【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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間話三 福音を呼ぶための資格

昼休みの音楽室は、歌の時間というより倉庫の整理に近かった。

 

 文化発表会の準備で、折り畳み椅子が壁際へ寄せられ、譜面台が一列に並んでいる。ヒカリは出欠表と配布箱を持ち込み、ケンスケはカセットデッキのヘッドを磨き、トウジは頼まれもしないのに長机を運びたがって怒られていた。

 

「鈴原、そっちは舞台袖。ここ通路塞ぐ」

 

「はいはい」

 

「返事が軽い」

 

「委員長が重いねん」

 

 言い合いながらも、手は止まらない。ヒカリは譜面の端を揃え、誰に何を配るかを迷いなく決めていく。学校という場所は、こういう小さい段取りの集まりで立っているのだと、最近ようやく実感できるようになった。

 

 僕は椅子を四脚ずつ抱えて後ろへ運んだ。ついでに譜面台と延長コードまで持とうとして、綾波に止められる。

 

「一度に持ちすぎ」

 

「綾波まで言うんだ」

 

「落とすと音が大きい」

 

 理由が綾波らしかった。確かに、金属の脚を鳴らせば教室中の視線が集まる。

 

 その横で、アスカが譜面台の高さを次々に直していた。誰が使うか聞かなくても、背の高い人用と低い人用を見分けている。自分の前にある譜面台だけは少し高くし、僕のものはその半分くらいで止めた。

 

「これでいい」

 

「見ないで決めたな」

 

「見なくても分かるわよ。あんた猫背だし」

 

 否定しにくかった。

 

 ヒカリが譜面の束を僕へ渡す。

 

「碇君、これ前列。順番ばらばらにしないで」

 

 受け取った紙は思ったより重い。紙切れの束なのに、人数分になるとちゃんと腕へ来る。僕がそれを抱えて移動すると、アスカが横から半分だけ抜いた。

 

「前列と後列で分ける。そっち全部持って歩くと角で落とす」

 

「そんなに落としそうに見える?」

 

「見える」

 

 即答だった。ケンスケが向こうで笑いをこらえている。

 

「二人とも、そういう作業だけは異様に噛み合うよな」

 

「うるさい」

 

 アスカが睨む。ケンスケはますます面白そうな顔をしたが、ヒカリに「相田君、手止めない」と言われてすぐテープ切りに戻った。

 

 譜面を配り終えると、音楽の先生が置いていった古い回収箱が隅に残っているのが見えた。返却されたプリントや感想用紙が雑に放り込まれている。僕がそれを整えようとすると、アスカが先に箱を引き寄せた。

 

「感想用紙と譜面、一緒にしたら後で面倒」

 

「じゃあ分ける」

 

「こっちが譜面。そっちは感想」

 

 そう言って、彼女は紙の端を揃えた。手つきが早い。雑そうに見えるのに、揃え終わると角がきれいに一線になる。

 

 窓の外では、校庭を風が渡っていた。使徒が来ない日が数日続いただけで、学校はこうしてすぐ「次の準備」を始める。歌の準備も、避難の準備も、配布と回収と名簿で出来ている点ではよく似ていた。

 

 僕は譜面箱へ最後の束を入れた。アスカはそれを見て、箱の蓋だけを先に閉じる。

 

「ほら、次。器楽庫の奥のケース取って」

 

「もう?」

 

「当たり前。準備しただけで歌えるわけないでしょ」

 

 その言い方が少しだけ嬉しそうに聞こえたのは、たぶん気のせいじゃなかった。

 

使徒が来ないまま数日が過ぎたある朝、教壇の前に黒髪の転校生が立った。

 

「山岸マユミです」

 

 眼鏡の奥の目が、少し不安そうに揺れている。大人しそうな印象の強い子だった。前にも見たような気がするのに、はっきりとは思い出せない。僕が知っているのは、たぶん“こういう静かな子もいた”という程度の曖昧さだけだ。

 

 教室がざわつく。

 

 トウジはいつものように物好きだなと言い、ケンスケは第三新東京市に来るなんてと勝手に感心している。ヒカリは席を指し示し、綾波は窓の外を見たままだ。

 

 アスカだけが、転校生より僕の反応を見ていた。

 

 目が合うと、すぐにそっぽを向く。

 

 そういうのが最近また増えた。

 

 怒鳴られるより、その方がつまらない。

 

 * * *

 

使徒が来ない日が、数日だけ続いた。

 

 それだけで、学校は簡単に“普通”へ戻ろうとする。

 

 戻れるわけがないと僕は思う。クラスの中にエヴァのパイロットが三人いて、街の地下では相変わらず世界の終わりみたいな計画が走っていて、しかも僕だけが一度壊れた先を知っている。

 

 そんな状況で“普通”なんて、だいぶ無理がある。

 

 でも、無理があるのに戻ろうとするのが学校なのかもしれなかった。

 

「はい静かに!」

 

 ヒカリの声が教室に響く。

 

「文化発表会の出し物、そろそろ本決めするわよ!」

 

 ざわめき。

 

 前の僕は、こういう話し合いになるとほとんど空気になっていた。今も積極的に発言したいわけじゃない。でも、空気の外から眺めるのとも少し違う。

 

 決める。揉める。押しつけ合う。そういう下らないやり取りが、どうしようもなく貴重だと思ってしまうからだ。

 

 世界が終わるかもしれないのに、合唱だとか模擬店だとかを真面目に相談している。その滑稽さが、逆にありがたい。

 

「合唱が無難じゃない?」

 

 誰かが言う。

 

「無難すぎ」

 

「劇は?」

 

「準備大変」

 

「展示でええやん」

 

「つまんない」

 

 教室が好き勝手に揺れる。

 

 ヒカリは疲れた顔をしていた。たぶん放っておけば皆好きに散らばると分かっているのだろう。

 

「碇君」

 

「え?」

 

「チェロ弾けるって本当?」

 

 心臓が小さく跳ねた。

 

 何でそんな話になるんだろうと思ったら、ケンスケとトウジが露骨に目を逸らした。こいつらだ。

 

「少しだけ」

 

「少しだけ、じゃないだろ。お前、前に音楽室へ持ってきてたやん」

 

 トウジが余計なことを言う。

 

「勝手に言うなよ」

 

「事実やろ」

 

「へえ、バカシンジが?」

 

 後ろからアスカの声が飛んだ。

 

「なによ、それ」

 

「意外」

 

「別に、ちょっと弾けるくらい」

 

「ふぅん」

 

 アスカは何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 

 結局、出し物は合唱に決まった。

 

 あまり面白くない。でも、だからこそ皆が妥協できたのだろう。

 

 問題は、最初の四小節だった。

 全員で歌い出す時、誰かが最初の音と拍を示さないとすぐばらける。音楽の先生に毎回ついてもらうわけにもいかないし、本番だって短い導入だけならクラスで回した方が早い。

 

「碇君、お願いできる?」

 

 ヒカリのその一言で、教室の視線が一斉に集まった。

 

 嫌だ、と思った。

 

 目立つのが嫌なんじゃない。クラスの中の役割を一つもらってしまうのが怖かった。そうすると、ここに自分の居場所ができたみたいで、なくした時に痛いからだ。

 

 でも断ろうとして、口が止まった。

 

 断れば楽だ。断って、また少し離れた所から眺めていればいい。

 

 でも、それをずっとやってきて、何が残ったのかも知っている。

 

「……下手でもいいなら」

 

 気がつけば、そう言っていた。

 

 ヒカリがぱっと明るい顔になる。

 

「ありがとう!」

 

 その反応が、少し眩しかった。

 

 次に巻き込まれたのは、アスカと綾波だった。

 

「セカンド、ファーストも参加ね」

 

「はぁ?」

 

「なんであたしまで」

 

「人手が足りないから」

 

「そんな理由?」

 

「十分でしょ」

 

 ヒカリは強かった。

 

 委員長って、たぶんこういう時に最強なんだと思う。エヴァだとか使徒だとかを知らないからこそ、学級運営の論理だけで押し切れる。

 

「ファーストはともかく、なんであたしが合唱なんか」

 

「歌、下手なの?」

 

 ケンスケの余計な一言で、アスカの眉がつり上がった。

 

「なによ! 下手なわけないでしょ!」

 

「なら決まり」

 

「……っ」

 

 ヒカリが平然と畳みかける。

 

 アスカは言い返したそうだったが、“歌が下手だから嫌”と言うわけにもいかず、結局ふくれたまま引き下がった。

 

 レイは静かに言った。

 

「必要ならやる」

 

 それだけだった。

 

 放課後の音楽室の扉を開けた瞬間、ヒカリが言った。

 

「歌う前に片づけるわよ」

 

「はあ?」

 

 アスカが真っ先に顔をしかめる。

 

「何で合唱なのに掃除からなのよ」

 

「合唱だからでしょ」

 

 ヒカリは平然としていた。

 

「椅子十八脚、譜面二十三部、譜面台四本、譜面台一本ぐらつき。誰かがやらないと始まらない」

 

「委員長、そういうとこ容赦ないなあ」

 

 ケンスケが笑う。トウジは後ろで「歌う前から疲れるやんけ」と文句を言った。

 

「鈴原は体育館から雑巾袋。相田君は譜面の部数確認。碇君は椅子。アスカは――」

 

「何であたしだけ名前で呼ぶのよ」

 

「今そこ?」

 

 ヒカリは少しも怯まない。

 

「アスカは座席表と譜面台まわり。見れば分かるでしょ、あそこ一番細かいんだから」

 

 言われて、アスカは露骨に不満そうな顔をした。でも断らない。断らないあたり、性格が悪いわりに真面目だ。

 

 物置から折り畳み椅子を運ぶ。古くて重い。金具が錆びていて、持ち上げるたび嫌な音がした。

 

 僕は四脚まとめて持とうとして、すぐ横から腕を叩かれた。

 

「多い」

 

 アスカだった。

 

「平気だよ」

 

「そういう問題じゃない」

 

 椅子を二脚、勝手に僕の束から外す。

 

「通路狭いのに、そこで引っかかったら一気に落とすでしょ」

 

「落とさないって」

 

「落とす前の奴はだいたいそう言うの」

 

 そのまま自分で二脚持って歩き出す。文句を言う隙がなかった。

 

 前列の端では、ヒカリがチョークでざっくり位置を引いていた。導入位置、前列、中列、後列。

 

「この一席、空ける?」

 

 ケンスケが導入位置の横を指した。

 

「チェロ置くなら、少し広い方がいいかも」

 

「空けるのは通路だけでいい」

 

 ヒカリが即答する。

 

「無駄な隙間作ると、出入りの動線が死ぬ」

 

 アスカが鼻を鳴らした。

 

「聞いた? 空けるのは通路だけ」

 

 そう言いながら、椅子を一脚、僕が置いた列より少しだけ近くへ寄せた。木の脚が床を擦る。意味があるのかないのか分からない程度の距離だ。

 

 譜面台の一本は本当にぐらついていた。アスカはしゃがみ込み、空いた譜面箱の厚紙を折って脚の下へ差し込む。ぐらつきが止まる。

 

「はい」

 

 立ち上がりながら言う。

 

「これでまだマシ」

 

「最初からそれやってくれればいいのに」

 

 ヒカリの文句に、アスカは肩をすくめた。

 

「見つけたの今だし」

 

「言い返せるの腹立つわね」

 

 譜面の束は、思っていたより面倒だった。順番、ページ抜け、人数分。ケンスケが数を読み上げ、ヒカリが名前を書き、僕が揃え、アスカが端を机へ打ちつけて角を合わせる。

 

「相田君、それ二十じゃなくて十九」

 

「え、マジ?」

 

「表紙だけ二枚重なってる」

 

 アスカは見もしないで言った。ほんの少しだけ得意そうだった。

 

 全部終わる頃には、音楽室の床へ夕方の光が斜めに伸びていた。黒板には仮の座席表、机の端には『配布』『回収』とだけ書かれた箱が二つ置かれている。

 

「やっと歌える」

 

 ケンスケが言う。

 

「その前に机戻して」

 

 ヒカリが返す。

 

 誰も逆らえない。

 

 僕とアスカは、譜面の束を半分ずつ持って教室へ戻った。紙の角が腕に当たる。重くはない。でも、一人で持つより遅くない。遅くないことが、不思議だった。

 

 片づけたあとでも、音楽室はまだ少し埃っぽい匂いがした。

 

 チェロケースを開ける。弓を持ち、弦に指を置く。久しぶりだった。まったく弾いていなかったわけじゃないけれど、人前で導入なんて随分長くやっていない。

 

 音を鳴らすだけで、胸の奥がわずかにざわついた。

 

 昔、というほどでもない前に、僕はこういう“別の役割”を求めていたはずだ。エヴァに乗る子じゃなく、料理をする子とか、チェロを弾く子とか、そういう何か。けれど現実には、エヴァが全部の上へ乗ってしまう。

 

 どれだけ上手くチェロを弾いても、どれだけ誰かに褒められても、いざ警報が鳴れば僕は“サードチルドレン”へ戻る。

 

 そのことが、急にむなしくなった。

 

「何止まってんのよ」

 

 アスカの声で我に返る。

 

「弾かないなら帰るわよ」

 

「帰るって、まだ始まってもいないじゃないか」

 

「待つの嫌いなの」

 

「知ってる」

 

「言うな」

 

 アスカは譜面台の横で腕を組み、レイは少し離れた窓際に立っていた。

 

 ヒカリが人数を確認し、クラスの何人かが音程を確かめる。ケンスケは最初からふざけていて、トウジに頭を叩かれていた。

 

 その騒がしさが、やけに心地よかった。

 

「じゃあ、一回通してみるわよ」

 

 ヒカリが言う。

 

 僕は前奏を弾いた。

 

 最初の一音が鳴った瞬間、音楽室の空気が変わる。喋っていた連中が黙る。歌う側が息を合わせる。そういう小さな切り替わりが好きだった。

 

 曲は簡単だ。難しくはない。でも“みんなで合わせる”のは、エヴァでユニゾンを取るのとはまた違う面倒さがある。

 

 誰かが速い。誰かが遅い。声が浮く。言葉が転ぶ。

 

 でも、それでいいのかもしれないと思った。

 

 合唱は、たぶん最初から綺麗に揃うものじゃない。

 

 揃わない人間が、何度もずれて、苛立って、少しずつ近づくだけだ。

 

 それはひどく人間らしかった。

 

 一回目はぐちゃぐちゃだった。

 

「はいストップ!」

 

 ヒカリがすぐに止める。

 

「男子、声小さい!」

 

「だって気恥ずかしいやん」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「アスカ、出だし半拍早い」

 

「はぁ?」

 

「一条さんはちゃんと入れてるから、あなたの方」

 

 その指摘に、アスカが露骨に顔をしかめた。

 

「ファーストと一緒にしないで」

 

「音が合ってるかどうかの話!」

 

 ヒカリは容赦がない。

 

 レイは特に反応せず、ただ譜面を見ていた。その落ち着きが余計にアスカを苛立たせているのが分かる。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「テンポ少しだけ落とせる?」

 

「うん」

 

「何でヒカリの言うことだけそんな素直なのよ」

 

「指示が具体的だから」

 

 つい本音が出て、アスカの目がつり上がった。

 

「何それ」

 

「別に悪い意味じゃなくて」

 

「十分悪い」

 

「ほらまた揉める!」

 

 ヒカリが怒る。

 

 音楽室の空気が軽くなる。皆が苦笑いして、ケンスケが小声で「仲いいなあ」と言って、トウジに小突かれる。

 

 仲がいいわけないだろうと思う。でも、その否定も前ほど強く出てこなかった。

 

 二回目、三回目と重ねるうちに、少しずつ形になっていった。

 

 アスカは悔しがりながらきっちり合わせてくる。レイは最初から大きく外さない。トウジは見かけより音が取れる。ケンスケは騒がしいけど声量だけはある。

 

 それぞれが勝手なのに、音だけは少しずつ揃う。

 

 不思議だった。

 

 人間って、こんな風にしか合わせられないのかもしれない。

 

 全部分かり合うんじゃなく、同じ譜面を見て、違うまま近い所まで行く。それが限界で、それで十分なのかもしれない。

 

「シンジ」

 

 休憩の間、アスカがチェロの横へ寄ってきた。

 

「なに?」

 

「意外と上手じゃない」

 

「……そうでもないよ」

 

 ほんの少し、アスカは感心しているように見えた。

 

 それが分かると、落ち着かない。

 

 チェロを弾いている時の僕は、たぶんエヴァに乗っている時よりずっと無防備だ。能力とか価値とかじゃなく、ただ“こういうのが好きな人間”として見られてしまう。

 

 それが怖い。

 

 でも同時に、少し嬉しい。

 

「アスカも、歌うの上手いよ」

 

 言うと、アスカは目を瞬かせた。

 

「……今さら」

 

「ほんとに」

 

「気味悪い」

 

「そこまで?」

 

「そこまで」

 

 それでも、耳が少し赤い。

 

 練習が終わる頃には、外はもう夕方だった。オレンジ色の光が音楽室の床に長く伸びている。誰かが窓を開けると、風が譜面を揺らした。

 

 その瞬間、ほんの一瞬だけ、これは普通の中学生の放課後なのだと思った。

 

 エヴァも、使徒も、補完も、父さんも、何もない場所。

 

 ただ、発表会に向けて歌を合わせるだけの放課後。

 

 そんなものが本当に存在するのか、僕にはまだ半信半疑だった。

 

 でも、半信半疑でも嬉しかった。

 

「ねえ」

 

 帰り道、アスカが少し前を歩きながら言った。

 

「文化祭、本当にやると思う?」

 

「分からない」

 

「またそれ」

 

「でも、本当に分からないから」

 

「そうじゃなくて」

 

 アスカは振り向く。

 

「やりたいかどうかよ」

 

 その問いに、僕は足を止めた。

 

 やりたい。

 

 そう答えるのは簡単なはずなのに、簡単じゃなかった。やりたいと言った瞬間に、それが失われるかもしれないものになるからだ。

 

 でも、黙るのも違う気がした。

 

「……やりたいよ」

 

 アスカは数秒だけ僕を見て、それから前を向いた。

 

「そう」

 

「アスカは?」

 

「別に」

 

「嘘だ」

 

「何よ」

 

「やりたくないなら、あんなに真面目に練習しない」

 

 アスカは立ち止まり、露骨に嫌な顔をした。

 

「ほんっと、変なとこだけ見るわよね」

 

「見てたから」

 

「それが気味悪いの」

 

「知ってる」

 

「だからそれやめろって」

 

 結局、言い合いになる。

 

 でも、さっきまでの音楽室の空気がまだ少し残っていて、いつもの喧嘩より少し軽かった。

 

 僕はその軽さを大事にしたいと思った。

 

 大事にしたいと思った時点で、もう危ういのに。

 

 夜、布団に入ってからも、合唱の旋律が頭に残っていた。

 

 同じ譜面を見て、違う声が重なる。

 

 それは、もしかすると福音に少し似ているのかもしれないと思う。

 

 皆が同じ言葉を喋ることじゃない。違うまま、同じ方へ向こうとすること。

 

 それがもし福音と呼べるなら、僕たちにその資格があるのかどうかは分からない。

 

 でも少なくとも、その練習くらいはしてみたかった。

 

 翌朝、ネルフから緊急呼び出しが入った。

 

 携帯の液晶に表示された文字を見た瞬間、昨日の放課後が音を立てて遠ざかった気がした。

 

 文化発表会。

 

 合唱。

 

 チェロの前奏。

 

 そんなもの全部が、一気に“うまくいけば未来にあるかもしれないもの”へ変わる。

 

 それでもゼロじゃない。

 

 ゼロじゃないなら、やっぱり僕はそれを守りたいと思ってしまう。

 

 世界のためじゃない。

 

 誰かのためでもない。

 

 ただ、ああいう夕方を自分が失いたくないからだ。

 

 それはたぶん、ずいぶん身勝手な動機なんだろう。

 

 でも、今の僕にはそのくらいしか持てなかった。

 

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