【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾壱話 静止した闇の中で


その日の停電は、朝ではなく、昼の光の中で起きた。

 

 進路調査票の締切が今日までだと、委員長は朝から何度も言っていた。

 

「保護者面談欄、まだ空いてる人は昼休みまでに出して」

 

 黒板の端へそう書き足しながら、委員長は名簿を見下ろした。白い紙の上に、名前だけが整然と並んでいる。人数じゃなく名前を見ている顔だった。

 

「碇君」

 

「……はい」

 

「保護者欄」

 

 昼休みの光が廊下の窓から白く差して、ガラスの向こうでは校庭の端がきらきらしている。停電なんて言葉は、その時の景色にはまだ似合っていなかった。

 

 僕は職員室脇の公衆電話へ向かった。

 受話器を耳に当てる。

 数コールのあと、父さんが出た。

 

「……何だ」

 

 その声を聞くだけで、背筋が少し固くなる。

 

「学校の進路面談で、保護者の署名と、できれば面談の出席が要るって」

 

『そういう業務は葛城一尉に委任してある』

 

 やっぱり、と思った。

 分かっていた返事なのに、胸のどこかがちゃんと冷える。

 

「でも、父さんの欄で」

 

『くだらんことで電話をするな。こんな電話をいちいち取り次ぐんじゃない。』

 

 そこで、音が切れた。

 

 やっぱり父さんに切られたなと思った。

 でも違った。

 

 

 蛍光灯が消え、廊下の向こうで誰かの驚く声がした。扇風機の回る音も、職員室の複合機の駆動音も、一斉に止まる。受話器の向こうは無音で、耳へ当てたままでももう何も繋がっていないと分かった。

 

 停電だ。

 

 しかも、学校だけじゃない。

 

 窓の外を見ると、校庭脇の時計も、正門前の信号も、向かいのビルの電光掲示も全部沈黙していた。昼の明るさだけが残っていて、その明るさのせいで余計に変だった。夜みたいに暗くないのに、街の内側から音だけ抜け落ちている。

 

「何よこれ」

 

 後ろからアスカの声がした。いつの間にか、僕のすぐ背後まで来ている。

 

「本当に全部止まってるじゃない」

 

 その隣には綾波もいた。二人とも、委員長に進路票を追い立てられていたらしい。

 

「本部の試験かしら」

 

 綾波が小さく言った。

 

「ここまで落ちるなら試験で済まないでしょ」

 

 アスカは窓枠へ手を掛け、街を睨んだ。

 

 教室へ戻ると、ざわめきはもうかなり大きくなっていた。非常ベルは鳴らない。放送も死んでいる。だから余計に誰も自分で声を張るしかなくて、教室の空気だけが忙しくなる。

 

「静かに!」

 

 委員長が教卓の前に立っていた。

 

 こういう時の声は本当によく通る。

 

「先生が来るまで席に着いて。窓際の人、カーテン開けて。暗い所から順番に移動して」

 

 相田君が後ろの方で何か言いかけ、すぐ「相田君は窓じゃなくて後ろの扉見て」と返されていた。鈴原は椅子を引きながら「はいはい」と言うくせに、もう机の間を空け始めている。

 

 停電そのものより、そういう動きの速さの方が目についた。

 

 委員長は名簿を手に、点呼を始めた。

 

「相田君」

「いる」

「鈴原君」

「おる」

「綾波さん」

「はい」

「惣流さん」

「いるわよ」

「碇君」

「……いる」

 

 人数じゃなく、名前が順番に教室へ落ちる。

 その一つ一つが、昼の光の中だとやけに白く聞こえた。

 

 担任が来て、臨時下校と自宅待機の指示が出た。けれど僕たちはそこで解散しなかった。ネルフからの呼び出しはまだ来ていない。来ていないのに、こんな規模の停電が本部と無関係で済むはずがない。

 

「行くわよ」

 

 アスカが先に言った。

 

「召集前でも?」

 

「こんなの待ってる方が変でしょ。零号機の起動試験がある日なのよ。何か起きてる」

 

 綾波は小さく頷いた。

 

「私もそう思う」

 

 委員長が僕らの前へ回り込む。

 

「碇君たち、本部?」

 

「たぶん」

 

「じゃあこれ持ってって」

 

 机の中から取り出されたのは、小さな懐中電灯三本と予備電池を輪ゴムでまとめた袋だった。保健室の非常備品から持ってきたのだろう。

 

「暗い所、まだ多いはずだから」

 

「学校の分は?」

 

「予備は残してある。相田君と鈴原君が見てる」

 

 その言い方で十分だった。委員長はもう自分の持ち場へ戻っている。

 

「ありがとう」

 

「返すのは落ち着いてからでいい。気をつけて」

 

 僕が受け取るより先に、アスカがライトを一本抜いた。

 

「借りるわ」

 

「なくしたら弁償だからね」

 

「細かい!」

 

「そういう係なの」

 

 委員長はそう言って、すぐ次の机へ向かった。

 

 学校を出ると、昼の街は奇妙なくらい明るかった。

 エスカレーターは止まり、自販機は死に、店の自動扉は半端な角度で開いたまま固まっている。車は信号のない交差点で互いに譲り合いきれず、クラクションだけが短く鳴る。夜の停電よりずっと始末が悪い。みんな起きていて、動いていて、それなのに街の方が動けなくなっている。

 

「昼間だと、余計に変ね」

 

 アスカが言った。

 

「夜ならまだ、止まる覚悟あるのに」

 

 その感覚は少し分かる。昼は続いているはずの時間だ。急に全部が途切れる想定を、誰もしていない。

 

 第三新東京市の坂を下り、本部の地上ゲートへ着いた時には、普段なら開いているはずの防護扉がぴたりと閉じていた。カードを通しても反応がない。内線も死んでいる。

 

「最悪」

 

 アスカが舌打ちする。

 

「本当に中まで止まってる」

 

 綾波は委員長にもらったライトを点け、ゲート脇の案内板を照らした。通常の表示は真っ黒だ。けれど、その下の透明カバーへ挟まっていた紙の避難手順だけは残っていた。

 

「非常時は西側サービス搬入口。手動クランク」

 

「そんなの覚えてるわけないでしょ」

 

「だから紙がある」

 

 綾波は相変わらずだった。

 

 僕たちは本部の外縁を回り、西側の搬入口へ向かった。人は少ない。少ないけれど、誰もが落ち着かない顔で空を見たり、端末を叩いたりしている。非常電源の生きている回線だけがところどころで短く鳴り、その音が却って停電を実感させる。

 

 搬入口の脇には、手動クランク用のハンドルがあった。説明板の字は小さい。僕が読んでいるうちにアスカが先にハンドルを掴み、試しに回す。

 

「重っ」

 

「貸して」

 

 僕も手を添える。二人で体重を掛けると、やっとロックがずるく動いた。汗が手の内側へすぐに滲む。

 

「右。次は左へ半回転」

 

 綾波が説明板を読んでくれる。そういう役割分担だけは、こういう時すぐに決まる。

 

 扉がようやく人一人分だけ開いた。

 中は薄暗く、空気がこもっている。

 

「行くわよ」

 

 アスカが先に入った。

 ライトの円の中だけが狭く明るい。コンクリートの壁、閉じた自動ドア、止まった搬送台車。普段なら音で満ちているはずの場所が、今は配管のきしみまで聞こえる。

 

 途中で非常用の館内図を見つけた。そこにもやっぱり、人の数じゃなく通路名と区画名と手順が書いてある。物の場所を知っている人間がいなければ、紙一枚では何も救えない。

 

「中央ブロックへ最短は?」

 

 僕が聞く。

 

「通常通路は全部ロックされてる」

 

 綾波が指でなぞる。

 

「整備搬入路を通って、途中から換気ダクト」

 

「換気ダクト?」

 

「嫌なら別ルートでもいいわよ。遠いけど」

 

 アスカの言い方は棘がある。でも足はもうそちらへ向いている。僕は文句を飲み込み、工具箱代わりに置かれていた非常用の手袋を二組引っ掴んだ。

 

「それ持って」

 

「シンジ、荷物はまとめて」

 

 アスカがすぐ言う。

 

「片手を空けなさい。転んだ時に終わる」

 

 ライト、電池、手袋。手の中身を組み替える。こういう時のアスカは、怒鳴りながら全部を生存優先へ並べ替えていく。

 

 途中、上の方から妙な音がした。

 プロペラではなく、もっと乾いた拡声器の反響。

 

『第三新東京市に非常避難命令……使徒接近……』

 

 音は途切れ途切れだったが、それで十分だった。

 

「使徒」

 

 僕が言うより早く、アスカの顔つきが戦闘のものへ変わる。

 

「ほら、やっぱりじゃない」

 

 綾波は無言で歩幅を速めた。

 

 整備搬入路の途中までは順調だった。

 問題はその先だ。

 

 自動隔壁が死んでいるせいで普段通らない保守通路を抜け、最後は点検用のダクトへ入ることになった。委員長の懐中電灯を口に咥え、肘で這う。埃っぽい。鉄の匂いが強い。誰かが先へ進むたび、金属板が低く鳴る。

 

「前、見ないで」

 

 アスカの声が前から飛ぶ。

 

「見てない」

 

「今、見た」

 

 その直後に踵が飛んできて、僕の額へ軽く入った。

 

「痛っ」

 

「狭い所で余計なこと考えるなって言ってるの」

 

「考えてない!」

 

「考えてる顔してる!」

 

 言い返したせいでバランスを崩し、持っていた電池袋が一度だけ滑った。綾波が後ろから受け止めてくれる。

 

「落としてない」

 

「ごめん」

 

「謝るより進んで」

 

 アスカは容赦がない。でも、その怒鳴り声があると身体が今へ戻る。

 

 ダクトを抜けた先で、アスカが点検扉を開けた。

 次の瞬間、彼女が顔色を変えて叩き閉める。

 

「何?」

 

「目があった」

 

「は?」

 

「使徒よ!」

 

 扉の向こう側で、じゅう、と音がした。

 金属の焼ける臭い。続いて、酸が落ちる時の湿った音。僕たちは反射で壁へ張り付いた。数秒遅れて、点検扉の表面がぶくりと泡立つ。

 

 見えなくても分かった。

 あれは巨大な脚で上から降り、酸で本部へ穴を穿とうとしている。

 

「別ルート!」

 

 アスカが先に走り出した。

 

 そこからはほとんど転がるようだった。階段を二つ、保守路を一つ、またダクト。途中で上から別の拡声器が流れ、誰かが手動起動準備を叫んでいるのが聞こえる。

 

 最後のダクトを抜けた瞬間、床が消えた。

 

 僕とアスカはそのまま転がり落ち、綾波だけが着地の仕方を知っていたみたいに静かに足から降りた。

 

「いたた……」

 

 見上げる。

 そこはエヴァ搬送区画だった。

 

 非常灯だけの赤い明かりの中で、初号機と零号機と弐号機が半ばまで起こされている。整備員たちが手でワイヤーを引き、台車を押し、普段ならモーターで済む作業を人力でやっていた。

 

 その中心に、父さんがいた。

 

 手袋をしたまま、冬月副司令と並んでプラグ搬送用の滑車を引いている。命令を出すだけじゃなく、自分で動いている父さんを見るのは妙に落ち着かない。知らない顔みたいだった。

 

「遅い!」

 

 どこかからミサトさんの声が飛んだ。姿は見えない。あとで聞いたら、加持さんと一緒にエレベーターへ閉じ込められていたらしい。

 

「遅いけど間に合った! すぐ搭乗!」

 

 僕らは返事をする暇もなく走った。

 

 プラグの中は蒸していた。外部電源も照明も満足じゃない。表示は最低限、通信も時々ノイズで途切れる。なのに、出るしかない。

 

『目標、本部直上で停止。溶解液により外殻侵食継続』

 

 モニターの映像は粗い。それでも、脚の多い影と中央の目だけは分かった。

 

 使徒だ。

 

 名前を出さなくても、前の世界の記憶がそれを知っている。

 酸を落としながら、地上からではなく上から本部へ潜る使徒。

 

『通常搬出口使用不能。三機とも保守シャフト経由』

 

 発進はいつもと全然違った。

 エヴァは狭い水平シャフトを這うみたいに進み、縦穴でようやく上を向く。手足の使い方が悪いと、それだけで配管へぶつかる。

 

「最悪」

 

 アスカが通信で吐き捨てる。

 

『文句言う暇あるなら前見なさい』

 

 ミサトさんが返す。

 

「見てるわよ!」

 

 縦穴の上、天井側で再び酸が落ちた。

 白煙。耳障りな金属音。僕たちは横の退避路へ滑り込む。衝撃で予備バッテリーの一本とパレットライフルが奥へ転がった。

 

『ライフル一基ロスト!』

 

『回収に向かいます』

 

 綾波が即答する。

 

 その前へ、アスカが弐号機を滑り込ませた。

 

「レイ、回収。シンジ、撃つ。防ぐのはあたし」

 

『危険です』

 

「だからやるの!」

 

 反論の速さに迷いがない。

 前の戦いなら、アスカは真っ先に前へ出て仕留める役を欲しがったはずだ。でも今の彼女は違う。火口で僕が飛び込んだことを、こういう時の役割で返してくる。

 

『碇君、照準だけ合わせて。弾は短く』

 

 綾波の声が入る。

 

『視界が開いた時だけでいい』

 

 言われる方が楽だった。

 

 使徒の酸が再び落ちる。

 弐号機がATフィールドを前へ押し出し、透明な壁越しに白い飛沫が弾けた。液の一部が脚部装甲へ当たり、警報が鳴る。

 

「長くは持たないわよ!」

 

 アスカが怒鳴る。

 

「レイ、まだ!?」

 

『今』

 

 零号機が横穴から現れ、転がったライフルを掴んで滑ってくる。その動きに合わせて、使徒の視線がほんの一瞬だけ逸れた。

 

『シンジ!』

 

 呼ばれて、身体が先に動いた。

 ライフルを受け取る。照準。薄暗い。揺れる。中央の目だけを追う。

 

 撃つ。

 

 一発、二発、三発。

 

 最後の一発が目の中心へ沈み、使徒の身体が大きく痙攣した。酸が止まる。長い脚が縦穴の壁へ擦れ、嫌な音を立てながら崩れた。

 

 しばらく誰も喋らなかった。

 戦いが終わったのか、まだ次があるのか、非常灯の暗さの中では判別しづらい。

 

 その時、区画全体が一度だけ白く瞬いた。

 続いて、照明が戻る。

 

『主電源、復旧確認!』

 

 誰かの叫びと一緒に、いつもの発令所の音が一気に帰ってきた。

 機械音、表示音、人の声。さっきまで静かすぎた場所へ、文明がまとめて雪崩れ込んでくる。

 

「……うるさ」

 

 アスカが言った。

 

 でもその声は、少し笑っていた。

 

 回収後、僕たちは本部の屋上に近い草地まで連れて行かれた。整備待ちのあいだだけ外気を吸え、という名目らしい。制服は汗で張り付き、髪は埃っぽい。なのに、夜風は思ったより気持ちよかった。

 

 停電の混乱が収まり切っていないせいで、第三新東京市の灯りは点いたり消えたりをまだ繰り返している。その不揃いな明るさが、昼の停電の名残みたいに見えた。

 

「これで火口の借り、少しは返したから」

 

 仰向けになったまま、アスカが言う。

 

「借りなんて」

 

「あるのよ。あたしが気持ち悪いだけ」

 

 それで会話は切れた。

 でも、切れ方が前ほど尖っていなかった。

 

 綾波は少し離れた所で、復旧した街の灯りを見ていた。

 

「人は、暗いと火を持つのね」

 

 ぽつりと言う。

 

「何それ。いきなり哲学?」

 

 アスカが呆れた声を出す。

 

「違う。ただ、そうしないと見えないから」

 

 綾波の声は静かだった。

 

 僕は昼の教室を思い出した。停電で静まり返った中で、委員長が一人ずつ名前を呼んだこと。数じゃなく、名前で確かめたこと。暗くなった時に火を持つのと似ているのかもしれない。見失わないためのやり方だ。

 

「どうして、使徒は来るんだろう」

 

 口に出すと、夜気の中でその言葉だけが少し軽く聞こえた。

 

 アスカはすぐには答えなかった。

 綾波も何も言わない。

 

 分からないのだと思う。

 たぶん、今はまだ誰にも。

 

 でも、分からないままでも、昼の停電みたいな一日を越える方法はある。

 誰がどこにいるかを確かめること。役に立つ物の場所を知っていること。怖くても先に足を出すこと。怒鳴りながらでも前を守ること。そういう小さい手順の方が、案外、世界の終わりより先に人を生かす。

 

 下の街で、遅れていた区画の灯りが一つずつ点いていく。

 

 完全じゃない。

 それでも、戻ってくる光だった。

 

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