【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第拾八話 命の選択を

参号機の輸送記録を見た瞬間、背中が冷えた。

 

 起動実験。日本重化学工業共同体第壱支部。テストパイロットは第四の適格者。画面に並ぶ文字は事務的だ。事務的だから余計に気味が悪い。その文字の一つ一つの向こうに、トウジの顔と、ヒカリの顔と、病院の妹さんの顔まで浮かぶ。

 

 発令所では誰もまだ、それを“鈴原トウジ”として見ていない。

 見ているのは僕だけだ。

 そのくせ、僕だけが何も止められない。

 

 それが一番嫌だった。

 

「シンジ君」

 

 ミサトさんが僕を見る。

 

「落ち着いて」

 

「無理です」

 

 珍しく即答した。

 即答した自分に、まわりの視線が集まる。マヤさんが少しだけ顔を上げ、日向さんが気まずそうにモニターへ目を戻す。

 

「嫌な予感がするんです」

 

 それしか言えないのが、また腹立たしい。

 

「輸送機との通信、まだ繋がらないの?」

 

 ミサトが苛立った声を出す。シゲルが首を振る。

 

「ノイズが強すぎます。向こうの映像も途切れ途切れです」

 

 モニターの画面が乱れる。参号機の影。稜線。黒い雲。次の瞬間、画面がひどく大きく揺れた。

 

『接触! パイロットの――』

 

 通信が途切れる。

 

 嫌な静けさが一秒だけ落ちた。

 それから、一気に警報が鳴り響く。

 

 侵食。暴走。使徒反応。参号機は、もう参号機じゃなかった。

 

 発令所の空気が一瞬で硬くなる。前にも見た。見たのに、胃の底からせり上がる吐き気は少しも薄まらない。

 

「やめてよ」

 

 呟いたつもりだった。けれど自分の耳にははっきり聞こえた。

 

『初号機、出撃準備』

 

「駄目だ!」

 

 叫んでから、ようやく皆が本格的に僕を見た。

 

「中に人がいるんだ!」

 

 ミサトさんの顔が一瞬だけ歪む。知っているのかもしれない。少なくとも、可能性は理解した顔だ。けれど司令席の方は違った。父さんの声は、いつもと同じ温度で落ちてくる。

 

『構わん。目標を殲滅しろ』

 

「構うよ!」

 

 叫び返す。発令所のざわめきが一段大きくなる。

 

「まだ中に人がいる!」

 

『戦え、シンジ』

 

 父さんはそれだけを繰り返す。

 その声を聞いていると、僕が今ここで怒鳴っていることすら、最初から計算に入っている気がしてくる。

 

 僕は初号機へ乗り込んだ。

 乗り込まないわけにはいかなかった。拒否したところで、もっと別の形で取り返しのつかないことになると知っている。知っているから、最初から詰んでいる。

 

 カタパルトの上で、歯が鳴る。

 怖いのか、怒っているのか、自分でもよく分からない。

 

 参号機は、街の建物を跨ぎながらこちらを見ていた。エヴァの形をしているのに、そこにいるのは使徒だ。知っているからこそ、その歪みが余計に気持ち悪い。

 

 戦闘そのものは、やろうと思えばできた。

 距離を取り、関節を狙い、動きを止めてから救助を待つ。そういう選択肢を頭の中でいくつも並べる。並べるだけで、手は動かなかった。

 

 中にトウジがいる。

 その前提ひとつで、グリップが鉛みたいに重くなる。

 

「やめてよ……」

 

『攻撃しろ』

 

「できるわけないだろ!」

 

 僕が叫んだ瞬間、初号機の挙動が変わった。

 力が抜けるのではない。逆だ。何かが後ろから入り込む。こちらの抵抗を無視して、もっと滑らかで、もっと目的に特化した動きへ機体が収束していく。

 

『ダミーシステム、起動』

 

 その言葉だけで、背筋が凍った。

 

「やめろ!」

 

 拒んでも遅い。初号機はもう僕のものじゃない。僕の神経を通して動いているくせに、意思だけが一ミリも介在しない。

 

 それは、ただ暴走するよりずっと気持ち悪かった。

 

 参号機へ踏み込む。腕を捻る。関節が鳴る。中に人がいるのに、まるで空き缶でも潰すみたいな迷いの無さで力が入る。

 

「やめろ!」

 

 叫ぶ声は自分のものなのに、初号機は止まらない。

 

 参号機の腕がもがれ、街路へ転がる。脚が折れる。首元へ初号機の牙が食い込む。モニターの端が赤く明滅し、警報が狂ったみたいに重なる。

 

 発令所でも誰も息をしていないみたいだった。マヤさんが青ざめ、日向さんが「まずい」とだけ呟き、ミサトさんが一歩前へ出ては止まる。

 

「止めて!」

 

 それがミサトさんの声だったのか、自分の声だったのか、途中から分からなくなった。

 

 初号機は最後までやりきった。

 参号機が完全に活動停止し、救助班が走り出すまで、僕はただ自分の手の感覚を呪うことしかできなかった。

 

 プラグを降りた時、膝がうまく曲がらなかった。

 LCLの匂いがいつもよりひどく吐き気を誘う。目の前の全てが少し遅れて見える。

 

「トウジは!?」

 

 叫びながら救助班の方へ行こうとして、ミサトさんに止められた。

 

「待って!」

 

「待てない!」

 

「待ちなさい!」

 

 その声に、ようやく足が止まった。

 止まったところで、何かが楽になるわけじゃない。むしろ、足が止まったぶんだけ怖さが追いついてくる。

 

『パイロット、回収! 生存反応あり!』

 

 その報告が流れた瞬間、僕はその場に崩れそうになった。

 助かった。

 少なくとも死んではいない。

 

 でも、助かったから終わりじゃないことも知っている。

 

 救護班の担架が通る。白いシーツ。血。トウジの顔は見えなかった。見えなかったことに、ほっとした自分がいて、すぐに気分が悪くなった。

 

 父さんのいる司令席へ向かったのは、考えたからじゃない。

 体が勝手に行った。

 

「なんでだよ!」

 

 襟を掴んだ自分の指が震えている。

 

「知ってたんだろ! 人が乗ってるって!」

 

 父さんは見下ろしただけだった。その目に驚きはない。むしろ、ここまで含めて想定内だという顔だった。

 

「だからどうした」

 

 その一言で、頭の中が真っ白になった。

 

 殴りたかった。殴れなかった。殴ったところで変わらないと、どこかで分かっているからだ。分かっているくせに、何もできない自分の方がもっと気持ち悪い。

 

「だからどうした、じゃない!」

 

 喉が裂けそうだった。

 

「鈴原は目標じゃない。人だ! 乗ってるのを知ってて、搭乗者ごと沈黙させるのを“必要”で済ませるなら、次も同じことする気なんだろ!」

 

 発令所の空気が一段だけ冷えた。

 誰も声を挟まない。挟めないのだと分かる。これはもう、父さんと僕の私怨みたいな言い争いじゃなくなっていた。ブリッジにいる全員が聞いている場所で、何を“人間”として数えるかの話になってしまっている。

 

「お前は選ぶ立場にある」

 

 父さんの声は低い。

 

「乗るなら迷うな」

 

「違う!」

 

 自分でも驚くくらい、声が通った。

 

「僕が迷ったんじゃない。父さんが最初から、人を機体の一部に数えたんだろ! 人が乗ってるのに、迷わない方がおかしいんじゃない。人を部品みたいに扱って、その上で“迷うな”って言う方がおかしいんだ!」

 

 ミサトさんが息を呑む気配がした。けれど、もう止まらなかった。

 

「聞こえるように言っとく。僕は、そういうやり方には従わない。鈴原を“目標”って呼んで、僕まで機体の続きみたいに使う命令なら、次は受けない」

 

 発令所が静まり返る。誰も助け舟を出さない。出せないのだろう。父さんの言っていることは、一つの正論でもあるからだ。迷いは確かに遅れを生むし、遅れは誰かを殺す。

 

 でも、だから迷うなと言うのは、あまりにも人間の手続きを飛ばしすぎている。もっと言えば、父さんの正しさは、最初から人を人数や戦力へ畳んでからしか成立していない。

 

「お前の迷いは、結果として他人を殺す」

 

 それは父さんの正しさだった。

 正しいから、気持ち悪い。

 

 僕はその場を飛び出した。

 前にも逃げた。今回も結局同じだ。違うのは、逃げながらもそれが逃げだと分かっていることくらいだった。

 

 非常階段の踊り場で、加持さんに会った。

 

「ひどい顔だな」

 

「そうですか」

 

「自覚がないなら重症だ」

 

 缶コーヒーが投げられる。受け取る。開ける気力はない。

 

「先のことが見えてるみたいな顔してるぞ」

 

 どきりとした。けれど加持さんは、それ以上追及しない。ただ壁にもたれて、少しだけ横を向く。

 

「見えてても、変えられないなら意味ないです」

 

「変えられないって、誰が決めた」

 

「だって結果は」

 

「今出たのか?」

 

 短い問いだった。

 

「……まだです」

 

「なら、そこで全部終わった顔するな」

 

 痛いところばかりを、平気な声で突いてくる。

 

「君はさ、嫌がる時まで人の顔色を窺いすぎる」

 

 加持さんは缶のプルタブを開けた。

 

「嫌なら嫌でいい。乗りたくないなら乗りたくないでいい。ただ、その嫌を自分のものにしろ。人が決めた嫌な流れに押し流されてる顔するな」

 

「……どう違うんですか」

 

「だいぶ違う」

 

 加持さんは笑わなかった。

 

「押し流されてるって顔のままだと、後で全部“仕方なかった”にできるだろ」

 

 言い返せない。

 確かに僕は、どこかでそれをやっていた。父さんが悪い。ダミーシステムが悪い。ネルフが悪い。全部本当だ。全部本当だけれど、その中に自分の選ばなかった部分まで混ぜて楽になろうとしていたのも本当だ。

 

「トウジは生きてる」

 

 加持さんが言う。

 

「そこはちゃんと喜べ」

 

「でも」

 

「でもじゃない」

 

 強くはない声なのに、やけに響いた。

 

「命が残ったって事実を、先に粗末にするな。残った後の面倒さは、その次だ」

 

 加持さんと別れたあと、僕はそのまま病院へ向かうつもりで連絡通路を歩いた。

 でも足は途中で止まった。ガラス越しに、回収されたエントリープラグが洗浄区画へ運ばれていくのが見えたからだ。白い泡、金属の冷たい光、外殻へこびりついた黒い汚れ。機械の手で洗われるその光景は、事故処理というより、何か都合の悪い証拠を黙々と消しているみたいに見えた。

 

「見物?」

 

 振り向くと、リツコさんがいた。白衣のポケットに端末を差し込み、眠っていない人の目をしている。

 

「……見てるだけです」

 

「そういう時の“だけ”は、だいたい嘘ね」

 

 否定できなかった。

 リツコさんは僕の隣へ来て、ガラスの向こうを一瞥した。

 

「ダミーシステムのログを見る?」

 

「見たくないです」

 

「そう」

 

 そう言いながら、彼女は端末を開いた。

 見せる気なのだと思うと腹が立つのに、視線は勝手に画面へ向いた。

 

 反応速度、優先度、損傷許容量、目標の無力化までの最短手順。数字とフローチャートが淡々と並んでいる。そのどこにも“鈴原トウジ”の名前はない。あるのは、〈搭乗者あり〉というフラグと、〈作戦継続上の許容損失〉という項目だけだった。

 

「これ、何ですか」

 

「見た通り。機体を止めず、目標を最短で沈黙させるための評価関数」

 

「人が乗ってるのに」

 

「乗っていても、システムはそこへ意味づけしない」

 

 リツコさんの声は冷たかった。

 冷たいというより、熱を挟まず説明している声だ。

 

「機械は残酷なんじゃない。残酷であるという自覚を持たないだけよ。与えられた条件の中で、損失と達成率を計算して、一番ぶれない答えを出す。それだけ」

 

「それのどこがマシなんですか」

 

「マシじゃないわ」

 

 即答だった。

 

「だから大人は機械へやらせたがるの。自分の手で決めたと記憶したくないことを、最適化という顔で外へ出す」

 

 喉がつまった。

 それはダミーシステムの話であり、同時に父さんの話でも、ネルフの話でもあった。

 

「じゃあ、結局みんな逃げてるだけじゃないですか」

 

「そうよ」

 

 リツコさんは端末を閉じた。

 

「でも、ここでもう一つ厄介なのは、逃げたがるのが大人だけじゃないってこと」

 

 僕は顔を上げた。

 

「痛みが一つの正しい答えに変換されるなら楽だと思うでしょ。誰が悪いか、どこで切るべきか、数式みたいに出てくれたら、誰だって少しは楽になる」

 

 思い当たることがありすぎて、何も言えなかった。

 父さんが悪い。システムが悪い。ネルフが悪い。そう言い切れたらどれだけ楽か。そう言い切れないから、今も苦しいのだ。

 

「エヴァもダミーも、結局は“どこまでを自分と数えるか”の装置よ」

 

 リツコさんはガラスの向こうのプラグを見たまま言う。

 

「搭乗者まで含めて一つの機体として扱うのか、搭乗者を交換可能な条件に落とすのか。それだけで計算結果は変わる。技術の問題に見えるけど、本当は倫理の定義を数式へ押し込んでるだけ」

 

「そんなの……」

 

「気味悪いでしょうね」

 

 僕が言いたかった言葉を、先に取られた。

 

「だから私は嫌いよ。便利すぎる装置は、たいてい誰かの後悔を隠すために使われるから」

 

 沈黙が落ちる。洗浄ノズルの水音だけが遠くで続く。

 

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 

 やっとそれだけ訊いた。

 リツコさんはすぐには答えなかった。

 

「簡単な答えはないわ」

 

 やがて彼女は言った。

 

「でも、少なくともシステムに“誰が人間か”まで決めさせないこと。自分が痛かったという事実を、あとから最適化で塗りつぶさないこと。それくらいはできる」

 

「できるかな……」

 

「できなきゃ困る」

 

 厳しい声だった。

 

「あなたたちは兵器である前に、まだ人間なんだから」

 

 その言い方は励ましじゃない。でも慰めより少しだけ役に立つ気がした。

 僕はもう一度ガラスの向こうを見た。洗われているのは機体だけだ。中で起きたことまで、洗ってなかったことにはできない。

 

 だから、たぶん残る。

 助かったという事実も、壊したという感触も、誰かを信じきれなかった自分も。全部残ったまま、次を選ぶしかない。

 

 連絡通路へ出たところで、綾波が壁際に立っていた。

 

「綾波」

 

 彼女はすぐには近づいてこなかった。前より一歩だけ距離を残したまま、まっすぐ僕を見る。

 

「碇君は、これからどうするの」

 

「病院へ行く」

 

「そのあと」

 

 返事に詰まる。

 

「分からない」

 

「そう」

 

 綾波はそれを責めなかった。ただ、自分の手を見るみたいに、少し視線を落とした。

 

「私は、分からないまま立っていたことが多かった」

 

「……うん」

 

「命令があるから。必要だから。それだけで動けば、自分で決めなくてすむと思っていた」

 

 発令所で見た父さんの横顔がよぎる。

 綾波の声は静かだった。でも静かだからこそ、そこへ混ざっている痛みが分かった。

 

「でも、それだけで誰かが傷つくのを見るのは嫌」

 

 綾波は顔を上げた。

 

「私も、もうそれだけではいたくない」

 

 その言葉は、僕を慰めるためじゃなかった。綾波が自分のために言っているのだと分かる。分かるから、余計に強かった。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「行って」

 

 短い声だった。

 

「起きた人の顔を、ちゃんと見て」

 

 僕は一度だけ頷いた。

 その頷きに、前みたいな“分かったようなふり”は混ざっていない気がした。

 

「綾波は」

 

 訊きかけて、やめる。

 何を選ぶのかは、もう僕が決めることじゃない。

 

 綾波はその言いかけごと受け取ったみたいに、小さく首を振った。

 

「私は、私で決める」

 

 それだけ言って、彼女は逆方向の通路へ歩いていった。

 

 その夜、病院の廊下は消毒液とぬるいシーツの匂いがした。

 

 角を曲がったところで、ヒカリとぶつかりかけた。バケツを持っている。腕にはタオルが何枚もかかっていて、髪は少し乱れていた。いつものきっちりした結び方なのに、毛先だけが少しほどけている。

 

「委員長」

 

 僕が言うより先に、ヒカリが言った。

 

「ちょうどいい。これ持って」

 

 タオルの束を胸へ押しつけられる。反射で受け取る。湿っていて、少し重い。

 

「え」

 

「ベッド三番、替えのタオルが足りないの。あと洗面器に湯。早く」

 

 命令口調だった。

 責めるより先に、やることを出してくる。

 

「でも僕――」

 

「あと」

 

 ヒカリは僕の顔を一度だけ見て、それから手元のビニール袋へ視線を落とした。

 

「今はあと」

 

 袋の口には何も書かれていない。マジックと紙テープが床に転がっていた。

 

「名前、書いて」

 

「……誰の」

 

「鈴原」

 

 その一言で、喉が詰まる。

 

 僕はしゃがみ込み、紙テープを切った。マジックの先が少し潰れていて、線が太い。

 

 鈴原。

 

 書いた字が、妙に震えた。

 

「読めない」

 

 ヒカリが容赦なく言う。

 

「もう一枚」

 

「ごめ――」

 

「それもあと!」

 

 今度ははっきり怒鳴られた。

 

「謝るのは、起きた本人にしなさい」

 

 そこで初めて、ヒカリの声も少し震えているのが分かった。泣いていない。ただ、泣くより先に順番を守っているだけだ。

 

 その震え方が、余計に痛い。

 

 ケンスケが向こうから車椅子を押してきた。片方の車輪がきしむ。

 

「委員長、これでいい?」

 

「ブレーキ甘い。あとで右だけ締める」

 

「了解」

 

「碇君、湯!」

 

「うん」

 

 返事をしてから、自分の声が妙に掠れているのに気づく。

 

 給湯室の蛇口をひねる。金属のポットへ湯が落ちる音が続く。そのあいだも、ヒカリの声は廊下で止まらなかった。

 

「相田君、毛布そっちじゃない。通路塞がないで。妹さんの水、半分だけ替える。全部は飲ませない」

 

 順番。

 名前。

 通路。

 湯。

 タオル。

 

 世界が壊れていても、そういう細かいものだけは残るのだと思った。

 

 ポットを持って戻る。ヒカリは床に膝をつき、ビニール袋へ新しいテープを貼っていた。今度の字は真っ直ぐだった。

 

「そこ」

 

 顔を上げずに言う。

 

「ベッド柵の向こうじゃなくて、手前。通る人の邪魔だから」

 

 言われた通りに置く。金属の脚が床を小さく鳴らす。

 

 その時、病室の中からかすかに寝息が聞こえた。

 

 トウジだ、と分かる。姿はまだ見えない。見えないのに、ちゃんとそこにいる。

 

 僕はタオルの束を抱えたまま、ひとつ息を吐いた。

 

 楽にはならない。

 でも、立っているだけの時よりはましだった。

 

「碇君」

 

 ヒカリが小さく言う。

 

「前に言ってた“気をつけて”って、これ?」

 

 僕は返事ができなかった。

 

 それで十分だったらしい。ヒカリは一度だけ目を閉じて、それからまた紙テープの方を見た。

 

 少し前、アスカが「気になる奴がいるから」と言って例のデートを切り上げたと聞いた時、ヒカリは半分くらい見栄だと思っていた。けれど今の碇君の顔を見ると、あれはそういう種類の言葉じゃなかったのだと嫌でも分かる。

 

「……ずるい」

 

 その一言は責める声というより、疲れ切った独り言に近かった。

 

 病室のトウジは、白いシーツの中で静かだった。

 生きている。呼吸もしている。

 そのことにほっとした瞬間、今度はトウジが目を開けたら何と言うのかが怖くなった。

 

 許されたいわけじゃない。

 でも、責められた方がまだましだと思う自分がいる。

 

 その感情の気持ち悪さを、僕はまだうまく処理できないままだった。

 

 トウジの病室を出たあと、足はそのまま別の階へ向いた。

 

 アスカの病室。

 白いシーツ。規則正しい機械音。眠ったままの横顔。ここへ来る理由なんて、うまく説明できない。ただ、トウジのことでぐちゃぐちゃになった頭のまま、誰にも見せられない顔を置いておける場所が他に思い浮かばなかった。

 

 椅子へ座る。

 静かすぎて、逆にアスカの声ばかり思い出す。

 

 右足、遅い。

 ちゃんと見てたから。

 今度は逃げんじゃないわよ。

 

 そういう、腹の立つ言い方ばかりが次々浮かぶ。

 眠ったままのアスカは何も言わないのに、今ここにいない声の方がやけにはっきりしていた。

 

「最低だよな、僕」

 

 返事はない。

 返事がないから、余計に言葉が出る。

 

「トウジが助かってよかったって思ってる」

 

 そこで一度、息が止まる。

 

「でも同時に、助かったから僕がこれから何を言われるか考えてる」

 

 言ってから、自分で吐き気がした。

 助かった相手より先に、自分の後味の方を考える。そういうずるさを、たぶん僕はまだ全然捨てきれていない。

 

 ベッド脇の棚に、見覚えのあるヘアゴムが置かれていた。

 家でノブへ掛けておいたのと同じ色だと思った。違うかもしれない。違うかもしれないのに、それを見ただけで朝の洗面所の空気や、アスカが乱暴に髪を結ぶ手つきまで蘇る。

 

 ただの同居人みたいな朝。

 ただのクラスメイトみたいな昼。

 ただの言い合い相手みたいな夜。

 戦闘になれば、背中を預ける相手みたいな瞬間。

 

 それだけじゃない。

 台所の薄い明かりの下でふと女の子として目へ入って、困ることがある。

 同じ部屋の空気に混ざっているだけで落ち着くのに、近づきすぎると何をしていいのか分からなくなる。

 ライバルみたいで、家族みたいで、時々どうしようもなく好きな相手みたいでもあって、でもそのどれか一つだけでは全然足りない。

 

 そういう、名前をつけるにはまだ中途半端な時間を、僕はずいぶん勝手に欲しがっていたのだと、今さら分かった。

 

「君に会いたいって、こういう意味じゃなかった」

 

 声が少し掠れる。

 

「優しくしてほしいんじゃない。許してほしいんでもない」

 

 そう言い切ると、全部嘘になる。

 優しくされたら少しは救われるだろうし、許されたらもっと楽だ。そういう卑しさまで、僕の中にはちゃんとある。

 

 でも、それだけじゃないのも本当だった。

 

「朝、洗面所がうるさいのとか」

 小さく笑ってしまいそうになる。

「台所で、まずい缶ビール飲んで顔しかめるのとか。そういうのが、なくなるの嫌なんだ」

 

 返事はない。

 それでも呼吸だけは続いている。その事実だけが、辛うじて僕を椅子に座らせていた。

 

「アスカなら、そういうの全部ひっくるめてバカって言うんだろうな」

 

 たぶん本当にそう言う。

 可哀想ぶるなとか、自分を悲劇の中心にするなとか、そういう嫌な正論で殴ってくるはずだ。

 

 今はそれが、少しだけ欲しかった。

 

「起きたら、ちゃんと怒ってよ」

 

 立ち上がる前に、もう一つだけ言う。

 

「でも、今度はちゃんと聞くから」

 

 返事はない。

 けれど、ここへ来る前よりは少しだけ呼吸がしやすかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 消灯時間を過ぎても、病院の廊下は完全には眠らなかった。

 

 面会の家族が帰ったあとも、配膳カートは静かに動くし、看護師の靴底は一定の速さで床を鳴らす。消毒液の匂いと、温め直したお粥の匂いが混ざる。白い蛍光灯の下では、誰かの焦りも悲しみも、みんな同じ色へ薄まって見えた。

 

 ヒカリはナースステーション脇の机で名札を書いていた。紙テープを切り、油性ペンで病室番号と名前を書く。字が曲がるとやり直す。三枚目までやり直したところで、ケンスケがそっとペンを差し出した。

 

「こっちの方が書きやすいぞ。さっき売店で買った」

 

「最初から出しなさいよ」

 

「怒ると思って」

 

「怒るわよ」

 

「じゃあ一緒じゃん」

 

 ケンスケの返しに、本気の怒鳴り声までは出なかった。怒る気力より先に、今日やるべきことが並びすぎている。

 

 机の端には、洗面器の貸し出し表、水差しの交換時間、トウジの家族が持ってきた洗濯物の受け渡しメモまで積まれていた。ヒカリはそれを一枚ずつ揃え、順番にクリップで留める。

 

「相田君、車椅子のブレーキ見た?」

 

「右だけ甘い。さっき締めた」

 

「担架は?」

 

「倉庫の前。畳んで壁に寄せた」

 

「ラジオ」

 

「音量絞って窓側」

 

 短いやり取りだけで必要なことが回る。そのテンポに、シンジはまだうまく入れない。自分の罪悪感はもっと大きいはずなのに、ここではそれを前へ出している暇がないからだ。

 

 僕は配膳カートの下段へ紙コップを積み直していた。コップ、スプーン、ストロー、ゼリー飲料。使う人が片手で取れる位置に、数を揃えて置く。家で食器を並べるのと似ているのに、ここでは一つ一つが誰かの体調と繋がっている。

 

「碇君」

 

 ヒカリが顔を上げずに言った。

 

「二番の病室、ポット空。三番は氷水いらない。四番はゼリー半分だけ。メモ持って」

 

「うん」

 

 返事をすると、ヒカリが一拍だけ止まった。

 

「……ちゃんと返事するのね」

 

「した方がいいかと思って」

 

「そうね。した方がいい」

 

 今のヒカリには、慰めよりその確認の方が合っていた。

 

 二番の病室には、トウジの父親がいた。仕事帰りらしい作業服のまま、椅子へ浅く座っている。膝の上にコンビニ袋。中にはおにぎりと缶コーヒー、それから病院の売店では売っていない種類の柔らかいパンが入っていた。

 

「すみません、ポット」

 

 僕が言うと、父親は目をわずかに細めた。

 

「おお。頼むわ」

 

 怒鳴られるかもしれないと思っていた。

 思っていたのに、その声は疲れているだけで、怒りを前に出してはいなかった。

 

「鈴原、寝たで」

 

 父親が小さく顎をしゃくる。カーテンの向こう、トウジは眠っていた。眠っているというより、薬で落ちている感じに近い。顔色は悪い。でも生きている。包帯の巻かれた腕が布団の外へ少しだけ出ていた。

 

 ポットへ新しい湯を入れ、紙コップの束を手前へ寄せる。テーブルの上にはヒカリが書いたらしいメモが貼ってあった。『一度に飲ませすぎない』『起きたらナースコール』。四角い字が病室の白さによく映える。

 

「洞木さん、よう来てくれとる」

 

 父親が言う。

 

「助かるわ」

 

「はい」

 

 それしか返せなかった。

 

 僕はこの病室に対して、助かる側の人間じゃない。むしろ負担を増やした側だ。その自覚が、紙コップ一つ置く手つきまでぎこちなくする。

 

 病室を出ると、ケンスケが廊下の端でラジオを耳へ当てていた。音量は絞ってある。雑音の奥に短いニュースが流れている。

 

「市内一部で停電復旧って」

 

「へえ」

 

「へえ、じゃないって。学校の非常灯、また点くかも」

 

 ケンスケはラジオのアンテナを畳みながら続けた。

 

「だから明日、委員長がまた備品表直すってさ」

 

 その言い方で、少し可笑しくなる。学校の非常灯と病院の紙コップとトウジの容体が、今は同じ延長線上へ並んでいる。

 

 ナースステーションへ戻ると、ヒカリが今度は面会用の椅子を揃えていた。背もたれの高さ、通路の幅、点滴台が通れる隙間。誰かの感情より先に、物理的な順番を整えている。

 

「それ、私がやる」

 

 思わず言うと、ヒカリは首だけ振った。

 

「じゃあそっちの名簿お願い。来た人の名前と時間、抜けてる所あるから」

 

 仕事が投げられる。投げられると、かえって助かる。僕は名簿を受け取り、時間の欄へペンを走らせた。十九時四十分。二十時十分。二十一時ちょうど。誰が来て、誰が帰って、誰がまだ残っているのか。それを書くだけで、この廊下に流れている時間が少しだけ掴める。

 

「碇君」

 

 またヒカリの声。

 

「なに」

 

「謝るの、今じゃないから」

 

 ペン先が止まる。

 

「分かってる」

 

「ならいい」

 

 たぶん、顔に出ていたのだろう。名簿の上へ落ちる影みたいに、自分の言いかけた謝罪も見えてしまうのかもしれない。

 

 夜の最後、看護師が巡回に来る前に、ヒカリは机の端へ小さな当番表を作った。給湯、売店、伝言、ゴミ出し。家族用の非公式な表だ。誰に頼まれたわけでもない。でもそれがないと、明日になった時みんなが同じ所で詰まる。

 

「委員長」

 

 僕が言うと、ヒカリは手を止めないまま答えた。

 

「何」

 

「これ、学校でもやってたよね」

 

「そうよ」

 

「同じなんだ」

 

「同じじゃないわよ」

 

 ぴしゃりと言われる。

 でもそのあと、ペンを動かしたまま少しだけ声が緩んだ。

 

「でも、名前書いて順番決めないと困るのは、学校でも病院でも同じ」

 

 その一言で、廊下の白さが少しだけ現実へ戻る。

 

 世界が壊れていても、人が人のそばにいる時は、結局そういう作業から逃げられない。椅子を揃えて、湯を替えて、名前を書く。きれいごとじゃない。けれど、そういうきれいじゃない手つきの方が、僕はずっと信用できる気がした。

 

 深夜、帰り支度を始める前に、僕はトウジの病室の前で一度だけ立ち止まった。扉の小窓から見えるのは暗いベッドと点滴の影だけだ。

 

 助かったことを、まだちゃんと喜べていない。

 そのあと何を言われるか、何を返さなければいけないかばかり考えている。

 

 最低だと思う。

 でも最低だと思ったままでも、明日の紙コップとポットの場所は覚えて帰るしかないのだと、今夜の廊下が教えていた。

 

 

 帰りのエレベーターで、ヒカリはようやく壁にもたれた。

 

 指先には油性ペンの匂いが残っている。名札を書いた指だ。手を洗っても完全には落ちない。トウジの名前を何度も書いたせいかもしれない、と考えて、すぐ打ち消す。そんな感傷に意味はない。意味はないけれど、家へ着いたらまずハンカチと名簿を洗濯籠へ入れ、明日の分の紙テープを切っておこうと決める。

 

 順番を決めている間だけは、怖さも怒りも少しだけ薄くなる。

 

 たぶん、それが今の自分にできる唯一のやり方だった。

 

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