使徒の出現が一時的に途切れた頃、転校生がやってきた。
霧島マナ。
明るくて、人懐っこくて、距離の詰め方にためらいがない少女。前にも出会った。たしかに覚えている。でも、今の僕にはその記憶が前より少し厄介だった。
マナは前と同じように、何の前触れもなく僕の隣へ座った。
「よろしくね、碇くん」
笑顔が近い。
僕は反射的に少し引いた。マナは気づいたくせに、気づかないふりでさらに話しかけてくる。
「ねえ、噂はほんと?」
「何の」
「碇くんって、あのエヴァのパイロットなんでしょ?」
教室の空気がざわついた。ケンスケが食いつき、トウジが呆れ、アスカが露骨に眉をひそめた。ヒカリが慌ててたしなめる。
「ちょっと、霧島さん」
「えー、だって気になるんだもん」
「そういうこと、教室で大きな声で言わないで」
ヒカリの注意もどこ吹く風で、マナは僕の机に頬杖をついた。
「じゃあ放課後デートしよ?」
「は?」
僕が固まるより先に、教室のあちこちから変な声が上がった。ケンスケが面白がり、トウジが半笑いになり、ヒカリが真っ赤になる。綾波だけが相変わらず窓の外を見ている。
アスカは数秒遅れて、いかにも不機嫌そうに机を叩いた。
「何勝手に決めてんのよ」
「え、アスカ関係ある?」
「あるわよ!」
「なんで?」
「なんででも!」
その場で始まりかけた言い争いを見ながら、僕はどうしていいか分からなかった。
前にも似たような空気はあった。でも今は、笑ってやり過ごせるほど軽くない。マナの屈託のなさがまぶしい分だけ、僕の中の嫌なものも照らされる。
マナと一緒にいるのは楽だ。
分かりやすく好意を向けてくる相手は、怖くない。少なくとも一瞬は。嫌われる前提で話さなくていい。気を遣って沈黙を埋めなくていい。
そういう「楽さ」に、僕は前にも救われた気になった。
でも今は知っている。その楽さの中に逃げ込むと、結局また目の前の誰かを見なくなる。
放課後、マナは本当に僕を校門の外まで引っ張って行った。
「いいじゃない、少しくらい」
「でも」
「でもじゃない」
前と同じようで、前より強引だ。いや、前は僕の方がもっと受け身だっただけかもしれない。
駅前のハンバーガー屋。喫茶店。ゲームセンター。マナは次々に行きたい場所を挙げる。その横顔を見ながら、僕はだんだん落ち着かなくなっていった。
「碇くんってさ」
「なに」
「優しいよね」
その言葉に、僕はすぐ返事ができなかった。
優しい。
何度か言われたことがある。でも僕は、その言葉があまり好きじゃない。僕の優しさは、たいてい自分が傷つきたくないことと混ざっているからだ。
「そうかな」
「そうだよ。だって断れないし」
「それは優しいって言わない」
「言うよ」
マナは笑う。からっとした笑い方だ。その笑顔に嘘はないように見える。だから余計に、僕の方がずるくなる。
「マナはさ」
「うん?」
「なんで僕にそんなに構うの」
「好きだから」
さらっと言われて、僕は飲み物を吹きそうになった。
「冗談だよ」
すぐに笑う。でも、冗談じゃない部分も混ざっているのが分かる。
こういう真っすぐさに僕は弱い。弱いからこそ、すぐに受け取らない方がいいと知っている。受け取った瞬間に、他の誰かから目を逸らす言い訳に使ってしまうからだ。
夕方になって別れ、家へ戻ると、空気がやけに冷えていた。
ミサトさんは仕事。綾波はまだ本部。ペンペンだけがのんびりしている。問題は、台所に立っているアスカだった。
「おかえり」
言い方がすでに怒っていた。
「……ただいま」
「へえ。デート楽しかった?」
「デートじゃない」
「ふうん」
包丁の音がやけに強い。まな板に刻まれる野菜がかわいそうだった。
「別に、いいけど」
「何が」
「誰とどこ行こうが、あんたの勝手だし」
「じゃあ何で怒ってるの」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
「怒ってないってば」
「今すごく怒ってる」
アスカは包丁を置いて振り返った。
「なによ。あたしが嫉妬してるって言いたいわけ?」
そこで否定すればよかったのかもしれない。でも僕は、一度言葉に詰まってしまった。
それが答えみたいなものだった。
「……最低」
アスカは短く吐き捨て、手を拭いて部屋へ戻った。
何が最低なのか、その時の僕には半分しか分からなかった。アスカの感情を勝手に名づけたことか。否定も肯定もできずに黙ったことか。あるいは、マナといる間の自分の楽さを、どこかで欲しがっていたことか。
夜遅く、ベランダで涼んでいると、隣にミサトさんが出てきた。
「聞いたわよ、デート」
「違います」
「そう言う顔ってことは、違わない部分もあるのね」
「やめてください」
ミサトさんは笑いながら缶を傾けた。
「アスカ、分かりやすいわねえ」
「分かりやすいですか」
「すっごく」
「僕には分からない」
「シンジ君は、自分に向いた好意だけ極端に鈍いのよ」
胸の奥が、ひどく嫌な形で痛んだ。
好意。そんな簡単な言葉で片づくものなのか。アスカが向けてくるのは、苛立ちや競争心や寂しさや意地や、その全部が固まったものだと思っていた。たぶんそれは間違っていない。でも、それを「好意」と呼ぶ方がずっと怖かった。
「もしそうでも」
「うん」
「僕、どうしたらいいか分からないです」
ミサトさんはふっと真顔になった。
「分かってる人の方が少ないわよ」
「でも、期待させるのは嫌です」
「期待させないようにしようとして、冷たくなるのもだいぶ最低だけどね」
耳が痛かった。
まっすぐ刺さる言葉ほど、ミサトさんは軽い調子で言う。だから余計に逃げ場がない。
数日後、マナは学校の帰り道に僕へ言った。
「碇くん、誰かいるでしょ」
「え?」
「好きな人」
否定しようとして、できなかった。
好き。
その言葉を口にするには、まだ僕は臆病すぎる。でも、否定までしてしまうと、それはそれで今のアスカに対して卑怯な気がした。
「……分からない」
結局、そんな答えしか出ない。
マナは少し寂しそうに笑った。
「そっか。じゃあ、分かるまで悩めばいいよ」
そう言って手を振る。その背中を見送りながら、僕はマナに救われた気がしたくなかった。
誰かの優しさに救われたふりをすると、その優しさを消費する側に回ってしまう。前の僕はそういうことに無自覚だった。今は無自覚ではいられない。
家に帰ると、アスカは勉強机に向かったまま言った。
「……おかえり」
それだけだった。
それだけなのに、今まででいちばん気を遣った「おかえり」だった。
僕は少し迷ってから、アスカの部屋の襖の前で立ち止まった。
「アスカ」
「なによ」
「今日、デートじゃなかった」
「別に、聞いてない」
「でも言う」
アスカは椅子ごと半分だけ振り向いた。怒っているのか、期待しているのか、よく分からない顔だった。
「マナは、いい子だよ」
「そう」
「一緒にいると、すごく楽だった」
その一言で、アスカの肩がはっきり固くなった。
怒る前に傷ついた時の固まり方だと分かってしまって、余計に息が詰まる。
「でも」
僕はそこで、逃げるみたいに言葉を濁したくなかった。
今日ここでまた曖昧にしたら、楽な方へ逃げなかったという自分の言い分まで嘘になる気がしたからだ。
「帰りたいと思ったのは、こっちだった」
「……は?」
アスカが眉を寄せる。
「なにそれ」
「うまく言えない」
「じゃあ言うな」
「うん」
「……ほんと、あんたって」
呆れたようにそう言って、アスカはまた机に向き直った。
でも、その肩の線はいくぶん柔らかくなっていた。
マナが来てから数日、教室はやたらうるさかった。
元々うるさい場所ではあったけれど、そのうるささに種類が増えた感じだ。ケンスケは目を輝かせ、トウジは半分呆れ、ヒカリは怒る回数が増えた。マナはその全部を気にしないまま、好きな時に好きなだけ僕へ話しかけてくる。
そのまっすぐさは、やっぱり少し怖い。
怖いくせに、楽でもある。
だから厄介だった。
「ねえシンジ君、今日どっか寄れる?」
昼休み、パンをかじっていた僕の前に、マナが身を乗り出してくる。
「今日は」
「今日も、でしょ?」
先回りされて、言葉が止まる。
「たまにはいいじゃない」
「良くない」
横から即座に声が飛んだ。
アスカだった。机に肘をついたまま、ものすごく嫌そうな顔でこちらを見ている。
「毎日毎日、べったりくっついて。あんた他にやることないわけ?」
「あるよ?」
「じゃあやんなさいよ」
「えー、アスカって意外と独占欲強い?」
「はあ!?」
教室がまたざわつく。
こういう時の僕は、だいたい置いていかれる。話題の中心にいるのに、会話の主導権だけがどこにもない。
「僕、屋上行ってくる」
「逃げるな!」
二人同時に言われて、少し笑いそうになった。
でも笑ったら余計に面倒になるのが分かっているから、僕はパンの袋を丸めるだけにした。
放課後、結局僕はマナに連れ出された。
駅前からモノレールへ乗り、さらに湖の方へ向かう。観光客なんてほとんどいない。平日だし、この街でのんきに遊びに来る人も減っているのだろう。
「ねえ、シンジ君」
「なに」
「こういうの、前もしたことある気がしない?」
胸が詰まる。
ある。
でも“ある”は、今のマナと僕が共有している時間じゃない。僕の中だけに残っている、別の夏の記憶だ。
「気のせいじゃない」
「そっか」
マナはそれ以上深く聞かなかった。
優しいのか、ずるいのか、たぶんその両方だ。
芦ノ湖へ出ると、風が強かった。湖面は鈍く光っている。前にもこうして並んで見た気がした。気がした、じゃなく本当に見たのだろう。でも、その記憶にすがると今のマナをちゃんと見なくなる。
だから僕は、なるべく湖だけを見るようにした。
「ふん!」
後ろから聞き覚えのある声がして、思わず振り向いた。
アスカがいた。
顔を真っ赤にして、でも堂々と腕を組んでいる。
「なんでいるの」
「たまたま」
「嘘だ」
「うっさい!」
たまたまなはずがない。
でも、ついて来てしまうくらいには気になっていたのだと分かると、胸の奥がじわりと熱くなる。それを表に出したら終わるので、僕はなるべく何もない顔をした。
「シンジ君、ひどい」
マナが半分本気、半分冗談みたいな口調で言う。
「せっかく二人だったのに」
「勝手についてきたのはそっちだろ」
「ひっどーい」
そう言いながら、マナは僕の腕へ軽く抱きついた。
その瞬間だった。
頭の中で、何かがかちりと噛み合った。
違和感の正体が、やっとひとつの形になる。
近すぎるのだ。
距離の詰め方が上手すぎる。偶然にしては場面の選び方が良すぎる。僕が逃げないぎりぎりの所で、必ず踏み込んでくる。
前なら、ただ振り回されていたと思う。
今は違う。
違和感に名前をつけるくらいはできる。
「……脱出ルートは、確保済み?」
僕はできるだけ軽く言った。
マナの体がびくりと固まる。
「え?」
腕がわずかに離れる。
隣でアスカが目を丸くした。
「なによ、それ」
「冗談」
僕は肩をすくめた。
「ほら、こういう高い所って、何かあった時の逃げ道考えたくならない?」
笑ってみせる。
マナは一拍遅れて笑い返したけれど、その笑顔はさっきまでより少し硬かった。
「あ、あはは、変なの」
「そうかな」
「変よ」
今度はアスカが言う。
でもその声色は、さっきまでの怒り方と少し違っていた。マナだけじゃなく、アスカの方も何かを感じ取ったらしい。
三人で湖畔を歩くのは、ひどく奇妙だった。
マナはよく喋る。アスカは横から刺す。僕はその間で、なるべく何も見落とさないようにしている。
風の向きとか、足取りとか、周囲の人影とか。
こんな風に“遊び”の時間まで警戒に使ってしまう自分が嫌だった。
「ねえ」
人の少ない桟橋の端で、マナがふいに言った。
「わたしが敵でも、シンジ君はわたしのこと好きになれる?」
湖の音が、急に遠くなった気がした。
アスカが言葉を失う。
僕も、すぐには返せなかった。
冗談みたいな顔だった。でも声だけは少し本気だった。
「……分からない」
結局、それしか出ない。
「でも、敵かどうかを先に決めて、そこで考えるのをやめるのは嫌だ」
マナは僕を見つめていた。
「ずるい答え」
「知ってる」
「前からそんなふうに言う人だったっけ」
「前?」
「ううん。何でもない」
マナは笑った。でも今度の笑い方は、少し寂しそうだった。
帰りの電車で、アスカはほとんど喋らなかった。
怒っているというより、考えている顔だった。マナはやけに明るく振る舞い続けた。その明るさが逆に薄く見える。僕も何も言えなかった。
家へ帰り着いた頃には、三人とも少しずつ疲れていた。
「じゃあ、また明日ね!」
マナは最後まで元気な声で手を振った。
でも、その背中を見送りながら、僕はたぶん明日は来ないだろうと思っていた。
予感、というより確信に近かった。
夜になって、不意に爆発音がした。
窓が揺れる。
「なんでぇ? なんで非常事態宣言が発令されないのよ! ほんとにこの国ってトロいんだから!」
ベランダへ向かおうとしたら、お風呂上がりだったらしいアスカがタオル姿のまま飛び出してきた。
「敵はぁ? 新手の使徒ぉ? もうシンジもミサトもどこほっつき歩いてるのよ!」
「僕ならここにいるけど」
「ひぃ!?」
そこで初めて僕に気づいたらしい。
アスカは一瞬で真っ赤になってしゃがみ込み、次の瞬間には本気で蹴ってきた。
「見んじゃないわよ!」
「見える位置にいる方が悪いだろ!」
「頭隠して尻隠さずなんて言ったら殺すから!」
「言ってない!」
最悪な騒ぎの中で、もう一度爆発音が響く。
今度のは近かった。
僕とアスカは同時に口を閉じた。
警報は鳴らない。
使徒じゃないのだと、その時点で分かった。
翌朝、マナは学校へ来なかった。
それどころか、転校そのものが最初から無かったみたいに席が空になっていた。担任は体調不良とだけ言っていたけれど、クラスの誰もそれを信じていなかった。
僕だけが、たぶん別の理由を知っていた。
放課後、校門を出ると、駅前のベンチにマナが座っていた。
制服じゃない。白いワンピースでもない。地味な私服だった。最初から目立たないように作られたみたいな服。
「……やっぱり来た」
マナが笑う。
「来ると思った」
「うん」
「なんで?」
「昨日の顔で、今日来なくなったら、そういうことだと思うから」
マナは肩をすくめた。
「やだなあ、シンジ君って、ほんとは全然鈍くない」
「鈍いよ」
「だったら、もっと楽だったのに」
その言葉に、胸のどこかが痛んだ。
マナはしばらく黙っていた。
「ほんとはね」
「うん」
「利用するつもりだった」
風が吹く。
駅前の案内板がかすかに鳴る。
「分かってた」
「だよね」
マナは膝の上で指を組み直した。
「シンジ君、変なんだもん。普通の男の子みたいに喜んでくれないし、でも嫌そうなわけでもないし」
「嬉しくないわけじゃなかった」
「それ、ずるいなあ」
「うん」
僕はベンチの端に腰を下ろした。
マナは一瞬だけ身構えたけれど、逃げなかった。
「昨日の爆発」
「うん。あれ、使徒じゃない」
「うん」
「マナの仲間?」
「仲間っていうほど綺麗じゃないよ」
かすかに笑う。
「ネルフを探りたい人たち。あたしたちは、その足がかり」
やっぱりそうか、と思った。
思ったからって平気なわけじゃない。人に利用されるのは嫌だ。嫌だけど、それ以上に、利用しようとしていた相手が本当に少しは自分を好いていたのだと分かる方が厄介だった。
「ごめん」
マナが言う。
「それで済むとは思ってないけど」
「うん」
「怒らないの?」
「怒ってるよ」
「そっか」
「でも、怒る順番がよく分からない」
マナは僕を見た。
その目は、教室で笑っていた時よりずっと大人っぽかった。
「シンジ君って、もう後悔してる目してる」
「……そうかも」
前の世界の記憶を抱えているのだから、当然かもしれない。
やり直しているくせに、僕はいつも少し遅れて後悔している。
「マナ」
「なに?」
「仕方ないとか、しようがないって言って逃げたら、たぶんあとで自分を嫌いになる」
マナは何も言わない。
「だから、一度は考えた方がいい」
「逃げちゃだめだ、って?」
「そう」
「ひどいなあ」
マナは笑った。
「その台詞、たぶんシンジ君自身がいちばん思ってるくせに」
図星だった。
僕は口を閉じるしかない。
「……シンジ君」
「なに」
「わたし、少しは本気だったよ」
その一言に、喉がつまる。
「シンジ君のこと、利用するつもりだった。あわよくば懐に入って、色々聞き出して、それで終わるはずだった。でも途中から、それだけじゃなくなった」
マナは笑わなかった。
「そういうの、困るよね」
「うん」
「だよね」
ベンチから立ち上がる。
「もう会わない方がいいと思う」
「そうだね」
「でも」
マナは少し迷って、それからこちらを向いた。
「誰かを好きになるの、やめないでね」
返事ができなかった。
できないまま見上げていると、マナは少し寂しそうに笑った。
「シンジ君ってさ、好きにならないようにしてる顔するから」
その言葉だけを置いて、マナは歩き出した。
呼び止められなかった。
呼び止めたところで、どうなるわけでもない。
それでも、見送る背中に何か言うべきだったのかもしれないと、ふと思った。
家へ帰ると、アスカが玄関のところで待っていた。
「どこ行ってたの」
「駅前」
「……あいつ?」
「うん」
「何者だったのよ」
ごまかすこともできた。でも、それをやるとまた同じことになる気がした。
「僕を利用しようとしてた人」
アスカの眉がつり上がる。
「何それ」
「たぶんネルフのこと探るため」
「で、あんた分かってたの?」
「途中で」
「途中で!?」
怒鳴られる。
「何で言わないのよ!」
「確証がなかったから」
「言い訳!」
「そうだよ」
僕がそう返すと、アスカは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……またあたしだけ、のけ者にするのね」
小さかったけれど、はっきり聞こえた。
その言い方は、怒りだけじゃなかった。怒りの奥に、もう少し嫌な種類の傷があった。
「ごめん」
「だからそれ」
「でも、ごめん」
アスカはしばらく僕を睨んでいた。
「ほんっと、感じ悪い」
それだけ言って、踵を返す。
部屋へ戻る背中は怒っていた。でも、完全に閉じる前にほんの少し止まった。
「……次は言いなさいよ」
小さく、それだけ。
襖が閉まる。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
マナは去った。たぶんもう会わない。
でも、あの短い時間で残ったものは意外と多かった。
利用されかけたことより、好きにならないようにしていると見抜かれたことの方が、僕にはずっと痛かった。
人を好きになりたい。
好きだと言いたい。
そう思うくせに、その言葉を口にした瞬間に何かが壊れるのが怖くて、いつも手前で止まっている。
たぶん僕は、その臆病さの方を先にどうにかしないといけない。
でも、どうにかする方法はまだ分からなかった。
* * *
その夜、アスカは机に向かったまま、英単語帳を一頁も進められずにいた。
あの女がシンジへ抱きついた時の腕の角度まで、いやにはっきり覚えている。腹が立った。取られそうだったから、という言い方だけなら簡単だ。でもそれだけではなかった。
ああやって、あいつが他の女の子にとって“男の子”なのだと目の前で見せつけられた瞬間、自分の中でも同じところが勝手に熱を持った。
取られそうだったから腹が立った、というだけならまだ単純だ。
でも本当は、取られたくないと思った時点で、自分もまたシンジをただの同居人やライバルでは見ていなかったのだと突きつけられた。
それが一番むかつく。
ライバルとか、同居人とか、気持ち悪いサードチルドレンとか、そういう名前の後ろへ隠しておきたかったのに、あの女はその隠れ場所ごと軽くめくってしまった。
チェロを弾く指。
料理をする時に袖を少し捲る手首。
寝ぼけて近づいた夜、逃げなかった呼吸。
どう考えても厄介だった。
「……最悪」
小さく吐き捨てる。
でも、最悪だと思う時点で、もう前のままではいられないのだとも分かっていた。