【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾弐話 奇跡の価値は

翌朝の学校は、いつもの匂いより少しだけ焦げくさかった。

 

 停電の影響で購買の冷蔵庫が一部止まり、食堂ではパンとスープだけの簡単な昼食になったらしい。昼休みになると、廊下の先まで列が伸びた。ヒカリが入口に立ち、トレーの取り方と返却順を半ば本気で仕切っている。

 

「押さない。走らない。味噌汁は一人一杯。相田君、列の途中で覗き込まない」

 

「見るだけだって」

 

「そういうのが邪魔なの」

 

 ケンスケが首をすくめ、トウジが横で笑う。僕はトレーを二枚重ねて持ちかけて、すぐヒカリに止められた。

 

「碇君、自分の分だけ」

 

「アスカのも持つつもりだった」

 

「いらない」

 

 背後からアスカが即答した。

 

「自分で持てるわよ」

 

 持てるくせに、味噌汁の椀だけは僕のトレーの端へ移した。熱いのが嫌なのか、こぼれるのが嫌なのかは分からない。

 

 食堂の隅の席へ座る。アスカは最初、椅子を一脚分離して置こうとして、それからほんの少しだけ引き戻した。前ほど露骨には空けない。詰めすぎもしない。そういう中途半端な距離が今の僕たちらしかった。

 

「パン、固い」

 

「昨日の残りだと思う」

 

「知ってる。感想よ」

 

 文句を言いながらも、アスカは二口目も食べる。トウジが向かいに座り、ケンスケはラジオのノイズについて語り始めた。綾波はスープの湯気を見てから、静かに匙を動かす。

 

「停電の時、昇降口のライト一本だけ死んどったやろ」

 

 トウジが言った。

 

「教頭が今日の放課後、また点検せえ言うとった」

 

「またか」

 

 アスカが顔をしかめる。

 

「学校って、なんでこういう時だけ急に仕事増えるのよ」

 

「増えるんじゃなくて、見えてなかっただけじゃない?」

 

 ヒカリがトレーを返却しながら割り込んできた。

 

「懐中電灯も毛布も、誰かがどこにあるか知ってないと使えないんだから」

 

 その言い方は完全に正しかった。正しいから反論しづらい。アスカは舌打ちだけして、パンの袋を丸めた。

 

 食後、僕たちはそのまま教頭に捕まって、廊下の非常灯と各教室の備品を確認することになった。脚立、交換用の蛍光灯、単一電池の箱、使いかけの消毒液。学校の中には、今まで見ようとしなかっただけで生きるのに要る物がやけに多い。

 

「理科室、ラジオ一台不調」

 

 ケンスケが声を張る。

 

「保健室、包帯残り少なめ」

 

 ヒカリが名簿へ書き込む。

 

「屋上扉の鍵、ちょっと渋い」

 

 トウジが鍵束を振る。

 

 アスカは黒板の端へ簡単な見取り図を書き足していた。避難口、暗い階段、点かない灯り。字は大きく、早い。僕は交換用の電池箱を抱えて教室へ戻り、彼女のチョークの下にそっと箱を置いた。

 

「重かったら呼べばよかったのに」

 

「呼ぶ前に持ってきたのはあんたでしょ」

 

「それはそうだけど」

 

「じゃあ黙って下置いて」

 

 言いながら、アスカは視線だけでチョークの場所を示す。僕がそれを取って手渡すと、彼女は受け取って一瞬だけ書く手を止めた。

 

「……ありがと」

 

 小さくて、半分くらいしか聞こえない声だった。

 

 でも聞こえたから、僕は何も言い返さなかった。言い返すより、そこに電池箱が置かれ、見取り図が一つ埋まったことの方が大事な気がした。

 

停電の夜が明けても、第三新東京市はまだ少しぎこちなかった。

 

 自販機は半分死んだままだし、エレベーターも時々変な音を立てる。学校では設備復旧がどうとか、ネルフが電力を優先しているのがどうとか、分かったような分からないような噂が飛び交っていた。

 

 その噂の真ん中に居るはずの僕は、いつも通り曖昧に笑ってやり過ごすしかない。

 

 そういうところだけ、前より上手くなった。

 

 上手くなりたかったわけじゃないのに。

 

「おい碇」

 

 昼休み、トウジが机に肘をついてきた。

 

「なんや最近お前、やけに日常的やな」

 

「褒めてる?」

 

「知らん」

 

「じゃあ褒めてないな」

 

「どっちでもええわ」

 

 トウジは眉をひそめた。

 

「前よりちょっとだけ、しゃべるようになった言うとるんや」

 

「それなら、まあ」

 

「でもたまに、すっげえ変な顔する」

 

「……どんな?」

 

「今にも誰か死にそうや、みたいな顔」

 

 喉が詰まった。

 

 そんな顔をしている自覚は、正直あった。

 

 学校で笑っていても、夕食を作っていても、テストでレバーを握っていても、ふとした瞬間に未来が割り込んでくる。誰かが死ぬ場面。壊れる場面。泣き声。沈黙。

 

 それが顔に出ているのなら、相当みっともない。

 

「気をつけるよ」

 

「気ぃつけてどうこうできるもんちゃうやろ」

 

 トウジはそう言ってから、声を少し落とした。

 

「なんかあるなら、言えよ」

 

「うん」

 

 言えないけど。

 

 その時、教室の後ろがやけに騒がしくなった。見なくても分かる。アスカだ。

 

「だから違うって言ってるでしょ!」

 

 苛立った声が飛ぶ。何かのプリントをヒカリに突き返している。たぶん進路だとか、補習だとか、その手のものだろう。

 

 前からそうだったけれど、最近のアスカは“怒るために怒っている”感じが強くなっていた。

 

 苛立ちの芯が別の場所にある。

 

 自分でも、それをうまくつかめていない。

 

 だから見ている方が居心地悪い。

 

「またやっとるな」

 

 トウジがぼそっと言った。

 

「元気だよね」

 

「元気っちゅうか、ずっと喧嘩腰や」

 

 違う、と僕は思った。

 

 喧嘩腰なんじゃない。踏み外すのが怖いから、先に足を振り上げているだけだ。

 

 でもそれを説明してもしょうがない。僕だって似たようなものだからだ。

 

 その日の夕方、ネルフで緊急招集がかかった。

 

 発令所に着いた瞬間、空気の重さで分かった。

 

 厄介な使徒だ。

 

 モニターには、軌道上から落下してくる巨大な影が映っていた。上空から落下してくる使徒だ。前にも見た。見たから分かる。あれは、近づくほど逃げ場がなくなる。

 

『目標、弾道修正を継続中』

 

『このままでは第三新東京市に直撃します』

 

『迎撃システムでは間に合わないわね』

 

 前にもそうだった。

 

 結局、僕たちが受け止める。

 

 それしかない。

 

「最悪」

 

 アスカが吐き捨てた。

 

「地味すぎるわ」

 

「地味とかそういう問題じゃないだろ」

 

「じゃあ何よ」

 

「失敗したら街ごと終わる」

 

「分かってるわよ、それくらい!」

 

 分かってる。

 

 分かってるけど、分かっていることと実感は違う。発令所の大人たちだってたぶん同じだ。数字で状況を理解しても、あれが本当に頭上へ落ちてくる痛みまでは、誰にもまだ想像できていない。

 

 ミサトさんだけが、少し違う顔をしていた。

 

 作戦案を立てる目だ。

 

 怖さを横へ置いて、どう動くかだけを考える時の顔。

 

「初号機、零号機、弐号機で三点展開。ATフィールドを全開。落下地点で受け止める」

 

「ざっくりしすぎじゃないですか」

 

 つい口が出た。

 

 ミサトさんがこっちを見る。

 

「文句ある?」

 

「文句じゃなくて……」

 

 言い淀む。

 

 知っている、と言えば早い。けれど言えない。

 

「位置取り、もう少し詰めた方がいいです。最初のズレが大きいと、たぶん零号機側に荷重が偏る」

 

 リツコさんが目を細めた。

 

「根拠は?」

 

「勘です」

 

「便利ね、その勘」

 

 嫌味だった。でも否定はできない。

 

 僕にあるのは、結局それだけだからだ。

 

 ミサトさんは数秒だけ考え、地図を見直した。

 

「……いいわ。位置は再計算」

 

「了解」

 

 それだけで、少し救われる。

 

 前の記憶をそのままなぞるだけじゃなく、ほんの少しでもマシな方へ寄せられるなら、やる意味はある。

 

 ブリーフィング後、カタパルト脇の待機室でアスカが僕を睨んだ。

 

「なによ、また知ってるみたいな顔して」

 

「してないよ」

 

「してるわよ」

 

「ただ、嫌なんだ」

 

「何が」

 

「誰かが潰れるのが」

 

 アスカは一瞬だけ黙った。

 

 それから、ふっと鼻で笑った。

 

「潰れないわよ」

 

「……うん」

 

「そういう返事が腹立つの」

 

「じゃあ何て言えばいいんだよ」

 

「知らないわよ」

 

 前にも何度かこういうやり取りをした。

 

 問い詰めるくせに、答えを持っていない。持っていないことを自覚した瞬間に怒る。

 

 理不尽だ。

 

 でも、それが少しだけ懐かしくもある。

 

 たぶん僕も同じだからだ。

 

「ねえ」

 

 アスカが急に声を落とした。

 

「ほんとにさ、あんたって何なの」

 

「え?」

 

「死ぬのが怖いくせに、死にそうな時だけ変に前に出るし。かと思えば、こっちがやるって言うと今度は勝手に青くなるし」

 

「……ごめん」

 

「謝るな」

 

「じゃあどうしろって」

 

「信じなさいよ」

 

 息が止まりそうになった。

 

 アスカはそっぽを向いたまま続ける。

 

「あたしが落っこちてくる石ころごときに負けるように見える?」

 

「石ころではないだろ」

 

「似たようなもんよ」

 

「似てない」

 

「うるさい」

 

 そう言いながらも、アスカの口元はほんの少し上がっていた。

 

 強がっている。

 

 でも強がれるなら、まだ大丈夫だと思いたい。

 

 出撃までの数分、僕はプラグスーツの袖口をいじりながら、何度も呼吸を整えた。

 

 今度の戦いは、派手じゃない。殴り合いでも、撃ち合いでもない。落ちてくる世界の欠片を、三人で受け止めるだけだ。

 

 だけ、と言える重さじゃない。

 

 自分の真上から世界が落ちてくるのを待つなんて、まともじゃない。

 

 それでも、やるしかない。

 

『エヴァ各機、発進準備』

 

『シンジ君、聞こえる?』

 

「はい」

 

『変なこと考えないでね』

 

「変なことって」

 

『落ちてくる使徒より先に、自分のせいで誰かが潰れるとか、そういうの』

 

 図星だった。

 

「……考えないようにします」

 

『お願い』

 

 カタパルトに乗り込む。射出。空気が裂ける。

 

 赤い空じゃない。まだ夕方にもなっていない青だ。でもその青の上から死が落ちてくると思うと、ひどく気味が悪かった。

 

 配置につく。初号機、零号機、弐号機。

 

 遠くに、でも確かに見える。

 

 巨大な目玉みたいな影。

 

 段階的に砲撃。軌道修正。作戦は前と大きく変わらない。変わらないのに、心臓は前よりずっと激しく打っていた。知っているからだ。最後に、全部の重さが腕と脚に来ることを。

 

『位置固定!』

 

『ATフィールド展開準備!』

 

『来るわよ!』

 

 アスカの声は、こういう時だけよく通る。

 

 たぶん怖いのだろう。怖いから余計に大きな声を出す。僕にはそれが少し分かる。

 

「アスカ」

 

『なによ!』

 

「……信じる」

 

 一瞬、通信の向こうが静かになった。

 

『遅い!』

 

 でも、その怒鳴り方はやや明るかった。

 

 次の瞬間、世界が落ちてきた。

 

 衝撃。

 

 ATフィールドが軋む。地面が鳴る。足元が沈む。肩口から腕へ、腕から歯の根へ、重さがそのまま伝わってくる。

 

 圧倒的だった。

 

 前にも受け止めたはずなのに、今回の方がはるかに重い。記憶の中ではもっと、きれいに“作戦”だった。現実は違う。泥臭くて、痛くて、いつ折れるか分からない綱渡りだ。

 

『シンジ、右ずれてる!』

 

「分かってる!」

 

『分かってない!』

 

 アスカの怒鳴り声で、かえって落ち着く。

 

 こういう時、アスカは前だけを見る。自分が潰れるかどうかより、今どこを支えるかを先に考える。

 

 その強さが羨ましい。

 

 零号機のフィールドが一瞬揺らいだ。

 

「綾波!」

 

『大丈夫』

 

 短い返答。

 

 本当に大丈夫かどうかは分からない。でも綾波の「大丈夫」は、自分に言い聞かせる時の声ではなく、事実だけを置く時の声だった。

 

 なら信じるしかない。

 

 受け止める。

 

 踏ん張る。

 

 ミサトさんのカウントが遠くで響く。

 

 何秒、何十秒。体感では何分にも伸びた。

 

 やがて、軌道がずれ、圧力が逃げ始める。

 

 最後の力を振り絞って、三機同時に押し返す。

 

 十字の爆発。

 

 空に、ありえないくらい大きな花が咲いた。

 

 終わった。

 

 エントリープラグの中で、僕はしばらく息もできなかった。

 

 勝ったとか、街が守れたとか、そういう感想は数秒遅れてやってくる。まず最初に来たのは、アスカと綾波が生きているかどうか、それだけだった。

 

『全機健在!』

 

 その報告で、ようやく体から力が抜けた。

 

 戦闘後、格納庫の空気は不自然なくらい軽かった。皆が浮ついている。大仕事をやり遂げた後の、興奮と安堵が入り混じった感じだ。

 

 僕はその少し外側にいた。

 

 弐号機の前で、アスカがプラグを降りる。汗で髪が額に貼りついているのに、顔だけは勝ち誇っていた。

 

「見た?」

 

「見た」

 

「どう?」

 

「すごかった」

 

「そうでしょ」

 

 すごかった。

 

 本当に。

 

 でも、すごかったと言うだけで済ませるには、僕はもう少し別のものまで見てしまっていた。

 

 アスカが怖がっていること。

 

 怖いくせに、それでも前へ出ること。

 

 褒められたいんじゃなく、見失いたくない何かのために、必死で強い顔をしていること。

 

 前の僕は、それをほとんど分かっていなかった。

 

「なによ」

 

「いや」

 

「何」

 

「……やっぱり、死ななくてよかった」

 

 アスカの顔がぴたりと止まった。

 

「なにそれ」

 

「本音」

 

「気味悪い」

 

「知ってる」

 

「勝手に一人で悲壮ぶるの、ほんとやめて」

 

「悲壮ぶってるつもりは」

 

「あるわよ」

 

 言い返しかけて、やめた。

 

 たぶん、ある。

 

 僕は“知っている”ことを盾にして、勝手に一人で重い顔をしてしまう。相手からすれば、そんなの気味悪いだけだ。

 

 アスカは腕を組んで、僕をじろじろ見た。

 

「でもまあ」

 

「うん」

 

「さっきの“信じる”は、ちょっとだけマシ」

 

 それだけ言って、背を向ける。

 

 僕は慌ててその後ろ姿に声を投げた。

 

「ちょっとだけ?」

 

「全部マシになったら腹立つでしょ!」

 

 怒鳴り返ってきた声がひどく嬉しかった。

 

 その日の夜、家のベランダで風に当たっていると、ミサトさんが隣に出てきた。

 

「よくやったわね」

 

「たまたまです」

 

「それ、便利な言葉ね」

 

「便利ですよ」

 

 ミサトさんは少し笑った。

 

「今日は、奇跡の価値があったかもね」

 

「奇跡?」

 

「三人とも、生きて帰った」

 

 そう言われると、ようやく少し実感が湧いた。

 

 生きて帰った。

 

 僕も。綾波も。アスカも。

 

 ただそれだけのことが、世界を受け止めるよりずっと難しい時もある。

 

 だからたぶん、それは奇跡と呼んでいい。

 

 でも、本当に価値があるのは、奇跡が起きたことそのものじゃない。

 

 その後で、誰かと同じ場所へ帰って来られることだ。

 

 夕食の後、洗い物をしていると、後ろからアスカの声が飛んだ。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「今日のあんた、ちょっとだけマシだったって言ったの、忘れないでよね」

 

「忘れないよ」

 

「勘違いしないで」

 

「してない」

 

「してる顔よ」

 

「してるかも」

 

「バカ」

 

 その“バカ”は、やや軽かった。

 

 奇跡の価値は、たぶんこういう所にある。

 

 空から落ちてきたものを受け止めることじゃない。

 

 落ちてきたあとでも、まだ誰かが隣で怒っていることだ。

 

 * * *

 

 落下迎撃作戦の前、ミサトは珍しくブリーフィングルームの外で一人になっていた。

 

 作戦そのものは単純だ。

 単純なだけに、失敗した時の想像も単純で済まない。

 街へ落ちる。人が死ぬ。そういう“絵”がそのまま浮かぶ作戦は嫌いだった。

 

 嫌いなのに、今回の彼女を本当に苛立たせていたのは別のことだった。

 

 シンジが何度か口を開きかけては閉じる。

 アスカがそれを横目で見ている。

 リツコは気づいているくせに何も言わない。

 

 あの三人の間に、まだ言語化されていない何かがある。

 それが戦闘の直前に一番嫌だった。

 

「難しい顔してるね」

 

 加持が壁にもたれて言う。

 

「嫌な予感しかしないから」

 

「それはいつもだろ」

 

「今日は種類が違うのよ」

 

 ミサトは腕を組んだ。

 

「シンジ君、最近さらに自分の命を軽く見てる節がある」

 

「ほう」

 

「勝とうとしてるんじゃないの。間に合わなかった時の顔を見たくなくて、先に自分を削ってる」

 

 加持は一拍置いた。

 

「死にたいわけじゃない」

 

「ええ」

 

「でも、生き延びる権利を自分にあんまり与えてない感じはするな」

 

 その言い方に、ミサトは思わず目を細める。

 

「何よそれ」

 

「似たような子、昔見たことある」

 

 たぶん自分自身の話なのだろうと、ミサトは聞かなかった。

 

 迎撃作戦が成功したあと、発令所では大きな安堵が広がった。

 

 マヤが椅子に座り込む。シゲルが珍しく笑う。マコトが深く息を吐く。誰もが一瞬だけ仕事を忘れた顔になる。

 

 けれどリツコだけは、すぐに別の画面を開いていた。

 

「何見てるの」

 

 ミサトが覗き込む。

 

「今回の荷重分散」

 

「今?」

 

「今じゃないと忘れる」

 

 モニターに表示されたグラフは、三機のフィールド負荷推移だった。

 

「零号機への荷重偏差、直前で補正されてる」

 

「シンジ君の指摘のところ?」

 

「ええ」

 

 リツコは淡々と言う。

 

「結果としてレイの負担は減った。でも初号機側の消耗は予想より大きい」

 

「それが?」

 

「碇シンジ、自分のフィールドを強く張る時と緩める時の差が極端なのよ」

 

 グラフが跳ねている。

 

「怖い時ほど深く潜る。普通なら逆なのに」

 

「やっぱり変よね」

 

「変よ」

 

 リツコはそこでわずかに言い淀んだ。

 

「強くなってる、とは言える。初期適性も応答速度も上がってる。でも、健全な意味の成長じゃない」

 

「痛みで鈍くなってるとか?」

 

「鈍くはない。むしろ敏い。敏いから先に絶望して、その絶望のままレバーを握る」

 

 その表現は、ミサトの胸へ妙に残った。

 

 絶望したままレバーを握る。

 それは確かに、碇シンジの戦い方をよく表している気がした。

 

 勝ちたいからじゃない。

 負けた先を知っているみたいに、そこへ行きたくなくて前へ出る。

 そういう戦い方。

 

「使徒の方も、前より強いのかしらね」

 

 ミサトが半分独り言みたいに言うと、リツコは首を振った。

 

「強いというより、こちらに合わせて別の顔を出してるだけ」

 

「それ、十分厄介じゃない」

 

「ええ。だから私は“知っているつもり”が一番嫌いなの」

 

 ミサトはかすかに笑った。

 

「シンジ君に言って」

 

「あなたが言いなさい」

 

 その返しが、今はやけに現実的だった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 点検が終わったあと、ヒカリは黒板の端へ新しい見取り図を描き始めた。

 

 昇降口、保健室、屋上、理科準備室。そこへ赤いチョークで非常灯の位置、青でラジオ置き場、白で給水の順路。教室の後ろでケンスケが「ちょっと軍の野戦地図っぽい」と喜び、すぐヒカリに睨まれる。

 

「遊びじゃないの」

 

「分かってるって」

 

「分かってる顔じゃない」

 

 僕は机の上へ交換済みのものと未使用のものを分けて並べた。トウジがその横で紙テープへ日付を書く。『今日交換』『予備』『要確認』。字は雑だ。でも、雑でも書いてあるだけで後で誰かが助かる。

 

「碇、こっちのライトも見て」

 

 ケンスケが一本差し出す。スイッチの接触が悪いらしく、押しても点いたり消えたりする。僕は電池を入れ直し、端子の埃を払った。小さな修理だ。エヴァの整備とは比べものにならないくらい小さい。けれど、その小さい作業の方が今は不思議と落ち着く。

 

「直る?」

 

「たぶん」

 

 カチ、とスイッチを押す。白い灯りが安定する。ヒカリがその光を見て短く頷いた。

 

「じゃあそれ、屋上用」

 

「何で屋上」

 

「風強いとこ先に動くから」

 

 もっともだった。学校の見取り図を描きながら、ヒカリはもうどこが弱いかまで考えている。

 

 アスカは黒板の前へ来ると、見取り図の角を指で叩いた。

 

「ここ抜けてる」

 

「どこ」

 

「渡り廊下の角。机運ぶ時、あそこ狭い」

 

 ヒカリがチョークを止める。確かめに行くより早く、アスカは教室の外へ出て、廊下の角を見て戻ってきた。

 

「やっぱり。そこ、一人分しか抜けない」

 

「じゃあ矢印変える」

 

 ヒカリはすぐ線を引き直した。アスカは何も言わずに机の列へ戻る。怒るためじゃなく、詰まる場所を先に潰すために動く。その手つきが、最近は前よりずっとよく見える。

 

 作業が終わる頃、食堂から余ったスープの鍋が保健室へ回ってきた。紙コップへ少しずつよそい、まだ残っている見回り当番へ渡す。僕はコップを四つ持とうとして、トウジに二つ取り上げられた。

 

「こぼす」

 

「こぼさないよ」

 

「熱いもん持つ時は欲張るな」

 

 半分だけ渡される。紙コップ二つ分のスープは軽い。でも湯気の熱だけはある。見回りの先生へ渡すと、「助かる」と本当に疲れた声で言われた。

 

 大げさな奇跡の翌日にあるのは、こういう鍋の底に残ったスープなのかもしれないと思う。誰かが撃って、誰かが守って、その次の日には誰かが電池を替え、見取り図を書き直し、余り物のスープを紙コップへ分ける。

 

 その順番があるから、昨日の奇跡も今日の学校へ続く。

 

 黒板の端へ完成した見取り図を見ながら、僕はそう思った。

 

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