【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾七話 四人目の適格者

その週、教室の後ろには妙に真面目な紙が何枚も増えていた。

 

 避難経路。集合場所。非常時の持ち出し表。教頭が急に思い出したように配ったそれを、ヒカリが律儀に画鋲で留めていく。紙の端が少しでも曲がると気が済まないらしく、留め直すたびにトウジが「そこまで見るやつおらんやろ」とぼやいた。

 

「見る人がいなくても、貼るの」

 

 ヒカリは振り返らないまま言う。

 

「そのための委員長でしょ」

 

 昼休み、僕たちは教室に残されて簡単な避難訓練の確認をさせられた。体育館側の階段が使えない場合、理科準備室の横を抜ける。ラジオと懐中電灯は誰が持つか。保健室へ怪我人が出たら、どの順番で連れていくか。

 

 どうでもいい紙仕事みたいに見えるのに、一つ一つがやけに具体的だった。

 

「相田君、ラジオは三年Aが一本、二年Bが一本。混線した時は勝手に触らない」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

 ケンスケが肩をすくめる。トウジは倉庫から折り畳み担架を持ってきて、広げ方を教わっていた。見た目ほど軽くないらしく、腕の使い方が不器用だ。

 

「鈴原、それ下から持つ」

 

 アスカが横から口を出す。

 

「上で持ち上げると角が壁に当たる」

 

「なんで知っとるん」

 

「見れば分かるでしょ」

 

 言い方は雑なのに、手はすでに担架の脚を支えていた。トウジと二人で角度を変え、教室の出口を一度もぶつけず抜けていく。そういう時だけ、アスカは人に合わせることへ迷いがない。

 

 僕は懐中電灯の箱とラジオの予備電池を一度に運ぼうとして、またヒカリに止められた。

 

「碇君、今日もう二回目」

 

「そんなに持ってないよ」

 

「持ってる」

 

 ヒカリが言うより先に、アスカが箱を一つ抜いた。

 

「こっちはあたしが持つ」

 

「自分の分あるだろ」

 

「あるけど、今はこっちの方がかさばる」

 

 箱を抜く時、指先が僕の手の甲に触れた。前ならそこでどちらかが少し引いた。今は二人とも箱の角度の方を先に気にする。

 

 基準が独特だ。でも彼女なりに、体力や歩幅じゃなく動線で決めているのが分かる。教室から廊下へ、廊下から階段へ、階段から校庭へ。どこで何が引っかかるかを先に見ている。

 

 ケンスケがその様子を見ながら、やけに感心した顔をした。

 

「碇、お前ら本番の時より訓練の時の方が噛み合ってないか?」

 

「うるさい」

 

 アスカが即座に切り捨てる。けれど否定しきれないのも事実だった。怒鳴り合っているくせに、段取りの話になるとやけに早い。どちらが何を持ち、どの順番で動くか。それだけは、会話より先に決まる。

 

 最近は、そういう小さい半分ずつが家の中にも増えていた。洗濯籠、台所、帰りの袋。言葉にしなくても、どこで手を出せばぶつからないかだけは少しずつ分かってきている。

 

 訓練の最後に、ヒカリが黒板へ当番表の叩き台を書いた。見回り、保健、放送、倉庫。まだ仮の表なのに、そこへ名前が入るだけで教室の空気が少し変わる。

 

 僕は自分の名前の横に小さく付いた印を見て、胸の奥がわずかに重くなった。役割がある。役割があるということは、そこに戻る場所もあるということだ。

 

 嬉しいわけじゃない。

 でも、怖いからって空欄のままでいたいとも思わなかった。

 

 見取り図をノートへ写し終えたところで、教卓の横からヒカリの声がした。

 

「アスカ、この前のお姉ちゃん経由の人、どうだったの」

 

 アスカは配布箱の角を揃えたまま、顔も上げない。

 

「途中で切り上げた」

 

「うん、それは聞いた」

 

 ヒカリは少し言いよどんでから、紙束を胸へ抱え直した。

 

「お姉ちゃん、ちゃんと理由を言って帰ったって驚いてた。怒ってはなかったけど」

 

「そりゃ黙って帰るよりはましでしょ」

 

 アスカは肩をすくめる。

 

「悪い人じゃなかったわよ。でも、向こうがその気になる前に切った方が感じ悪くないと思っただけ」

 

「気になる人って、そんなにはっきりいたのね」

 

 ヒカリが小さく言う。

 アスカはそこで初めてヒカリを見て、ついでみたいに僕の方へ一瞬だけ視線を流した。

 

「いるわよ。だからそう言って帰ったの」

 

「誰」

 

「言うわけないでしょ」

 

 即答だった。けれど語尾の鋭さほど、顔は強くなかった。

 

 ケンスケが露骨にむせ、僕の手元も一瞬だけ止まった。

 

「それ、面と向かって?」

 

「そうよ。曖昧な顔で引っ張る方が感じ悪いでしょ」

 

 ヒカリは何か言いかけて、やめた。アスカはその沈黙ごと切り捨てるみたいに箱の蓋を閉じる。

 

「だから次はない。それだけ」

 

 その横顔は平然としているくせに、耳の先だけがほんの少し赤かった。僕は視線を落としたまま、電池の箱へ指をかける。何に驚いているのか、自分でもうまく分からない。考える方が格好悪い気がしたからだ。

 

 昼休みの終わり、皆が先に出ていったあとで、ヒカリが教室の後ろへ残った。

 画鋲の曲がりを直すふりをして、でも本当は別のことを言いたい顔だった。

 

「……アスカ」

 

 その呼び方は、少しだけぎこちなかった。

 アスカは箱の蓋へ手をかけたまま止まり、すぐには返事をしなかった。

 

「何よ」

 

「その人に、ちゃんと分かるようにしてるの?」

 

 僕は思わず息を止めた。ケンスケは露骨に窓の方を向いた。

 アスカはうんざりした顔をしたけれど、前みたいに呼び直しは求めなかった。

 

「してないわよ」

 

「じゃあ、分からないままじゃない」

 

「分からない方が悪い時もあるでしょ」

 

「それ、好きな側の理屈じゃない?」

 

 ヒカリの言い方はきつくない。でも委員長の時より逃がさない声だった。

 

 アスカはしばらく黙って、それから箱の角を指でなぞった。

 

「悪い人じゃなかったの。ちゃんと話も聞いたし、途中で帰る時も理由は言った。別に気になる人がいるから、って」

 

「うん」

 

「でも、そう言ったあとで愛想よく続きをやる方が、あたしはもっと気持ち悪い」

 

 ヒカリは何も言わなかった。

 何も言わないまま、アスカの横顔を見ていた。

 

「……だったら余計に」

 

 やがてヒカリが言う。

 

「その“気になる人”には、いずれちゃんと言いなさい」

 

「うるさい」

 

「うるさくない」

 

「うるさいったらうるさい」

 

 そんな応酬がしばらく続いたが、最後はアスカが根気負けした。

 

「分かったわよ、ヒカリ」

 

 口にしてしまうと、アスカはヒカリには少し素直になった。

 

「でも、急かさないで。こっちにも順番があるの」

 

 ヒカリはそこで小さくため息をついた。

 呆れたみたいな顔だった。けれど少しだけ、安心も混じっていた。

 

 皆が先に教室を出たあとも、ヒカリはしばらく黒板の前で立ち止まっていた。

 避難経路の紙が少しだけ傾いている。ヒカリはそれを直す。直す必要があるほど曲がってはいないのに、曲がったままにはしておけないらしい。アスカは箱を持ったまま、その横顔を見ていた。

 

「まだ直すの」

 

「直す」

 

「そこまで見る人いないわよ」

 

「見る人がいるかどうかじゃないの。見た時に、ちゃんとしてるって分かる方がいいの」

 

 ヒカリらしい答えだ。

 アスカは鼻を鳴らしながらも、自分の手元の紙束の角だけはきっちり揃えた。

 

 二人で昇降口まで下りる。

 夕方の廊下は、窓の向こうだけがやけに明るい。階段の途中で、ヒカリがぽつりと言った。

 

「お姉ちゃん、ほんとに変なことされなかったのよかったって言ってた」

 

「だから悪い人じゃなかったって」

 

「うん。でも、ちゃんと断ったのも偉いって」

 

「偉くないわよ。普通」

 

 アスカは靴箱の前でしゃがみ込み、上履きを乱暴に押し込んだ。

 

「別にその人が悪いわけじゃないのに、気持ちのないまま続ける方が失礼でしょ」

 

 ヒカリはすぐには答えなかった。

 靴紐を結ぶ手を一度止め、それからゆっくり顔を上げる。

 

「アスカって、そういうとこ変に誠実よね」

 

「何それ」

 

「強いっていうか、残酷っていうか、逃げないっていうか」

 

「褒めてる?」

 

「半分」

 

 アスカは呆れた顔をした。

 でも、その半分が嫌いじゃないことくらいは自分でも分かる。

 

 校門を出ると、少し先に碇シンジの背中が見えた。鞄を片方の肩へ掛け、今日も何か持ちすぎたらしい歩き方をしている。アスカはほとんど無意識に、その肩の下がり方を目で追ってしまった。

 

 ヒカリはその視線を見逃さない。

 

「ほら、ああいうの」

 

「何よ」

 

「見ちゃうでしょ」

 

「見えるだけ」

 

「同じよ」

 

「違う」

 

 アスカは言い返したものの、声の勢いほど本気ではなかった。

 

 ヒカリは前を歩くシンジの背中ではなく、アスカの方を見て言う。

 

「私、戦えないし、訓練も分かんない。でも、誰が今日しんどそうだったかとか、誰が平気なふりしてるかとか、そのくらいは覚えておきたいの」

 

 その言い方は静かだった。

 黒板の字みたいにきっちりしているのに、そこだけ少し柔らかい。

 

「だから“惣流さん”って呼び方のままだと、都合悪いのよね。名簿の人って感じが強すぎて」

 

 アスカはしばらく黙った。

 風が制服の裾を揺らす。

 

「……ヒカリって、そういうの全部言葉にするからずるい」

 

「ずるい?」

 

「こっちが誤魔化してるみたいになるから」

 

 ヒカリは小さく笑った。

 

「誤魔化してるんでしょ」

 

「うっさい」

 

 でも、そのやり取りのあとで、アスカは少しだけ歩幅を落とした。

 ヒカリと並ぶ位置へ戻る。

 

「ヒカリ」

 

 もう使い慣れたはずの呼び方なのに、その場では少しだけ喉がつかえた。

 ヒカリも目を丸くしたけれど、すぐに変な顔はしなかった。

 

「なに」

 

「その話、今日はもう終わり」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

 思わず、二人で同じようなことを言った。

 それがおかしくて、ヒカリが先に笑い、アスカは笑う代わりに大きくため息をついた。

 

「でもさ」

 

 ヒカリが言う。

 

「順番があるなら、それはそれでいいの。雑にしないで進めたいなら、たぶんその方がいい」

 

「うん」

 

「ただ、あんまり遅いと碇君には分からないと思う」

 

「知ってる」

 

「知ってるなら、いつかちゃんと教えなさい」

 

「……考えとく」

 

 それは承諾じゃない。

 でも、前みたいな拒絶でもなかった。

 

 別れ道で、ヒカリは手を振った。

 

「また明日、アスカ」

 

「また明日、ヒカリ」

 

 呼び返した声は、思っていたよりずっと自然だった。

 ヒカリはそこで、ちゃんと笑った。

 

影の使徒との戦いのあと、学校の空気は思ったより早く元へ戻ろうとした。

 

 チャイムが鳴る。宿題が出る。ヒカリが怒る。ケンスケが机の下で雑誌を読む。トウジがそれを小突く。

 

 何もかも、前と同じ速度で進んでいるように見える。

 見えるだけで、少しずつ何かがずれている。

 

 ずれていることを、トウジは最近よく感じていた。

 

 碇シンジは前より喋るようになった。笑う回数も増えた。けれどそのぶん、時々ひどく嫌な顔をする。何も起きていない昼休みに、誰かの通夜帰りみたいな顔をする。

 

(なんやねん、あいつ)

 

 妹の病院帰りに見た、あの疲れた横顔が頭から離れない。殴って済む相手なら楽だった。助けられてしまったから厄介なのだ。

 

 * * *

 

 放課後、トウジは担任に呼ばれて職員室へ行った。

 そこには見慣れない黒服の男がいた。柔らかい笑い方をしているくせに、目が笑っていない。そういう大人は胡散臭いと、トウジでも分かる。

 

「少し、お話が」

 

 話の内容は、最初の数分で十分気味が悪かった。

 

 適格者。

 協力。

 機密。

 妹さんの治療環境。

 

 言葉だけ選べば丁寧だ。だが要するに、断りづらい条件が最初から並べられている。トウジは大人のそういうやり方が嫌いだった。

 

「なんで、わしやねん」

 

「適性があるからです」

 

「他にもおるやろ」

 

「現時点では、あなたが最適です」

 

 最適。

 その言葉に腹が立つ。

 人間を工具みたいに言うなと思う。

 

 でも同時に、トウジの中の別の部分がその言葉を欲しがっているのも分かった。

 選ばれた、と思いたい部分。

 何かの役に立てると思いたい部分。

 妹のために、家族のために、自分が前へ出る理由を欲しがる部分。

 

 それがあるから、余計に気持ち悪かった。

 

 黒服の男が机の上へ置いた封筒の角には、見慣れないはずの言葉が並んでいた。〈EVA参号機起動実験〉〈エントリープラグ搭乗手順〉〈プラグスーツ採寸〉〈シンクロテスト予備説明〉。妹の治療環境の話と同じ声で、そんな紙が淡々と差し出される。人の命と、赤でも紫でもない新しいエヴァの起動準備が、同じ机の上で同じ厚さの紙になっているのが、たまらなく気味悪かった。

 

 * * *

 

 その日のうちに、トウジは本部の仮検査室まで連れていかれた。

 

 白い測定台へ座らされ、胸とこめかみに電極を付けられる。視力、聴力、平衡感覚、反応速度。最後はダミーのエントリープラグへ一度だけ入れられた。まだLCLは満たされていない。ただ鉄と消毒液の匂い、頭上の高いケージ、拘束具のロック音だけがやけに大きい。

 

『参号機は松代から搬入中です。正式な起動実験は後日になります』

 

 技術員はそう説明した。優しい口調だった。優しい口調で、プラグ深度だのシンクロ基礎値だのと言うのがいちばん気持ち悪いと、その時トウジは思った。

 

 * * *

 

 その日の帰り、ケンスケはトウジの顔を見ただけで何かを察したらしかった。

 

「なんかあったろ」

 

「別に」

 

「その“別に”は碇レベルで怪しいぞ」

 

「うっさい」

 

 自販機の前で缶ジュースを買う。開ける。冷たい。

 それでも頭は少しも冷えなかった。

 

「なあ」

 

 トウジは缶を見たまま言う。

 

「お前、もし急に何かやれって言われたら、やるか?」

 

「何かって何だよ」

 

「命がけのやつ」

 

 ケンスケはそこで初めて真顔になった。

 

「……内容による」

 

「正直やな」

 

「そりゃそうだろ」

 

 ひと呼吸ぶんの沈黙。

 

「鈴原は?」

 

「分からん」

 

 分からん、は本音だった。

 やる理由はある。やりたくない理由もある。どちらが本当なのか、自分でもまだ測れていない。

 

「碇なら」

 

 ケンスケがぽつりと言う。

 

「やるんじゃないか。嫌な顔しながら」

 

 それが妙にしっくり来てしまって、トウジは余計に腹が立った。

 

「そらあいつは変や」

 

「でもさ」

 

 ケンスケは少しだけ視線を逸らす。

 

「あいつ、本気で嫌そうなんだよな。なのに行く。ああいうの見てると、何が正しいのか分からなくなる」

 

 トウジは答えられなかった。

 それもまた、自分が最近ずっと考えていることだったからだ。

 

 * * *

 

 赤い覆面車が校門の外に停まっていた。

 それを見た瞬間、僕の胃はひどく重くなった。

 

 来た。

 知っていたはずの順番が、また現実の速度で目の前へ来る。

 

「トウジ」

 

 呼び止める。声が少し上ずる。

 

「今日、行かないで」

 

 トウジは振り向き、怪訝な顔をした。

 

「なんでや」

 

「理由は……」

 

 言えない。

 言えないくせに、止めたい。そういう最低の形しか取れない。

 

「嫌な予感がする」

 

「またそれかいな」

 

 吐き捨てるみたいな声だった。

 でも怒鳴り返す前に、トウジは僕の顔を見た。見て、ほんの少しだけ眉を寄せる。

 

「お前、ほんまに嫌なんやな」

 

「嫌だよ」

 

「理由は言えへん」

 

「……うん」

 

「そんなんで止まれるか」

 

 正しい。

 正しいから、何も言い返せない。

 

「トウジ」

 

「碇」

 

 被せるように呼ばれる。

 

「お前、最近ずっとそうや」

 

 トウジの声は前より低かった。

 

「知ってるみたいな顔して、でも最後の所は何も言わん。そんなん、こっちからしたら一番むかつく」

 

 胸が詰まる。

 その通りだ。

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

 トウジは苛立ったように顔をしかめた。

 

「謝られると、余計に行かなあかんみたいになるやろ」

 

 それがトウジの言い方だった。

 怒っているのに、そこで完全には切らない。だから余計につらい。

 

「……でもな」

 

 少しだけ間を置いて、トウジは続けた。

 

「お前が本気で嫌がってるんは分かった」

 

 それだけ言って、車の方へ歩く。

 止められなかった。

 

 止められないまま、その背中に前より少しだけ“生きて戻ってきてくれ”を乗せてしまう自分がいて、吐き気がした。

 

 * * *

 

 ヒカリは、廊下の角でそのやりとりを途中から見ていた。

 

 碇シンジの顔は、前に自分が見たどの顔よりも具体的に悪かった。

 ただの心配ではない。もっと厄介な、すでに何かを見てきたみたいな顔。

 

 気持ち悪い、とヒカリは思う。

 でも同時に、あそこまで本気で嫌そうな顔をされると、少なくともふざけてはいないのだと分かってしまう。

 

「鈴原」

 

 呼び止めると、トウジは一瞬だけ肩を跳ねさせた。

 

「なんや」

 

「さっきの、何?」

 

「知らん」

 

「知らないって顔じゃない」

 

 ヒカリの言い方はきつかった。でもきつくしないと、自分の不安まで顔に出そうだった。

 

「碇君、あんな顔してた」

 

「見とったんか」

 

「見える所でやってたでしょ」

 

 トウジはしばらく黙っていた。

 それから、ひどく嫌そうに言う。

 

「……ほんま、変なやつや」

 

「碇君が?」

 

「両方や」

 

 両方。

 その中に自分も入っているのだと、ヒカリは少し遅れて気づいた。

 

 赤い車が見えなくなったあと、ヒカリはそのまま教室へ戻った。

 黒板には昼休みに書いた仮の当番表がまだ残っている。見回り、放送、保健、倉庫。その中に鈴原の名前がある。消しゴムを持ったまま、手が止まった。

 

「委員長」

 

 振り向くと、碇シンジが教室の入口に立っていた。さっきより、さらに顔色が悪い。

 

「……何」

 

「その、トウジの名前」

 

「見れば分かるでしょ。当番表」

 

 ヒカリは答えながらも、名前のところを消せなかった。今すぐ消すのも違う。残したままにするのも落ち着かない。チョークの白だけが無駄にはっきりしている。

 

「碇君」

 

 声が少し冷たくなったのは、自分でも分かった。

 

「知ってたの?」

 

「……全部じゃない」

 

「全部じゃなくても、何かは知ってたんでしょ」

 

 シンジは返事をしなかった。返事をしないこと自体が答えみたいで、ヒカリの胸の奥がざらつく。

 

「ああいう顔して止めるなら、半分でも言ってよ」

 

「言えないんだ」

 

「言えないなら、あんな止め方しないで」

 

 思ったより強い声が出た。

 

「鈴原、あれじゃ一人で選ぶしかないじゃない」

 

 教室の空気がそこでぴんと張った。

 入口の向こうで、ケンスケが足を止める。

 

「……洞木」

 

 珍しく、ケンスケの声も軽くなかった。

 

「オレもよく分かんないけどさ。知ってるみたいな顔だけされるの、結構きつい」

 

 シンジは俯いた。

 

「ごめん」

 

「それ、さっき鈴原にも言ってたでしょ」

 

 ヒカリは黒板を向いたまま言う。

 

「ごめんじゃ当番は代われないし、知らないまま怖がらされるの、こっちも気分悪い」

 

 消しゴムを置き、代わりに鉛筆を取る。

 鈴原の名前は消さず、その横へ小さく〈相田 仮〉と書き足した。

 

「消さないの」

 

 ケンスケが訊く。

 

「戻るなら戻るし、戻らないって決めたなら本人が言うでしょ」

 

 ヒカリは短く答えた。

 

「私が勝手に“いない人”にしたくない」

 

 その言い方は自分でもきついと思った。でも、そうでも言わないと、今のざらつきを保てなかった。

 

 シンジは何も言わなかった。言えないのだと分かるから、余計に腹が立つ。

 気持ち悪い、とヒカリはもう一度思う。

 知っていたのに言えない顔。止めたいのに止めきれない顔。そのどちらにも、こちらを巻き込む力だけがある。

 

 けれど同時に、あの顔が本気だったことも否定できなかった。

 

 * * *

 

 夜、トウジは妹の寝顔を見ながら、ようやく腹を決めた。

 

 嫌だ。

 当然、嫌だ。

 でも、もし自分が行くことで妹の環境が少しでも良くなるなら、家族が少しでも安心できるなら、そこから逃げるのも違う気がした。

 

 碇が嫌な顔をしていたことも引っかかる。

 引っかかるが、だからと言って自分の選ぶ理由を全部他人の不安で潰したくもない。

 

(わしはわしや)

 

 そう思うしかなかった。

 

 だから翌朝、トウジはいつも通りの顔で学校へ行った。

 いつも通りの顔をするのに、いつもより時間がかかったけれど。

 

 僕はその顔を見て、余計に苦しくなった。

 気づかれたくない相手ほど、気丈な顔をしてしまう。そこまで含めて、トウジは人間だった。

 

 だからこそ、なおさら嫌だった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 夕方、トウジの家の台所は煮物の匂いがしていた。

 

 鍋の火は弱い。鍋の縁には出汁の泡が薄く浮き、流しの脇には病院の領収書と薬の袋が輪ゴムで止められている。家に帰るとまず食卓より先に病院用の荷物が目へ入る生活に、トウジも父親ももう慣れすぎていた。

 

「明日、また行くんか」

 

 父親が仕事着のまま訊く。汗の乾いたシャツから油と鉄の匂いがした。

 

「行く」

 

 それだけ答えて、トウジは戸棚から小さなタッパーを出した。妹が食べられそうなやわらかい果物だけを入れるための容器だ。そこへ林檎を薄く切って並べる。包丁はまだ少し危なっかしい。けれど、こういう手つきは家の中で覚えるしかない。

 

 台所の隅には、今日ヒカリから押しつけられた布袋が置いてあった。中身はハンカチ、ポケットティッシュ、替えの靴下、のど飴、そして小さなメモ帳。

 

『病院って待つ時間長いから』

 

 帰り際、ヒカリはそう言って袋を寄こした。ありがとうと言う前に「なくしたら怒る」と続けられたから、礼の言い方が変な間にずれた。

 

 トウジはその布袋を開き、中のメモ帳をめくった。最初のページにだけ、小さく数字が書いてある。病院の内線番号と学校の電話番号、それから自宅の番号。ヒカリの字は四角くて、見た瞬間にヒカリだと分かる。

 

「洞木さんか」

 

 父親が気づいたらしい。

 

「見れば分かるやろ」

 

「よう出来た子やな」

 

「……せやな」

 

 それ以上は続かなかった。台所でそういう話を長くするほど、今の家には余裕がない。妹の洗濯物、明日の弁当、仕事の始業時間、病院の面会時間。感傷より先に段取りがある。

 

 煮物をよそいながら、父親がぽつりと言う。

 

「お前、最近また顔つき変わったな」

 

「何やそれ」

 

「考え事しとる顔や」

 

 返そうとして、やめた。

 考え事をしているのは本当だった。参号機の話を受けてから、何をしていても頭の後ろへ同じ問いが引っかかる。行くのか。行った先で、自分は何をするのか。碇シンジがあんな顔をした意味は何だったのか。

 

「わし、選ばれたらしい」

 

 思ったよりあっさり口から出た。

 

 父親の箸が止まる。止まったけれど、驚いて大声を出すような人ではなかった。

 

「そうか」

 

「エヴァの、参号機や」

 

「それだけかい」

 

「他に何言うねん」

 

 父親は味噌汁をすすり、それから少しだけ眉を寄せた。

 

「嫌なんか」

 

「嫌や」

 

「なら断れ」

 

「断ったら済む話でもない」

 

「そらそうやろな」

 

 またそれだけだ。

 けれど、その短い返しの中に『簡単やないのは分かっとる』がちゃんと含まれている。

 

「妹のこともあるし」

 

 トウジが言うと、父親はすぐには答えなかった。

 

「……それを妹のためだけにすんな」

 

 やがて低く言う。

 

「お前が行くんやったら、お前の理由も入れろ」

 

 その言い方が少し意外だった。

 家族のためにやれ、と言われると思っていた。そう言われた方が、むしろ楽だったかもしれない。自分の選択を家族のせいにできるからだ。

 

「わしの理由」

 

「そうや。役に立ちたいとか、強うなりたいとか、選ばれたんが少し嬉しかったとか、何でもええ。全部ひっくるめてお前やろ」

 

 耳が熱くなる。

 図星だった。

 

 選ばれたことへ腹が立つのと同時に、どこかで少しだけ嬉しかったのも本当だ。そういう自分の安っぽさを見たくなくて、ずっと家族の話だけで押し通そうとしていた。

 

「嫌な理由もあるし、嬉しい理由もある」

 

「人間なんてだいたいそうや」

 

 父親は皿を置いた。

 

「そんで、どっちにしても明日は来る」

 

 言い方はぶっきらぼうなのに、最後はいつも体のある話へ戻る。明日が来る。弁当を詰める。病院へ行く。仕事へ行く。そういう順番でしか、生きている人間は前へ進めない。

 

 食後、トウジは妹の病室へ向かった。布袋の中のハンカチはまだ新品の匂いがする。メモ帳と一緒に、今日保健室から借りた小さなラジオも持った。病室では使わない。ただ面会時間が終わったあと、廊下で災害情報を聞けるようにするためだ。

 

 病室の前にはヒカリがいた。見舞い用の果物籠ではなく、洗ったタオルを紙袋に詰めて持っている。

 

「遅い」

 

「学校終わってからやぞ」

 

「私だってそうよ」

 

 言い返しながらも、ヒカリはトウジの手元のラジオにすぐ気づいた。

 

「それ、ちゃんと電池入ってる?」

 

「入っとる」

 

「予備は?」

 

「……ない」

 

「でしょうね」

 

 呆れた顔で、自分の鞄から単三電池を二本出して押しつけてくる。トウジは反射で受け取った。

 

「何で持っとんねん」

 

「今日、学校で備品確認したから。一本余ってたの」

 

 余っていたのか、持ってきたかったのかは分からない。たぶん両方だ。

 

「それと、これ」

 

 ヒカリは内ポケットから、四つ折りの紙をもう一枚出した。

 開くと、昼に黒板へ書いた仮の当番表の写しだった。見回り、放送、保健、倉庫。鈴原の名前の横にだけ、鉛筆で小さく〈相田 仮〉と書き足されている。

 

「……何やこれ」

 

「明日の分」

 

「見りゃ分かる」

 

「だったら聞かない」

 

 ヒカリは少しだけ視線を逸らした。

 

「勝手に消すの、嫌だったの。戻るって決めたなら戻るだろうし、戻れないって決めるなら、自分で言いなさい」

 

 トウジは紙を持ったまま黙った。

 薄い紙なのに、やけに重い。

 

「戻ってきたら、自分で書き直しなさい」

 

 ヒカリの声はきつくない。でも逃がさない言い方だった。

 

 病室へ入ると、妹は眠っていた。寝息は浅い。頬は前より少し色が戻った気がする。トウジは枕元の水を替え、林檎の入ったタッパーを冷蔵庫へ入れた。ヒカリは濡れたタオルを回収し、新しい物を棚へ揃える。

 

「そこ、上の段」

 

「知ってる」

 

「前と違う」

 

「え」

 

「看護師さん、上に替えたの。下だと屈む時に落ちるから」

 

 そう言いながら、ヒカリは自然に棚の並びを直した。誰が使うか、どの高さなら取りやすいか、考えていなければできない手つきだった。

 

「委員長」

 

「なによ」

 

「……ありがと」

 

 ヒカリは棚へ顔を向けたまま答えた。

 

「そういうの、本人に言いなさい」

 

「本人寝とる」

 

「起きたらでいいでしょ」

 

 病室の白いカーテンが少し揺れる。外では誰かが点滴台を押して通り過ぎた。トウジはその音を聞きながら、自分が明日何を選ぶかをもう一度確かめた。

 

 怖い。

 嫌だ。

 でも、それだけじゃない。

 

 制服のポケットの中で、折った当番表がかすかに腿へ当たっていた。鉛筆で書かれた〈相田 仮〉は、誰かが勝手に自分を終わったことにしていない印みたいだった。

 

 自分の理由も入れて進むしかないのだと、ようやく少しだけ分かった。

 

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