【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾伍話 嘘と沈黙

日曜の朝、ミサトさんは珍しくちゃんとした服を着ていた。

 

 髪をまとめて、ジャケットの皺を伸ばして、玄関の鏡を二度見ている。そういうことをする人なのだと、妙なところで今さら思う。

 

「結婚式ですか」

 

「大学の同期のね」

 

 ミサトさんはパンを咥えたまま返した。

 

「そんな顔しないでよ。お姉さんだってたまにはお洒落するの」

 

「してないとは言ってないです」

 

「その敬語がもう小姑っぽいのよね」

 

 いつもの調子だった。でもその軽さの奥に、少しだけ別の緊張がある。たぶん加持さんも来るのだろう。そういう日だ。

 

 それでも出がけにミサトさんが気にしていたのは、財布や口紅の位置より先に、冷蔵庫の牛乳と救急箱の中身だった。牛乳、卵、絆創膏、洗剤。そういう順番が、いかにもミサトさんだった。父さんが何かを確認する時は、たいてい初号機か出撃条件だけだ。比べるのは筋違いだと分かっているのに、こういう朝ほど変な所で比べてしまう。

 

 リビングの反対側では、アスカが鏡の前に座っていた。今日はアスカも出かける。ヒカリに頼まれて、姉の知り合いと一度だけ会ってみることになったらしい。初めてのまともなデートだというのに、本人は露骨にうんざりした顔をしていた。

 

 それでも行くことにしたのは、断り切るほどの理由がまだ見つからなかったのと、家にいるより退屈しなさそうだったからだと思う。

 

「ねえシンジ」

 

「なんだよ」

 

「そのネクタイ曲がってない?」

 

「僕の?」

 

「違うわよ。あたしの服に決まってるでしょ」

 

 ネクタイはしていない。そういうことではないと、前より少し分かる。

 

 見てほしいのだ。褒めろとまでは言わない。でも、気づけという要求はある。

 

「……似合ってる」

 

 言うと、アスカは一瞬だけ止まった。

 

「どこが」

 

「大人っぽい」

 

「当たり前じゃない。子供じゃないもの」

 

「うん」

 

「うん、じゃない」

 

 それでも、耳の先だけ少し赤い。

 前の僕は、こういう時に何を言えばいいのか全然分かっていなかったのだと思う。

 

 

 ミサトさんが先に出ていき、玄関のドアが閉まったあとも、部屋にはしばらく香水と整髪料の匂いが残っていた。

 

 アスカは鏡の前で最後に一度だけ前髪を直し、それから食卓の端に置かれたメモを摘み上げた。ミサトさんの字だ。洗剤、保存食、電池、絆創膏。帰りに買ってきなさい、と丸で囲ってある。

 

「自分で行けばいいのに」

 

「結婚式帰りにスーパー袋ぶら下げたくないんだろ」

 

「それは分かるけど、なんであたしたち」

 

「同居人だから」

 

 言うと、アスカは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「その言い方、なんかむかつく」

 

「事実だろ」

 

「事実でもむかつくものはあるの」

 

 駅までの道は日曜らしく、人の歩く速さが少し緩かった。商店街の八百屋はもう店先を広げていて、改札前には行楽帰りらしい家族連れが並んでいる。そんな普通の光景の中を、アスカは少しだけ背筋を伸ばして歩いた。今日はいつもの制服ではなく、よそ行きの服だ。見慣れない分だけ、歩幅まで少し違って見える。

 

 ホームのベンチへ座ると、僕は無意識に一人分くらい間を空けた。

 

「空けすぎ」

 

 すぐに言われる。

 

「座りにくい?」

 

「そうじゃなくて、あからさますぎるの」

 

 アスカはそう言って、僕とベンチの隙間を自分で半分だけ潰した。肩が触れるほどじゃない。でも、誰か一人が間へ割り込むには狭い。そういう距離だ。

 

 ホームの自販機で紙カップのコーヒーとオレンジジュースを買う。戻ると、アスカはさっきのメモの裏へ、必要な物を自分の字で書き直していた。

 

「洗剤、大きいの一つ。電池は単一と単三。缶詰は甘いのいらない」

 

「甘いのって」

 

「フルーツ缶とか。そういうの今は気分じゃない」

 

「気分で決めるんだ」

 

「食べるのあたしたちでしょ」

 

 その理屈は正しかった。僕は紙コップを差し出し、アスカは受け取って一口だけ啜る。すぐ眉を寄せた。

 

「苦い」

 

「それ僕の」

 

「知ってる」

 

「なんで飲むんだよ」

 

「確認」

 

 相変わらず理不尽だ。でもその理不尽さが、今日は不思議と落ち着く。

 

 ベンチの前を、制服姿の中学生らしい二人組が駆け抜けていった。笑い声。改札の音。次の電車を知らせるアナウンス。そんな普通の雑音の中で、アスカはメモを僕の膝へ置く。

 

「帰り、忘れたら分かってるでしょうね」

 

「洗剤と電池と缶詰と、あと絆創膏」

 

「あと袋を二つに分ける。重いの片側に寄せると手が死ぬから」

 

 そこで僕は少し驚いた。

 

「買い物袋でもそこ気にするんだ」

 

「当たり前でしょ。歩いて帰るんだから」

 

 アスカはジュースの蓋を閉めながら続ける。

 

「持てる重さって、その場だけじゃなくて帰るとこまで込みなの。そういうの考えないで持ちすぎるから、あんたすぐ腕赤くするのよ」

 

 言い返せなかった。前にも何度か、買い物袋の取っ手が指へ食い込んだのを見られていたらしい。

 

 電車が入ってくる。風が吹く。アスカの髪が少しだけ乱れて、すぐ耳へ掛け直される。

 

「じゃ、行ってくる」

 

「うん」

 

「帰りの買い物、逃げないでよ」

 

「逃げないよ」

 

「返事だけじゃなくて」

 

「ちゃんとやる」

 

 そう言うと、アスカは目を細めた。

 

「……ならいい」

 

 立ち上がる。電車の扉が開く。乗り込む前に、アスカは一度だけ振り向いた。

 

「あと、さっきの」

 

「何」

 

「似合ってるってやつ」

 

「うん」

 

「聞こえてたから」

 

 それだけ言って、彼女は電車へ乗った。扉が閉まる寸前まで、僕は返事を探した。でも結局、探しているあいだに電車は動き出してしまった。

 

 残されたベンチの上には、紙コップの冷めかけたぬくもりと、買い物メモの筆圧だけが残っていた。

 

 * * *

 

 墓地の空気は乾いていた。

 

 父さんは相変わらず無駄のない背中で歩く。僕だけが、その背中からどうしても目を逸らせない。

 墓石の前に立っても、ここへ母さんが眠っているわけじゃないと知っている。その知識があるせいで、前より余計に白々しく感じる。

 

「三年ぶりだな」

 

 父さんが言う。

 

「三年ぶりに、こういう用事で呼ぶんだ」

 

 言ってから、自分で嫌な言い方だと思った。

 責めたいのか、責められたいのか、自分でもよく分からない。

 

「ここに母さんがいるわけじゃない」

 

「人は確認のために来る」

 

「何を」

 

「忘れてはならないことをだ」

 

 正しいようで、空疎な答えだった。

 その空疎さが、たまらなく腹立たしい。

 

「父さんは、必要な時にしか僕を呼ばない」

 

 気づけば、別の言葉が出ていた。

 

「来いとか、乗れとか。そういう時だけだ。学校のことも、どこで寝てるかも、何を食べてるかも、一度も聞かなかった」

 

 父さんの足が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

「必要なことは整えている」

 

「整えてる?」

 

 声が少し上ずる。

 

「僕が困らないようにじゃなくて、初号機が動くように、だろ。父さんが見てるのはいつもそっちじゃないか」

 

 父さんは振り向かなかった。

 

「お前は搭乗者だ」

 

「それだけじゃない!」

 

 墓石の白さがやけに目に刺さる。

 

「綾波のことも、そうなんだろ。母さんの代わりみたいに置いて、何をさせても平気な顔をしてる。綾波は人形じゃない」

 

「シンジ」

 

 名前を呼ばれただけで、胸の奥が強く縮む。

 それでも、今日はそこで止まりたくなかった。

 

「父さんは、必要な席に人を置いてるだけだ。僕も、綾波も」

 

「お前が考えることではない」

 

 冷たい声だった。けれど前より少しだけ速い。切り捨てるために急いだ声だった。

 

「考えるよ」

 

 自分でも驚くくらい、まっすぐ言えた。

 

「考えないと、また誰かが“役に立つ”って言葉だけで壊れる」

 

 沈黙が落ちた。風が墓地の木々を鳴らす。

 

 父さんは長く黙ってから、ようやく言った。

 

「お前は、知ったようなことを言う」

 

「知ってるわけじゃない」

 

 喉が痛かった。

 

「知らないまま、何も言われないまま、必要な時だけ呼ばれるのが嫌なんだ」

 

 そこで初めて、父さんが少しだけ横顔を見せた。

 怒っているようにも、困っているようにも見えない。ただ、僕の言葉を“処理しづらいもの”として見ている顔だった。

 

「任務に私情を混ぜるな」

 

 最後はそれだった。

 

 任務。

 私情。

 便利な言葉だと思う。何も言わなかった三年分まで、一言で片づけられる。

 

 胸の中へ嫌な形で残る。

 考えるなと言われるほど、考える。考えて、結局何も分からないまま傷つくだけだと知っていても。

 

 僕が本当に怒っているのは、何をされたかだけじゃない。必要じゃない時の父さんを、僕が一度も知らないことだ。

 

 墓地から戻る途中、零号機格納庫の脇で綾波に会った。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「顔色が悪い」

 

「父さんと会ったから」

 

「そう」

 

 レイはそれ以上すぐには聞かない。

 その間が、かえって痛かった。

 

「綾波は、父さんといると平気なの」

 

 卑怯な問いだと思う。

 でも聞かずにはいられなかった。

 

「平気かどうかは、分からない」

 

 レイは少し考えてから言う。

 

「でも、碇司令の前では、何をしてほしいのかが分かる」

 

「僕には分からない」

 

 自分でも驚くくらい、声が尖った。

 

「父さんは、来いとか乗れとか、必要なことしか言わないから」

 

 レイは僕を見た。

 

「必要なことを言う人は多い」

 

「必要じゃないことを、一度も言わないんだよ」

 

 言ってしまってから、胸が少し冷えた。

 こんな言い方は子どもじみている。でも、たぶん本当の怒りはそこに近い。

 

 レイは僕の手を見た。

 無意識に強く握っていたらしい。爪の跡が掌へ残っている。

 

「碇君は、必要の外に置かれるのが怖いのね」

 

「……そうかもしれない」

 

「だから、分からないまま放っておけない」

 

 それが褒め言葉じゃないことくらい分かる。

 それでも、その通りだった。

 

「でも」

 

 レイは視線を少しだけ下げる。

 

「碇司令が碇君に何をしてほしいのか分からないことと、碇君が何をしていいか分からないことは、同じではないと思う」

 

 その静かな言い方が、妙に残った。

 

 * * *

 

 駅前で待ち合わせた男は、予定より少し早く来ていたらしい。髪はやけにきちんと整っていて、シャツの襟だけが少し硬い。ヒカリに頼まれて、一度だけ顔を出す。それだけのつもりだったのに、相手は最初からずいぶんちゃんと“デート”のつもりらしかった。

 

「やあ、アスカちゃん」

 

「……どうも」

 

 映画館。ゲームセンター。喫茶店。

 相手は一生懸命話す。学校のこと、自分のこと、車の免許を取ったらどこへ連れていきたいとか、そういうどうでもいい未来の話。

 

 悪い男ではないのだろう。

 ただ退屈だった。

 

 アスカが欲しいのは、自分を“女の子”として扱う視線だけじゃない。見てほしいのは、もっと面倒な部分だ。強さも、意地も、寂しさも、全部ひっくるめて見てほしい。

 そこまで求めるのはたぶん贅沢だと知っている。知っているから、なおさら目の前の真っ当さがつまらない。

 

「次はさ」

 

 喫茶店を出たところで、相手が言いかけた。

 アスカはそこで足を止める。

 

「今日はここまで」

 

「え?」

 

「悪い人じゃないと思う。でも、次もあるみたいにされると困る」

 

 相手が目を丸くする。その顔を見て、少しだけ胸がざらついた。それでもアスカは目を逸らさなかった。

 

「別に気になる奴がいるから。じゃあね」

 

 言い切って背を向ける。我ながら最悪だと思う。でも、曖昧な顔で引っ張る方がもっと感じが悪い。

 

 駅へ戻る途中で雨が降りそうな匂いがした。

 家へ帰る足が思ったより軽いことに、アスカは少し腹が立った。

 

(何なのよ、あたし)

 

 加持さんと会う時の緊張とも違う。

 誰かに見せるために背伸びしていた肩が、家へ向かうと少しだけ下がる。そのことが妙に悔しい。

 

 * * *

 

 商店街のスーパーは、日曜の夕方らしく妙に混んでいた。

 

 僕はミサトさんのメモを何度も見直しながら、洗剤、電池、缶詰、絆創膏をかごへ入れた。アスカが裏に書き足した字もまだ残っている。単一と単三。甘い缶は要らない。袋は二つに分ける。

 

 レジで本当に袋を二つもらった。重い方と軽い方を分けて持つだけで、帰り道の手つきが少し変わる。帰るところまで込み。駅でアスカが言った言葉を、こんな形で思い出すのが少し可笑しかった。

 

 坂を上りきる手前で一度だけ立ち止まり、僕は紙袋を持ち直した。父さんの声はまだ頭の奥に残っている。それでも、洗剤の角が指へ当たる重さの方が、今は少しましだった。

 

 家の中は静かだった。

 

 ミサトさんは結婚式。

 アスカは出かけた。

 掃除でもしておいて、という軽い置き手紙だけがテーブルに残っている。

 

 僕は買ってきた物を一つずつしまった。電池は玄関脇の籠へ、洗剤は洗面所の下、缶詰は食器棚の右、絆創膏は救急箱へ。置き場が決まっていくたび、家の輪郭が少しだけ戻る。

 

 冷蔵庫の水をコップに注いで、一息つく。何かしていないと、父さんの墓地での会話ばかり思い出してしまいそうだった。

 

 押し入れを開けた時、奥に古いケースがあった。

 埃をかぶったチェロ。

 

 忘れていた、わけじゃない。忘れようとして、そのままにしていたのだと思う。

 

 ケースを開ける。弓を取る。松脂の匂いが少し残っている。

 音を鳴らすと、最初の一音だけで胸の奥がざわついた。

 

 前の僕は、好きになってもらうために料理をしたり、良い子の顔をしたり、必要とされる場所へ自分を合わせたりしてきた。

 でもチェロを弾いている時だけは少し違う。誰かの役に立つためというより、ただ音がそこにあることが落ち着く。

 

 落ち着くのに、弾いている姿は誰にも見られたくなかった。

 格好悪いからだ。

 上手い下手の問題じゃなく、好きだと思っているものをそのまま見られるのが怖い。

 

 だから本当は、一人の時しか弾きたくなかった。

 

 最初の曲を最後まで弾き終えたところで、拍手が鳴った。

 

 背筋が凍る。

 振り向くと、ドアのところにアスカが立っていた。

 

「やっぱ結構いけるじゃない」

 

 アスカは鞄を肩に掛けたまま、少しだけ首を傾げていた。

 

「……帰るの早いね」

 

「退屈だったの」

 

 それだけ言って、アスカはゆっくり部屋へ入ってくる。

 茶化すような顔なのに、目だけが少し違った。

 

 見ている。

 いつもの“気味悪いものを見る目”じゃない。もっと、正体を測りかねている時の目だ。

 

「……そういうのも、弾くんだ」

 

「たいしたことないよ」

 

「なんで」

 

「……なんとなく」

 

 答えになっていない。

 でも、ちゃんとした理由を言うのも嫌だった。好きなものに理由をつけると、それがすぐ“人に見せるためのもの”へ変わる気がする。

 

 アスカはケースの端に触れた。

 

「手、長いのね」

 

「え?」

 

「チェロ弾く時」

 

 その言い方に、今度はこっちが困る。

 アスカはすぐにそっぽを向いた。

 

「別に、褒めてるわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「嘘」

 

「半分くらいは」

 

「バカ」

 

 でも、その“バカ”の温度が、いつもと少し違う。

 

 アスカはさっきまでデートをしていたはずだ。誰かに女の子として扱われて、退屈して、途中で切り上げて帰ってきた。その帰り着いた先で見たのが、押し入れからチェロを引っ張り出して真面目に音を鳴らしている僕だ。

 

 たぶん滑稽だろう。

 滑稽なのに、アスカはすぐには笑わなかった。

 

 その沈黙の中に、少し救われる。

 

 * * *

 

 アスカは、自分が何に引っかかったのかをすぐには言葉にできなかった。

 

 初めてのまともなデートとしては、ずいぶん失礼な切り上げ方だった。ちゃんと理由は言った。別に気になる奴がいるから、じゃあね、と。言った瞬間、相手の顔が少しだけ傷ついたのも見た。

 それでも、曖昧な顔で引っ張るよりはましだったと思う。思うのに、その“気になる奴”を自分がどこまで本気で気にしているのかを考えると、また腹が立つ。

 

 でも、家へ帰ってきて見たのは、押し入れの奥からチェロを引っ張り出して、一人で真面目な顔をしている碇シンジだった。

 

 エヴァに乗る時とも、料理をしている時とも違う顔だった。誰かに評価されるためじゃなく、ただ自分が好きなものへ向いている時の顔。見られた瞬間に耳まで赤くなって、格好悪いところを見られたみたいに困っている顔。

 

 ああいう顔をするのだ、とアスカは思った。

 この男は、ただ怖がっているだけの変な奴でも、妙に分かった顔をする嫌な奴でもない。照れたり、隠したがったり、好きなものを見られると困ったりする、同い年の男の子でもある。

 

 その当たり前が、やや厄介だった。

 厄介だから、茶化したくなる。茶化したくなるのに、本気で笑う気にはなれない。

 

「夕飯、食べてくるんだと思ってた」

 

「食べてない」

 

「作るけど」

 

「お願い」

 

 アスカはそう言って、椅子の背へ鞄を放った。

 

 * * *

 

 料理をしている間、アスカはカウンターの向こうで頬杖をついていた。

 ぼんやり見ているようで、時々こちらを見ていないふりで見ている。

 

「退屈だったの?」

 

 鍋をかき混ぜながら聞く。

 

「なにが」

 

「デート」

 

「デートじゃない」

 

「ヒカリに頼まれて顔出しただけ」

 

「そう」

 

「そうよ」

 

 ひと呼吸ぶん間があく。

 

「つまらなかった」

 

 アスカが先に言った。

 

「優しかったし、感じ悪くもなかったし、普通に褒めてくれた」

 

「それなら、悪い人じゃないんじゃない」

 

「だからつまんないの」

 

 その答えが、なんとなく分かる気がしてしまった。

 

「普通に大事にされると、あたしが普通の女の子みたいで嫌」

 

 アスカは言ってから、自分でも嫌な顔をした。

 

「意味分かんないわね」

 

「……少し分かる」

 

「は?」

 

「僕も普通に優しくされると、何か違う気がする時があるから」

 

 言いながら、変なことを言っていると思う。

 でもアスカは笑わなかった。笑わない代わりに、少しだけ真面目な顔で僕を見た。

 

「それ、どういう意味?」

 

「まっすぐ見られてない気がするっていうか」

 

 包丁を置く。深呼吸をひとつ。

 

「僕が欲しいのは、たぶん“良い子”としての扱いじゃない」

 

 言いながら、こんなことをアスカへ話している自分に少し驚く。

 でも、チェロを見られたあとだと、もう変に取り繕うのも馬鹿らしかった。

 

「……変」

 

「知ってる」

 

「でも」

 

 アスカは一度だけ言葉を切った。

 

「ちょっとだけ、分かる」

 

 それだけで、台所の空気が少し変わった。

 

 そのまま気まずくなるかと思ったけれど、僕は皿を洗い、アスカはそれを拭いた。

 別に分担を決めたわけじゃない。アスカが帰ってきた時から台所の椅子に座っていた流れで、なんとなくそうなっただけだ。

 

「雑」

 

「そっちこそ、洗剤多い」

 

「うるさい」

 

 他人ならとっくに会話が切れる程度の言い合いだ。

 でも今は、その切れずに続く感じが変に落ち着いた。

 

 アスカが布巾で皿を拭きながら、こちらを見ないまま言う。

 

「さっきの」

 

「なに」

 

「大人っぽいってやつ」

 

「うん」

 

「適当に言ったんじゃないでしょうね」

 

「言ってないよ」

 

 僕が答えると、アスカは肩の力を少し抜いた。

 褒められ慣れていないわけじゃない。むしろ逆だ。外見だけなら、アスカはたいてい先に褒められる。だからこそ、見てほしいのはたぶん別の所なのだと思う。

 

 その“別の所”が何なのか、僕はまだ全部は分からない。

 でも、分からないままでも少しずつ見ようとすることなら、前よりはできる気がした。

 

 * * *

 

 夜遅く、ミサトさんから電話がかかってきた。

 酔っているらしく、声が少しだけ浮ついている。加持さんも一緒らしい。

 

「もしもし、ちゃんと帰ってる?」

 

「帰ってます」

 

『洗剤は?』

 

「買いました」

 

『絆創膏』

 

「救急箱に入れました」

 

『電池』

 

「玄関脇の籠」

 

『よし』

 

 酔っているくせに、確認する順番だけ妙に正確だ。

 

『アスカは?』

 

「います」

 

『戸締まりして。火、消して。あと変な時間にチェロ弾かない』

 

「最後のは余計です」

 

『余計じゃないのよ、保護者だから』

 

 電話の向こうで加持さんが何か笑って、ミサトさんが「あんたは黙ってて」と返す。

 

 父さんからの電話なら、たぶんここまで長くならない。来い、乗れ、待機しろ。それだけで終わる。今の電話も用件だらけのはずなのに、聞かれているのは初号機の状態じゃなくて、帰る場所の形の方だった。

 

 それが少しだけ、胸に残る。

 

「不良中年」

 

 受話器を置いたあとで、アスカが吐き捨てる。

 

「飲んでるんだって」

 

「……そう」

 

「何よ、その顔」

 

「別に」

 

「別に、じゃない」

 

 さっきまで少し柔らかくなっていた空気が、また不安定になる。

 アスカは冷蔵庫から缶を二本取り出した。

 

「飲む?」

 

「未成年だろ」

 

「一口くらいで死なないわよ」

 

 その強がりが、今日は少し痛々しい。

 

 ソファに座って、二人で缶を開ける。苦い。慣れない味だ。アスカは一口で顔をしかめたくせに、意地になってまた飲む。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「さっきの」

 

「どれ」

 

「チェロ弾いてた時のあんた」

 

 心臓が少し速くなる。

 

「うん」

 

「変じゃなかった」

 

 すぐには意味が分からなかった。

 黙っていると、アスカが余計に苛立つ。

 

「だから、気持ち悪い意味じゃなくて」

 

「うん」

 

「……普通だった」

 

 その言葉は、思っていた以上に重かった。

 

 普通。

 エヴァのパイロットでも、父親に見捨てられた子でも、誰かを助けて勝手に傷つく変な奴でもない。ただ、音楽を弾いて、見られると照れる、同年代の男。

 

 アスカは今、その形で僕を見たのだ。

 

 僕はかすかに笑ってしまった。

 

「何」

 

「いや……」

 

「何よ」

 

「嬉しいんだなって、思って」

 

「気持ち悪い」

 

 即答だった。でも声の角は、少し丸い。

 

 深夜、台所で水を飲んでいると、アスカがまた出てきた。

 さっきまでの柔らかさは少し引っ込んでいて、代わりに別の落ち着かなさが顔を出している。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「普通だったって言ったの、あれ、別に褒めたわけじゃないから」

 

「分かってる」

 

「でも」

 

 アスカは蛇口をひねり、水の音を聞いたまま続けた。

 

「変な意味つけてないあんたを見るの、ちょっとだけ楽だった」

 

 胸の奥が静かに鳴った。

 嬉しい、と思う。思った瞬間に、その嬉しさまでアスカへ見透かされそうで怖くなる。

 

「……キスくらい」

 

 アスカが小さく言う。

 

「前は、変な意味なく出来ると思ってたのよ」

 

 前の世界でも、似た夜があった。

 けれど今は違う。違うはずなのに、胸の中で昔の夜と今の台所が重なりそうになる。

 

「今は違うの?」

 

 訊くと、アスカは肩を少し強ばらせた。

 

「うるさい」

 

「大事なところだろ」

 

「大事だからうるさいの!」

 

 怒鳴ってから、息を吐く。

 そこで初めて、アスカはちゃんとこっちを見た。強がりだけじゃない、迷いごと前に出している目だった。

 

「……あたし、早く大人になりたかったの」

 

 ぽつりと落ちる。

 

「そういうの、全部分かってるふうに出来たら楽だと思ってた。キスとか、そういうのも」

 

 ミサトさんも、加持さんも、テレビの中の大人たちも、みんな当たり前みたいにそういう顔をする。だからアスカも、そのうち出来ると思っていたのだろう。

 

「でも、アンタ相手だと」

 

 そこで言葉が切れる。

 

「アンタ相手だと、変になる」

 

 喉が乾いた。

 

「僕も」

 

 そう返すと、アスカは一瞬だけ目を見開いた。

 

「僕も、君相手だと変になる。怖いし、嬉しいし、何考えればいいか分からない」

 

「何それ」

 

「本当だよ」

 

「格好悪い」

 

「知ってる」

 

 アスカはコップを置いた。音が小さく鳴る。

 

「じゃあ」

 

「うん」

 

「逃げないでよ」

 

 その言葉に合わせるみたいに、アスカが一歩だけ近づいた。

 

 近い。

 息が混ざる距離だ。

 

 僕は逃げなかった。

 逃げる代わりに、指先へ力が入る。怖い。嫌われるかもしれない。間違えるかもしれない。今ここで何か一つでもずれたら、たぶんしばらく取り返しがつかない。

 

 それでも、もう前みたいに“何も起きない方”へ下がるのは違うと思った。

 

「アスカ」

 

「なによ」

 

「僕、変な意味で受け取るよ」

 

 正直に言う。

 

「キスくらい、じゃ済まない」

 

 アスカは息を少し呑んだ。

 

「……知ってる」

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

 そこで、アスカの方から唇が触れた。

 

 最初は本当に一瞬だった。

 触れたかどうかも曖昧なくらい軽くて、それで終わりにしてしまえば冗談に戻せるくらいの長さ。

 

 でも終わらなかった。

 

 アスカは離れない。

 僕も離れなかった。

 

 心臓がうるさい。どうしていいか分からない。それでも、逃げないでよと言われた言葉だけはまだ耳に残っていた。

 

 だから僕は、震える手でアスカの肩へ触れた。

 触れて、それでもまだ足りない気がして、ゆっくり背中へ腕を回した。

 

 抱きしめる、というほど上手くはなかった。

 抱き寄せるというより、怖がりながらそこへ留めるみたいな不器用な形だった。

 

 でも、拒まなかった。

 

 アスカの指先が、一瞬だけ僕のシャツを掴む。

 その反応で、こっちの息まで止まりそうになる。

 

 どのくらいそうしていたのか分からない。

 先に離れたのはアスカの方だった。

 

 唇が離れる。距離が少し開く。どちらも呼吸が整っていない。

 

「……下手」

 

 アスカが言う。

 

「ごめ——」

 

「それ言ったら殺す」

 

「……うん」

 

 頷くのが精一杯だった。

 

 アスカはその場で頬を押さえ、それからものすごく嫌そうに顔をしかめる。

 

「ほんっと最悪」

 

 そう言って、逃げるように洗面所へ入ってしまった。

 僕は台所に一人残り、冷蔵庫の明かりが消えるのをただ見ていた。

 閉まったドアの向こうで、水の音がした。

 うがいをしているのか、顔を冷やしているのか分からない。分からないけれど、前よりずっと拒絶の音には聞こえなかった。

 

 ***

 

 洗面所の向こうで、アスカはしばらく蛇口の水を出したまま動けなかった。

 気持ち悪かったからじゃない。唇の熱も、抱き寄せられた時の腕の硬さも、そのままだと全部顔に出そうだったからだ。

 あのまま台所へ戻ってしまうと、何かとんでもないことを言ってしまいそうで、それがたまらなく怖かったからだ。

 

 シンジに受け入れられた。

 シンジは逃げなかった。

 

 それだけのことなのに、胸の奥はまだ激しく鳴っている。

 

 その夜、布団へ潜り込んでも、アスカはすぐには眠れなかった。

 

 加持さんへの憧れは嘘じゃない。大人で、余裕があって、何をしても様になる人。そういう完成品みたいな男への憧れは、たぶんまだ消えない。

 

 でも今夜、自分の体が覚えてしまったのは、別の種類の熱だった。

 長く触れれば大人みたいに振る舞えると思っていたのに、実際には逆だった。欲しかったのは上手いキスでも、余裕のある顔でもない。

 その先で、まっすぐ抱きしめられることの方だった。

 

 チェロを弾いていたシンジの横顔。

 見つかった途端に困った顔をしたこと。

 台所で、変な意味をつけるのが怖いと、格好悪いくらい正直に言ったこと。

 キスのあと、びくびくしていたくせに逃げずに、抱きしめた腕のぎこちなさ。

 

 完成していない。格好も悪い。面倒で、子どもで、いちいち手間がかかる。

 それなのに、近い。

 

 遠くで格好いい大人に憧れるのとは違う。

 同じ家の匂いの中にいて、名前を呼べば振り向いて、触れればちゃんと怯えて、それでも離れない、そういう現実の近さだった。

 

「……最悪」

 

 小さく呟いて寝返りを打つ。

 

 最悪だ。

 でも、その“最悪”の中に、自分がシンジをただの同居人でもライバルでもなく、ちゃんと異性として意識し始めていることまで混ざってしまったのだと、アスカにももう分かっていた。

 

 * * *

 

 同じ夜、加持は正規ルートを外れた認証カードで、さらに深い地下へ降りていた。

 

 搬送台の音も届かない最深部は、呼吸を忘れたみたいに静かだった。赤い警告灯、冷えた手すり、保全用の端末。その中央で、白い巨人が磔のまま天井へ伸びている。

 

 端末表示には《ADAM》と出ていた。

 

 人類の始原。補完計画の核。そういう大げさな説明を、加持はもう素直には信じていない。それでも目の前の巨大さだけは否定しようがなく、知らないふりの出来る段階をとうに越えていることだけが分かった。

 

「こいつが、嘘の中心か」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。答える者はいない。あるのは白い肌と、赤い液と、沈黙だけだった。

 

 背後でセキュリティ復帰の予告音が鳴る。長居はできない。加持は最後に一度だけ巨人を見上げ、何も持ち帰れない代わりに、その光景だけを頭へ刻んでから踵を返した。

 

 嘘は、たいてい一番深い所で黙っている。

 

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