翌朝の学校は、いつもの匂いより少しだけ焦げくさかった。
停電の影響で購買の冷蔵庫が一部止まり、食堂ではパンとスープだけの簡単な昼食になったらしい。昼休みになると、廊下の先まで列が伸びた。ヒカリが入口に立ち、トレーの取り方と返却順を半ば本気で仕切っている。
「押さない。走らない。味噌汁は一人一杯。相田君、列の途中で覗き込まない」
「見るだけだって」
「そういうのが邪魔なの」
ケンスケが首をすくめ、トウジが横で笑う。僕はトレーを二枚重ねて持ちかけて、すぐヒカリに止められた。
「碇君、自分の分だけ」
「アスカのも持つつもりだった」
「いらない」
背後からアスカが即答した。
「自分で持てるわよ」
持てるくせに、味噌汁の椀だけは僕のトレーの端へ移した。熱いのが嫌なのか、こぼれるのが嫌なのかは分からない。
食堂の隅の席へ座る。アスカは最初、椅子を一脚分離して置こうとして、それからほんの少しだけ引き戻した。前ほど露骨には空けない。詰めすぎもしない。そういう中途半端な距離が今の僕たちらしかった。
「パン、固い」
「昨日の残りだと思う」
「知ってる。感想よ」
文句を言いながらも、アスカは二口目も食べる。トウジが向かいに座り、ケンスケはラジオのノイズについて語り始めた。綾波はスープの湯気を見てから、静かに匙を動かす。
「停電の時、昇降口のライト一本だけ死んどったやろ」
トウジが言った。
「教頭が今日の放課後、また点検せえ言うとった」
「またか」
アスカが顔をしかめる。
「学校って、なんでこういう時だけ急に仕事増えるのよ」
「増えるんじゃなくて、見えてなかっただけじゃない?」
ヒカリがトレーを返却しながら割り込んできた。
「懐中電灯も毛布も、誰かがどこにあるか知ってないと使えないんだから」
その言い方は完全に正しかった。正しいから反論しづらい。アスカは舌打ちだけして、パンの袋を丸めた。
食後、僕たちはそのまま教頭に捕まって、廊下の非常灯と各教室の備品を確認することになった。脚立、交換用の蛍光灯、単一電池の箱、使いかけの消毒液。学校の中には、今まで見ようとしなかっただけで生きるのに要る物がやけに多い。
「理科室、ラジオ一台不調」
ケンスケが声を張る。
「保健室、包帯残り少なめ」
ヒカリが名簿へ書き込む。
「屋上扉の鍵、ちょっと渋い」
トウジが鍵束を振る。
アスカは黒板の端へ簡単な見取り図を書き足していた。避難口、暗い階段、点かない灯り。字は大きく、早い。僕は交換用の電池箱を抱えて教室へ戻り、彼女のチョークの下にそっと箱を置いた。
「重かったら呼べばよかったのに」
「呼ぶ前に持ってきたのはあんたでしょ」
「それはそうだけど」
「じゃあ黙って下置いて」
言いながら、アスカは視線だけでチョークの場所を示す。僕がそれを取って手渡すと、彼女は受け取って一瞬だけ書く手を止めた。
「……ありがと」
小さくて、半分くらいしか聞こえない声だった。
でも聞こえたから、僕は何も言い返さなかった。言い返すより、そこに電池箱が置かれ、見取り図が一つ埋まったことの方が大事な気がした。
停電の夜が明けても、第三新東京市はまだ少しぎこちなかった。
自販機は半分死んだままだし、エレベーターも時々変な音を立てる。学校では設備復旧がどうとか、ネルフが電力を優先しているのがどうとか、分かったような分からないような噂が飛び交っていた。
その噂の真ん中に居るはずの僕は、いつも通り曖昧に笑ってやり過ごすしかない。
そういうところだけ、前より上手くなった。
上手くなりたかったわけじゃないのに。
「おい碇」
昼休み、トウジが机に肘をついてきた。
「なんや最近お前、やけに日常的やな」
「褒めてる?」
「知らん」
「じゃあ褒めてないな」
「どっちでもええわ」
トウジは眉をひそめた。
「前よりちょっとだけ、しゃべるようになった言うとるんや」
「それなら、まあ」
「でもたまに、すっげえ変な顔する」
「……どんな?」
「今にも誰か死にそうや、みたいな顔」
喉が詰まった。
そんな顔をしている自覚は、正直あった。
学校で笑っていても、夕食を作っていても、テストでレバーを握っていても、ふとした瞬間に未来が割り込んでくる。誰かが死ぬ場面。壊れる場面。泣き声。沈黙。
それが顔に出ているのなら、相当みっともない。
「気をつけるよ」
「気ぃつけてどうこうできるもんちゃうやろ」
トウジはそう言ってから、声を少し落とした。
「なんかあるなら、言えよ」
「うん」
言えないけど。
その時、教室の後ろがやけに騒がしくなった。見なくても分かる。アスカだ。
「だから違うって言ってるでしょ!」
苛立った声が飛ぶ。何かのプリントをヒカリに突き返している。たぶん進路だとか、補習だとか、その手のものだろう。
前からそうだったけれど、最近のアスカは“怒るために怒っている”感じが強くなっていた。
苛立ちの芯が別の場所にある。
自分でも、それをうまくつかめていない。
だから見ている方が居心地悪い。
「またやっとるな」
トウジがぼそっと言った。
「元気だよね」
「元気っちゅうか、ずっと喧嘩腰や」
違う、と僕は思った。
喧嘩腰なんじゃない。踏み外すのが怖いから、先に足を振り上げているだけだ。
でもそれを説明してもしょうがない。僕だって似たようなものだからだ。
その日の夕方、ネルフで緊急招集がかかった。
発令所に着いた瞬間、空気の重さで分かった。
厄介な使徒だ。
モニターには、軌道上から落下してくる巨大な影が映っていた。上空から落下してくる使徒だ。前にも見た。見たから分かる。あれは、近づくほど逃げ場がなくなる。
『目標、弾道修正を継続中』
『このままでは第三新東京市に直撃します』
『迎撃システムでは間に合わないわね』
前にもそうだった。
結局、僕たちが受け止める。
それしかない。
「最悪」
アスカが吐き捨てた。
「地味すぎるわ」
「地味とかそういう問題じゃないだろ」
「じゃあ何よ」
「失敗したら街ごと終わる」
「分かってるわよ、それくらい!」
分かってる。
分かってるけど、分かっていることと実感は違う。発令所の大人たちだってたぶん同じだ。数字で状況を理解しても、あれが本当に頭上へ落ちてくる痛みまでは、誰にもまだ想像できていない。
ミサトさんだけが、少し違う顔をしていた。
作戦案を立てる目だ。
怖さを横へ置いて、どう動くかだけを考える時の顔。
「初号機、零号機、弐号機で三点展開。ATフィールドを全開。落下地点で受け止める」
「ざっくりしすぎじゃないですか」
つい口が出た。
ミサトさんがこっちを見る。
「文句ある?」
「文句じゃなくて……」
言い淀む。
知っている、と言えば早い。けれど言えない。
「位置取り、もう少し詰めた方がいいです。最初のズレが大きいと、たぶん零号機側に荷重が偏る」
リツコさんが目を細めた。
「根拠は?」
「勘です」
「便利ね、その勘」
嫌味だった。でも否定はできない。
僕にあるのは、結局それだけだからだ。
ミサトさんは数秒だけ考え、地図を見直した。
「……いいわ。位置は再計算」
「了解」
それだけで、少し救われる。
前の記憶をそのままなぞるだけじゃなく、ほんの少しでもマシな方へ寄せられるなら、やる意味はある。
ブリーフィング後、カタパルト脇の待機室でアスカが僕を睨んだ。
「なによ、また知ってるみたいな顔して」
「してないよ」
「してるわよ」
「ただ、嫌なんだ」
「何が」
「誰かが潰れるのが」
アスカは一瞬だけ黙った。
それから、ふっと鼻で笑った。
「潰れないわよ」
「……うん」
「そういう返事が腹立つの」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「知らないわよ」
前にも何度かこういうやり取りをした。
問い詰めるくせに、答えを持っていない。持っていないことを自覚した瞬間に怒る。
理不尽だ。
でも、それが少しだけ懐かしくもある。
たぶん僕も同じだからだ。
「ねえ」
アスカが急に声を落とした。
「ほんとにさ、あんたって何なの」
「え?」
「死ぬのが怖いくせに、死にそうな時だけ変に前に出るし。かと思えば、こっちがやるって言うと今度は勝手に青くなるし」
「……ごめん」
「謝るな」
「じゃあどうしろって」
「信じなさいよ」
息が止まりそうになった。
アスカはそっぽを向いたまま続ける。
「あたしが落っこちてくる石ころごときに負けるように見える?」
「石ころではないだろ」
「似たようなもんよ」
「似てない」
「うるさい」
そう言いながらも、アスカの口元はほんの少し上がっていた。
強がっている。
でも強がれるなら、まだ大丈夫だと思いたい。
出撃までの数分、僕はプラグスーツの袖口をいじりながら、何度も呼吸を整えた。
今度の戦いは、派手じゃない。殴り合いでも、撃ち合いでもない。落ちてくる世界の欠片を、三人で受け止めるだけだ。
だけ、と言える重さじゃない。
自分の真上から世界が落ちてくるのを待つなんて、まともじゃない。
それでも、やるしかない。
『エヴァ各機、発進準備』
『シンジ君、聞こえる?』
「はい」
『変なこと考えないでね』
「変なことって」
『落ちてくる使徒より先に、自分のせいで誰かが潰れるとか、そういうの』
図星だった。
「……考えないようにします」
『お願い』
カタパルトに乗り込む。射出。空気が裂ける。
赤い空じゃない。まだ夕方にもなっていない青だ。でもその青の上から死が落ちてくると思うと、ひどく気味が悪かった。
配置につく。初号機、零号機、弐号機。
遠くに、でも確かに見える。
巨大な目玉みたいな影。
段階的に砲撃。軌道修正。作戦は前と大きく変わらない。変わらないのに、心臓は前よりずっと激しく打っていた。知っているからだ。最後に、全部の重さが腕と脚に来ることを。
『位置固定!』
『ATフィールド展開準備!』
『来るわよ!』
アスカの声は、こういう時だけよく通る。
たぶん怖いのだろう。怖いから余計に大きな声を出す。僕にはそれが少し分かる。
「アスカ」
『なによ!』
「……信じる」
一瞬、通信の向こうが静かになった。
『遅い!』
でも、その怒鳴り方はやや明るかった。
次の瞬間、世界が落ちてきた。
衝撃。
ATフィールドが軋む。地面が鳴る。足元が沈む。肩口から腕へ、腕から歯の根へ、重さがそのまま伝わってくる。
圧倒的だった。
前にも受け止めたはずなのに、今回の方がはるかに重い。記憶の中ではもっと、きれいに“作戦”だった。現実は違う。泥臭くて、痛くて、いつ折れるか分からない綱渡りだ。
『シンジ、右ずれてる!』
「分かってる!」
『分かってない!』
アスカの怒鳴り声で、かえって落ち着く。
こういう時、アスカは前だけを見る。自分が潰れるかどうかより、今どこを支えるかを先に考える。
その強さが羨ましい。
零号機のフィールドが一瞬揺らいだ。
「綾波!」
『大丈夫』
短い返答。
本当に大丈夫かどうかは分からない。でも綾波の「大丈夫」は、自分に言い聞かせる時の声ではなく、事実だけを置く時の声だった。
なら信じるしかない。
受け止める。
踏ん張る。
ミサトさんのカウントが遠くで響く。
何秒、何十秒。体感では何分にも伸びた。
やがて、軌道がずれ、圧力が逃げ始める。
最後の力を振り絞って、三機同時に押し返す。
十字の爆発。
空に、ありえないくらい大きな花が咲いた。
終わった。
エントリープラグの中で、僕はしばらく息もできなかった。
勝ったとか、街が守れたとか、そういう感想は数秒遅れてやってくる。まず最初に来たのは、アスカと綾波が生きているかどうか、それだけだった。
『全機健在!』
その報告で、ようやく体から力が抜けた。
戦闘後、格納庫の空気は不自然なくらい軽かった。皆が浮ついている。大仕事をやり遂げた後の、興奮と安堵が入り混じった感じだ。
僕はその少し外側にいた。
弐号機の前で、アスカがプラグを降りる。汗で髪が額に貼りついているのに、顔だけは勝ち誇っていた。
「見た?」
「見た」
「どう?」
「すごかった」
「そうでしょ」
すごかった。
本当に。
でも、すごかったと言うだけで済ませるには、僕はもう少し別のものまで見てしまっていた。
アスカが怖がっていること。
怖いくせに、それでも前へ出ること。
褒められたいんじゃなく、見失いたくない何かのために、必死で強い顔をしていること。
前の僕は、それをほとんど分かっていなかった。
「なによ」
「いや」
「何」
「……やっぱり、死ななくてよかった」
アスカの顔がぴたりと止まった。
「なにそれ」
「本音」
「気味悪い」
「知ってる」
「勝手に一人で悲壮ぶるの、ほんとやめて」
「悲壮ぶってるつもりは」
「あるわよ」
言い返しかけて、やめた。
たぶん、ある。
僕は“知っている”ことを盾にして、勝手に一人で重い顔をしてしまう。相手からすれば、そんなの気味悪いだけだ。
アスカは腕を組んで、僕をじろじろ見た。
「でもまあ」
「うん」
「さっきの“信じる”は、ちょっとだけマシ」
それだけ言って、背を向ける。
僕は慌ててその後ろ姿に声を投げた。
「ちょっとだけ?」
「全部マシになったら腹立つでしょ!」
怒鳴り返ってきた声がひどく嬉しかった。
その日の夜、家のベランダで風に当たっていると、ミサトさんが隣に出てきた。
「よくやったわね」
「たまたまです」
「それ、便利な言葉ね」
「便利ですよ」
ミサトさんは少し笑った。
「今日は、奇跡の価値があったかもね」
「奇跡?」
「三人とも、生きて帰った」
そう言われると、ようやく少し実感が湧いた。
生きて帰った。
僕も。綾波も。アスカも。
ただそれだけのことが、世界を受け止めるよりずっと難しい時もある。
だからたぶん、それは奇跡と呼んでいい。
でも、本当に価値があるのは、奇跡が起きたことそのものじゃない。
その後で、誰かと同じ場所へ帰って来られることだ。
夕食の後、洗い物をしていると、後ろからアスカの声が飛んだ。
「ねえ」
「なに」
「今日のあんた、ちょっとだけマシだったって言ったの、忘れないでよね」
「忘れないよ」
「勘違いしないで」
「してない」
「してる顔よ」
「してるかも」
「バカ」
その“バカ”は、やや軽かった。
奇跡の価値は、たぶんこういう所にある。
空から落ちてきたものを受け止めることじゃない。
落ちてきたあとでも、まだ誰かが隣で怒っていることだ。
* * *
落下迎撃作戦の前、ミサトは珍しくブリーフィングルームの外で一人になっていた。
作戦そのものは単純だ。
単純なだけに、失敗した時の想像も単純で済まない。
街へ落ちる。人が死ぬ。そういう“絵”がそのまま浮かぶ作戦は嫌いだった。
嫌いなのに、今回の彼女を本当に苛立たせていたのは別のことだった。
シンジが何度か口を開きかけては閉じる。
アスカがそれを横目で見ている。
リツコは気づいているくせに何も言わない。
あの三人の間に、まだ言語化されていない何かがある。
それが戦闘の直前に一番嫌だった。
「難しい顔してるね」
加持が壁にもたれて言う。
「嫌な予感しかしないから」
「それはいつもだろ」
「今日は種類が違うのよ」
ミサトは腕を組んだ。
「シンジ君、最近さらに自分の命を軽く見てる節がある」
「ほう」
「勝とうとしてるんじゃないの。間に合わなかった時の顔を見たくなくて、先に自分を削ってる」
加持は一拍置いた。
「死にたいわけじゃない」
「ええ」
「でも、生き延びる権利を自分にあんまり与えてない感じはするな」
その言い方に、ミサトは思わず目を細める。
「何よそれ」
「似たような子、昔見たことある」
たぶん自分自身の話なのだろうと、ミサトは聞かなかった。
迎撃作戦が成功したあと、発令所では大きな安堵が広がった。
マヤが椅子に座り込む。シゲルが珍しく笑う。マコトが深く息を吐く。誰もが一瞬だけ仕事を忘れた顔になる。
けれどリツコだけは、すぐに別の画面を開いていた。
「何見てるの」
ミサトが覗き込む。
「今回の荷重分散」
「今?」
「今じゃないと忘れる」
モニターに表示されたグラフは、三機のフィールド負荷推移だった。
「零号機への荷重偏差、直前で補正されてる」
「シンジ君の指摘のところ?」
「ええ」
リツコは淡々と言う。
「結果としてレイの負担は減った。でも初号機側の消耗は予想より大きい」
「それが?」
「碇シンジ、自分のフィールドを強く張る時と緩める時の差が極端なのよ」
グラフが跳ねている。
「怖い時ほど深く潜る。普通なら逆なのに」
「やっぱり変よね」
「変よ」
リツコはそこでわずかに言い淀んだ。
「強くなってる、とは言える。初期適性も応答速度も上がってる。でも、健全な意味の成長じゃない」
「痛みで鈍くなってるとか?」
「鈍くはない。むしろ敏い。敏いから先に絶望して、その絶望のままレバーを握る」
その表現は、ミサトの胸へ妙に残った。
絶望したままレバーを握る。
それは確かに、碇シンジの戦い方をよく表している気がした。
勝ちたいからじゃない。
負けた先を知っているみたいに、そこへ行きたくなくて前へ出る。
そういう戦い方。
「使徒の方も、前より強いのかしらね」
ミサトが半分独り言みたいに言うと、リツコは首を振った。
「強いというより、こちらに合わせて別の顔を出してるだけ」
「それ、十分厄介じゃない」
「ええ。だから私は“知っているつもり”が一番嫌いなの」
ミサトはかすかに笑った。
「シンジ君に言って」
「あなたが言いなさい」
その返しが、今はやけに現実的だった。
* * *
点検が終わったあと、ヒカリは黒板の端へ新しい見取り図を描き始めた。
昇降口、保健室、屋上、理科準備室。そこへ赤いチョークで非常灯の位置、青でラジオ置き場、白で給水の順路。教室の後ろでケンスケが「ちょっと軍の野戦地図っぽい」と喜び、すぐヒカリに睨まれる。
「遊びじゃないの」
「分かってるって」
「分かってる顔じゃない」
僕は机の上へ交換済みのものと未使用のものを分けて並べた。トウジがその横で紙テープへ日付を書く。『今日交換』『予備』『要確認』。字は雑だ。でも、雑でも書いてあるだけで後で誰かが助かる。
「碇、こっちのライトも見て」
ケンスケが一本差し出す。スイッチの接触が悪いらしく、押しても点いたり消えたりする。僕は電池を入れ直し、端子の埃を払った。小さな修理だ。エヴァの整備とは比べものにならないくらい小さい。けれど、その小さい作業の方が今は不思議と落ち着く。
「直る?」
「たぶん」
カチ、とスイッチを押す。白い灯りが安定する。ヒカリがその光を見て短く頷いた。
「じゃあそれ、屋上用」
「何で屋上」
「風強いとこ先に動くから」
もっともだった。学校の見取り図を描きながら、ヒカリはもうどこが弱いかまで考えている。
アスカは黒板の前へ来ると、見取り図の角を指で叩いた。
「ここ抜けてる」
「どこ」
「渡り廊下の角。机運ぶ時、あそこ狭い」
ヒカリがチョークを止める。確かめに行くより早く、アスカは教室の外へ出て、廊下の角を見て戻ってきた。
「やっぱり。そこ、一人分しか抜けない」
「じゃあ矢印変える」
ヒカリはすぐ線を引き直した。アスカは何も言わずに机の列へ戻る。怒るためじゃなく、詰まる場所を先に潰すために動く。その手つきが、最近は前よりずっとよく見える。
作業が終わる頃、食堂から余ったスープの鍋が保健室へ回ってきた。紙コップへ少しずつよそい、まだ残っている見回り当番へ渡す。僕はコップを四つ持とうとして、トウジに二つ取り上げられた。
「こぼす」
「こぼさないよ」
「熱いもん持つ時は欲張るな」
半分だけ渡される。紙コップ二つ分のスープは軽い。でも湯気の熱だけはある。見回りの先生へ渡すと、「助かる」と本当に疲れた声で言われた。
大げさな奇跡の翌日にあるのは、こういう鍋の底に残ったスープなのかもしれないと思う。誰かが撃って、誰かが守って、その次の日には誰かが電池を替え、見取り図を書き直し、余り物のスープを紙コップへ分ける。
その順番があるから、昨日の奇跡も今日の学校へ続く。
黒板の端へ完成した見取り図を見ながら、僕はそう思った。