ホームのベンチは冷たかった。
夜でも昼でもない中途半端な時間帯で、電車はしばらく来ない。来ないと分かっているから、人もいない。線路の向こうには、動いていない街の骨組みだけが見える。
僕はそこで、自分が逃げていることを知りながら座っていた。
トウジの顔。
ダミーシステムの動き。
父さんの声。
どれも頭から離れない。
だから本部に戻りたくなかった。戻ればまた、僕が初号機へ乗るかどうかで話が進む。乗れば正しいわけでもないのに、乗らなければもっとひどいという形でしか話が進まない。
その“どっちにしても嫌”の中へ、自分から戻るのが怖かった。
「逃避行か」
横から声がして、僕は肩を跳ねさせた。
加持さんが、たまたま通りかかったみたいな顔で缶コーヒーを二本持っていた。たぶん、たまたまじゃない。
「……逃避です」
「正直でよろしい」
隣に腰を下ろす。コーヒーを一本差し出される。受け取ったまま開けない僕を見て、加持さんはかすかに笑った。
「戻らないのか」
「戻りたくないです」
「そうか」
そこで責めないのが、この人のずるいところだ。
責められた方が楽なのに、簡単にはそうしてくれない。
「戻ったって、また同じことやらされるだけだ」
「かもしれない」
「かもしれない、じゃ困るんです」
「困るな」
あっさり認める。
「でもさ、困るからって選ばないままにしてると、たいてい誰かが代わりに選ぶぞ」
父さんの顔が浮かんだ。
胃が重くなる。
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
痛いところばかり簡単に言う。
「じゃあどうすればいいんですか」
「自分で嫌がれ」
「……は?」
「嫌なら嫌で、その嫌を自分の選択にしろってことだよ」
加持さんは缶を開け、甘い匂いのするコーヒーを一口飲んだ。
「父親が悪い、組織が悪い、システムが悪い。全部その通りだ。でも君はそこへ、自分が決められなかったことまで混ぜてる」
何も言えなかった。
図星だったからだ。
僕は被害者でいたいのかもしれない。そうしていれば、最後に何かを壊した時も全部を自分の責任だと思わずに済む。そういうずるさが、たしかに僕にはある。
「トウジは生きてた」
加持さんが言う。
「なら、次はその後の面倒さを引き受ける番だ」
「面倒さ」
「怒られるかもしれない。責められるかもしれない。嫌われるかもしれない」
線路の向こうを見たまま、加持さんは続けた。
「でも、そこを避けてたら結局、誰とも生きた関係になれない」
その言葉は、トウジの件だけじゃなかった。
アスカにも、綾波にも、ミサトさんにも、そのまま当てはまる。
僕はいつも、生きた相手を前にした時ほど、失敗の後味だけを先に考えてしまう。
嫌われるかもしれない。拒まれるかもしれない。間に合わないかもしれない。そういうことばかり。
でも、それを理由に選ばないでいると、相手はだんだん“今そこにいる人”じゃなくなる。
僕の頭の中で、勝手に固定された記念碑みたいになる。
それが嫌だ。
嫌だと思えるなら、まだ戻れるのかもしれない。
ふと、台所の薄い灯りの下でアスカが言った言葉がよみがえった。
今度、あんたが変な意味つけないで済む時が来たら、その時は逃げんじゃないわよ。
勝手な約束だと思う。
でも、今の僕が本部へ戻る理由としては、それで十分だった。トウジのことも、綾波のこともある。それでも最後に背中を押したのが、眠ったままのアスカの顔じゃなく、ちゃんと怒っていた時の声だったのは少しだけ救いだった。
警報は、そのタイミングで鳴った。
ホームの上に赤いランプが回る。車掌も乗客もいない駅で、その警報だけがやけに大きく響いた。
「行くんだ」
加持さんが言う。
僕は立ち上がった。膝の裏が少し痺れていた。怖さがなくなったわけじゃない。むしろ戻る足が決まったぶん、余計に怖い。
それでも、行かなきゃいけないのだと分かる。
今度は“流される”んじゃなく、自分で嫌がったまま戻る。それだけは、前より少しましだと思いたかった。
* * *
碇シンジが駆けていったあと、加持はしばらくベンチから立たなかった。
空き缶の温度が、掌の中で少しずつ冷えていく。警報はもう遠く、代わりに線路の軋みと駅の無人の気配だけが残っていた。
「難儀だな」
独り言は、ホームの上でやけに軽く響いた。
あの子は被害者でいたい顔と、誰かの帰る場所でいたい顔を同時にしている。責められた方が楽なくせに、放っておかれると余計に傷つく。面倒だ。だが、面倒じゃない十四のガキなんて、たぶん最初から嘘なのだろうと加持は思う。
ミサトも似たようなものだ、とふと考える。自分の選べなかったことを、ずいぶん長く“仕方なかった”へ押し込めてきた。大人はそこへ仕事とか責任とか、もっともらしい札を貼るぶんだけ始末が悪い。
あの子はまだ、嫌だと言いながら嫌な方へ戻ることができる。
そのぶんだけ、大人よりましかもしれなかった。
加持はようやく立ち上がると、空き缶を握り潰した。
「戻ったらまた話そう」
言いながらも、口元には少しだけ苦い笑みが浮かんでいた。
発令所へ戻ると、空気はもう変わっていた。
強い。速い。無駄がない。
画面に映る使徒は、戦闘というより災害に近かった。建物を真っ直ぐ切り裂き、砲撃をものともせず進み、エヴァの展開予測まで最初から見透かしているみたいに動く。
そして僕は、その強さ以上に、綾波がどう動くかを先に思い出してしまう。
零号機が前へ出る。
自爆。足止め。それでも足りない。順番はほとんど前と同じだ。違うのは、僕がその先を知っていて、それでも止められないことだけだった。
「やめてよ……」
今度ははっきり声に出た。
綾波が零号機ごと使徒に取りつく。白い機体の輪郭が光の向こうへ消えていく。発令所の誰かが叫ぶ。たぶんミサトさんだ。僕も叫んだ。
「綾波!」
前にも叫んだ。今度も叫ぶ。知っていたからって、何の覚悟にもならない。
零号機は爆ぜた。
白い閃光がモニターを塗りつぶす。視界の端で、マヤさんが口元を押さえたのが見えた。青葉さんが舌打ちし、日向さんが何かの報告を重ねている。皆、手は動いている。動いているのに、その顔はもう“仕事だけをしている顔”じゃなかった。
綾波は死なない。たぶん戻って来る。そう知っている。知っているけれど、今この瞬間にここへいた綾波は、もういない。
その感覚が、前よりずっと痛い。
頭の中で何かが切れた。
初号機へ走る。停止命令も、補給線も、カタパルト制御も、今は全部後ろへ流れる。ただ、もうこれ以上誰かが消えるのを見るのが嫌だという感情だけが前へ出た。
初号機は動いた。
外部電源が尽きる。カウントが減る。普通ならそこで終わるはずの機体が、次の瞬間には拘束の方を忘れたみたいに前へ出る。
暴走。
前と同じ名前の現象だ。
でも前と少し違うのは、僕の意識が完全には途切れなかったことだった。
怖い。
怒っている。
悲しい。
初号機の中に満ちているのは、そんな人間らしい感情ばかりじゃない。もっと原始的で、空腹や飢えに近い何かがある。それが僕と母さんと初号機の境目を曖昧にしていく。
使徒の腕を裂く。コアを露出させる。牙が食い込む。嫌悪感より先に、終わらせなければという焦りが勝つ。
使徒を食う。
その異様さを、心のどこかで確かに気持ち悪いと思っている。
でも同時に、ようやく間に合った、と安堵してしまう部分もある。
その両方が同時にあることが、僕はたまらなく嫌だった。
戦闘後、病室で目を覚ました時、体の節々が重かった。
でもそれ以上に重かったのは、戻った先の世界そのものだった。
綾波の姿はまだ見ていない。
アスカは相変わらず眠ったまま。
トウジは助かったけれど、そこから先をどうすればいいのか分からない。
病室の天井を見ているだけで、どこから謝ればいいのか分からなくなる。
「お帰り」
ミサトさんが椅子に座っていた。クタクタの顔をしているのに、声だけは妙に軽い。
「……ただいま」
その返事をしてから、変だと思った。
僕は今、何の場所へ“帰った”のだろう。
「アイツが迎えに来たんでしょ」
「うん」
「ずるいのよね、そういうところ」
何がですか、と訊き返そうとしてやめた。
ずるいのは分かる。僕がいちばん痛い所を分かっていて、そこへ簡単な顔で手を突っ込んでくる。しかも、間違ったことは言わない。
「ねえ、シンジ君」
「はい」
「今回のことで、自分を殴るのは分かる」
ミサトさんは膝の上で指を組んだ。
「でも、そのついでにトウジが生き残ったことまで軽くするのは駄目よ」
加持さんと同じことを言う。
同じことなのに、ミサトさんの声で聞くと別の痛さがあった。
「喜んでもいいんですか」
「いいに決まってるでしょ」
「でも、僕」
「うん」
「助けたかったのか、壊したくなかったのか、自分でもよく分からない」
それはずっと胸の中にあった言葉だった。トウジを助けたい。そのはずなのに、実際には“自分の手でクラスメイトを壊す”ことを見たくない気持ちが混ざっている。
正義感じゃない。
世界を守る高潔さでもない。
もっと情けない、もっと自分本位な感情だ。
ミサトさんは、すぐには答えなかった。
答えを探しているというより、どこまで言っていいか測っている顔だった。
「両方でもいいんじゃない」
やっと出た声は、ひどく現実的だった。
「人って、そんなに綺麗に一個の理由で動かないもの」
それは慰めというより、事実の説明だった。
だから少し救われる。
* * *
病室を出たミサトを待っていたのは、労いではなく薄いクリアファイルだった。
リツコが壁にもたれたまま、それを差し出す。表紙の見出しだけで気分が悪くなる。〈第3の少年 待機要員復帰申請〉。その下に〈初号機暴走ログ保全〉、さらに〈ダミーシステム運用評価再開〉。
「冗談でしょ」
「向こうは冗談で送ってきてないわ」
リツコの声は乾いていた。
「使徒殲滅後の即応態勢再編。戦自が本部外郭の偵察を増やしてる。委員会は“次が来る前に、使えるものを数え直せ”って」
「使えるもの?」
「そういう言葉で来たのよ」
ミサトはファイルを開いたまま凍る。
少年少女の名前が、機体番号の横に並んでいる。休養、治療、未回収。全部が“運用状況”の欄へ押し込まれていた。
「今のシンジ君に、待機へ戻れって言うの」
「私は言ってない」
「でも紙は持ってきた」
「持って来ないと、別の誰かがあの子の病室へ来るわ」
そこへ、缶コーヒーをもう一本持った加持が割って入った。
「面倒な顔してるな」
「面倒そのものよ」
ミサトがファイルを突きつける。
加持は一枚目だけ見て、口元をわずかに歪めた。
「早いな」
「ゼーレも動いてるわ。ダミーのログも、初号機の暴走も、全部“再現可能な現象”として回収したいんでしょうね」
「子どもが壊れかけてるのに?」
「壊れかけてるからよ」とリツコが言った。「向こうは足りない物しか見ない」
ミサトはファイルを閉じた。
閉じても、そこに書かれていた言葉は消えない。
「私は資産を預かってるんじゃない。子どもを預かってるの」
「知ってるわよ」
リツコの返事は速かった。
「でも、知ってる人間だけで回ってないの。だから今夜のうちに、あんたがどこまで踏ん張るか決めなさい」
沈黙が落ちる。
向こうの病室には、さっきまで帰る場所の話をしていた十四の少年がいる。こちらのファイルには、待機要員としか書かれていない同じ子がいる。
どちらも同じ人間なのに、紙の上では別物みたいだった。
加持が小さく息を吐いた。
「戻る道まで用意してやれよ」
ミサトが顔を上げる。
「行き先を一つに決めるなってことだ。学校へ行くのか、病院へ寄るのか、本部へ来るのか。それを自分で選べる形だけは、残してやれ」
ミサトはしばらくファイルを見ていた。
それから、復帰申請の紙だけを一番下へ押し込む。
「今夜は休ませる」
「明日の朝には返事が要るわよ」
「なら、朝に返す」
リツコはそれ以上何も言わなかった。
言わないかわりに、ミサトの手元へ赤い判の押された封筒を一つ置いた。
「せめて、あの子の目の前で読まないで」
それだけ言って去っていく。
加持は壁から背を離した。
「難儀だな。大人も」
「知ってる」
「ならまだましだ」
ミサトは返事をしなかった。
クリアファイルを抱えたまま、自販機の明かりの下へ立ち尽くす。子どもを守りたい自分と、子どもを待機させるしかない立場が、胸の中で綺麗に裂けていた。
病室を出たあと、僕はアスカの病室へ向かった。
眠ったままだと知っていても、行きたかった。
アスカの側だけが、今の僕を“まともな顔でいられない”方へ引っ張る。引っ張るから怖いし、それでも行きたい。
ベッドの脇の椅子に座る。
白いシーツ。細い肩。閉じたままの瞼。
「綾波、いなくなった」
返事はない。
「たぶん、戻って来る」
それも返事はない。
ずるい言い方だと思う。知っていることを、ただの慰めみたいに口にしている。けれど他に言葉がなかった。
「トウジは助かった」
少し間を置いて続ける。
「でも、それで全部が終わりじゃないんだよな」
アスカが起きていたら、たぶん今の言い方を嫌ったと思う。結論めいた顔をするな、と怒ったかもしれない。
怒られたかった。
怒られた方が、今はまだ楽だった。
立ち上がろうとした時、アスカの指先がほんのわずかに動いた気がした。
見間違いかもしれない。それでも僕はしばらくその場から動けなかった。
自分の嫌な所をまだ全部抱えたままでも、こういう時の期待だけは簡単に捨てられない。
それが僕の、たぶん一番子どもっぽい所だった。
ベッド脇へもう一度座る。
シーツの端が少しだけずれていて、気づけば僕はそれを揃えていた。退院の日にアスカがそうしたみたいに、意味を考えるより先に手が動く。
「綾波も、トウジも、まだちゃんと終わってない」
眠ったままのアスカへ向かって、ぼそりと零す。
「だから僕も、もう少しだけ勝手に終わった顔するのやめる」
約束というほど立派なものじゃない。
でも、誰かへ言葉にしておかないと、またすぐ自分の中で形を失いそうだった。
「起きたら、あの時逃げたでしょって言ってよ」
その方がたぶん、僕はちゃんと戻れる。
* * *
病室の小窓越しに、ミサトはしばらくその背中を見ていた。
ノックをするつもりで来たのに、指がドアに触れる前に止まる。ベッド脇の椅子へ腰かけた少年は、眠っているアスカに向かって何かをひどく静かな声で言っていた。謝っているようにも見えるし、そうではないようにも見える。
正確には、謝って許されたい顔ではなかった。
戻る場所を、自分の言葉でようやく結び直そうとしている顔。
そんなふうに見えて、ミサトはひとつ息を吐いた。
十四の男の子にしては、ずいぶん面倒な顔だと思う。
けれど、面倒であること自体はまだ救いでもある。全部を諦めて、何も欲しがらない顔よりは、よほど生きている。
中へは入らず、そのまま踵を返す。
廊下の端の自販機の前で立ち止まると、加持の言いそうなことがふと頭をよぎった。
――嫌がったまま戻るのも、立派な選択だ。
「ほんと、ずるい男」
誰に向けたのか分からない悪態を、小さく吐く。
それでも、ドアの向こうにいる二人がまだ“終わっていない”方を向けるなら、それでいいとミサトは思った。
* * *
家へ戻った夜、台所の流しには洗いかけの弁当箱が一つだけ置いてあった。
アスカの分じゃない。ミサトさんのでもない。僕が学校へ行っていた頃に使っていた、自分の分だ。蓋の内側へ小さく名前を書いたまま、しばらく使われていない。そこに水だけ張ってあるのを見た瞬間、胸の奥が妙にざらついた。
「冷蔵庫、勝手に開けて」
リビングの方からミサトさんの声がした。ジャケットも脱がないまま、食卓の上へ紙をいくつか広げている。駅の時刻表、病院の面会時間表、学校の連絡網。全部が同じテーブルの上に重ねられていた。そのいちばん下に、ネルフの赤い判が押された封筒が裏向きで伏せてある。見せたくない紙なのだと、それだけで分かった。
「お腹空いてるでしょ」
「少し」
「少しでも食べる。逃げて戻ってきた後に空腹放置すると、ろくなこと考えないから」
冷蔵庫にはおにぎりが二つと、作り置きの味噌汁、それから缶入りの桃が入っていた。僕が手を伸ばしかけると、ミサトさんが時刻表へペンで線を引いたまま言う。
「甘いの先」
「なんで」
「脳みそに餌やらないと、話が全部暗くなる」
缶を開ける。甘い匂いがして、少しだけ現実へ引き戻される。
食卓の紙は、よく見ると二つの束に分かれていた。学校用の連絡と、病院用の連絡。さらにその横に、コンビニの袋へ歯ブラシや紙コップ、割り箸がまとめてある。
「何してるんですか」
「分けてるの」
「見れば分かります」
「なら聞かない」
そう言いながらも、ミサトさんは説明をやめなかった。
「学校に戻る時に要る物。病院へ寄る時に要る物。どっちにも行けない朝用の最低限」
指先が、紙と袋の上を順番に移る。定期、鍵、連絡帳、ノート、紙コップ、桃缶のスプーン、ポケットティッシュ、十円玉。こうして並べられると、自分が今「戻る」「行く」「寄る」の三択の中にいるのだと嫌でも分かった。
「選べってことですか」
「今すぐじゃない」
ミサトさんは首を振る。
「でも、明日の朝に何も決めてない状態にはしない」
その言い方は厳しかった。でも正しかった。僕はいつも、決められないまま時間だけをやり過ごして、気づいたら誰かの選んだ流れに乗っている。
「嫌なんです」
「知ってる」
「本部に戻るのも、学校へ行くのも、病院でトウジの顔見るのも」
「うん」
「全部嫌です」
「でしょうね」
否定されないことが、逆につらい。
つらいけれど、その嫌さを雑に励まされるよりはずっとましだった。
ミサトさんは食卓の端から小さな封筒を取り出した。中には十円玉と百円玉が何枚か入っている。
「これ、公衆電話と自販機用」
「またですか」
「またよ。逃げたくなった時ほど、小銭と水は持ちなさい」
それから、もう一つ薄い紙を差し出した。駅のホーム番号と、病院までの最短経路、それから学校の裏門から保健室までのメモ。誰かに説明するための地図じゃない。慌てている時に自分の足を迷わせないための地図だ。
「……用意いいですね」
「悪い?」
「悪くはないけど」
「加持がたまに言ってたの。帰り道まで考えろって」
その名前が出ると、部屋の空気が一瞬だけ硬くなる。ミサトさんはそれ以上何も言わず、紙を二つ折りにして僕の定期入れへ差し込んだ。
「ねえ、シンジ君」
「はい」
「明日どこへ行くかは、朝決めればいい。でも、どこにも行かないって選び方だけは、自分でそうだって言いなさい」
「……はい」
「勝手に消える方が楽なのは分かる。でもそれ、残った方に全部後片づけ押しつけるから」
痛い所ばかり言う。
でも今は、その痛さの方がちゃんと床に立たせてくれる。
食べ終わったあと、僕は流しの弁当箱を洗った。スポンジへ洗剤をつけ、角のご飯粒を落とす。蓋の内側の名前が少し掠れている。毎日使う物は、毎日少しずつ削れる。
ミサトさんは食卓で病院用の袋へ紙コップを追加していた。数を十個、二十個と声に出して数える。僕は弁当箱をすすぎながら、その声のリズムを聞いていた。
「それ、明日病院へ持ってくんですか」
「行けたらね」
「僕が持って行きます」
言った瞬間、自分でも驚いた。病院へ行くのが嫌だと言ったばかりなのに、口は先にそう決めていた。
ミサトさんは少しだけ手を止め、それから頷いた。
「じゃあ半分持って」
「半分?」
「紙コップはかさばるから。袋一つだと歩きにくいの」
そう言って、彼女は紙コップと割り箸を二袋に分けた。片方を僕へ渡す。軽いのに、持つと妙に荷物らしい。明日、どこへ行くかまだ決めていないはずなのに、その袋だけはもう僕の手に乗っている。
部屋へ戻る前に、玄関脇の棚へ一行だけメモを書いた。
《朝、病院寄るかもしれない》
かもしれない、が情けない。
でも今夜の僕には、そのくらいが精一杯だった。
翌朝、玄関の床には僕の靴の横へもう一つ、小さなビニール袋が置かれていた。中身は桃缶のスプーンと、折りたたんだ紙ナプキン、それから短く書かれた付箋。
《紙コップは多すぎると持ちにくいから、途中で半分にしなさい》
そこまで世話を焼かれると、少しだけ笑うしかなかった。
笑ってから、僕はようやく自分がちゃんと「行く」方へ足を向けていることに気づいた。