みたいな口調だった。

 でも、ただのネルフ職員の顔じゃないことだけは、その時の僕にも分かった。

 

 発進前の更衣区画は、ふだんよりずっと暑かった。

 

 機材の熱なのか、準備する人間の数なのか、理由は分からない。とにかく壁際のラックに吊られた耐熱スーツの内側まで、触れるだけでじっとりしている。マヤさんがチェック表を片手に走り回り、技術部員が冷却材の箱を開け閉めし、誰かが床へ落とした工具の音が金属質に響いた。

 

「冷却タオル二本、水筒二本、塩タブレット、予備通信機」

 

 ミサトさんが机の上へ並べていく。

 

「アスカは全部持つ。降下中に誰も渡せないから」

「分かってる」

 

 アスカは文句を言わず、自分で水筒の蓋を開けて中身まで確かめた。熱の中で喉が渇くことを、もう頭じゃなく身体で分かっている顔だった。

 

 僕は机の端にあった救急ポーチまで掴みかけた。

 

「それは地上班」

 

 リツコさんの声が飛ぶ。

 

「シンジ君。あなたは予備通信機と回収用の手動ラッチ確認。持ち込みたい気持ちは分かるけど、降下班の荷重を増やさない」

 

 アスカがちらりと僕を見た。

 

「ほらね」

 

「別に、増やそうと思ったわけじゃ」

 

「思ったから掴んだんでしょ」

 

 返せなかった。

 

 彼女は救急ポーチを脇へ押しやり、自分の腰ベルトに塩タブレットの袋を通しながら、係員へ顎をしゃくった。

 

「紐、長すぎ。そこ余ると引っかかる」

 

 若い整備員が慌てて調整する。加持さんが横から見て、感心したように笑った。

 

「アスカ、お前ほんとこういう時だけ異様に細かいな」

 

「こういう時だから細かいの。雑にやって死ぬのはごめんだもの」

 

 返事の速さに、加持さんもそれ以上は何も言わなかった。

 

 隣のラックでは、綾波が回収用ワイヤーの接続金具を確認していた。レンズの曇り、予備ケーブル、手袋の縫い目。触る指先が静かで、その静けさが逆に忙しさを際立たせる。

 

 僕は支給された手袋をはめた。指先が少し余る。うまく掴めない感覚に眉をひそめていると、アスカが一歩寄ってきてマジックテープを留め直した。

 

「そこ、きつくしなさい。引っ張る時にずれたら終わり」

 

「自分でできる」

 

「できてないから言ってる」

 

 留めたあと、彼女は一度だけ僕の掌を軽く叩いた。

 

「それと、水は我慢するな。あんた、待機してる方が平気で息止めるんだから」

 

「それ、励まし?」

 

「違う。注意」

 

 そう言い切ってから、自分のスーツのファスナーへ手をかける。鏡に映る茶色い髪と白い首筋が、熱気の中でも妙にはっきりしていた。戦う前だというのに、彼女は自分の装備の位置と体の都合を先に整える。その順番が少し羨ましかった。

 

 加持さんが耐熱ケースを一つ持ってきた。中には簡単な工具と折り畳みナイフ、予備の発煙信号、それから紙のメモが入っている。

 

「最悪の時は紙が最後に残る。覚えとけ」

 

 笑っているのに、冗談の顔ではなかった。

 

 僕はケースの中身を一つずつ目で追った。水。熱。工具。紙。こうして並べられると、作戦というよりただの生存の準備に見える。

 

 たぶん実際そうなのだろう。戦うことと生き延びることは、案外べつの話じゃない。

 

 遠くで出撃準備のアナウンスが鳴った。

 

 アスカが先に歩き出す。僕は予備通信機と回収ラッチを抱え、少し遅れてその後ろを追った。

 

 火口周辺の臨時管制所は、山の空気があるはずなのにひどく暑かった。

 

 送風機の音、発電機の唸り、遠くで鳴るヘリのローター。臨時の机に地図と熱分布図が重ねて置かれ、コードが床を這っている。学校の文化祭前夜みたいな雑然さなのに、ここで間違えれば死ぬのだと誰もが知っている空気だけが違った。

 

「セカンド、最終確認」

 

 父さんの声がスピーカー越しに落ちる。

 番号で呼ばれるたび、胸のどこかが少し冷えた。

 

「冷却循環、正常。バッファ残量、規定値。回収ケージ展開、五秒」

 

 綾波が淡々と読み上げる。数字の声だった。

 僕は回収ワイヤーの金具を握りしめたまま、火口の赤を見下ろした。熱気で視界の端が揺れる。あの下へ、アスカが一人で行く。

 

「シンジ」

 

 振り向くと、アスカがヘルメットのバイザーを上げたままこちらを見ていた。

 

「何」

 

「言っとくけど、戦うのはあたし一人だから」

 

「分かってる」

 

「分かってない顔してる」

 

 図星だった。

 

「また怖い方ばっか先に見てるでしょ」

 

「……怖いよ」

 

 ごまかせなかった。

 

「知ってる」

 

 アスカはすぐ言った。

 

「でも、それをあたしの弱さみたいに見るのはやめて」

 

 返事が出ない。

 

「見るならちゃんと見なさい。あたしが勝つところを」

 

 そこで初めて、僕は頷いた。

 

「うん」

 

「返事だけはいいのよね」

 

 アスカはバイザーを下ろす。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

 降下ケージが動き出す。

 弐号機が赤い光の方へゆっくり沈んでいく。

 見ているだけの自分の手が、回収ラッチの金具を握りすぎて痛かった。

 

 降下開始。

 

 モニターには火口内部の映像が映る。赤い流動。黒い岩肌。熱の揺らぎで輪郭が歪む。弐号機の外装温度が数字で跳ね、冷却循環のバーがじわじわ削れていく。

 

『外壁到達。視界不良だけど、まだ平気』

 

 アスカの声は平然としていた。

 平然としているのに、その平然さの裏へどれだけ神経を使っているのかが、今は少しだけ分かる。

 

「降下速度維持。回収ケージ、射出準備」

 

 リツコさんの指示で、画面の端に捕獲ケージの展開図が重なった。丸い枠、可動爪、固定ラッチ。人を生かすための道具と、何かを閉じ込めるための道具は、見た目だけだと案外似ている。

 

『目標、視認』

 

 弐号機の前方に、胎児みたいに丸まった影が現れた。

 使徒。まだ孵化しきっていない。なのに、見ているだけで気持ちが悪いくらい生き物の気配があった。

 

『ケージ行くわ』

 

 アスカが弐号機を寄せる。

 マグマの流れが機体の足元で渦を巻く。熱波で映像がにじむ。僕は息をするのを忘れたまま見つめていた。

 

『固定——』

 

 その瞬間だった。

 

 影が裂ける。

 殻みたいだった外皮が内側から破れ、尾と顎が一気に開いた。胎児の形をしていたものが、次の瞬間には牙を持った生き物へ変わる。

 

「孵化!」

 

 誰かが叫ぶ。

 アスカは叫ばない。

 

『分かってる!』

 

 弐号機が身をひねる。使徒の咬みつきが肩のすぐ横を抜ける。マグマがしぶきみたいに跳ね、画面が真っ赤に染まる。

 

 戦うのは、アスカ一人だった。

 

 指示は飛ぶ。

 数字も飛ぶ。

 でも実際に牙の前で機体を動かしているのは弐号機だけだ。

 

『温度上昇。冷却循環、二割低下』

 

「アスカ、深追いしないで! 回収失敗、殲滅へ切り替える!」

 

『了解!』

 

 返事の直後、弐号機が沈むように腰を落とした。

 次の一拍で、マグマの流れを横へ切る。真正面からぶつからない。流れごといなして、顎の開いた使徒の喉元へ脚を滑り込ませる。弐号機が反転し、使徒を火口壁へ叩きつけた。

 

「すごい……」

 

 口から漏れていた。

 技量だけで言えば見事だった。けれど見事だと認めた瞬間に、見ているだけの自分の無力さも際立つ。

 

『コア、下腹部!』

 

 綾波の声。

 アスカはもうそちらを見ていないみたいだった。見なくても分かるという動きだった。使徒が再び飛びかかる。弐号機が半身ずらして躱し、拘束用のフックを尾へ掛ける。引き、ひねり、近づく。近づきすぎれば焼かれる距離で、アスカは機体の腕を使徒の腹へ差し込んだ。

 

『そこ!』

 

 ナイフが閃く。

 コアにひびが入る。

 使徒の口から泡みたいな熱が噴いた。

 

 けれど同時に、弐号機の背部で警報が鳴った。

 

『ケーブル絡んだ!』

 

 回収ワイヤーの一部が、孵化した時の殻へ引っかかっていた。弐号機が使徒から離れようとした反動で、冷却配管と絡まり合っている。

 

「浮上ワイヤー停止!」

「いや、止めるな、引かれる!」

 

 管制所の声が重なる。

 モニターの中で弐号機の姿勢が崩れた。足元のマグマが吹き上がる。使徒はまだ死んでいない。ひびの入ったコアを庇うみたいに身を丸め、弐号機の脚へ噛みついた。

 

『っ……!』

 

 そこで初めて、アスカの声に痛みが混じった。

 

「アスカ!」

 

『うるさい! 聞こえてる!』

 

 怒鳴り返してくる声が、逆に少し安心だった。

 でも次の瞬間、温度計が跳ね上がる。冷却循環のバーが赤くなる。弐号機の右脚装甲に亀裂。

 

「もう一度コアへ! 今度で決めて!」

 

 ミサトさんが叫ぶ。

 

 アスカは答えなかった。

 答える余裕がないのだと、画面を見れば分かった。

 

 弐号機が噛みつかれた脚を、逆に踏み台みたいに使う。沈み込み、使徒の懐へ潜り込む。逃げるんじゃない。近づく方を選ぶ。その判断の速さがアスカらしかった。

 

 ナイフがもう一度振り下ろされる。

 今度は深く入った。

 コアが割れ、使徒の体が内側から白く光る。

 

「パターン青、消失!」

 

 終わった。

 そう思った瞬間、別の警報が走った。

 

『火口内圧上昇! 局地噴出来ます!』

『回収ワイヤー損傷、三番系統死んでます!』

 

 弐号機の周囲でマグマが一気に持ち上がる。

 死んだ使徒の体が崩れ、その下に絡んでいたワイヤーと装甲片が全部一緒に渦へ呑まれた。

 

『うそ……』

 

 アスカの声が小さくなる。

 そこで初めて、僕の背中まで冷えた。

 

『浮上しない』

 

「メインウィンチ、応答なし!」

「補助系も熱変形!」

 

 火口の底へ、弐号機がじわじわ引かれていく。

 使徒との戦いは終わった。

 でも、まだ終わっていない。

 

「初号機、回収装備で降ろす!」

 

 僕が言うより早く、ミサトさんが叫んだ。

 

「シンジ君、行ける!?」

 

「行く!」

 

 返事の方が体より早かった。

 綾波がすでに回収ラッチを差し出している。

 

「右側の冷却配管が弱ってる。近づきすぎると初号機も保たない」

 

「分かった」

 

「嘘。分かってない顔してる」

 

 綾波の声は静かだった。

 でも手は迷わない。金具のロック位置、補助ワイヤーの巻き癖、全部一つずつ僕の目の前で確かめてから渡してくる。

 

「引き上げるだけ。戦わないで」

 

「うん」

 

 カタパルトまで走る途中、父さんの声がまたスピーカーから落ちた。

 

『回収を優先しろ。機体損耗は許容範囲内だ』

 

 許容範囲。

 その言葉に腹が立った。

 でも今は反論している暇がない。

 

 初号機の視界が開く。

 火口の赤が、さっきまでより近い。

 発進の衝撃。耐熱装備の重さ。機体の外壁へ熱がぶつかる音まで聞こえそうだった。

 

『初号機、降下開始』

 

 マグマのすぐ上まで降りる。

 視界が赤と黒しかなくなる。熱波でモニターが白く曇る。どこに弐号機がいるのか、一瞬見失いかけた。

 

『シンジ、右下!』

 

 ミサトさんの声で視線を振る。

 いた。

 弐号機が半身沈んだまま、火口壁へ辛うじて引っかかっている。右脚はほとんど動いていない。背部の配管が一つ千切れて、白い蒸気が短く噴いていた。

 

「アスカ、聞こえる!?」

 

 返事がない。

 心臓がひどく鳴る。

 

「アスカ!」

 

『……聞こえてる』

 

 途切れ途切れの声だった。

 その途切れ方が、さっきまでよりずっと怖い。

 

『遅いのよ、バカ……』

 

「喋れるなら喋って。息、できてる?」

 

『そこ、最初に聞く?』

 

「できてるの?」

 

『……できてる』

 

 その一言だけで、胸の真ん中が少しだけ戻る。

 でも戻ったのは、たぶんそこだけだった。

 

 初号機を寄せる。

 熱い。近づくだけで操縦桿の向こうへ熱が伝わってくる気がする。初号機の腕で弐号機の肩を掴み、左手で補助ワイヤーを背部ラッチへ通す。見えにくい。手袋の中の指まで汗で滑る。

 

『右、二センチ上』

 

 綾波の声が飛ぶ。

 言われた通り動かす。

 金具が噛んだ。

 

「ロックした!」

 

『ウィンチ接続確認! 引き上げる!』

 

 火口上の機材が唸る。

 でも一回では上がらない。弐号機の脚が岩へ引っかかっている。マグマの流れが下へ引いている。初号機の腕へありえない重さがかかる。

 

 アスカの呼吸が、通信の端で短くなる。

 

『シンジ……』

 

「なに」

 

『落としたら承知しない』

 

 こんな時までそれか、と思う。

 思うのに、少しだけ笑いそうになった。

 

「落とさない」

 

『今の、ちゃんと覚えときなさいよ』

 

「なにを」

 

『あたしが勝ったとこ』

 

 その言い方はかすれていた。

 でも、確かにアスカだった。

 

 僕は歯を食いしばる。

 戦いは見ていた。逃げずに見ていた。だったら最後まで見なきゃ駄目だと思った。

 

「見てたよ」

 

『あとで言いなさい』

 

「今言う」

 

 初号機の全身へ力を込める。

 上でウィンチが引く。

 下でマグマが引く。

 その間で、初号機と弐号機が少しずつ持ち上がる。

 

 熱が視界を白く染める。

 警報がうるさい。

 でも、手を離す方がもっと怖かった。

 

 やっとのことで火口縁まで戻った時、僕は自分がずっと息を止めていたことに気づいた。

 弐号機が地面へ横たえられる。

 整備班が一斉に走る。

 僕は初号機から降りるより早く、弐号機のエントリープラグの方へ走っていた。

 

「シンジ君、待って!」

 

 ミサトさんの制止が聞こえた気がした。

 でも止まれなかった。

 

 焼けた外装は近づくだけで熱い。係員が工具を回し、ロックを外す。開いたハッチの向こうから、湯気みたいな熱気が吹いた。

 

「アスカ!」

 

 プラグの中で、アスカは汗だくのまま目を閉じていた。

 一瞬、血の気が引いた。

 

「アスカ、息してる? 返事して」

 

 自分の呼吸の方が荒いのに、それより先にそんなことを聞いていた。

 

 アスカはゆっくり目を開ける。

 

「……うるさい」

 

 その一言で、膝から力が抜けそうになった。

 生きている。

 熱がある。

 ちゃんと息をしている。

 

「水」

 

 マヤさんが差し出したボトルを受け取る。

 アスカは自分で持とうとして、少しだけ手を滑らせた。僕が支える。嫌がられるかと思ったけれど、今度は振り払われなかった。喉が鳴る。飲んだあと、彼女は息を整えるのに数秒かかった。

 

「どう」

 

 アスカがかすれた声で言う。

 

「何が」

 

「見た?」

 

 そこを聞くのかと思う。

 

「うん」

 

「ちゃんと?」

 

「ちゃんと」

 

 アスカはそれで少しだけ目を閉じた。

 安心したのか、ただ疲れただけなのか、表情だけでは分からない。

 

 回収後の待機室は、冷房が効いているのに汗の匂いが抜けなかった。

 

 耐熱スーツを脱いだあとも、身体の中だけまだ熱が残っている。机の上には空になった水筒、溶けきらなかった塩タブレットの袋、使いかけの冷却タオル。成功した作戦の後というより、暑さと重さに一度負けかけた人間たちの休憩所みたいだった。

 

 僕が予備通信機を机へ置くと、アスカがすぐ横から手を伸ばして向きを直した。

 

「アンテナ先に畳みなさい。折れる」

 

「今やるよ」

 

「今やるなら最初から持ち方考えなさいよ」

 

 そう言いながら、自分の水筒は机の縁から少し離した場所へ置く。結露で書類が濡れないようにしているらしい。細かい。細かいけれど、そういう細かさで今日の無茶が最後のところで事故にならずに済んだ気もした。

 

 マヤさんがチェック表を持って入ってきた。

 

「飲水量、記録します。アスカ、一本半。シンジ君、半分以下」

 

「はあ?」

 

 アスカが顔をしかめる。

 

「待機班が何でそんな少ないのよ」

 

「別に」

 

「別にじゃない。顔色悪かったわよ」

 

 何で分かるんだよ、と言いかけてやめた。

 見ていたからだろう。

 

「次からは、あんたも水二本。待ってるだけの方が平気で息止めるんだから」

 

「次からって」

 

「あるかもしれないでしょ」

 

 アスカは塩タブレットの袋を二つに分け、一つを僕の前へ滑らせた。

 

「でも、その代わり救急ポーチは地上班。あたしは今日ので分かった。降下中に荷物増やしすぎると動き鈍る」

 

 係員の前でも、もう半分くらいは決まっている声だった。ミサトさんが待機室の入り口から聞いていて、肩をすくめる。

 

「あなたたち、反省会なのか荷物会議なのか分かんないわね」

 

「両方よ」

 

 アスカが即答する。

 

「次、同じミスで詰まるの嫌だもの」

 

 その言い方に、僕は少しだけ驚いた。アスカは失敗を嫌う。でも、その失敗を「次の手順」へ落とし込んでいる時の顔は、怒っている時よりずっと前を向いている。

 

 僕はタオルを畳みながら言った。

 

「さっき、怖かった」

 

 アスカがこちらを見る。

 真っ向から言ったのは初めてだったかもしれない。

 

「知ってる」

 

「でも、見てた」

 

「うん」

 

「目、逸らさなかった」

 

 アスカは数秒だけ黙った。

 それから、いつもの顎の上げ方で言う。

 

「だったら、それでいい」

 

 その言い方が、思ったより柔らかかった。

 

 帰りの輸送車の中は、行きよりずっと静かだった。

 

 使徒は倒した。

 アスカも無事だ。

 それなのに、僕の心臓だけがまだ火口の上へ置き去りみたいに落ち着かない。

 

 隣でアスカがうたた寝していた。

 

 汗の匂いが少し残っている。髪が肩へかかって、普段より年相応に見える。こういう時のアスカは、戦闘中や学校で怒鳴っている時よりずっと無防備だ。

 

 その無防備さを見ていると、嬉しいとか近いとかより先に、どうしていいのか分からなくなる。

 

 起こした方がいいのかもしれない。

 でも、起こしたらたぶん怒る。

 

 迷っているあいだに、車体が少し揺れた。

 その拍子にアスカの頭が僕の肩へこつんと当たる。

 

 体が固まった。

 

 軽い。

 あまりにも軽いのに、そこにある重さは妙に鮮明だった。

 

 生きている。

 熱がある。

 ちゃんと息をしている。

 

 その当たり前を感じた瞬間に、胸の奥で別の映像が勝手にめくれかける。

 空。白い機体。裂ける赤。

 

 駄目だ、と思って、僕は窓の外を見た。

 今は違う。まだ違う。肩へ触れているのは今のアスカだ。

 

 そう言い聞かせているのに、体のこわばりだけは解けない。

 

 前の席で加持さんが、たぶんバックミラー越しにこっちを見ていた。

 見えているのだろうと思う。

 分かってるなら助けてほしいとも思う。

 でも、こういう時の大人はたいてい助けてくれない。自分でどうにかしろという顔だけしてくる。

 

 到着するまで、僕はほとんど息をしていなかった気がする。

 

 * * *

 

 回収試験を終えて本部へ戻る車の中で、加持リョウジはバックミラー越しに後部座席を見ていた。

 

 アスカは眠っている。

 あれだけ騒いで、あれだけ気を張っていたのだから当然だ。

 

 肩へ頭を預けられた碇シンジは、困ったような顔のまま固まっている。起こした方がいいのか、このままの方がまだましか、そういうどうでもいい逡巡が顔に全部出ていた。

 

 若いな、と思う。

 

 そう思うのに、同時に別の違和感もある。

 

 碇シンジは、アスカに寄りかかられて嬉しいはずの場面で、どこか怯えている。欲しいものを手に入れかけた時にこそ、手を伸ばさない方へ退く人間の顔だ。

 

 自分のものにしたいのではなく、壊したくないから触れない。

 そのくせ最初から、壊れる前提で見ている。

 

 ずいぶん面倒な子どもだ、と加持は思った。

 

 だが、そういう面倒さを抱えたまま、アスカの方もまた寝たふり一つせず寄りかかっている。嫌いな相手へ完全に体重を預けられるほど、アスカは器用じゃない。

 

 ドイツで見ていた頃のアスカは、強さを誇る顔と、強さを見せつける顔と、強さが崩れそうな時の顔をきっちり使い分けていた。今はその切り替えが前より雑だ。雑になったぶん、近い所にいる相手へだけ見せる顔が増えている。

 

 それが成長か悪化かは、まだ加持にも分からない。

 ただ少なくとも、あの二人はもう“同じ家に押し込められた他人”ではない。

 

 だから厄介だ。

 

 * * *

 

 車が止まって、アスカが目を覚ましたのは到着してからだった。

 

「……何よ」

 

「いや」

 

「何」

 

「ぐっすり寝てたなって」

 

「はあ?」

 

 アスカは一瞬だけ真っ赤になって、それからいつもの勢いで肩を殴ってきた。

 

「起こしなさいよ、バカ!」

 

「起こしたら怒るだろ」

 

「今も怒ってる!」

 

 そういう所だ、と思う。

 でもその怒り方は年相応で、少し安心した。

 

 ミサトさんの家へ戻ってからも、その違和感は残った。

 

 アスカが得意げに今日の武勇伝を語る。

 ミサトさんが半分笑いながら相槌を打つ。

 加持さんが肩をすくめる。

 

「アスカ、相変わらず景気いいな」

 

「当然でしょ。あたしだもの」

 

 胸を張る言い方はいつも通りだ。

 でも近くで見ると、箸を持つ手の震えがまだ残っている。

 

 見ないふりをした方がいいのかもしれない。

 でも僕は、そういう時だけ先に見てしまう。

 強さより先に、張り詰めた方を見てしまう。

 

 たぶんそれが、アスカをいちばん苛立たせる。

 

 食器を運びながら横目で見ていると、加持さんと一瞬だけ目が合った。

 何も言わない。

 でも、分かっている顔だった。

 

 こりゃ嫌われる、とでも言いたげな顔。

 

 強い子ほど、弱さを見透かされるのを嫌う。

 しかも見透かす側が、自分の弱さにだけやけに鈍ければなおさらだ。

 

 僕はそのことを、たぶんまだ半分も分かっていなかった。

 

 夜、加持さんが帰り、ミサトさんも缶ビール片手に自室へ引っ込んだあとで、家は急に静かになった。

 

 皿洗いを終えて、自分の部屋へ入ろうとした時、襖の向こうからドライヤーの音が止む。

 

「ねえ、シンジ」

 

「なに」

 

「今日のあんた、ちょっとはマシだった」

 

「今日の、って」

 

「変な顔」

 

 そう言ってから、アスカは少し間を置いた。

 

「……ちゃんと見てたから」

 

 襖の向こうでドライヤーのスイッチがまた入る。熱い風の音に紛れて、僕の返事だけが少し遅れた。

 

 難しい。

 

 でも、その難しさごと前より少し長く、その場に立っていられる気がした。

 

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