【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

20 / 41
第拾六話 死に至る病、そして

洗面所の籠には、昨夜使ったタオルが二枚だけ残っていた。

 

 湯気はもう消えているのに、鏡の端へ白く乾いた跡が残っている。ドライヤーのコードは半分ほど巻き取られたまま、蛇口の横へ置かれていた。誰かが途中で作業をやめたみたいな散らかり方だった。

 

 僕はそこへ手を伸ばしかけて、すぐ止めた。昨夜のことが、まだ部屋のあちこちに薄く残っている。

 

「それ、触らないで」

 

 背後からアスカの声がした。いつ来たのか分からない。寝起きらしいのに、もう不機嫌さだけは完全に起きている。

 

「洗うだけだよ」

 

「洗うのはいいけど、分ける」

 

 アスカは籠の中のタオルを自分でより分けた。薄い白い方、厚手の青い方。髪を拭くもの、体を拭くもの。誰のものかがいちいち決まっているらしい。

 

「こっちはあたし。こっちは客用。そっちは使っていい」

 

「客用なんてあるんだ」

 

「あるわよ。ミサトの家を何だと思ってんの」

 

「散らかった……」

 

「続き言ったら蹴る」

 

 言いながらも、アスカは洗剤の量を先に計った。僕が適当にキャップへ注ごうとすると、腕を掴んで止める。

 

 腕を掴まれたままの一秒が、必要以上に長い。昨夜のことを思い出したのは、たぶんお互い様だった。

 

「多い。そんな入れたら匂い残る」

 

「分かるの?」

 

「分かるわよ」

 

 洗濯機が回り始める。水の音が狭い洗面所へ満ちる。その間、どちらも昨日のことを口にしない。口にしないまま、でも完全に忘れた顔もできない。

 

 アスカは鏡の前へ立ち、ヘアゴムを咥えたまま髪をまとめた。肩が見えて、すぐ視線を逸らす。そういう反射の一つ一つが、自分でもひどく面倒くさい。

 

「何」

 

「見てないよ」

 

「見てたから言ってんの」

 

 否定しきれなかった。

 

 アスカはため息をつき、ドライヤーを取り上げて僕へ押しつけた。

 

「持って」

 

「え?」

 

「コード。絡むから」

 

 言われるがまま、僕はコードの先を持った。ドライヤーの風が鳴る。髪が揺れる。アスカは鏡越しに一度もこちらを見ない。その代わり、言葉だけは切らさなかった。

 

「昨日のこと、変に意味つけしないで」

 

 風の音の隙間で、それだけははっきり聞こえた。

 

「意味って」

 

「そのままよ。あんた、すぐ勝手に重くするから」

 

 返事に困る。

 

 重くしている自覚はある。昨夜の一つ一つを、その場で終わらせずに持ち歩いてしまう癖が僕にはある。

 

「……分かった」

 

「返事軽い」

 

「軽くした方がいいんだろ」

 

「そういう屁理屈がむかつくの」

 

 ドライヤーが止まる。沈黙が落ちる。洗濯機の回る音だけが残る。

 

 アスカは髪を手櫛で整え、それから洗濯籠の縁を指で叩いた。

 

「でも」

 

「うん」

 

「勝手に入ってこなかったのは、まあ……前よりまし」

 

 拒絶ではなく、採点みたいな言い方だった。そのことに少しだけ救われる。

 

 それだけ言って、彼女は洗面所を出ていった。

 

 残された僕は、まだ温かいドライヤーの柄を握ったまま立っていた。意味をつけるなと言われたばかりなのに、その言葉だけはやけに手の中へ残った。

 

あの夜のあと、アスカと僕はやけに日常的だった。

 

 普通というのは、もちろん本当の意味で穏やかということじゃない。食卓で目が合えばすぐ逸らすし、学校で話しかければ半分は喧嘩になる。家では襖一枚隔てた向こうに気配があるのをお互い意識しているくせに、そのこと自体は口にしない。

 

 ただ、それでも前みたいな決定的な断絶ではなかった。

 

 それが余計に気を遣わせた。

 

 壊れていないものは、壊すのが怖い。

 

 だから僕はますます黙る。

 

 アスカはそのたびにますます苛立つ。

 

 悪循環だと分かっている。分かっているけれど、止められない。

 

 その日の帰り、駅のホームの端で電車を待っている時、アスカが先に口を開いた。

 

「昨日のこと」

 

 それだけで心臓が跳ねた。

 僕は紙コップの自販機の釣り銭を握ったまま固まる。

 

「なかったことにするなら、今のうちに言いなさい」

 

「しないよ」

 

 反射みたいに返した。

 あまりに早かったのか、アスカが少しだけ目を細める。

 

「ふうん」

 

「でも、どう扱えばいいのかは分からない」

 

「そこを黙るからむかつくの」

 

 ホームへ風が吹き込み、黄色い線の向こうで空の缶が転がった。アスカはそれを見もしないまま、僕の方へ半歩だけ体を向ける。

 

「次、勝手に決めないで」

 

「何を」

 

「……その、昨日みたいなのを」

 

 喉が急に乾いた。

 

「うん」

 

「やるなら、ちゃんとこっち見てからにしなさい。勝手に一人で重くして、勝手に覚悟した顔で来たら殴る」

 

「次、あるんだ」

 

「そこ拾うな!」

 

 すぐに怒鳴られた。でも耳の先だけが少し赤い。

 

「ないって言ってないだけ」

 

 アスカは小さく言った。

 

「ゼロにする気もないけど、あんたの中だけで百にされるのは嫌なの」

 

「……分かった」

 

「分かったなら、黙り込むな」

 

「努力する」

 

「努力じゃなくてやる」

 

 電車が滑り込んでくる。風圧で髪が揺れる。開いたドアへ人の流れが寄る。その拍子に、僕は反射みたいにアスカの肘へ手を伸ばしかけた。

 触れる前に、アスカが振り向く。

 

「支えるなら、先に言いなさい」

 

「え」

 

「黙って触られるの嫌。あと、助ける側の顔で来られるのももっと嫌」

 言い切ってから、アスカは自分から僕の袖を一度だけ引いた。

「必要なら、こっちから掴む」

 

 その一言が、妙に重かった。

 

「……分かった」

 

「あと、次に逃げたら本気で腹立つから」

 

「逃げない」

 

「今のは覚えとく」

 

 ドアが開く。並んで乗り込む直前、アスカは前を向いたまま、ほとんど聞こえない声で付け足した。

 

「……ま、前よりはまし」

 

 朝と同じ採点だった。でも今度の“まし”は、次がある前提の響きをしていた。

 

 

 

 その日の夜、台所の流しには洗い終えた皿が二枚だけ伏せてあった。

 

 味噌汁の鍋はまだ少し温かく、換気扇の音だけがやけに大きい。僕が鍋の縁についた汚れを落としていると、背中側でアスカが布巾を広げた。乾いた皿を受け取って、拭いて、食器棚へ戻す。その順番だけなら前から何度もやっていたはずなのに、今日は一つ一つの動きに妙な意識が引っかかった。

 

「そこ、まだ泡ついてる」

 

 アスカが言う。

 

「え」

 

「コップの底。洗剤残ってる」

 

 僕がもう一度すすぐと、アスカは無言で布巾を差し出した。受け取ろうとして、指先が少し触れる。ほんの一瞬なのに、どちらもすぐには手を引かなかった。先にアスカが布巾を押しつけるみたいに離し、僕は変に喉が渇く。

 

「いちいちそういう顔しないでよ」

 

「どういう顔」

 

「今のが一大事です、みたいな顔」

 

「してない」

 

「してる」

 

 アスカは皿を受け取りながら、わざとらしく肩をすくめた。

 

「そういうの、こっちまで意識するから嫌」

 

「……ごめん」

 

「だからすぐ謝るなっての」

 

 布巾の端で皿の縁を拭く手つきは、いつもより少しだけ遅い。アスカだって平気なわけじゃないのだと、その遅さで分かる。分かるから、余計に何を言えばいいのか分からない。

 

 流しの前へ並んで立つと、肩と肩のあいだは狭いのに、前みたいにどちらかが大げさに離れたりもしない。冷蔵庫のモーター音、窓の外の車の少ない音、皿が重なる時の小さな金属音。そういう細い音だけが、部屋の中でやけに目立った。

 

「明日」

 

 アスカが不意に言う。

 

「学校で変に避けたら殺す」

 

「避けないよ」

 

「返事だけじゃなくて」

 

「……じゃあ、避けないようにする」

 

「それも半分」

 

 手厳しい。

 

「じゃあ、避けない」

 

 言い直すと、アスカは布巾を畳み直しながら小さく鼻を鳴らした。

 

「うん。そうしなさい」

 

「でも、どういう顔してればいいのかは分からない」

 

「普通」

 

「普通って何」

 

「知らないわよ。あたしだって分かんない」

 

 そこだけ、少しだけ声が素に戻った。

 

「ただ、昨日までと同じみたいな顔されるのも嫌だし、かといって腫れ物みたいに扱われるのももっと嫌」

 

「難しい」

 

「知ってる」

 

 即答だった。

 

「あと、勝手に“助ける側”の顔されるのも嫌。あたしを守る人みたいに立たないで。隣にいるなら、隣の顔して」

 

 言葉が少しきつすぎたと思ったのか、アスカは布巾の端を握り直す。

 

「だから、あんたが分かんないなら分かんないなりに、ちゃんとこっち見て動きなさい」

 

 皿を食器棚へ戻す。その途中で、アスカは一度だけ振り向いた。

 

「勝手に答え出して終わった顔するのが、一番むかつくから」

 

 胸の奥に小さく刺さる。今日ホームで言われた“次があるんだ”より、今の“終わった顔するな”の方がずっと具体的だった。

 

「分かった」

 

「あと」

 

 アスカは戸棚の取っ手に手をかけたまま続ける。

 

「次があるって言ったからって、安心しすぎないで」

 

「安心してないよ」

 

「嘘」

 

 見抜かれていた。

 

「少しだけ、してた」

 

「でしょうね」

 

 アスカはそこで、皿を一枚しまい損ねたみたいに、ほんの少しだけ手を止めた。

 

「……あたしだって、ゼロにするつもりはないって言っただけだし」

 

「うん」

 

「でも、それを毎回“今回”としてやるのは、あんたの仕事でもあるの」

 

 その言い方が、やけに重かった。

 未来の保証じゃない。次があることを当然にしないための釘だ。

 

「分かった」

 

「今のは、まあ前よりマシ」

 

 採点みたいな声で言って、アスカは空いたコップを流しへ戻した。

 

「それ洗って」

 

「自分で飲んだやつだろ」

 

「だから?」

 

「……洗います」

 

「よろしい」

 

 そのやり取りが妙にいつも通りで、少しだけ笑いそうになる。笑うとまた変に意識していると思われそうで、口元だけで止めた。

 

 洗い終えたコップを伏せる。アスカがそれを拭く。食器棚へ戻す。作業の手順はただそれだけだ。でも、順番が途切れないこと自体が、今はひどく大事に思えた。

 

 それで終わりかと思ったら、アスカは流しの脇に置いてあった買い物メモを手に取った。明日の朝に足りない物がいくつか書いてある。卵、牛乳、洗剤、それから絆創膏。字はミサトさんので、途中からアスカの書き足しが混ざっていた。

 

「ペン」

 

 言われて、僕はテーブルの上のボールペンを渡した。

 アスカは受け取るついでに、僕の指先を一瞬だけ見た。

 

「まだ震えてる」

 

「そう?」

 

「そう」

 

 自覚がないわけじゃない。ただ、見抜かれると少し困る。

 

「そんなに緊張するなら、いちいち大事な場面みたいな顔しないで」

 

「してるかな」

 

「してる。皿一枚渡すだけで、世界の秘密でも受け取るみたいな顔」

 

 言い方はひどい。でも、少し笑っている声だった。

 

「だって、普通がよく分からないから」

 

「だからって全部を儀式にしなくていいの」

 

 アスカはメモへ新しく一つ書き足した。

 予備のヘアゴム。字が強い。最後の払いだけ少しだけ雑だ。

 

「コップ渡すのも、タオル取るのも、先に風呂入るか訊くのも、そういうのは別に特別じゃない」

 

「うん」

 

「でも、特別じゃないからって“何でもない”とも違う」

 

 僕は黙って聞いた。

 アスカはメモから目を上げない。

 

「毎回いちいち意味づけしてたら疲れるでしょ。でも、何も無かったことにしてたら、今度は本当に何も増えない」

 

 その言い方が、妙に分かりやすかった。

 大きな告白とか、劇的な約束とか、そういうものだけで関係が進むわけじゃない。コップを渡す。メモへ物を足す。明日の朝、どっちが先に出るか決める。そういう小さい往復が積もって、あとから振り返ると一つの時間になっている。

 

「……難しいね」

 

「だから普通なんでしょ」

 

 アスカはやっと顔を上げた。

 

「いちいち完璧な意味が分からなくても、とりあえず続けるの」

 

「続ける」

 

「そう。勝手に終わった顔しないで」

 

 さっきと同じ言葉なのに、少しだけ温度が違った。

 

 アスカはボールペンを戻しかけて、やめた。

 代わりに買い物メモを半分へ折って、僕の方へ差し出す。

 

「明日、帰りにコンビニ寄れたら寄る」

 

「僕が?」

 

「二人で」

 

 一瞬、返事が遅れた。

 アスカはその間を見逃さない。

 

「何その顔」

 

「いや……普通なんだなって思って」

 

「普通よ」

 

 彼女は少しだけ肩をすくめた。

 

「普通に足りない物があって、普通に買いに行くの。そういうのから逃げるなって言ってるの」

 

 メモを受け取る。薄い紙切れなのに、思ったより重い。

 特別じゃない。でも、何でもなくはない。

 

 翌日の帰り、僕たちは本当にコンビニへ寄った。

 

 駅前の小さな店は、使徒襲来のあともほとんど同じ顔で光っていた。看板の白さ、冷蔵ケースの青白い灯り、レジの上の小さな揚げ物の札。どれも前からあった物のはずなのに、今は妙に頼りなくも頼もしくも見える。都市の大きな機構がいくつも止まりかけているのに、こういう小さな明かりだけはまだ規則正しく唸っている。冷蔵庫のモーター音は、学校で聞く発電機の低い音に少し似ていた。未来の装置なんて大げさなものじゃない。ただ牛乳を冷やし、卵を割らず、明日の朝を今夜のうちへ繋ぐための小さな生命維持装置だ。

 

 入口で籠を取ろうとしたら、アスカが先に一つ掴んだ。

 

「一個でいい」

 

「二個じゃなくて?」

 

「どうせ最後に分けるんだから、最初は一個で十分」

 

 そう言って、彼女は籠の中へ順番まで決めるみたいに物を入れていく。卵は最後。牛乳は立てる。洗剤は端。絆創膏は潰れない隙間。小さな買い物なのに、詰め方が妙に本気だ。

 

「そんなに気にする?」

 

「こういうの雑だと、帰る前に袋が終わるの」

 

 当然みたいに言う。

 

 店内は夕方の匂いで満ちていた。温めた惣菜、レジ横のコーヒー、床を拭いたばかりの洗剤、それに冷気の匂い。僕は牛乳を取ろうとして、賞味期限の違う列が二つあるのに気づかなかった。アスカが横から一本引き抜く。

 

「そっちじゃない」

 

「どっちも同じじゃ」

 

「明日の朝で終わるなら近い方。少し余るなら遠い方。何本飲むかで選ぶ」

 

「そこまで考えるんだ」

 

「考えるわよ。考えないで買うと、あとで冷蔵庫の前で揉めるでしょ」

 

 それは、妙に具体的な未来だった。

 冷蔵庫の前で揉める。牛乳が先か卵が先かで文句を言う。そんな場面を想像できること自体が、少し前の僕にはなかった。

 

 アスカは次にシャンプーの詰め替えを取り上げ、裏面の容量を見て棚へ戻した。

 

「これは?」

 

「今あるやつ、まだ半分。先に洗剤」

 

「よく覚えてるね」

 

「家の中の物の減り方くらい見るでしょ」

 

 そう言われると、僕は少し弱い。

 見ていないわけじゃない。でもアスカみたいに、何があと何日分かを身体感覚で分かっているわけではない。

 

 レジへ向かう途中で、アスカが立ち止まった。

 棚の端にぶら下がった安いヘアゴムを見て、僕は反射的に黒い二本組へ手を伸ばしかける。

 すぐ横から、アスカがその手首を軽く叩いた。

 

「勝手に選ばない」

 

「切れてたから」

 

「知ってても、まず聞く」

 

 アスカは茶色の細いゴムを一つ取り、少し考えてから籠へ入れた。僕が見ていることに気づいたのか、露骨に嫌そうな顔をする。

 

「何」

 

「いや……覚えてたから、つい」

 

「そういう“つい”が先回りなの」

 

「当たり前でしょ。ゴム切れたまま一週間過ごすの、最悪だし」

 

「うん」

 

「変なところで感心する前に、どれがいいか聞きなさい」

 

 レジの前では、仕事帰りらしい大人が二人、無言で順番を待っていた。世界が終わりかけていても、レジ前の沈黙はこういう形をしているらしい。店員さんは少し疲れた顔をしていたけれど、卵の袋詰めだけは丁寧だった。

 

「袋は分けますか?」

 

 僕が答えるより先に、アスカが言う。

 

「分ける。重さ違うので」

 

 レシートが出る。ポイントの表示。温めますか、の確認。そんなやり取りがまだ残っていることに、変な安心があった。文明って、案外こういう反復でできているのかもしれない。巨大な理論や派手な兵器じゃなく、同じ問いを同じ順番で返して、間違えずに次へ渡すこと。エヴァの同期より、ずっと小さい規格の一致。でも、その小ささでしか朝は来ない。

 

 外へ出ると、空はもう群青に近かった。

 駅前の歩道橋の下で、アスカは買ったばかりの袋をその場で組み直し始める。牛乳は僕。洗剤と卵はアスカ。絆創膏とヘアゴムは軽い方の袋。最後にレシートを半分へ折って、彼女は僕の手へ押しつけた。

 

「なくすから財布に入れといて」

 

「僕が?」

 

「どっちが買ったか後で分かんなくなるでしょ」

 

「家計簿つけてるの?」

 

「つけてない。でも、何買ったか曖昧なままだと、次に同じの買って無駄になる」

 

 その言い方が、妙にヒカリっぽいと思ったのか、アスカはすぐに付け足した。

 

「ヒカリなら日付まで揃えるでしょうけど」

 

「じゃあアスカは」

 

「必要なとこだけ覚えるの」

 

 歩き出す。袋が膝に当たる。歩幅に合わせて中身が小さく揺れる。

 アスカは信号待ちでふいに僕の袋を持ち上げた。

 

「重さどう」

 

「平気」

 

「それ、全然信用ならない」

 

「本当に」

 

「本当でも、肩変えるくらいはしなさい」

 

 言われて持ち替える。

 その一回だけで腕が少し楽になる。楽になるまで気づかなかったことが、少し悔しい。

 

「こういうのさ」

 

 アスカが前を見たまま言う。

 

「別に甘い話じゃないのよ」

 

「うん」

 

「でも、誰が何持つかで、次の日の朝の機嫌って変わるでしょ」

 

 風が吹き、コンビニの袋がかさりと鳴った。

 

「だから、普通って大事なの。大事だけど、いちいち感動するほどじゃない。分かった?」

 

「……少しだけ」

 

「少しでいいわよ。どうせ全部一回じゃ分かんないし」

 

 駅の改札が見えてくる。

 少し先で電車の灯りが曲線をなぞり、ホームのアナウンスが掠れて聞こえた。

 

 僕は手の中のレシートを見た。牛乳、卵、洗剤、絆創膏、ヘアゴム。並んだ文字だけ見れば何でもない。でも、何でもないからこそ変えようがなかった。今夜の台所と、明日の朝食と、その次に足りなくなる物まで、そこにはちゃんと続きがあった。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「今の、ちょっとだけ分かったかも」

 

「何が」

 

「特別じゃないけど、何でもなくもないってやつ」

 

 アスカは一瞬だけ黙って、それからそっぽを向いた。

 

「遅い」

 

「ごめん」

 

「そこは謝らなくていい」

 

 でも、次の信号が青に変わるまでの数秒、彼女は僕の歩幅にきっちり合わせてくれた。

 

「分かった」

 

 家へ着いた時、ミサトさんはまだ帰っていなかった。

 玄関の灯りだけがついていて、リビングは夕方の続きをそのまま置いたみたいに静かだった。僕が買い物袋をテーブルへ置くと、アスカは靴を脱ぎ終わるより先に冷蔵庫の前へ行って、扉を開けた。

 

「はい、まず牛乳」

 

 振り向きもせずに手だけ出す。

 言われた通り渡すと、アスカは棚の高さを一度見てから置き直した。奥にある開封済みを手前へ、今日買った方をその後ろへ。卵は上じゃなく下。洗剤は台所の流しの下。絆創膏は洗面所。予備のヘアゴムは鏡の脇の小皿。

 

「置く場所まで決まってるんだ」

 

「決めとかないと、次に探す時に時間かかるでしょ」

 

 そう言ってから、アスカは冷蔵庫の一番上の段に入っていた古い紙パックを抜いた。

 

「これ、昨日で終わりだったのに」

 

「残ってたんだ」

 

「残してたんでしょ。どうせ最後のちょっとだからって」

 

 図星だった。

 アスカは呆れた顔で紙パックを振り、残りの量を確かめてから流しへ持っていく。

 

「飲み切れないなら、最初から朝に回すとか考えるの」

 

「はい」

 

「はいじゃない」

 

 返しまでいつも通りだった。

 でも、いつも通りの中身が前より細かい。どの棚に何があって、何を先に使うか、どれを一日延ばせるか。戦う時の段取りと同じくらい、アスカは生活の順番にも容赦がない。

 

 僕は袋から卵のパックを出して冷蔵庫へ入れようとした。奥へ押し込む前に、アスカが横から止める。

 

「それ、縦じゃなくて横」

 

「どっちでも」

 

「どっちでもじゃない。縦だと一個取るたびに傾くでしょ」

 

 卵のパック一つにそこまで、と思いかけて、やめた。

 こういう“そこまで”の積み重ねで、翌朝の機嫌とか、急いでいる時の苛立ちとか、そういう小さい事故が減るのだろう。

 

 アスカは流しの前で紙パックをすすぎ、畳んでからごみ箱へ押し込んだ。その手つきを見ているうちに、僕は自分が冷蔵庫の開いた扉の前で邪魔になっていることに気づいて半歩下がる。

 

「そこじゃなくて、もう少し右」

 

 すぐに言われた。

 

「右?」

 

「そう。あたしが中見るから、シンジは流し側。渡す係」

 

 前からそう言ってくれればいいのに、と思いながら位置を変える。位置を変えた瞬間、台所の流れが少しだけ良くなった。アスカが棚を見る。僕が物を渡す。空いた袋を畳む。レシートを磁石で冷蔵庫へ留める。たったそれだけで、さっきよりぶつからない。

 

「こういうの」

 

 アスカが牛乳の紙パックへ日付をメモしながら言う。

 

「役割が曖昧なまま同じ台所に立つと、すぐ邪魔になるのよ」

 

「エヴァみたいだね」

 

 つい言うと、アスカは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「何でもそっちに繋げないで」

 

「ごめん」

 

「でも、まあ、半分はそう」

 

 意外な返事だった。

 アスカはマジックを閉じ、冷蔵庫の扉へ小さくもたれたまま続ける。

 

「どっちが何持つか、どこで入れ替わるか、勝手に決めるとぶつかる。決めすぎても動けない。だから、その場でちょうどいいくらいに言い直すの」

 

 それは台所の話で、たぶんそれだけじゃなかった。

 

 僕は黙って、レシートの端を磁石へ挟み込んだ。牛乳、卵、洗剤、絆創膏、ヘアゴム。数字と商品名だけの細い紙。でも、その紙があると、今日の往復が明日の台所へちゃんと繋がる。

 

「シンジ」

 

「なに」

 

「今、変な顔しなかった」

 

「変な顔?」

 

「うん。大事そうにしすぎる顔」

 

 言われて、自分でも少し驚いた。

 さっきまでは、袋一つ渡すだけで必要以上に緊張していた気がする。今は物の順番が先にあって、その順番に乗っているうちに、いちいち自分の心臓の動きまで数えなくて済んでいた。

 

「数えてる暇がなかったからかな」

 

「それでいいの」

 

 アスカはあっさり言う。

 

「いちいち心臓の音に付き合ってたら、牛乳ぬるくなるでしょ」

 

 言い方がひどい。でもそのひどさが、かえって助かる。

 

 次に洗剤を流しの下へしまおうとして、僕は扉の角を棚へぶつけかけた。アスカが横から手を伸ばし、僕の手首を軽く押して角度を変える。近い。近いけれど、今度はそこで固まらない。洗剤がちゃんと中へ収まり、扉が閉まる。

 

「ほら」

 

 アスカは手を離した。

 

「そうやって、まず物をしまいなさい」

 

「今の、指導厳しいな」

 

「厳しくしないとすぐ止まるから」

 

 その言い方に、少しだけ笑ってしまう。

 笑うと、アスカは一瞬だけ目を細めた。でも怒らない。

 

「何」

 

「いや」

 

 冷蔵庫の扉の内側に水滴がついていた。僕が気づいてハンカチを出そうとすると、アスカは先に布巾を取り、迷ったみたいに一拍だけ止まってから僕へ投げた。

 

 

「今のはまあ、ギリギリ普通」

 

 アスカはそう言って、テーブルの上の濡れた布巾を僕の方へ軽く投げた。

 反射で受け取る。

 

「それ干しといて」

 

「命令多いな」

 

「従うの遅いから」

 

 文句を言いながら、僕は布巾を広げた。窓際の椅子の背へ掛ける。その一連の動きのあいだじゅう、アスカはもう次のことを考えている顔でメモを見直していた。

 

 そういう先回りの仕方まで含めて、今ここにいるのは“前の誰か”じゃなくて、今のアスカなんだと分かる。

 分かるたびに少し怖くて、でもその怖さの形も、前よりずっと具体的だった。

 

学校帰り、トウジとケンスケにゲームセンターへ誘われても、僕は珍しく断った。

 

「どうしたんや、珍しいな」

 

「ちょっと疲れてる」

 

「疲れるほど生きとる感じせえへんけど」

 

「ひどい」

 

「冗談や冗談」

 

 トウジは笑った。

 

 その笑いに救われる。

 

 救われるけれど、救われるたびに嫌な汗が出る。あとで失うかもしれないものほど、先に好きになってしまうからだ。

 

 発令所で使徒出現の報を聞いた時、僕はまずそのことを思い出した。

 

 影の使徒だ。

 

 見た目は派手じゃない。派手じゃないくせに、一番嫌な種類の敵だった。何が嫌かと言えば、ああいうのは“殴れば壊れる”という期待が通用しないからだ。

 

 殴れない相手は苦手だ。

 

 人間もそうだ。

 

 言葉で壊れる相手とか、沈黙で離れていく相手とか、そういうのは本当に苦手だ。

 

『目標、非常に薄い影として確認』

 

『本体反応は上空!』

 

『何あれ、趣味悪っ』

 

 アスカが吐き捨てる。

 

 前にもそう言っていた気がする。気がするだけで、細部は曖昧だ。でもその“気持ち悪さ”の感覚だけははっきり覚えていた。

 

 僕はグリップを握る。

 

『初号機、先行して様子を見て』

 

「分かりました」

 

 本当は分かっていない。

 

 分かっているのは、“見た目通りじゃない”ことだけだ。

 

 だから慎重に行くべきだった。

 

 でも慎重に行くというのは、僕にとってたいてい“遅い”ことと紙一重だ。遅れて誰かが巻き込まれるくらいなら、少し無茶をした方がましだと、どうしても思ってしまう。

 

 その癖が、たぶんいちばん危ない。

 

「シンジ、前に出すぎ!」

 

 アスカの声が飛ぶ。

 

 その直後、足元が消えた。

 

 地面だと思っていた影が、口を開く。

 

 落ちる。

 

 胃が浮く。視界が反転する。何かに掴まろうとした手が空を掻く。

 

『シンジ君!』

 

 叫び声が遠ざかる。

 

 落下。

 

 長かった。

 

 実際にはそんなに長くないのかもしれない。でも、底の見えない暗闇へ落ちていく感覚は、時間の長さまで変える。

 

 それが止まった時、僕はどこにもいなかった。

 

 プラグの中にいるのか、自分の体の中にいるのか、それすら曖昧だった。

 

 暗い。

 

 冷たいというより、感覚がない。

 

 何もない空間に、自分の呼吸だけが浮いていた。

 

「……最悪」

 

 声に出したつもりだった。でも声になったのかどうかも分からない。

 

 死ぬのかな、とまず思った。

 

 それから、死ぬにしてもこんなのは嫌だと思った。

 

 誰にも見えない所で、何も言えないまま、ただ飲み込まれて終わるなんて嫌だ。せめて、誰かに嫌われるとか、怒鳴られるとか、そういう人間らしい終わり方の方がましだ。

 

 その時、声がした。

 

『また逃げるの?』

 

 自分の声みたいに聞こえた。

 

『逃げてない』

 

 答える。

 

『逃げてるよ』

 

 やっぱり自分の声だった。

 

『君はいつも、自分が傷つく前に意味をつける』

 

 やめてほしいと思った。

 

 こういう場所では、たいてい嫌なことしか言われない。

 

『アスカが怖いんだろ』

 

『……怖いよ』

 

『綾波も怖い』

 

『うん』

 

『トウジも、ケンスケも、ミサトさんも』

 

『うん』

 

『誰だって動くからね』

 

 暗闇の中で、自分の声だけが静かに笑った気がした。

 

 動く。

 

 怒る。泣く。離れる。好きになる。嫌いになる。昨日と今日で違うことを言う。そういう全部が、人間らしい。人間らしいのに、僕はそれに全然ついていけない。

 

 だから、動かないものにしてしまいたくなる。

 

 笑ったままの顔とか、優しかった時の声とか、守ってくれた瞬間とか、そういう都合のいい部分だけを心の中で固定して、それを“その人”だと思い込んでしまう。

 

 記念碑。

 

 カヲル君の言葉が蘇る。

 

 人を記念碑にしちゃいけないよ。

 

 でも、しないと不安なのだ。動いてしまう誰かを、そのまま受け止めるのが怖いから。

 

『だったら会わなければいいのに』

 

『それは嫌だ』

 

『どうして』

 

『……寂しいから』

 

 その答えは、自分でも驚くくらい素直だった。

 

 暗闇は何も返さない。

 

 ただ、次の声は別の響きを持っていた。

 

『シンジ』

 

 母さん、なのだと思った。

 

 思いたかっただけかもしれない。でも、他に呼び方がない。

 

『僕、またやってる』

 

 返事はない。

 

『守りたいって言いながら、守った後のことばっかり考えてる』

 

 誰かを助けたら自分はどう見られるか。拒まれたらどれだけ痛いか。受け入れたらどこまで壊れるか。

 

 そんなことばかりだ。

 

 正義感なんてない。

 

 世界を救いたいわけじゃない。

 

 ただ自分が嫌な思いをしたくない。その気持ちが、きれいな言葉を着て歩いているだけだ。

 

『それでも、まだ会いたいんだ』

 

 暗闇の向こうに、白い病室が見えた気がした。

 

 眠ったままのアスカ。

 

 白いシーツ。

 

 触れようとして止めた手。

 

 あの時、起きていたらどうしただろうと考える。起きて、僕を見て、何か言ったら。嫌いだと吐き捨てたら。あるいは、そんなに遅いと怒ったら。

 

 そのどれでも、今よりましだったかもしれない。

 

 沈黙だけは、どうしても耐えられない。

 

『だったら、動いてるうちに向き合えばいいのに』

 

 自分の声がまた言う。

 

 その通りだ。

 

 その通りだけど、それができないからこんな所で自分と喋っている。

 

『できないなら、できないままでいい』

 

 今度の声は、自分じゃなかった。

 

 アスカの声に近かった。

 

『でも勝手に決めるな』

 

 低くて、怒っていて、でも前を向く声。

 

『あたしが死ぬとか、嫌うとか、全部勝手に先回りすんな』

 

『……うん』

 

『怖いなら怖いって言いなさいよ』

 

『格好悪い』

 

『知るかバカ』

 

 そこで、暗闇に少しだけ色が混ざった。

 

 紫。

 

 初号機の色だ。

 

 壁だと思っていたものが、急にやわらかく揺れる。LCLの中へ戻される感覚。吐き気。重力。遠くから聞こえる警報。

 

『シンジ君!』

 

『反応あり!』

 

『回収急いで!』

 

 現実の声が近づく。

 

 僕は思わず咳き込み、LCLを吐いた。喉が焼けるみたいに痛い。プラグのハッチが開き、光が差し込む。

 

 生きている。

 

 それを最初に実感した。

 

 病室で目を覚ました時、天井はいつもと同じだった。でも、体の芯が不自然なくらい軽かった。救われたからじゃない。たぶん、嫌なものを少しだけはっきり言葉にしてしまったからだ。

 

 言葉にすると終わることもある。

 

 でも、言葉にしない限り、いつまでも形のないまま腐ることもある。

 

 僕の中にあるのは、たぶんずっと後者だった。

 

 扉が開いて、アスカが入ってきた。

 

 意外すぎて、一瞬反応が遅れた。

 

「……なに、その顔」

 

「来ると思わなかった」

 

「失礼ね」

 

 アスカはベッド脇まで来ると、シーツの端が少しずれているのを指先で直した。それから椅子に腰を下ろし、腕を組んでいかにも不機嫌そうに僕を見る。

 

「ばっかじゃないの」

 

 開口一番、それだった。

 

「何一人で突っ込んでんのよ」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「……うん」

 

「しかも飲み込まれるとか、間抜けにも程があるわ」

 

「そうだね」

 

「そうだね、じゃない」

 

 アスカは唇を尖らせたまま、視線をわずかに逸らした。

 

「こっちがどれだけ……」

 

「え?」

 

「なんでもない!」

 

 耳まで赤い。

 

 変な沈黙が落ちた。

 

 でも、前みたいに息苦しい沈黙ではなかった。少なくとも、ここにはアスカがいて、怒っていて、僕に言葉をぶつけてくる。

 

 それで十分だった。

 

「アスカ」

 

「なによ」

 

「僕さ」

 

「うん」

 

「怖いって言うの、もう少し先に言うようにする」

 

 アスカはきょとんとした。

 

「は?」

 

「今日みたいに、一人で勝手にやってから言うんじゃなくて」

 

「何それ」

 

「さっき思ったんだ」

 

「どこで」

 

「暗いところで」

 

「余計意味分かんない」

 

「僕も」

 

 アスカはしばらく僕を見ていた。

 

 それから、大げさに溜め息をつく。

 

「……まあ、ちょっとはマシ」

 

「ちょっとだけ?」

 

「それ以上はこれから次第」

 

 厳しい。

 

 でもその厳しさが、今はありがたかった。

 

 何も終わっていない。何も許されていない。だからこそ、これからの話ができる。

 

「次に勝手なことしたら、ほんとに殴るから」

 

「前から殴ってるじゃないか」

 

「もっと本気でよ」

 

 その言い方に、かすかに笑ってしまった。

 

 アスカは一瞬だけ眉をつり上げ、それから小さく舌打ちした。

 

「なによ」

 

「いや」

 

「何」

 

「生きててよかった」

 

 言った瞬間、またかと自分で思った。

 

 でも今度は、アスカはすぐに“気味悪い”とは言わなかった。

 

 少しだけ目を伏せて、それから吐き捨てるように言う。

 

「……当然でしょ」

 

 そう言ってから、アスカは立ち上がりかけて、やめた。

 ベッド柵へ指をかけ、ずれていたシーツの端を乱暴に引き直す。やることなんて別にないはずなのに、すぐ帰る気にもなれないみたいだった。

 

「次、来る時は手ぶらで来ないで」

 

「え」

 

「病院って、口の中まずくなるの。水でもゼリーでも、何でもいいから」

 

 それは見舞いの条件というより、次があることを前提にした言い方だった。

 全部許したわけでも、気まずさが消えたわけでもない。ただ、ここで話を終わらせたくない時の、アスカなりの置き方だと分かった。

 

「分かった。変なのは持ってこない」

 

「甘すぎるのも嫌」

 

「じゃあ水」

 

「それでいい」

 

 その当然を、僕はまだ何度も見失うのだと思う。

 

 でも、それでも。

 

 少なくとも今は、アスカがここにいる。当然みたいな顔で僕を叱っている。

 

 それだけで、暗闇から戻ってきた価値はあった。

 

 * * *

 

 病室を出たあと、アスカは廊下の角で一度だけ立ち止まった。

 

 別に、心配して見舞いに行ったわけじゃない。

 影へ飲み込まれて、馬鹿みたいに戻ってきた奴へ一言言わないと気が済まなかっただけだ。そういう理屈は自分でも分かっている。

 

 でも、あいつはベッドの上で“怖いって先に言うようにする”と言った。

 格好悪い。情けない。けれど、あれはたぶん嘘じゃない。

 

 シンジは時々、優しいふりをして逃げる。分かった顔をして、相手より先に傷ついたみたいな顔をする。そういう所はむかつく。

 けれど今日の“怖い”は、少なくともあたしを見ながら言った。

 

 自分の格好悪さを、相手の前でそのまま出す。

 それはアスカにはいちばん苦手なやり方だった。だからこそ、少しだけ眩しかった。

 

「……次第、ね」

 

 さっき言った言葉を、自分に言い聞かせるみたいに繰り返す。

 

 少しくらいなら、様子を見てやってもいい。

 そう思ったことは、誰にも言わない方がいい気がした。

 

 病室の窓の外は夕方だった。

 

 死に至るほど深い場所から戻ってきても、空は何事もなかったみたいに青から橙へ変わっていく。

 

 その無神経さが、少しだけ好きになれる気がした。

 

 * * *

 

 碇シンジが影の中へ落ちた時、ミサトは一度だけ本気で背筋を冷やした。

 

 使徒に飲まれること自体は、戦闘記録の上では“ありうる事態”だ。

 だが碇シンジの場合、それが現実になった瞬間に別の不安が生まれる。

 

 あの子は、自分を引き戻す理由を他人の顔でしか持てない。

 もし影の中でそれが全部曖昧になったら、戻ってこないかもしれない。

 

「回収急いで!」

 

 怒鳴りながら、ミサトは自分の考えがどれほど縁起でもないものか分かっていた。

 それでも消えない。

 

 戻ってきたシンジは、前より静かな顔をしていた。

 助かった安堵も、怯えもある。

 でもその奥で、少しだけ“言葉にしてしまった後”の顔をしている。

 

 誰にも聞かせていないはずの独白を、自分だけは聞いてしまったみたいな顔だ。

 

 病室へアスカが見舞いに行ったと知った時、ミサトは止めなかった。

 止めるべきかもしれないと思ったが、たぶんあの二人は誰にも整理してもらえない場所へ立っている。だったらせめて、自分たちで少しは言葉にした方がまだましだと思った。

 

 正しいかどうかは、相変わらず分からないままだったけれど。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 退院の話が出た日の夕方、アスカは病室の棚を自分で片づけ始めた。

 

 看護師がやると言っても譲らない。紙コップの残りを数え、ヘアゴムをポーチへ戻し、使いかけのティッシュは「これは家」と分ける。僕が荷物をまとめようとすると、すぐに順番を変えられた。

 

「ガーゼは下。体温計ケースは別。絵本は曲げない」

 

「はいはい」

 

「はいはい、じゃなくて手」

 

 ポーチを差し出される。受け取ると、思っていたより軽かった。病室にある物というのは、どれも軽いのに、持つとその軽さがかえってつらい。

 

「そんな顔しないで」

 

 アスカが言う。

 

「退院なのよ」

 

「分かってる」

 

「分かってる顔じゃない」

 

 その通りだった。戻れることは嬉しい。嬉しいのに、その戻る先が以前と同じではないことまで一緒に分かってしまう。

 

 荷物を二つに分ける。僕が持つ方には体温計ケースと紙袋、アスカの方にはポーチとヘアゴムと小さな鏡。重さの分け方まで、結局アスカが決めた。

 

「それ、半分持つって言うほどじゃないわね」

 

「軽いから」

 

「軽くても両手塞がると邪魔なの。階段で詰まるから」

 

 階段で詰まる。

 最近よく聞く理由だ。理由が現実的すぎるから、文句を言いづらい。

 

 病院を出る時、廊下の椅子が少しだけ足りなかった。ヒカリが余っていた折り畳み椅子を一脚運んできて、壁際へ置く。トウジがそれを見て「戻る時も片づけなあかんな」と言い、ケンスケが「じゃあ名簿書いとく」と受ける。

 

 退院ひとつでも、結局はそうやって誰かが椅子を動かし、荷物を半分持ち、帰ったあとにどこを片づけるかまで決めて終わる。僕はその流れの中へポーチを持って立っていた。

 

 アスカは自分の荷物を持ち直し、僕を見ずに言う。

 

「ぼさっとしない。帰るわよ」

 

 その言い方がいつも通りすぎて、少し安心する。

 

 僕は頷き、体温計ケースの入った袋を肩へ掛け直した。

 歩幅はまだ少し違うのに、病院の廊下を出るまで不思議と置いていかれなかった。

 戻る、という言葉が今日はちゃんと家の方を向いていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。