【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾話 心のかたち 人のかたち

使徒戦のあと、僕は一度、身体ごと消えた。

 

 シンクロ率四〇〇パーセント。警報の数字だけが先に跳ね上がり、エントリープラグの中から僕の輪郭が消える。残ったのはLCLの濁りと、救助班の慌ただしい声だけだったと、あとで聞かされた。

 

 サルベージ作戦の最中、僕はどこかひどく柔らかい場所で、声とも記憶ともつかないものをいくつも見た。母さんに似た気配。僕を僕として呼ぶ前の、もっと曖昧なぬくさ。夢だと言い切るには近すぎて、現実だと認めるには形がなさすぎる。

 

 気がついた時、僕の身体はもう一度エントリープラグの中で組み上がっていた。戻った、と大人たちは言う。でも、一度LCLへ溶けてから戻された身体で学校のチャイムを聞いていると、時間の方が先に壊れたみたいだった。

 

 だから、使徒戦のあとしばらくの間、時間の流れが変だった。

 

 時計はいつも通りに進んでいる。学校のチャイムも鳴るし、朝になれば目は覚める。ネルフでは定例のテストがあり、発令所には日報が積まれ、ミサトさんは相変わらず帰宅時間が読めない。

 

 なのに、肝心な所だけが止まっている感じがした。

 

 ネルフへ行くと、その歪みはもっと露骨だった。第参ケージはまだ閉鎖中で、参号機の事故と使徒戦の痕が、装甲板の交換跡や焼けた手すりになって残っている。初号機の拘束具には新しい溶接痕が走り、零号機の再起動試験のたびに発令所のサブモニタへ赤い警告灯が浮かぶ。定例テストと呼ばれるものも、実際にはシンクロ率とLCL循環の数字を見ながら全員が息を詰める種類の仕事で、いつもの日常に戻った顔をしているのは僕たちだけだった。

 

 シンクロテストの帰りにサービスシャフトを歩くと、その歪みはさらに機械の内臓みたいな形をして見えた。

 

 冷却水の匂い。乾ききらないLCLの甘い臭気。高圧ケーブルの被膜が熱を持った時だけ出す、少し焦げた樹脂の匂い。壁の向こうでは循環ポンプが低い脈を打ち、天井の配管には交換前のバルブへ赤い札がぶら下がっている。整備班の人たちは誰も大きな声を出さないのに、工具の当たる金属音だけで、ここ全体がまだ戦闘の延長にあると分かった。

 

 焼けた装甲板がケージ脇へ立てかけられ、外されたATフィールド観測子が緩衝材の上に並んでいる。参号機用だったはずのケーブル束は切り分けられて、別の系統へ再利用するための札が付けられていた。元に戻す、というより、一度壊れた巨大な生き物の臓器を、使える形へ組み直している感じだった。

 

 昔のSFに出てくる未来は、もっと静かで銀色だと思っていた。月面基地とか、深宇宙船とか、そういうものは全部、真空と白い光で出来ている気がしていた。でも実際の“未来”はたぶんこっちだ。油で黒ずんだ手袋、交換待ちのフィルタ、三系統のうちどれを夜間停止しても朝までもつかという相談。世界を先へ進めるのは、派手な発進より、止めても死なない順番を知っている人たちの方なのだ。

 

 ネルフは秘密結社というより、巨大な生命維持装置だった。地上の街が一日生き延びるために、地下で水と空気と電源を配り直し続ける装置。昔の人が宇宙船へ預けた夢を、僕たちは地下数百メートルの現実として歩いている。発進口やケージや射出台は、そのための骨組みだったのかもしれない。

 

 そんな場所の中心にいながら、僕はたった一人の眠った女の子の名前で何度でも足を止める。巨大な機構の方が簡単で、病室で一言ちゃんと言う方がずっと難しい。その順番が、ひどくおかしかった。

 

 アスカは眠ったまま。

 

 綾波は“戻ってきた”はずなのに、前にいた綾波とは少し違う。

 

 僕だけがその差を気にしている気がして、それがまた気持ち悪かった。

 

 学校ではアスカの席が空いたままだった。

 

 最初の数日は、皆それぞれに言い訳みたいなものを口にしていた。

 

「体調不良らしいで」

 

「また怪我か?」

 

「帰国って話もあるけど」

 

 ケンスケが噂を集め、トウジが半分だけ信じ、委員長が苛立った顔で止める。

 

 誰も本当のことを知らない。

 

 知っているのは僕だけで、その知っていることも、今目の前にあるアスカとぴたりとは重ならない。

 

 だから余計に何も言えない。

 

 委員長は、放課後になると一度だけアスカの席を見てから帰るようになった。

 最初は、何となく机の方を見ているだけなのだと思っていた。

 でも四日目、僕は委員長が誰もいなくなった教室で本当にやっていることを見てしまった。

 

 窓際の席へ残ったプリントを一枚だけ払い、机の角についたチョークの粉をハンカチで拭き、椅子の脚がほんの少し斜めになっているのをまっすぐへ戻す。誰かが荷物置きに使おうとして置いた段ボールを、何も言わず教卓の横へ移す。いちいち大袈裟なことじゃない。けれど、あの席が“空いているから使っていい場所”へ変わらないように、少しずつ手を入れているのだと分かった。

 

「そこまでやるんだ」

 

 思わず言うと、委員長は少しだけ肩を跳ねさせた。

 でもごまかさなかった。

 

「やるわよ」

 

「委員長だから?」

 

「それもあるけど」

 

 ヒカリは机の天板を指先で撫でた。

 

「こういうの、一回物置になると戻りにくいの。席って、ただ机と椅子があるだけじゃないから」

 

 その言い方は妙に具体的だった。僕は教室を見回す。誰かの筆箱。窓際の植物。黒板の当番欄。席には席の周波数みたいなものがあって、別の物が置かれ始めると、その場所で呼ばれるはずの名前が少しずつ聞こえなくなっていくのかもしれない。

 

「委員長は、そういうのまで考えるんだ」

 

「考えるっていうか、見えてしまうの」

 

 彼女は定規で机の端をほんの少しだけ押した。

 左側へ、手一つぶんの隙間が残る。

 

「戻ってきた時、鞄が引っかからない方がいいでしょ」

 

 その一言で、机と椅子は急に“待っている形”になる。大げさな祈りなんかじゃない。たった数センチの余白。でも、その数センチがあるかどうかで、人が自分の席へ座る動作の自然さが変わる。

 

 委員長は机から手を離し、いつもの顔で鞄を持った。

 

「別に感動しなくていいからね」

 

「してないよ」

 

「嘘」

 

 すぐ言われた。

 

「碇君、そういう時すぐ顔に出る」

 

 言い返せなかった。

 

 教室には、名前の数だけ座標があるのだと思った。

 机と椅子の位置だけじゃない。朝一番に鞄を置く音、消しゴムのかすが落ちる向き、授業中に肘をつく癖、そういう細い反復が重なって、ようやく一つの席になる。だから席が残っているというのは、ただ家具が残っていることじゃない。そこへ戻ってくる人の癖まで、少しだけ未来に預けてあるということだ。

 

 

 その癖に僕は三日目で気づいた。

 

「心配なんだ」

 

 ぽろっと言ったら、委員長はまっすぐ僕を睨んだ。

 

「当たり前でしょ」

 

「うん」

 

「……碇君は?」

 

 その問いには、うまく答えられなかった。

 

 心配だ。

 

 もちろん心配だ。けれどその“心配”の中に、怖さや罪悪感や、どうしようもない安堵まで混ざっている。アスカがまだ生きていることへの安堵。まだ怒られていないことへの猶予。そんなものまで混ざった感情を、ただ“心配”と呼ぶのはずるい。

 

「心配だよ」

 

 だから結局、いちばん薄い言葉しか出なかった。

 

 委員長は少しだけ表情を和らげた。でも、納得した顔ではなかった。

 

 そりゃそうだろうと思う。

 

 僕だって、こんな言葉じゃ納得できない。

 

 その日の帰り、珍しく加持さんに声をかけられた。

 

「少し付き合わないか」

 

 断る理由も見当たらず、僕はそのままネルフ屋上の温室へ連れていかれた。

 

 メロンの葉が青く茂っている。あの匂いを嗅ぐと、どうしても加持さんのことを思い出す。つまり、前の記憶があるかどうかに関係なく、この人は最初から“そういう人”なのだ。

 

「調子悪そうだな」

 

「そう見えますか」

 

「見える」

 

 最近、そう言われることが増えた。

 

 隠すのが下手なのか、あるいは前より表に出しているのか、自分でも分からない。

 

 加持さんはジョウロを傾けながら言った。

 

「アスカのことか」

 

「……はい」

 

「綾波のことも」

 

「はい」

 

「大変だな」

 

「他人事みたいですね」

 

「他人事だからな」

 

 あっさりしている。

 

 でも冷たくはなかった。たぶん、他人事だと認めた上で、それでも気にかけるのがこの人なりの誠実さなのだ。

 

 僕はそういう大人が少し苦手で、少し羨ましい。

 

「同じようには苦しめない」

 

 加持さんが言う。

 

「どれだけ相手を好きでも、相手そのものにはなれないからな」

 

「分かってます」

 

「分かってない顔だぞ」

 

 痛いところばかり突いてくる。

 

 僕は温室のガラス越しに空を見た。青い。普通の青だ。普通の青空を見るだけで、たまに泣きそうになる自分がいる。

 

「僕、アスカが眠ってるの見ると、ほっとする時があるんです」

 

 言ってしまってから、ひどく嫌な気分になった。

 

 でももう止まらなかった。

 

「起きて、怒られたり、嫌われたりするのが怖いから」

 

「うん」

 

「でも同時に、起きてほしいとも思ってる」

 

「うん」

 

「綾波も、戻ってきてほしかった。でも戻ってきたら、前の綾波じゃない気がして、それが怖い」

 

「うん」

 

 加持さんはあいづち以外ほとんど打たない。

 

 でも、それで十分だった。

 

 下手に慰められるよりましだ。

 

「人に期待しすぎなんじゃないか」

 

 少しして、ようやくそう言った。

 

「期待……」

 

「同じでいてくれるとか、分かってくれるとか、起きたらこう言うはずだとか」

 

 胸が詰まる。

 

「そういうの、だいたいこっちの都合だ」

 

「分かってます」

 

「分かっててもやるんだけどな」

 

 加持さんは苦笑した。

 

「俺だって似たようなもんだ」

 

 その笑い方が、少しだけ寂しく見えた。

 

 何か言いかけて、結局やめる。

 

 僕はこの人の事情も、ミサトさんとの過去も、全部は知らない。知っているつもりで踏み込むのは、たぶんただの失礼だ。

 

「君は優しいっていうより、怖がりなんだよ」

 

「……知ってます」

 

「それでいい」

 

 加持さんはメロンの葉を撫でた。

 

「怖がりが悪いわけじゃない。ただ、その怖さを相手のせいにしなきゃな」

 

 その言葉は、あとから何度も反芻することになった。

 

 加持さんと話したのは、その日が最後だった。

 

 数日後、ネルフの空気がまた変わった。

 

 誰も“何があったか”を言わない。でも皆が知っている顔をしている。言われなくても、いなくなった人が誰なのかくらい分かる。

 

 ミサトさんは家に帰ってこなかった。帰ってきても、ひどく静かだった。缶を開ける音すらしない夜があって、その方がよほど異常だと分かるようになってしまった。

 

「加持さん、何かあったんですか」

 

 聞いた時、ミサトさんはわずかに目を見開いた。

 

 それから、首を振る。

 

「仕事よ」

 

 嘘だった。

 

 でも、それ以上聞けなかった。

 

 嘘だと分かる嘘をそのままにするのは、たぶん優しさじゃない。でも今は、暴く方がもっと残酷な気がした。

 

 その時、居間の端に置かれた内線端末が短く鳴った。

 ミサトさんの肩がわずかに強張る。手は動かなかった。

 僕が迷っているうちに、綾波が先に受話器を取る。

 

「はい」

 

 相手は本部の誰かだったらしい。綾波は二言三言だけ聞いて、静かな声で返した。

 

「葛城三佐は今、出られません」

「至急でないなら、明日の朝にしてください」

「はい。私が伝えます」

 

 受話器を置く音は小さかった。

 でも、それはただの伝言じゃなかった。綾波は命令されたから動いたんじゃない。今ここで、ミサトさんを先にする方を選んだのだと、その手つきで分かった。

 

 受話器を置いた綾波は、そんな僕の沈黙を不思議そうに見た。

 

 前の綾波なら、何も言わずただ見ていただけだと思う。今の綾波は、少し違う。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「葛城三佐、泣いてた」

 

 胸がきしんだ。

 

「見たの?」

 

「少し」

 

「……そっか」

 

「どうして何も聞かないの」

 

 その問いに、僕は答えられなかった。

 

 どうしてだろう。

 

 前の僕なら、たぶん聞けなかったのは単純に怖かったからだ。今はそれだけじゃない。聞いてしまったら、本当に現実になってしまう気がした。

 

 加持さんがいなくなったことも。ミサトさんがそれで泣いていることも。全部。

 

「聞いても、答えないから」

 

 ようやくそう返すと、綾波は少し考えた。

 

「答えないと分かっているのに、聞きたいの?」

 

「聞きたいこともある」

 

「どうして」

 

「……聞かないと、相手がどこまで痛いのか分からない時があるから」

 

 綾波は黙った。

 

 自分で言っていて、変な理屈だと思う。

 

 痛いのかどうかなんて、見れば分かる時もある。泣いていれば分かる。声が震えていれば分かる。でも、それでも足りないことがある。

 

 人は、見えている痛みと本当に痛い場所がずれている時がある。

 

 だから聞く。

 

 聞いたって答えてもらえないことの方が多いけれど、それでも聞かないよりはましだと、最近は思うようになった。

 

「私にも聞くの」

 

 綾波が言った。

 

「うん」

 

「何を」

 

「……いろいろ」

 

「今は?」

 

 僕は迷った。

 

 迷ったけれど、聞いた。

 

「綾波、前のこと覚えてる?」

 

 綾波はわずかに目を伏せた。

 

「少し」

 

「どこまで」

 

「曖昧」

 

 予想通りで、予想よりつらい答えだった。

 

「じゃあ」

 

「でも」

 

 綾波が僕の言葉を切る。

 

「碇君が、悲しそうだったのは覚えてる」

 

 言葉が出なかった。

 

 そんなものを覚えられていたくなかった。悲しそうな顔なんて、相手の記憶に残るほどするべきじゃないのに。

 

「嬉しかったの?」

 

 綾波は首を傾げる。

 

「悲しそうだったから?」

 

「違う」

 

「じゃあ何」

 

「……私が、いなくなったことを」

 

 少し間があって、綾波は言った。

 

「碇君がちゃんと嫌だと思ってたの、覚えてる」

 

 そこで、喉の奥が詰まった。

 

 涙が出るほどではなかった。でも、出ないから楽というわけでもなかった。

 

 前の綾波と、今の綾波は違う。違うはずなのに、その一言で、僕はまた簡単に救われてしまう。

 

 ずるい。

 

 ずるいけれど、嬉しい。

 

 その嬉しさを認めると、前の綾波まで裏切るみたいで苦しい。

 

 たぶんそうやって、僕はまた人を“ひとつの存在”として扱えずにいる。

 

 代わりはいない、と口では言いながら、違う部分があるだけで“同じじゃない”と切り離したくなる。

 

 最低だ。

 

 その夜、アスカの病室へ行った。

 

 前より通う回数が増えている気がする。意味があるのかどうかは分からない。ただ、行かないままにしておく方がもっと嫌だった。

 

 相変わらずアスカは眠ったままだった。

 

 ベッド脇の椅子に座り、しばらく何も言わずにいた。

 

 窓の外は暗い。病室の機械音が、波みたいに一定で気持ち悪い。

 

「加持さん、いなくなった」

 

 ぽつりと言う。

 

 もちろん返事はない。

 

「ミサトさん、泣いてたよ」

 

 言いながら、何でこんなことをアスカに話しているんだろうと思う。でもたぶん、ここで話すのがいちばん自然だった。アスカなら、加持さんのことをただ“亡くなった人”としてじゃなく、もっと面倒なものとして受け止めるからだ。

 

「君が起きてたら、どう言ったかな」

 

 きっと優しくはない。

 

 慰めるでもない。怒るか、呆れるか、どっちかだろう。でもそれでいい。そういう誰かが、ミサトさんの周りには必要だと思った。

 

 しばらくして、僕はアスカの手の甲を見た。

 

 細い。白い。生きている手だ。

 

 前なら触れるのをためらった。でも今回は、少しだけ迷ってから指先で軽く触れた。

 

 冷たくはなかった。

 

「起きてよ」

 

 小さく言う。

 

「怒るなら怒っていいから」

 

 前より少しだけ、本音に近い言葉が出るようになってきた気がする。

 

 もちろん、そんなの遅すぎるのかもしれない。

 

 でも遅いからやらないよりは、たぶんましだ。

 

 帰ろうと立ち上がった時、アスカのまぶたがほんの少しだけ震えた気がした。

 

 見間違いかもしれない。

 

 それでも僕は、しばらくその場から動けなかった。

 

 帰宅すると、リビングに綾波がいた。

 

 ミサトさんはまだ帰っていない。ペンペンは寝ている。静かな部屋の真ん中で、綾波は僕の方を見た。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「涙が出る時って、どういう時?」

 

 あまりにも唐突で、僕は言葉に詰まった。

 

「どうしたの」

 

「さっき」

 

 綾波は少しだけ、自分の頬に触れた。

 

「勝手に出た」

 

 たぶん、加持さんのことでも、ミサトさんのことでもない。もっと別の、もっと内側の何かで出たのだろう。

 

 それを分かってしまう。

 

 分かってしまうから、簡単な説明では済ませたくなかった。

 

「……大事だと思った時じゃないかな」

 

「大事」

 

「無くしたくないとか、無くしたって分かったとか」

 

「分からない」

 

「僕も」

 

 綾波はしばらく考え、それから静かに言った。

 

「碇君は、前より泣かない」

 

「そうかな」

 

「そう」

 

 図星だった。

 

 前の僕は、分かりやすく泣いていたと思う。今は違う。泣く前に、理屈をつけてしまう。これは仕方ない、これは知っていた、これは今さらだ、と自分を納得させる。そのせいで、ちゃんと泣ける場所をどんどん失っている気がする。

 

「その方が、いいと思ってるから」

 

「どうして」

 

「泣くと、終わった気がするから」

 

「終わらないのに?」

 

 その返しがあまりにも綾波らしくて、僕はかすかに笑ってしまった。

 

「終わらないね」

 

「終わらない」

 

 綾波は頷いた。

 

「でも、泣いてもいいと思う」

 

 そう言ってから、自分の言葉に少し驚いたみたいに瞬きをした。

 

 それが可笑しくて、同時に胸が締めつけられた。

 

 この綾波は前の綾波じゃない。違うのに、こういう瞬間に“やっぱり同じだ”と勝手に思ってしまう。

 

 僕はやっぱり、まだうまくやれていない。

 

 それでも。

 

 それでも、誰かが勝手に涙を流してしまうくらいには、ここに残るものがある。

 

 ならきっと、全部が無駄なわけじゃない。

 

 その夜、綾波は自分からミサトさんの部屋の前へ行った。

 

 ノックを二回。

 返事はない。

 少し待って、もう一度だけ同じ強さで叩く。

 

「どうしたの、レイ」

 

 襖が開いた向こうで、ミサトさんは机に肘をついたまま顔を上げた。泣いた後の顔だった。机の上には開いたままのファイルが何冊も重なっている。加持の残したものか、報告書か、判別はつかない。でも、今この人に必要なのがその紙束の続きじゃないことだけは、綾波にも分かった。

 可哀想とか気の毒とか、そういう言葉へうまく変えられない。ただ、今この人を仕事の形のまま一人にしておかない方がいいと思った。

 

「葛城三佐」

 

 綾波は湯飲みを差し出した。

 さっき自分で沸かした湯に、台所の棚から借りた茶葉を一つ落としただけの、薄い茶だった。

 

「眠れない時に飲むといいと聞いた」

 

 ミサトさんは少しだけ目を丸くしてから、そっと受け取った。

 

「ありがと」

 

 綾波は机の上の一番開いているファイルへ目をやった。

 

「それは、今は閉じてください」

 

「え?」

 

「今読むと、眠れません」

 

 ミサトさんが言葉を探している間に、綾波はファイルの表紙をそっと伏せ、机の端へ静かに寄せた。命令ではない。ただ今夜はそうすると決めた手つきだった。

 

 綾波は頷いたまま動かなかった。

 

「……他に何かある?」

 

「あります」

 

 綾波は少し考えてから言った。

 

「今夜、私は葛城三佐の近くにいます。必要なら呼んでください。今日は、一人のままにしない方がいいと思った」

 

 慰めではない。ただそこにいると、自分で決めた声だった。

 ミサトさんはすぐには返事をしなかった。けれど湯飲みを両手で包んで、小さく息を吐く。

 

「ほんと、最近のあなたたちには見張られてばっかりね」

 

「見張ってはいません」

 

「そういうところよ」

 

 その夜、久しぶりに少しだけ泣いた。

 

 大きな声も、ひどい嗚咽も出なかった。ただ布団の中で、気がついたら頬が濡れていただけだ。

 

 でも、それで終わった気はしなかった。

 

 むしろ、終わらないことを認めた涙だったのかもしれない。

 

 * * *

 

 加持の残したファイルを抱えたまま眠れない夜、ミサトはふいにシンジの部屋の前で立ち止まった。

 

 襖の向こうは静かだ。寝ているのか、起きたまま天井を見ているのか分からない。前なら、そういう曖昧さの前で迷わずドアを開けていたかもしれない。今は少し違う。相手にも相手の“閉じる権利”があると、ようやく少しだけ分かってきたからだ。

 

 それでも、シンジが本当に壊れかけている時は、その権利より先に呼び戻さなくてはいけない。

 

 大人というのは、たぶんそういう役目だ。

 

 碇シンジは最近、ちゃんと泣かない。

 泣けないのか、泣かないと決めているのかは分からない。

 でも、あの年の子どもが何でも理屈で飲み込めるようになったら、だいたいろくでもない。

 

「ほんと、手がかかる」

 

 小さく言ってから、ミサトはかすかに笑った。

 

 手がかかると思えるうちは、まだ保護者の役目を降りなくていいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 週の半ば、担任が突然「席を詰め直す」と言い出した。

 

 避難導線の確保と、教室後方のラジオ置き場を作るためだという。もっともらしい理由だ。もっともらしい理由だから、誰もすぐには文句を言えない。けれど教室の空気は少しだけ固くなった。

 

 机が動く。

 椅子が鳴る。

 名前の付いた場所が、物理的にずらされる。

 

 それは思っていたより落ち着かない作業だった。

 

「委員長、ここ詰めるの?」

 

 ケンスケが訊くと、委員長は黒板の座席表を睨んだまま答えた。

 

「通路幅が足りないから。窓側一列ずつ前へ寄せる」

 

「惣流の机は?」

 

 誰かが言った。

 教室が少しだけ静かになる。

 

 ヒカリはチョークを持った手を止めた。止めてから、前を向いたまま言う。

 

「そのまま」

 

「でも、空いてるし」

 

「そのまま」

 

 二度目は一段低い声だった。誰もそれ以上は口を挟まない。

 

 僕はそのやり取りを聞きながら、自分の机の脚へ手をかけた。持ち上げると、木の足が床をこすって嫌な音がする。委員長が見ているのは机の数じゃなく、人が通れる幅とラジオの置き場所、それから教卓までの見通しだ。感情を全部そこへ押し込んでいるのが分かる。

 

「碇君、そっち上げすぎ」

 

 ヒカリが指摘する。

 

「脚、引っかかる」

 

「ごめん」

 

「謝る前に直して」

 

 直す。机の位置が決まる。アスカの机だけは、ほんの少し左側へ隙間を残したまま置かれた。偶然かと思って見ていると、委員長が定規で机の端を押し、ほとんど見えないくらいの距離をわざと残しているのが分かった。

 

「そこ、詰めないの」

 

 思わず訊くと、委員長は顔を上げずに言う。

 

「人が戻った時、座りにくいでしょ」

 

 それだけだ。

 でも、その一言だけで、空いた席がただの空席じゃなくなる。

 

 昼休み、ケンスケがラジオを窓際へ置き、トウジが予備電池の箱を机の下へ収めた。誰もアスカの席へ荷物を置かない。置けるのに、置かない。そういう曖昧な遠慮が教室じゅうに広がっている。

 

 放課後、僕は保健室へ呼ばれて体温計の消毒を手伝った。保健の先生がアルコール綿を並べ、委員長が記録表へ使用本数を書き込む。理屈だけ見れば単純作業だ。でも、一本一本の体温計が誰かの額へ触れた時間を持っていると思うと、妙に慎重になる。

 

「碇君、それ拭いたらケースの右」

 

「うん」

 

「綾波さんの分、別にして」

 

「分かった」

 

 ヒカリの指示は早い。僕が少しでも止まると、次の順番がすぐ飛んでくる。迷っている暇を作らない。そういうやり方で、自分の中の揺れも押さえているのかもしれない。

 

「洞木さん」

 

「なに」

 

「アスカの席、ありがとう」

 

 ヒカリは体温計のケースを閉じる手を止めなかった。

 

「お礼言われることしてない」

 

「でも、詰めなかった」

 

「……詰める必要がなかっただけ」

 

 言い方は素っ気ない。でも、彼女が定規であの隙間を測っていたのを僕は見ている。必要がなかったんじゃない。戻る時のために残したのだ。

 

 帰宅すると、台所の棚の上にアスカのマグカップが置いたままだった。洗って、乾かして、そのまま。前なら邪魔だと片づけたかもしれない。今は誰も触らない。

 

 僕は夕飯の用意をしながら、そのマグカップだけは手前へ引き寄せた。味噌汁を注ぐわけじゃない。ただ、棚の奥へ押し込まないだけだ。

 

 洗い物の途中で、ミサトさんが遅く帰ってくる。靴を脱ぎながら、僕の手元を見て眉をわずかに上げた。

 

「珍しい。カップ動かしてる」

 

「邪魔だったから」

 

「ふうん」

 

 信じていない顔だった。

 

「学校、どうだった?」

 

「席替えみたいなのしました」

 

「へえ」

 

「アスカの席、そのままだった」

 

 言うと、ミサトさんは冷蔵庫の前で少しだけ動きを止めた。

 

「そう」

 

「委員長が、戻った時座りにくいからって」

 

「いい子ね」

 

 ビールではなく水のボトルを出して、ミサトさんは短く笑った。

 

「そういうの、大事よ」

 

 大事。

 それは綺麗な言葉じゃなくて、机の数センチとか、体温計の本数とか、マグカップを棚の奥へしまわないこととか、そういう小さい形でしか続かないのだと思う。

 

 夜、連絡帳を書きながら、僕はふとアスカの席の左側に残っていた隙間を思い出した。ほんの少しの幅。人ひとり分ではない。でも、誰かが戻って来た時に、無理なく机へ手を入れられるくらいの余白。

 

 それを余白と呼ぶべきか、待っている形と呼ぶべきかはまだ分からない。

 分からないままでも、僕は連絡帳の端へ小さく書いた。

 

《体温計 消毒済み 二十一本。席はそのまま》

 

 誰に見せるわけでもないメモだった。

 でも、こうして書いておかないと、机の隙間も、触れずに残したマグカップの位置も、すぐに別の誰かの手で消えてしまいそうな気がした。

 

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