【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾四話 ゼーレ、魂の座

冬月は、碇シンジの変化を“異常”とまでは呼ばなかった。

 

 異様ではある。

 

 だが、異常という言葉は便利すぎる。便利すぎる言葉は、たいてい思考停止の別名だ。老人はそういうものを好まなかった。

 

 発令所のメインモニターには、先日の戦闘記録と操縦者管理表が並べて映っていた。片方には、少年が悲鳴の上がる方へ妙に早く手を出す映像。もう片方には、第一適格者、第二適格者、第三適格者とだけ書かれた乾いた一覧。

 

 映像の中では、碇シンジが誰かを庇うみたいに前へ出て、結果として余計に機体を損傷させている。表の上では、その動きは「初号機右腕部負荷過大」「第三適格者判断偏差」とだけ処理されていた。

 

「紙の上だと、ずいぶん簡単になるな」

 

 冬月が言うと、リツコは端末を指先で送った。

 

「簡単にしないと、運用票になりませんから」

 

「人間の顔が消える」

 

「顔が残る票は、上に持っていくと嫌がられます」

 

 皮肉とも事実ともつかない返しだった。

 

「また腕部に無茶な負荷をかけてる」

 

 リツコは戦闘記録の方へ視線を戻す。

 

「勝てない戦いをしているわけじゃないのに、必ずどこかで自分を削る方向へ行くのよ。機体を守るより先に、誰かに当たる軌道を潰しに行く」

 

「誰かに仕込まれている可能性は」

 

 冬月の問いに、リツコは首を振る。

 

「監視記録上は無し。外部接触も目立ったものは見当たりません。けれど……」

 

「けれど?」

 

「知っているように動くことがある」

 

 そこで沈黙が落ちる。

 

 冬月は画面の中の少年を見た。予知じみているわけではない。超然としてもいない。ただ、悲鳴が上がる場所と、遅れると取り返しがつかない一拍だけを、先に身体が覚えているみたいに動く。

 

 それが余計に不気味だった。

 

 ゲンドウは、肘掛けに指を置いたまま動かない。

 

「問題はない」

 

 いつもの声で言った。

 

「目的は果たしている」

 

「果たしてはいます」

 

 リツコはわずかに眉をひそめた。

 

「ですが、あの子は他のチルドレンを守ろうとしすぎる。自分が消耗することを前提にしているみたいに」

 

「結構なことだ」

 

「司令」

 

「必要な方向へ壊れるなら、調整の範囲だ」

 

 冬月はそこで、表の端を指で叩いた。

 

「“第三適格者”ならそれで済むだろうな。だが、碇シンジまでその言い方で片づけるのは雑すぎる」

 

 リツコが一瞬だけ目を上げる。マヤは息を呑み、すぐ端末に視線を落とした。

 

 ゲンドウの表情は変わらない。

 

「役割の話をしている」

 

「役割の話しかしていない、とも言える」

 

「今はそれで足りる」

 

「足りているのは計画書の方だ。子どもの方じゃない」

 

 冷たい空気が一拍ぶん滞る。

 

 だがゲンドウは反論しなかった。反論しないことで、かえって線を引いた。ここから先は運用の話だ。情は持ち込むな。そういう拒否の沈黙だった。

 

 冬月には、ゲンドウが本気でそう思っているわけではないことも分かった。冷たい言葉を選ぶ時ほど、この男は見たくないものを見ないようにしている。

 

 それは昔から変わらない。

 

 会議のあと、冬月は一人で残った。

 

 スクリーンの中で戦闘記録が巻き戻る。少年の顔が一瞬映る。怯えている。恐れている。なのに、逃げるより先に踏み込む。

 

 あれは覚悟ではない、と冬月は思った。

 

 覚悟が決まった人間の顔ではない。

 

 もっと子どもじみた、もっと情けない何かだ。怖いからこそ先に手を出してしまう類の顔。

 

 その未熟さが、逆に妙だった。

 

「やり直したい顔だな」

 

 老人は誰にともなく呟いた。

 

 老いは、人の顔色から諦めの種類を読むことだけ上手くする。冬月には、碇シンジの顔に“初めて戦う子供”の色と、“もう一度間に合わせたい者”の色が同居しているように見えた。

 

 それは理屈の上では成立しない表情だ。

 だからなおさら、気味が悪い。

 

 同じ頃、リツコは医務室でカルテを閉じた。

 

 碇シンジの戦闘後診断記録。打撲。筋肉痛。過呼吸。極端なシンクロ変動はなし。表面だけ見れば優秀だ。優秀すぎる。

 

 その隣には、操縦者運用票の写しが置かれている。同期率推移、神経損耗、再出撃許容、代替候補。診断書が人間の状態を拾う紙だとすれば、こちらは人間を“使えるかどうか”へ還元する紙だった。

 

 少年は時々、大人が欲しがる“便利な良い子”の顔をする。従順で、飲み込みが早く、最低限の反抗しかしない。だがその奥に、明らかに別の層がある。

 

 自分の身ではなく、もっと先に何かが傷つくことを怖がる層。

 

 その怖がり方を、十四歳の少年がどこで覚えるのか。リツコには見当がつかなかった。

 

「気持ち悪いくらい、他人の痛みに手が早い」

 

 そう呟いてから、運用票の『損耗許容』欄へ視線が滑る。便利な欄だ、とリツコは思う。数字を入れれば、壊れ方まで管理できる気になれる。

 

 それが本当に“他人の痛み”なのかどうかも、実のところ怪しいのだ。彼は他人を守っているようで、自分が見たくないものから目を逸らそうとしているだけかもしれない。

 

 だとしたら、なおさら厄介だった。

 

 守ることと逃げることが同じ動きに見える時、人間は一番壊れやすい。そして運用票は、たいていそういう壊れ方を“献身性”とか“即応性”の綺麗な語へ言い換えてしまう。

 

 資料室を出たところで、マヤが小走りに近づいてきた。

 

「先輩、午後の会議資料です」

 

「ありがとう」

 

「シンジ君の件ですか?」

 

 マヤは言ってから少し困った顔をした。聞くべきじゃない話題だったのかもしれない、と自分で気づいたのだろう。

 

 リツコは書類を受け取りながら、あっさり頷いた。

 

「そう。あの子、前より余計な所で大人びた顔をするわ」

 

「……怖いんでしょうか」

 

 マヤの問いは、どこかで子どもに寄り添う響きを持っていた。

 

 リツコは少し歩を緩める。

 

「怖くないわけがない」

 

「ですよね」

 

「でも、怖い子どもは普通、もう少し自分のことを先に守る」

 

 マヤは言葉を失った。

 

 リツコは持っていた資料の一枚を裏返した。そこには『二号機/初号機相関試験』と印字されている。名前はない。第二、第三と番号だけが並び、必要資材と試験順序だけが整然と書かれていた。

 

「ねえ、マヤ」

 

「はい」

 

「こういう紙って便利よね。誰が泣くか書かなくて済むから」

 

 マヤは息を止めた。

 

「先輩……」

 

「分かってる。紙に泣かれても困るもの」

 

 それでも口調は乾いている。

 

「でもね、誰が傷つくかを書かない書類は、たいてい傷つける側にだけ都合がいいのよ」

 

 マヤは小さく頷いた。あの少年が何から逃げ、何に追いつこうとしているのか、今の段階では誰にも分からない。ただ、放っておけばたぶん、必要以上に自分を削る方へ行く。

 

 それが使徒より厄介だということを、大人たちはまだ本気では理解していない。

 

 その日の午後、同期試験用の檻のガラス越しで、ミサトは腕を組んだ。

 

 初号機と弐号機が、単純な動作パターンを繰り返している。上体のひねり。重心移動。停止。足場のスライドに合わせて一歩だけ前へ出て、同時に戻る。それだけのメニューなのに、二機の癖の違いが嫌なほど見えた。

 

 試験予定表の見出しには『二号機・初号機相関試験』としか書かれていない。けれど檻の向こうで動いているのは、二号機と初号機ではなく、アスカとシンジだった。ミサトは自分の手元のクリップボードへ、番号の横へ小さく二人の名前を書き足した。

 

『そこ、また半拍遅い!』

 

 アスカの声が飛ぶ。

 

『分かってる』

『分かってないから言ってんの!』

 

 アスカは前へ出る。シンジは追う。噛み合っているようで、最後の半歩だけ噛み合わない。並びたいのか並びたくないのか、見ている方が分からなくなる動きだった。

 

 それなのに、足場がわずかにずれた瞬間だけは違った。

 

 弐号機の着地点が予定より半歩浅い。次の一拍で肩がぶつかる。そうミサトが気づくより先に、初号機の左肩がわずかに前へ出た。受けるためというより、ぶつけないための動きだった。

 

「今の見た?」

 

 ミサトが言うと、隣のリツコは端末から目を上げない。

 

「見たわ。予定値から〇・三秒ずれてる」

 

「庇ったのかしら」

 

「そういう言い方は好きじゃないわね」

 

 リツコはログを送りながら続ける。

 

「相手の軌道に、自分の身体を足しているだけ。守るのとも、ぶつからないのとも、たぶん本人の中ではまだ同じなのよ」

 

 檻の向こうで弐号機が着地し直す。アスカは舌打ちして、すぐ横を見た。見たのは一瞬だ。けれど、その一瞬だけは確かに初号機の肩を見ていた。

 

『今の、別に助けられたわけじゃないから』

『助けてないよ』

『何よその言い方』

 

 またぎくしゃくする。

 ぎくしゃくするのに、完全には離れない。

 

「ややこしいわね」

 

 ミサトがぼそりと洩らすと、背後の壁にもたれていた加持が肩をすくめた。

 

「近いんだろ」

 

「どっちに?」

 

「両方にだよ。近いから邪魔し合うし、邪魔し合うから余計に近い」

 

「他人事みたいに言わないで」

 

「他人事だよ。俺は巻き込まれ役」

 

 ミサトは鼻を鳴らす。

 

「アスカはともかく、シンジ君はもう少し素直に並べばいいのに」

 

「無理だろうな」

 

「なんでよ」

 

「並んだ瞬間に、自分の顔が相手に見えちまう」

 

 その言い方に、ミサトは一拍置いた。

 

 試験が終わる。エントリープラグが引き上がり、二人が別々の昇降機で降りてくる。アスカは先に歩き、シンジは三歩遅れてついていく。並ばない。呼び止めもしない。

 

 だが通路の角で、アスカの歩幅が一度だけ鈍った。シンジはそこで追い抜かず、自販機の紙コップを二つ取って、一つを差し出した。

 

「ぬるい」

 

 アスカは受け取るなりそう言う。

 

「まだ飲んでないだろ」

 

「見れば分かるのよ」

 

 ココアの湯気はほとんど立っていなかった。だからたしかに、ぬるいのだろう。それでもアスカは返さなかったし、シンジもそれ以上何も言わなかった。

 

 ミサトはその背中を見送りながら、どういう関係なのかと一瞬だけ本気で考えた。仲が悪いと言い切るには、受け取る動きがあまりに自然だ。仲がいいと言うには、言葉がきつすぎる。

 

 そのどちらでもない時間が、たぶん今の二人にはいちばん近い。

 

「ねえ」

 

 ミサトが小さく訊く。

 

「これ、計画的にはよくないんでしょうね」

 

 リツコは書類を閉じた。

 

「良い悪いで言うなら、あまり褒められた傾向じゃないわ」

 

「でしょ」

 

「でも、悪いことばかりでもない」

 

 そこで少しだけ言葉を切る。

 

「碇シンジは、誰かを守ろうとする時だけ自分を見失う。アスカは、誰かに見られていると分かる時だけ無茶を少し抑える」

 

「それって」

 

「噛み合えば、強いかもしれないって話」

 

 リツコはそう言って、すぐに表情を消した。

 

「噛み合えば、ね」

 

 だが、その日の試験はそれで終わりではなかった。

 

 夜側のケージでは、零号機と初号機の適性切替試験が組まれていた。表向きは相互互換性の確認。実際には、どの機体からどこまで個人の癖を剥がせるかを見る種類の試験だと、ミサトにはすぐ分かった。

 

 初号機に綾波。零号機にシンジ。組み合わせが告げられた時、シンジは一瞬だけ嫌な顔をしたが、何も言わずプラグへ入った。綾波も同じだった。嫌とも平気とも言わない、あの薄い沈黙のまま従う。

 

 初号機は、綾波を乗せてもほとんど動かなかった。起動信号に対して、機体の奥がただ深く眠ったままみたいな重い沈黙だけが返る。だが零号機は違った。シンジがエントリーした瞬間、モニタの波形が暴れ、拘束具が悲鳴みたいな音を立てる。

 

 警報。強制停止。観測窓へ向けて伸びかけた腕。あと半拍遅れていたら、零号機はまた誰かを殴りにいっていた。誰を狙ったのかは分からない。ただ、相性の悪さでは済まない拒絶だけが、ケージの中に露骨に残った。

 

「……これじゃ互換性の確認というより、機体の好き嫌いね」

 

 ミサトが呟くと、リツコは端末から目を上げなかった。

 

「エヴァは兵器だけど、兵器としてだけ動いてくれないから厄介なのよ」

 

 その脇を、長い貨物伝票の束を抱えた係員が通り過ぎた。先頭の見出しに《ロンギヌスの槍 月軌道回収便 受領確認》とあるのが見える。紙の上では槍もエヴァも同じ管理番号で処理される。ミサトはその見出しを見ただけで、背筋に小さく冷たい物が走るのを感じた。

 

 地下深く、モノリスの光が並んでいた。

 

 ゼーレの声はいつも通り人間味が薄い。計画。手順。補完。槍。アダム。リリス。言葉だけが滑り、体温はどこにもない。そこへ並ぶのはいつも名前ではなく、番号と系列と候補群だ。

 

『碇シンジは予定調和から外れつつある』

 

『第二、第一の適格者との干渉が強すぎる』

 

『感情はノイズだ』

 

『ノイズは時に系を破壊する』

 

『第三の安定性を維持せよ。代替不能である限り、管理を優先する』

 

 ゲンドウは目を伏せもしなかった。

 

「問題はありません」

 

『貴様はそう言い続ける』

 

「必要な変動は、管理の範囲内です」

 

『貴様の“必要”が、我々の“必要”と同義であるとは限らん』

 

『適格者は部材である。計画に先行する自律は認められん』

 

 その言葉に、冬月はほんのわずかに唇を歪めた。部材。便利な語だ。誰の息も荒れずに、誰かの人生を切り分けられる。

 

 それでもゲンドウの声は揺れない。

 

「結果でお示しします」

 

『良かろう。ならば結果で証明しろ。部材に余計な物語を持ち込むな』

 

 会議はそれで終わった。

 

 モノリスの残光が消えてから、冬月は横目でゲンドウを見た。

 

「お前は、あの子を部材と呼ばれても平気か」

 

「言葉の問題ではない」

 

「そうやって言葉から先に切り捨てる。昔からだな」

 

 ゲンドウは立ち上がった。いつものように無駄のない動きだ。

 

「役割を果たせばいい」

 

「碇シンジとしてか。第三適格者としてか」

 

 そこで初めて、ゲンドウの沈黙がわずかに重くなる。

 

「両方だ」

 

「両方は都合が良すぎる」

 

 冬月は老いた目でモノリスの消えた壁を見た。人類の未来を語る場だというのに、そこにいる誰も、人間そのものには興味がないように見える。

 

 少年が知りえたはずのない速さで悲鳴へ手を伸ばすたび、大人たちは評価だけを積み上げ、理解には届かなかった。

 

 ただ一人、ゲンドウだけは理解したくないのだろうと冬月は思う。

 

 息子が自分の思惑より先に“誰か”を選び始めているかもしれないことを。

 その誰かの中に、自分が入っていないかもしれないことを。

 

 それは計画より先に、一人の父親を不自由にする。

 

 だが、その不自由さを認めるような男なら、最初からここまで来ていない。

 

 * * *

 

 冬月は、都市被害の推移図を見て眉をわずかに上げた。

 

 初期の使徒戦に比べ、第三新東京市の表層被害は微妙に減っている。避難誘導も早い。ミサトの判断がわずかに前倒しになっているせいだろう。碇シンジの曖昧な“予感”が、結局のところ現場の警戒を早めているのだ。

 

 だが、その分だけ別の項目が悪化していた。

 

 エヴァ各機損耗率。

 操縦者精神負荷。

 使徒の攻勢初動偏差。

 

「都市は少し守られている」

 

 冬月が言う。

 

「だが、子どもの方は守られていないな」

 

 ゲンドウはモニターを見たまま答えない。

 

「お前の息子は、以前より“上手く”なったわけではあるまい」

 

「結果が出ている」

 

「結果を出すたび、自分の方を安く切り売りしているように見えるがね」

 

 冬月には、あの少年の顔がよく見えた。

 怯えている。

 なのに前へ出る。

 前へ出る理由が、大義でも誇りでもない。

 ただ自分一人だけが生き残った後の顔を見たくないからだ。

 

 そういう人間は、老人の経験上、長く持たない。

 だが同時に、周囲が止めにくい種類の結果も出してしまう。

 

「厄介な子だ」

 

 冬月が呟くと、ゲンドウはようやく小さく言った。

 

「今さらだ」

 

 * * *

 

 リツコはその夜、戦闘記録ではなく申請書の束を前にしていた。

 

 医務室用のガーゼ補充。学校保健室への紙コップ移管。簡易ラジオ一台、予備電池十二本。子どもたちの生活圏が基地と学校と病院をまたいで一つの系になりつつあることが、そういう雑多な紙にいちばん正直に出る。

 

「こんな所まで繋げる必要あるんですか」

 

 マヤが控えめに言った。彼女は包帯の箱へ新しいラベルを貼りながら、申請書の宛名を覗き込む。洞木ヒカリ、相田ケンスケ、葛城ミサト。正規の補給線に乗らない名前が混じっていた。

 

「必要があるから上がってくるのよ」

 

 リツコは書類から目を上げない。

 

「正規の運用じゃありません」

 

「知ってる」

 

「だったら」

 

「だったら、却下して安心する?」

 

 マヤは口を閉じた。却下すれば綺麗だ。綺麗だが、人が困らないわけではない。

 

 リツコは申請書の端を揃え、必要最小限だけ通す印を押した。紙コップ。体温計ケース。ガーゼ。携帯ラジオ。大げさな装備は一つもない。その代わり、どれも“戦闘のあと”に効く物ばかりだ。

 

「エヴァで全部解決する気なら、誰もこんな紙は出さないわ」

 

 低い声で言うと、マヤはわずかに肩をすくめた。

 

「子どもたちが、先にそこまで考えてるってことですか」

 

「考えてる子と、考えざるをえない子がいるだけ」

 

 どちらにせよ、ろくでもない話だった。

 

 そこへ冬月が現れた。申請書の山を見て、珍しく眉を上げる。

 

「ずいぶん所帯じみた紙だな」

 

「現場はいつもそうです」

 

 リツコは冷たく返した。

 

「上は計画を語る。下は紙コップと体温計の数を数える。世界はだいたい後者で持ってるんです」

 

 冬月は書類の一枚を取り上げた。学校保健室仮運用表。席の残し方、夜間見張り、ラジオ管理、非常食の配分。老人の目には、それが避難計画より先に“生活を捨てないための表”に見えた。

 

「碇の息子は、こういう紙の上でも先回りするのか」

 

「自分のためだけじゃない所が厄介です」

 

「赤木君は、そういう所を甘く見ないな」

 

「便利だと認める方が腹が立つので」

 

 冬月はわずかに口元を緩め、それ以上は何も言わなかった。ゲンドウは少年を結果でしか見ない。だが結果の根元には、いつもこういう雑多な紙がある。誰がどこで寝るか。何を持ち出すか。戻る場所をどう残すか。

 

 補完だ、計画だ、人類だと大きな言葉を積み上げる大人たちの足元で、子どもたちはもう少し小さい単位で世界を持たせようとしている。その事実が、リツコには研究データよりよほど不気味だった。

 

 翌朝、冬月の机には第三中学校から回ってきた簡易運用表の写しが置かれていた。席の残し方、夜間見張り、保健室の体温計管理、病院への運搬物一覧。軍も委員会も作らない種類の表だった。

 

「学校が避難所の真似事まで始めたか」

 

 冬月が呟くと、マコトは少し困った顔をした。

 

「真似事というより、使う前提で整えてます。葛城三佐からも了承が」

「了承、か」

 

 冬月は紙の端を指で押さえた。そこには『窓側後ろから二番目 空けておく』と小さく書き足されている。備品表の隅に、席一つ分の余白が混ざっていた。

 

 戦略には出ない。

 計画書にも載らない。

 だが、そういう余白の方が人間の側をよく表すことを、冬月は長く生きて知っていた。

 

「碇はこれを見たか」

 

「司令にはまだ」

 

「見せても数字としてしか読まんだろうな」

 

 マコトは答えなかった。答えなくても分かる種類の話だった。

 

 冬月は運用表を畳み、返却箱へ入れる前にもう一度だけ見た。子どもたちはもう、戦闘の前だけでなく後の居場所まで考え始めている。老人には、それが希望というより先に、終わりの近さを告げる徴候に見えた。

 

 世界が壊れる時、人はたいてい大きな言葉へ逃げる。だが、本当に壊れる直前まで踏みとどまるのは、こういう席一つぶんの余白なのかもしれなかった。

 

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