使徒の襲来というと、たいていは空が変わる。
警報が鳴って、ビルが沈んで、どこかで爆発が起きる。そういう分かりやすい“非常事態の顔”がある。
でも、その日は違った。
始まりはあまりにも静かで、だから余計に気味が悪かった。
朝からネルフで定例のシンクロテストを受けていた。いつものカプセル。いつものLCL。いつもの数値。僕は相変わらず高い数字を出して、リツコさんに「便利ね」と嫌味とも本音ともつかないことを言われる。
アスカはそれにいちいち噛みつき、綾波は静かに待つ。
そういう順番まで、もう少しずつ日常になっていた。
だから、テスト中断のアラームが最初は現実味を持たなかった。
『全プラグ強制排出!』
『中央ブロック封鎖!』
『内部汚染の可能性!』
プラグから引きずり出され、まだ髪が濡れたままの僕たちは状況も分からず待機室へ押し込まれた。廊下を走る職員の足音だけが忙しい。
部屋へ入る前、係員の一人が僕たちの胸へ紙札を三枚押しつけた。薄いビニールのクリップで留める簡易識別票。〈第一適格者 一時待機〉〈第二適格者 一時待機〉〈第三適格者 一時待機〉。名前欄は空白のままだった。
「何これ」
アスカが自分の札を摘まむ。
「囚人?」
「緊急時識別です」
答えた職員は僕たちの顔をほとんど見なかった。見なくても用は足りる、みたいな返事だった。
「名前あるんだけど」
アスカが言う。職員は「後で入力します」とだけ言って走り去った。
後で。入力。
そういう言い方の中へ入ると、人は簡単に“そのうち記入される何か”になる。
「何よこれ」
アスカが苛立った声を上げる。
「使徒って外から来るもんじゃないわけ?」
「分からないよ」
「分からない、ばっか」
「ほんとに分からないんだよ」
声が少しだけ尖る。
アスカは舌打ちして、ソファの背にもたれた。綾波は壁際に立ち、ドアの向こうを見ている。向こう側で何かが進んでいるのを、視線だけで追おうとしているみたいだった。
待機室のモニターには、点滅するフロアマップと、意味の分からないグラフばかりが映っていた。
微生物レベルの侵入。
回路汚染。
自己増殖。
聞いているだけで嫌になる言葉だ。相手の顔がない。殴って壊せる腕も脚もない。ただ増えて、侵して、飲み込んでいく。それは人間関係が悪くなる過程にも少し似ていると思った。最初は小さな違和感で、気づいた時にはもうどこまで汚れているのか分からなくなっている。
「気持ち悪いわね」
ぼそっとアスカが言った。
「うん」
「何が?」
「今の」
「……そ」
そこで少しだけ会話が途切れる。
似たような感想を持っただけで、ひどく気まずい。アスカと同じことを思ったから嬉しい、みたいな自分がどこかにいるからだろう。そういうのが気持ち悪い。
ドアが開いて、ミサトさんが顔を出した。
「ここから出ちゃ駄目。現在、本部中枢が侵食されてる」
「エヴァは?」
僕が聞くと、ミサトさんは顔を少ししかめた。
「今は出せない」
「はあ?」
アスカが立ち上がる。
「使徒なんでしょ? だったらエヴァ出せばいいじゃない!」
「そのエヴァを動かすシステムごとやられかけてるの!」
「じゃあ手動で――」
「時間がないのよ」
ミサトさんの声が少し強くなる。
そこで彼女は一度、僕たちの胸元を見た。
「それ、誰が配ったの」
「そこにいた人」
僕が答えると、ミサトさんは舌打ちまではしなかったけれど、それに近い顔をした。ポケットから極太の油性ペンを抜き、紙札の空欄へ乱暴に書き足す。アスカ、レイ、シンジ。インクが裏へ滲むくらい強い字だった。
「非常時ほど、番号だけで呼ぶとろくなことにならないの。返事が一拍遅れただけで、現場が勝手に“代わりが利く”って顔をするから」
アスカが眉を上げる。
「最初からそうしなさいよ」
「ほんとよ」
ミサトさんはそう吐き捨ててから、もう一度僕たちを見る。
アスカは口をつぐんだ。でも納得していない顔だった。
僕も納得はしていない。
けれど、エヴァに乗れば解決する問題じゃないということだけは分かった。
そういう時、僕たちは急に“子供”へ戻される。
パイロットじゃない。
戦力じゃない。
ただ待っていろと言われる側。
それが妙に悔しかった。
前の僕なら、戦わなくて済むことに少し安心したかもしれない。今も安心がゼロじゃない。けれど、その安心より先に“置いていかれる”感じがきた。
役に立てない。
役に立てないまま、誰かが決めたことの結果だけを待つ。
その感じは、前の人生で嫌になるほど味わったはずなのに、全然慣れなかった。
「ねえ」
ソファへ座りなおしたアスカが、膝を抱えながら言う。
「こういうの、一番むかつく」
「何が」
「何も出来ない感じ」
僕は一拍置いた。
「僕は、ちょっとだけほっとする」
正直に言ってしまう。
アスカはすぐに振り向いた。
「は?」
「いや……」
「何それ」
「戦わなくて済むから」
「ほんっと最低」
「うん」
「うん、じゃない!」
怒鳴られるのは分かっていた。でも、そこで嘘をつく方がもっと嫌だった。
「でも同時に、嫌なんだ」
「どっちよ」
「置いていかれるみたいで」
アスカは口を閉じた。
少しの沈黙。
「……それは」
小さく言ってから、アスカは不機嫌そうに視線を逸らした。
「それは、まあ……分かる」
その言葉に、胸のどこかが少し軽くなる。軽くなるのがまた気味悪い。こんな非常時に“分かる”をもらって安心している場合じゃないのに。
モニターにリツコさんの顔が映った。何かを早口で指示している。マヤさんが泣きそうな顔で応答し、日向さんが必死に端末を叩き、青葉さんが珍しく声を荒げていた。
大人たちが走り回っている。
そういう光景を見ると、少し安心する。大人は全部を分かっているわけじゃない。分かっていなくても、走って、考えて、どうにかしようとする。
それを見ていると、父さんだけが特別に冷たい人間だというわけでもないのだと分かる。冷たさの形が違うだけで、皆それぞれに必死で、必死だから余計なものが削れていくだけだ。
しばらくして、リツコさんが待機室に入ってきた。
「状況は?」
綾波が先に聞いた。
「厄介」
それだけ言って、リツコさんは壁のモニターへ何かの式を映し出した。僕たちに説明するつもりはないらしい。でもアスカが睨みつけると、少し言葉を足した。
「自己進化型・侵食型の使徒よ。こっちの防壁を学習しながら、MAGIの中枢まで潜ろうとしてる」
「倒せないの?」
「殴れるならとっくに殴ってるわ」
「じゃあどうすんのよ」
「知恵比べ」
リツコさんの答えに、アスカは露骨に嫌な顔をした。
「最悪」
「同感」
その“同感”を、今度は僕もはっきり思った。
知恵比べ。
つまり、人間が作ったシステムと、人間が作った理屈の勝負だ。エヴァの暴力じゃなく、大人たちの頭でどうにかするしかない。
それはたぶん、ある意味では理想的だ。
世界を守るのが、子供の腕力じゃなく大人の責任であるなら、その方がずっとまともだ。
でも、まともなはずの戦いを前にして、僕たちはここで座っているだけだ。
その“まともさ”が、少しだけ僕を苛立たせた。
結局、僕は戦っている側にいない。
役に立っていない。
エヴァに乗る時だけ特別扱いされて、乗れない状況ではただの十四歳に戻る。その切り替えが、たまらなく嫌だった。
「碇君」
綾波が僕を見た。
「なに」
「苛立ってる」
「そうかな」
「そう」
綾波はいつもこういうことを妙な静けさで言う。
「パイロットじゃなくなるから?」
「……そういうのとは、ちょっと違う」
「でも少しはそう」
「うん」
否定できなかった。
アスカが横から口を挟む。
「何よそれ、あんたも結局そうなんじゃない」
「そうだよ」
「開き直るな」
「開き直ってるわけじゃない」
「じゃあ何」
「嫌だって言ってるだけ」
アスカは一瞬だけ黙って、それから小さく舌打ちした。
「……あたしも嫌」
その言葉は小さかった。でも、前を向いたままの声だった。
「何も出来ないの、嫌」
「うん」
「自分の知らない所で勝手に全部決まるの、もっと嫌」
「うん」
「だから」
アスカがこちらを向く。
「次にこういう時が来たら、乗るならちゃんと乗りなさいよ」
「え?」
「あんた、乗る時まで半端に引いてるから腹立つの」
「急に何」
「今言いたくなっただけ」
それだけ言って、またそっぽを向く。
たぶん、これもアスカなりの言い方なのだ。
何も出来ないことへの苛立ちを、そのまま“次”にぶつける。無力を嫌うから、未来へ逃がす。
強い。
というより、強くあろうとする。
その必死さが、見ていると痛い時がある。
数時間のあいだ、待機室の空気は張りつめたままだった。モニターのグラフが変わるたび、誰かが息を呑む。端末の打鍵音が壁越しに響く。僕たちは何度も飲み物を勧められたけれど、誰もほとんど手をつけなかった。
やがて、発令所側の声が急に静かになった。
嫌な静けさじゃない。疲れ切った後に来る静けさだ。
『侵食停止』
『内部自壊を確認』
『MAGI、機能維持』
その報告で、全員が一斉に息を吐いた気がした。
待機室の中まで、安堵が薄く伝わってくる。
「終わった?」
僕が聞く。
数秒遅れて、ミサトさんが顔を出した。
「終わったわ」
その顔は笑っていた。でも、笑うのに疲れている顔だった。
アスカが立ち上がる。
「結局、あたしたち何もしなかったじゃない」
「そうね」
「意味ない」
「そうでもないわよ」
ミサトさんは壁にもたれ、短く息をついた。
「いざとなったら出せるように待つのも仕事」
「待ってるだけなんて仕事じゃないわ」
「そう思うなら、覚えておきなさい」
珍しく、ミサトさんの声がやや硬かった。
「何も出来ない時間に自分を保つのも、戦う側の仕事よ」
アスカは不満そうに黙り込む。
僕はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
何も出来ない時間に自分を保つ。
それはたぶん、僕がいちばん苦手なことだ。
何も出来ない時ほど、過去や未来が頭に入り込む。自分の役立たなさや、誰かに要らないと思われる可能性ばかり膨らむ。だから、いっそ何かしてしまいたくなる。
勝手に突っ込む。勝手に背負う。勝手に失敗する。
それを“頑張り”だと勘違いする。
でも本当は、ただ待つのが下手なだけなのかもしれない。
発令所から戻る廊下で、僕は窓越しにリツコさんを見た。まだ端末の前に座ったまま、机に突っ伏しそうになっている。マヤさんがその横で何か言い、リツコさんが手をひらひら振る。
救ったのはあの人たちだ。
エヴァじゃない。
僕たちじゃない。
それを認めると、悔しいような、ほっとするような、変な気持ちになった。
そのあと、僕たちは待機室でじっとしているだけでは済まなかった。
ミサトさんが戻ってきて、濡れたままの髪を雑に束ねながら言った。
「エヴァはまだ出せない。でも手は足りない。三人とも、走れる?」
「走れるに決まってるでしょ」
アスカが即答する。綾波は黙って頷いた。僕も返事をした。
渡されたのは銃でもケーブルでもなく、紙だった。汚染区画の簡易見取り図、手書きの通行許可札、非常電源へ回す予備電池の本数表。それから端の折れた一枚の確認票。見出しには〈排出済みパイロット 一時待機〉と印字されている。さっき僕たちの胸へ留められた札と、同じ種類の名前のなさだった。
僕がその紙を見た瞬間、ミサトさんがひったくるように取り上げた。
「これはいらない」
そう言って裏返し、空いた面へ僕たちの名前を太い字で書く。シンジ、アスカ、レイ。
「端末が死んでる時は、誰がどこにいるか紙の方が早い。でも“第何”だけにすると、現場ってすぐ余ってる手扱いするの。だから名前で持つ。いい?」
侵食が端末を食うから、紙で伝えるしかないらしい。
「中央ブロックの自動扉が落ちてる。手動開閉の補助と、記録の受け渡し。迷ったら引き返す。勝手に英雄やらない。いい?」
最後だけ、ミサトさんは明らかに僕を見た。
「分かった」
「返事は一回」
アスカがすぐ言う。そのくせ、自分が許可札の束を一番先に掴んだ。
僕たちは非常灯だけが点く廊下を走った。いつもなら表示板が全部教えてくれる場所で、今日は紙の矢印と床のテープだけが頼りだった。綾波が前を見て区画番号を読み、僕が記録札を渡し、アスカが止まった扉のハンドルへ体重を掛ける。開ききらない扉の隙間へ、青葉さんがケーブルの束を滑り込ませた。
「あと三分持たせて!」
怒鳴り返したのはアスカだった。
「三分で終わらせなさいよ!」
言い方はきつい。でも、隙間へ足を差し込み続ける力が本気なのは誰より分かった。
別の区画では、マヤさんが紙のチェック表を抱えていた。端末が落ちているから、誰がどこを通ったかまで鉛筆で記録している。
「碇君、これ第二制御室へ! 綾波さん、こっちは赤木博士に! アスカは電池箱半分持って!」
「半分?」
「片方だけだと落とすから!」
ミサトさんの声が飛ぶ。僕とアスカは段ボール箱の左右へ手を掛けた。重さそのものより、狭い廊下で角をぶつけない方が難しい。アスカが「下見て」と言えば僕は下を見る。僕が「配線」と言えばアスカが箱を少し持ち上げる。そうやって二人で運んだ数メートルの方が、待機室で黙っていた時間よりよほど長く感じた。
戦わなかった。
けれど、何もしなかったわけでもない。
中央ブロックの非常灯が一列だけ戻った時、誰かが小さく拍手した。大人の拍手だった。自分の手柄を誇るような音じゃなく、まだ終わっていない作業の合間に一秒だけ鳴る安堵の音。
その一秒の中に、僕たちもいた。
ポケットの中で、紙札が汗に少し湿っていた。表の〈第三適格者 一時待機〉はもう見えない。裏返した面の《シンジ》だけが指に触れる。小さなことなのに、その上書きの有無で、今日の僕が“排出済みの部材”なのか、呼べば振り向く一人なのかが違ってしまう気がした。
夕方、家に帰る途中でアスカがぽつりと言った。
「ねえ」
「なに」
「今日の、あんたの“ほっとした”ってやつ」
「うん」
「分かんないわけじゃない」
歩きながらの言葉だった。前を向いたまま。
「戦わなくて済むの、ちょっとだけ楽だし」
「うん」
「でも、それを認めると消えそうで嫌」
その言い方が、あまりにも正確で、僕はしばらく何も言えなかった。
消えそう。
そうだ。僕たちはたぶん、戦わないと消えそうになるのだ。文字通りじゃない。存在の輪郭がぼやける。
ここにいてもいい理由を、急に失いそうになる。
「アスカ」
「なによ」
「今日の僕たち、意味なかったわけじゃないと思う」
「慰め?」
「違う」
少し考えてから、続けた。
「出なくて済むなら、その方がいいってことを、ちゃんと嫌がれたから」
アスカは足を止めた。
「……変なこと言う」
「そうかな」
「そうよ」
でも、その“変”を完全には否定しない顔だった。
帰宅すると、ミサトさんは珍しく早く帰っていて、テーブルに出来合いの惣菜を並べていた。
「今日はあたしがやる!」
と宣言していたけれど、結局ほとんど温めただけだった。
それでも、何となく誰も文句を言わなかった。
たまにはそういう日もある。
食卓でアスカが急に言った。
「あたしたち、待ってただけだったけど」
「うん」
「でも、次は絶対あたしが決めるから」
「何を」
「使徒」
ミサトさんが苦笑する。
「頼もしいわね」
「当然」
そう言い返すアスカの顔を見ながら、僕はふと思った。
使徒が侵入したのは本部中枢で、実際に追い返したのは大人たちの頭脳だった。
それなのに、食卓の向こうでアスカは“次”を口にする。
そうやって自分の居場所を確かめる。
僕も同じだ。
たぶん、パイロットという役目を愛しているわけじゃない。好きになんかなれない。
でも、その役目を通してしかまだ自分の輪郭をうまく持てない。
人に造られた機械に乗って、人の作った世界を守る。
気持ち悪い。
それでも、そうやってしか今は生きられない。
そのことを、その夜は少しだけ素直に認められた。