【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾壱話 ネルフ、誕生


旧ゲヒルン区画の保守倉庫は、資料室より先に限界を迎えていた。

 

 段ボールの角は湿気でふやけ、棚には古い発電機の部品と紙の地図が無造作に押し込まれている。シゲルは床へ這うケーブルの癖に悪態をつき、マコトは非常回線の一覧を紙へ書き写し、マヤは消毒液と包帯の在庫を数え直していた。誰の仕事とも言い切れない仕事が、今夜だけでいくつも積み上がっている。

 

「キーが一本足りません」

 

 マヤが言う。

 

「棚の三段目にあるはずの保守キーです」

 

「地図も一冊ない」

 

 マコトが続ける。

 

「旧地上ルートの手書き補足が入ったやつ」

 

 シゲルが配線の束を持ち上げたまま顔をしかめる。

 

「その三点セット、偶然でなくなる数じゃないですよ」

 

 ミサトは机へ置かれた物を一つずつ見た。キー、地図、回線コード。どれも派手さはない。派手さはないくせに、誰かが外へ出て、戻るつもりで持っていく物ばかりだ。

 

「加持ね」

 

 誰も答えなかった。

 

 答えなくても、今ここにいる全員が同じことを考えているのが分かる。

 

 ミサトは古い補給簿をめくった。水、非常食、乾電池、医療品。数字は並んでいるのに、実際にどこまで使えるかは見に行かないと分からない。ネルフという組織は巨大なくせに、最後のところでいつも人の足と手に頼る。

 

「青葉二尉、予備発電の見込み」

 

「保てて明日いっぱい。保守区画を切ればもう半日延びます」

 

「日向二尉、外回線」

 

「死んでるのが七割。けど短波だけなら何本か拾えます」

 

「伊吹二尉、医療」

 

「包帯と消毒は持ちます。でも輸血系は厳しい。薬も偏ってます」

 

 淡々と返ってくる報告が、やけに現実的だった。世界の秘密より、今夜どこが止まり、どの棚が空になり、誰が明日走らされるかの方が先に来る。

 

 ミサトは補給簿の余白へ、自分で三本線を引いた。保つもの。探しに行くもの。諦めるもの。その三つに分けないと、組織はすぐに綺麗事で膨らみすぎる。

 

「諦めるものなんて書くんですか」

 

 マヤが小さく言う。

 

「書くわよ」

 

 ミサトは目を上げた。

 

「書かないと、全部を守れるふりになるから」

 

 シゲルが一瞬だけ黙った。マコトもペン先を止める。ネルフでそういう言い方をする人間は多くない。多くないからこそ、誰も軽く返せなかった。

 

 そのあとで、リツコがファイルを抱えて入ってきた。表情はいつも通り冷えているのに、疲れだけは隠し切れていない。

 

「ここで泣き言会?」

 

「在庫確認」

 

「似たようなものね」

 

 リツコは机へ古いファイルを置いた。

 

「紙の方が早いものもある。MAGIに聞くより、まず自分の目で見なさい」

 

 言い方はきついが、それが正しいのも事実だった。

 

 ミサトはファイルの表紙を撫でた。ネルフは思想だけで生まれたんじゃない。こういう目録、補給簿、誰かが夜中に引いた線の上に生まれたのだ。大人の執着が組織の形になる時、それはたいてい紙の束と鍵の重さから始まる。

 

 棚の奥には、もっと大きな図面も眠っていた。

 ジオフロント全体の断面図。外殻の圧力分布、地下水の再循環、非常時の空調切替、居住ブロックごとの酸素供給、藻類槽を用いた補助浄化系、停電時にどのシャッターから先に閉めるかの手順。紙の上ではそれぞれ別の線なのに、実際にはどれか一つ欠けても人は眠れず、食べられず、息ができなくなる。

 

「嫌になるくらい、でかいわね」

 

 ミサトが言うと、リツコは乾いた顔で答えた。

 

「でかいのは本部じゃない。必要条件よ」

 

 図面の端には、古い書き込みが残っていた。

 ――冷却循環は三重化。

 ――酸素生成系は二系統停止まで許容。

 ――居住区ブロックCは学童優先。

 ――人工昼夜照明は心理安定のため停止を最終手段とする。

 どれも理屈だけ見れば事務的だ。けれど事務的だからこそ、人間が長く生きるために必要な条件だけが剥き出しになっている。

 

 ジオフロントは、地球の下へ隠れた街というより、地球の中へ作られた宇宙船みたいだった。

 星へ行く代わりに、傷ついた惑星の内側へ潜り込んで、温度と水と空気の帳尻を合わせ続ける巨大な船。光る銀色の外壁も、窓の向こうの星雲もない。あるのはポンプ、配管、交換フィルタ、点検通路、緊急遮断弁、それからそれを夜中に見回る誰かの足音だ。

 

「宇宙船の話みたいね」

 

 ミサトが半分冗談で言うと、リツコは首を振った。

 

「宇宙船の方がまだ夢があるわよ。こっちは一度壊れた地球で、壊れたまま人間を生かすための器官」

 

 器官。

 その言い方の方が正確だった。

 ジオフロントは都市ではあるが、同時に巨大な臓器でもあった。吸い込み、濾過し、循環させ、余分を捨て、足りないものを補う。人が住むから街になるのであって、設計思想そのものはむしろ生理学に近い。どのブロックがどれだけ水を飲み、どの時間帯に熱が上がり、どの病室へ電力を回せば一晩持つか。建築と工学と医学が、ひとつの“生き延びる”へ折り重なっている。

 

 ミサトは図面の上へ指を置いた。

 旧市街から本部へ繋がるサービスシャフト。その横を走る非常搬送路。整備ケージの下を抜けて、居住区へ戻る補助通路。普段は見えない部分ばかりだ。

 

「結局、人間が未来って呼ぶもの、半分くらいは配管なのかもね」

 

「半分どころじゃないわ」

 

 リツコはファイルの別の頁を開いた。

 

「ポンプと予備系統と、故障した時にどこを諦めるかの判断。そこまで含めて未来よ」

 

 その口調は辛辣だったが、どこか諦念に近かった。

 科学の最前線にいる人間ほど、未来を夢で語らない。未来とは、誤差と損耗と保守計画の総体だと知っているからだ。奇跡みたいな新理論が一つあっても、人を一晩眠らせるには毛布と空調と水が要る。その泥臭さを嫌わなかったから、ゲヒルンはあそこまで辿り着けたのだろうし、同じ泥臭さを私欲のために使ったから、ネルフはここまで歪んだ。

 

 図面の最下段には、子どもでも読めるように太い字で書かれた避難手順があった。

 ――照明が落ちたら壁沿いに移動。

 ――呼名に返事。

 ――水は勝手に飲まない。

 ――大人の指示に従う。

 それを見て、ミサトは胸の奥が少し軋むのを感じた。ゲヒルンもネルフも、人類補完計画みたいな大仰な言葉の下で動いていたくせに、最後は子どもへそんな当たり前を守らせる設計に戻ってくる。巨大な思想ほど、末端では「返事をする」「水を勝手に飲まない」みたいな小さな規則の集合へ還元される。

 

「笑えるわね」

 

「何が」

 

「人類の未来が、最後は当番表と避難訓練みたいな顔になるの」

 

 リツコは珍しく否定しなかった。

 

「文明って、そういうものでしょ」

 

 たぶん、その通りなのだ。

 世界の骨格を支えるのは、天才のひらめきだけでは足りない。どの弁をいつ閉めるか、誰が鍵を持つか、余った酸素をどの病室へ回すか、寝不足の保守員がミスをしないよう手順を二重化しておくこと。そういう冗長で退屈な工夫の積み重ねの方が、ずっと長く人を生かす。

 

 そして、その冗長さがそのまま優しさになることもある。

 予備系統があるというのは、故障や失敗を最初から織り込んでいるということだ。人間は壊れるし、判断を誤るし、夜中に泣く。だから一系統で足りる設計は、最初から人間を信用していない。MAGIが三人分の不一致を保存したのも、ジオフロントが三重の循環系を抱えたのも、結局は“ひとつでは足りない”という前提から始まっている。

 

 補完計画だけが、その逆を目指した。

 不一致も冗長も、遠回りも言い直しも、全部なくしたひとつの状態。設計図としては美しいのかもしれない。けれど美しい設計ほど、故障に弱い。揺らぎを許さない系は、一度ずれた時に全部が終わる。人間が生き物である以上、完璧な一系統はたぶんいつか破綻する。

 

 ミサトはようやく、その図面の冷たさが少し好きになれそうだった。

 好きというより、信用できそうだった。ここに書かれているのは救済ではない。失敗を見込んだ設計だ。痛みも損耗もある前提で、それでも今夜を持たせるための線。そういう未来なら、まだ人間の側にある。

 

 

加持と連絡が途絶えてから、ミサトは眠り方を忘れた。

 

 撃たれたらしい、という報告だけが先に届いた。だが現場の映像は肝心な所で途切れ、遺体確認までは上がってこない。死んだと決めるには材料が足りないくせに、仕事だけはその不足ごと現実として進んでいく。そういう不完全さまで、あいつらしいと思ってしまう自分が腹立たしかった。

 

 缶コーヒーの空き缶だけが机の端に増えていく。シャワーを浴びても肌の上の疲れしか落ちない。目を閉じると、最後に見た男の背中ばかりが浮かぶ。泣くには仕事が多すぎたし、仕事に逃げ込むには痛みが具体的すぎた。

 

 そのくせ、妙な欠落が一つだけ残っていた。旧ゲヒルン区画の保守キーが一枚、書庫から消えている。マコトしか知らないはずの非常回線の予備コードも、一系統ぶんだけ抜かれていた。シゲルは「誰かが古い保守網を触ってる」と顔をしかめ、マヤは紙のサービスルート地図が一冊足りないと言った。

 

 そんな夜、加持が置いていったファイルが届いた。

 

 薄い。分厚くはない。けれど雑だ。必要な断片だけを無理やり押し込んだみたいで、あいつらしいと思うと同時に腹も立った。

 

「趣味悪いわね」

 

 資料室で待っていたリツコは、煙草を咥えたまま肩をすくめた。

 

「良く言えば親切、悪く言えば未練」

 

「どっちも嫌」

 

「そう」

 

 リツコはそこで一度だけ煙を吐いた。

 

「死体が上がってこない限り、私は断定しないわ。保守キーも、非常コードも、地図も、今さら偶然で消える数じゃない」

 

「……あいつ、死ぬならもっとちゃんと死にそうで腹立つのよね」

 

 ミサトのその悪態に、リツコは否定もしなかった。

 

 資料室の灯りは白かった。冷たくて、感傷を寄せつけない種類の明るさだ。その下でファイルを開くと、紙の匂いに古い薬品の匂いまで混ざっている気がした。

 

 南極。葛城調査隊。人工進化研究所。ゲヒルン。アダム。碇ユイ。赤木ナオコ。冬月コウゾウ。

 

 断片だけ見ても、嫌になるくらい繋がっている。

 

「父さんは」

 

 ミサトは紙を押さえたまま呟いた。

 

「どこまで知ってたのかしらね」

 

「知ってたから死んだのよ」

 

 リツコの言い方は容赦がない。

 

「知らないで死ぬより、たぶんずっと悪い」

 

 ページをめくる。

 そこには父の筆跡があった。研究者の字だ。急いでいてもどこか整いすぎている。

 

 ――人が神を模倣した瞬間、観測者の倫理は試される。

 ――A.T.フィールドとは、防壁ではなく自己の位相境界である。

 ――境界を保ったまま他者と接続する技術は文明になりうる。境界を消したまま接続を永続させれば、それは救済ではなく統合だ。

 ――神を模倣するというのは、出力を得ることではない。何を一人と数えるか、その定義へ手を入れることだ。

 

 そんな一文が目に入って、ミサトは指先に力を入れた。

 

「試されて、落第したのね」

 

「今も大差ないわ」

 

 リツコが灰皿へ煙草を押しつける。

 それが事実だから、ミサトは反論できなかった。

 

 ネルフは正義の組織じゃない。人類を守る砦なんて言葉で括るには、あまりにも個人的な執着で動いている部分が多すぎる。ユイを失った男。父を失った女。母を越えられなかった娘。喪失と執着が、そのまま組織の骨組みになっている。

 

 そこへ、あの子たちが乗せられている。

 

「最低ね」

 

「今さら?」

 

「今さらよ」

 

 リツコはファイルの束の下から、さらに薄い灰色のバインダを引き抜いた。表紙の打ち出しラベルには〈CHILDREN候補管理 暫定〉とある。

 

 それだけで、ミサトは顔をしかめた。

 

 中には同じ名前が、少しずつ違う項目で何度も並んでいた。

 年齢、血液型、常用薬、保護者連絡先、既往歴。そこまではまだ分かる。だが頁をめくると、その右隣へ別の欄が現れる。同期率予測、精神耐性、代替候補、損耗許容。

 

 同じ子どもを指しているはずなのに、前半は生かすための表で、後半は使うための表だった。

 

「……常用薬と損耗許容を、同じ綴じ方しないでほしいんだけど」

 

 ミサトが言うと、リツコは乾いた声で返した。

 

「記録が悪いわけじゃないわ。記録がないと人はすぐ死ぬ」

 

「でも、分類の仕方で物になる」

 

「そう。項目の立て方ひとつで、人は備品にもなる」

 

 リツコはバインダの中央を指で叩いた。

 

「名前と連絡先と常用薬は、残さないと困る。けど適合率や従順性や損耗許容まで同じ顔で並べ始めた瞬間、もう“守るための紙”じゃない」

 

 ミサトは無意識に、前半の頁だけを手前へ寄せた。後半の頁は裏返した。まだ捨てない。だが、同じ表紙のまま読み進める気にもなれなかった。

 

 記録は人を残す。

 だが分類は、人を物にすることがある。

 ネルフのいやらしさは、たぶんその二つをずっと同じ机の上でやってきたことだ。

 

 別のファイルを開く。今度はMAGI開発初期の記録だった。赤木ナオコのメモ。計算式。走り書きの設計線。途中から混ざる私語みたいな独白。

 

 ――科学者としての私が是と判断する。

 ――女としての私は納得していない。

 ――母としての私は……。

 

 そこで文章が切れている。

 

 そのすぐ脇の設計欄には、通常の計算機の仕様書らしくない説明が走り書きされていた。MAGIは単なる並列計算機ではない。一人の人間の判断を、科学者、女、母という互いに一致しない相へ分け、その不一致ごと最終判断へ残すための器械だ。完全な論理より、矛盾を抱えたままの意思決定の方が現実に近いと、ナオコは本気で信じていたのだろう。

 

 ふつうの計算機なら、こういう食い違いは誤差として潰すはずだ。入力が同じなら出力も一つへ収束する方が効率がいい。けれどMAGIは逆だった。科学者としての是非、女としての執着、母としての保護。それぞれの判断重みを最後まで残し、その衝突そのものを結論の材料にする。意見の一致ではなく、不一致の保存。人間の思考が人間らしいのは、たぶんそこに無駄な揺らぎがあるからだと、ナオコは本気で考えていたのだろう。

 

 だから補完計画が気味悪いのは、世界を一つにしたいからじゃない。そうやって矛盾を抱えたまま“ひとり”であるはずの人間を、数え直そうとしているからだ。科学者でもあり、母でもあり、女でもある。そのどれもが一致しきらないまま一人でいること。それ自体が人間の条件なのに、計画はそこを冗長として削ろうとする。

 

 ネルフが作ってきたものは兵器や防衛網だけじゃない。人間の複数性を、どこまで機械と計画へ埋め込めるかという巨大な実験でもあった。成功したらしたで最悪だし、失敗しても最悪だ。ミサトはそこまで読んで、紙の束が急に生き物の皮みたいに思えてきた。

 

 もし人が一つの矛盾でできているなら、EVAもMAGIも、その矛盾を外から扱うための装置だったのかもしれない。エヴァは自己像をいったんほどいて別の身体へ通す装置。MAGIは自己の中の不一致をそのまま判断機構へ残す装置。どちらも人間を単純な一つとして扱わない。単純でないものを、単純な兵器や単純な計画へ押し込めようとするから、最後には必ずどこかが軋む。

 

 そして補完は、その軋みごと消そうとする。複数の相が衝突したまま一人でいる苦しさを、統合という名で平らに均す。救済に見えるのは、その平面が痛みより先に目へ入るからだ。けれど平面になった世界では、誰が誰を裏切り、誰が誰をまだ好きでいるのかという、ややこしい現実の熱まで一緒に失われる。

 

 人間が面倒なのは、同じ人物の中に複数の評価軸が同時に存在するからだ。正しいと分かっているのに嫌だと思うこともあるし、間違っていると分かっていても手放せないものがある。MAGIが保存したのは計算誤差ではなく、その面倒そのものだった。面倒を抱えたまま判断すること。たぶん文明はそこからしか始まらないし、補完はそこを最短距離で踏み潰す。

 

 科学が人間を扱う時に乱暴になるのは、観測しやすい軸だけを残して、残りを雑音と呼ぶ時だ。けれど人の生は、その雑音の側にこそ本体がある。誰かを許せない遅れ、嫌いになりきれない残差、正論へ追いつかない感情の慣性。MAGIはそういう“モデル化に失敗する部分”を切り捨てずに判断へ組み込んだ。三人の赤木が優れていたのは計算能力より、矛盾を矛盾のまま保持する胆力だったのかもしれない。完全な整合より、不完全なまま動き続ける系の方が、たぶん生命に近い。

 

 人は一つの真理へ収束する存在ではなく、食い違う複数の仮説を抱えたままその都度もっともらしい自分を更新していく。昨日の自分を裏切りながら、それでも同じ名前で暮らしていく。その危うい連続性を、機械の側へ写し取ろうとしたのがMAGIだとしたら、あれは万能計算機というより、失敗し続ける人間性の保存庫だったのかもしれなかった。

 

 リツコはしばらく黙ってその紙を見ていた。

 母の字を見ているというより、母が自分を三つに割って機械へ押し込んだ時の呼吸を想像している顔だった。

 

「母は、全部正しいと思ってたわ」

 

「あなたは違うの?」

 

「違うと言い切れるほど上等じゃない」

 

 その答えは珍しく正直だった。

 

 資料室の空調が低く鳴る。

 ミサトはファイルの底から、小さな写真を引き抜いた。若い冬月、痩せたリツコ、それから見覚えのない黒髪の女が写っている。

 

「これ、碇ユイ?」

 

「そう」

 

 リツコの声がほんの少し変わった。

 

「人を引きつける人だったらしいわ。私はほとんど覚えてないけど」

 

 写真の女は笑っていた。特別なポーズでもないのに、妙に目が離せない。こういう人が中心に立つと、周りの人間は自分の人生まで少しずつ巻き込まれていくのかもしれないと、ミサトはぼんやり思った。

 

 ファイルの後半には、冬月自身のメモらしい断片が挟まっていた。

 

 雪の残る京都。老教授の研究室。学生たちのざわめき。冬月は当時、人工進化研究所へ出入りする若い研究者たちを、まとめて少し胡散臭いと思っていた。

 

 その中で、碇ユイだけは別の意味で厄介だった。

 

 頭が切れる。感情的。人の話を聞いているようで聞いていない。科学の話をしているつもりの場へ、急に倫理や幸福の話を持ち込む。若いくせに、人の人生へ平然と土足で入ってくる。

 

 鬱陶しい、と冬月は最初に思った。

 だが、その鬱陶しさを青臭さで片づけるには、ユイは少しばかり賢すぎた。

 

 そして、その女の隣にいた碇ゲンドウは最初から危うかった。

 

 野心がある。

 胡散臭い。

 だが何より、一人の人間としての輪郭が薄い。

 

 強い理念を持った女の隣へ、ああいう男が立つ時、対等な愛になることはあまりない。依存が愛の顔をして絡みつく。

 

 冬月はそれを見ていた。見ていながら、止めなかった。

 止めなかった結果が、ゲヒルンであり、ネルフであり、今の地下都市だ。

 

「嫌な組み合わせね」

 

 ミサトが言う。

 

「最高に嫌な組み合わせ」

 

 リツコも頷いた。

 

 記録はやがて、ユイの結婚と、冬月の失望と、南極へ向かう計画へ繋がっていた。葛城調査隊の目的。アダム接触実験。セカンドインパクト。世界の終わりが、一冊のファイルの中ではあまりにも事務的に処理されている。

 

「こんなものなのね」

 

 ミサトは笑いそうになって、笑えなかった。

 

「父さんが死んだのも、世界が半分吹き飛んだのも、紙の上だとただの因果関係」

 

「紙の上ではね」

 

 リツコはそう言ってから、声を少し落とした。

 

「実際には、その後に残った人間が全部を歪めた」

 

 ユイが消えたあと、ゲンドウは研究機関の顔ではいられなくなった。人類の未来を語るはずの組織の中心で、ただ一人、個人的な喪失だけを燃料にして動く男になった。

 

 ナオコはMAGIへ自分を分割し、リツコはその完成を引き継いだ。ミサトは父の死の続きを追ってネルフへ入り、加持はそれぞれの嘘を中継する役を引き受けた。

 

 誰も“人類のためだけ”でここにいるわけじゃない。

 

「だから最低なのよ」

 

 ミサトはファイルを閉じた。

 

「子どもを乗せる理由まで、全部大人の都合じゃない」

 

 リツコはわずかに目を伏せた。

 

「それでも現場は回る」

 

「回るから嫌なの」

 

「分かってる」

 

 その“分かってる”が、今日のリツコには珍しく空疎ではなかった。

 

 資料室を出る時、ミサトはふいに立ち止まった。

 

「ねえ、リツコ」

 

「なに」

 

「シンジ君ってさ」

 

「うん」

 

「あの子、ここがどういう場所か、どこまで分かってるのかしら」

 

 リツコは少し考えた。

 

「分かっていない方が多いでしょうね」

 

「そうよね」

 

「でも、分かっていないなりに、何か別の重さは知ってる顔をしてる」

 

 その言い方が、胸へ引っかかった。

 ミサトも同じことを思っていたからだ。

 

 碇シンジは時々、十四歳の少年とは思えないほど疲れた目をする。かと思えば次の瞬間には、本当に十四歳らしい顔で怒ったり怯えたりする。その落差が、見ていて不安になる。

 

 エレベーターを待つ間、ミサトはファイルを胸に抱えた。

 

 ネルフは何から生まれたのか。

 人類補完計画。ゲヒルン。MAGI。セカンドインパクト。色々な答え方はあるだろう。

 

 でも実際には、もっと小さくて醜いものだ。

 

 喪失。

 執着。

 諦め損ねた願い。

 取り戻したいという、あまりにも個人的な欲望。

 

 それが巨大組織の顔を被っただけだ。

 

「……帰るわ」

 

 ミサトが言うと、リツコは珍しく止めなかった。

 

「ちゃんと横になりなさい」

 

「無理」

 

「それでも」

 

 帰宅した部屋は静かだった。シンジは眠っている時間だろう。アスカの部屋も、今は空っぽのままだ。襖が閉じているだけで、そこに人がいないと分かるのは嫌な感じだった。

 

 ミサトは冷蔵庫からビールを出しかけて、やめた。代わりに水を飲む。そんな自分が少し可笑しい。

 

 廊下の向こう、シンジの部屋の襖が閉まっている。

 その向こうで眠る少年は、明日もまたエヴァに乗るのだろう。ここが何から生まれた場所か、全部は知らないままに。

 

 それがたまらなく嫌で、同時に、今はまだ知らなくていいとも思った。

 

 ネルフは、人類の砦なんかじゃない。

 それでも、せめてあの子たちがここで壊れきらないようにすることくらいは、大人の仕事であるはずだった。

 

 ファイルを封筒へ分け終えたあとも、僕はしばらく食卓を離れられなかった。

 

 受信機の周波数表と学校の見取り図を並べて見ていると、別の紙にしか見えないものが少しずつ同じ街の中で重なっていく。教室の位置、保健室の扉、屋上のタンク。そこへ短波の周波数と中継所の番号を書き込んでいくと、学校はただの学校じゃなくなる。誰かが寝て、誰かが怪我をして、誰かが無事を知らせるための結節点になる。

 

「気になる?」

 

 ミサトさんが流しへコップを置きながら訊いた。

 

「うん」

 

「どのへんが」

 

 僕は周波数表の端を指で押さえた。

 

「こういう古い無線まで残してるの、なんでだろうって」

 

「最後まで残るのが古いからよ」

 

 ミサトさんはあっさり言った。

 

「派手で高度なものほど、死ぬ時はまとめて死ぬ。衛星も専用回線も、立派なシステムも。けど短波は、空と海と山の機嫌が悪くなければ、案外しぶとく返ってくる」

 

 彼女は学校の見取り図の上へ、別の紙の地図を重ねた。第三新東京市の簡略図。旧発令所、昇降シャフト、地上の変電所、海沿いの中継点。赤鉛筆で細い線が何本も引かれている。

 

「この街ってね」

 

 ミサトさんは、地図の中心を爪で叩いた。

 

「表向きは要塞都市だけど、実際にはもっといやらしい。電気を送る線、命令を返す線、冷却と循環の線、人を逃がす線、エヴァを上げる線。そういう“通すもの”の束で出来てる」

 

 言われてみれば、そうだった。僕が見てきたネルフはいつも巨大だった。射出口も、昇降路も、ケーブルも、発令所のモニタも。巨大すぎて景色にしか見えなかった。

 

「一機のエヴァを地上へ出して、狙わせて、戻すまでに要るもの全部を、街の形へ引き延ばしたのが第三新東京市なの」

 

 ミサトさんは少しだけ苦笑した。

 

「ロボットアニメの秘密基地って、もっと夢があるもんだけどね」

 

「十分、すごいと思う」

 

 口にしてから、変な言い方だと思った。でも本当だった。

 

 巨大な地面の下へ街が沈み、山肌が開いて射出台が現れる。送電塔が骨みたいに立ち、ケーブルの束が地下を走り、発令所の誰かが一秒単位で全部を繋ぐ。怖い。怖いけれど、それでもどこかで目を奪われる。こういうのをたぶん、ただ巨大だからという理由以上に、人は見上げてしまうのだ。

 

 町全体が、一体の巨人を動かすための前庭だった。

 その事実はずっと不気味で、でも同時に、どうしようもなく美しかった。

 

「すごいのよ」

 

 ミサトさんは肩をすくめる。

 

「すごいけど、すごさとまともさは別」

 

「うん」

 

「人類の未来とか神の力とか、大きい言葉は色々ある。でも現場でやってることは、結局“どこまで電気が届くか”“どの回線が死んだか”“誰が戻れるか”なのよ」

 

 地図の端には小さな中継所の記号が並んでいた。海沿い。病院の上。学校の近く。旧市街の変電所。

 どれも戦闘のための設備として作られたはずなのに、今こうして見ていると、別の顔が浮かぶ。そこを人の声が通り、誰かの無事が届き、帰る先の目印になる。

 

「同じ線で、今度は人を繋ぐんですね」

 

 僕が言うと、ミサトさんは少しだけ目を細めた。

 

「そう。エヴァのために作った街でも、エヴァ以外に使っちゃいけない理由はないでしょ」

 

 冷めかけた味噌汁の表面へ薄い膜が張る。

 その向こうで、地図の線は静かに交差している。

 

 昔の科学小説には、都市全体が一つの器械みたいに描かれる話がよくあった。送電網、気密扉、地下鉄、通信塔、発振器。巨大な仕組みが動き出すたび、日常の裏側に別の世界が顔を出すような感じ。今、目の前にある第三新東京市の地図は、たぶんそういう顔をしていた。

 ただ違うのは、その仕組みの中心にいたのが僕たちみたいな子どもだったことだ。

 

 大きすぎる機械は、人を簡単に部品に見せる。

 でも、今は逆に思う。同じ配線図の上へ学校や病院や家の印を書き足していくと、街の方が少し人間に近づいていく。エヴァのための線だったものが、人の生活へ折り返してくる。その書き換えの途中に今の僕たちはいるのだ。

 

「これ」

 

 僕は周波数表を持ち上げた。

 

「学校で使ってもいい?」

 

「もちろん」

 

 ミサトさんは即答した。

 

「あと、線は一本で足りると思わないこと。機械も人間も、予備がないと止まるから」

 

 その一言が、書類の話なのか、もっと別の話なのかは分からなかった。

 でも僕は黙って頷いた。

 

 同じ頃、冬月は司令室の片隅で、一枚の古い写真を見ていた。

 

 京都時代のものだ。若い自分、まだ痩せていたユイ、そして少し離れて立つゲンドウ。全員がまだ、これから先の二十年で何を失うか知らない顔をしている。

 

「愚かだな」

 

 誰に向けたともつかない独り言が漏れる。

 

 愚かなのは、碇ユイの才能へ惹かれたゲンドウか。止めなかった自分か。娘を科学者として育てたつもりで、女として傷つかせる道まで用意してしまったナオコか。

 

 あるいは、その全部か。

 

 冬月は今になってようやく、自分が随分長い共犯者の人生を送ってきたのだと嫌でも自覚する。

 

 その共犯の上へ、今はあの少年たちが乗せられている。

 だからこそ、碇シンジの“父親に似ていない歪み方”が気になった。

 

 息子は父と違って、空っぽではない。

 むしろ持ちすぎている。

 持ちすぎているから、削り方を間違える。

 

「お前は何を見ている」

 

 問いはもう、本人に届く距離ではない。

 それでも冬月は、老いた目で地下の暗がりを見つめた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 その週の夜、ミサトさんは珍しく書類箱を三つも家へ持ち帰った。

 

 段ボールではなく、古いプラスチックのファイルケースだ。取っ手の所へ色褪せたラベルが貼られている。旧備品台帳、非常通信、外部補給。どれも一見すると地味で、なのに今はやけに重そうな名前ばかりだった。

 

「手、空いてる?」

 

「空いてます」

 

「じゃあ手伝って。今夜はメロンじゃなくて紙仕事」

 

 冗談めかして言うくせに、ミサトさんの目は少しも笑っていない。僕は食卓の片側を片づけ、ファイルケースを順番に並べた。中から出てきたのは地図、回線表、在庫票、手書きの補足メモ。それにホチキスの針で留めただけの雑な綴じ込み資料だ。

 

「こういうの、ネルフにもあるんだ」

 

「むしろ、こういうのばっかりよ」

 

 ミサトさんはジャケットを脱ぎながら答えた。

 

「巨大組織ってね、最後は紙と鍵と誰がどこへ走るかで回るの」

 

 台所の鍋では味噌汁が温め直されていた。書類と湯気が同じ食卓へ乗る。そこに夕飯の箸まで並ぶと、戦争準備なのか家事なのか分からなくなる。

 

「これ、どう分けるんですか」

 

「残すもの、持ち出せるもの、もう切るもの」

 

 ミサトさんはペンで三本線を引いた。僕はその横へ書類を置いていく。紙の地図は持ち出せる。古い会議録は残す。切るものの束には、既に死んでいる外線と使えない倉庫鍵の一覧が入った。

 

「諦めるものまで書くんですね」

 

「書かないと、全部守れるふりになるから」

 

 その言い方を、どこかで聞いた気がした。たぶん発令所の空気の中で、最近何度も似たものに触れているのだろう。守れない物を先に線引きする。残酷だけど、その残酷さがないと、残せる物まで一緒に沈む。

 

 僕は外部補給のファイルをめくった。水、乾パン、電池、包帯、紙コップ。数字と保管場所が列になっている。そこへ赤字で『現物確認要』『現地不明』『搬出優先』と書き足されていた。紙の上の線だけで、すでに誰かが何度も迷い、諦め、残そうとした跡が見える。

 

「これ、学校にも関係ありますか」

 

「あるわよ」

 

 ミサトさんは即答した。

 

「学校は人を集めやすいし、教室の数もある。水さえ持てば小さい拠点になる。だから見取り図と鍵の情報が要る」

 

 そう言って別紙を抜いた拍子に、もう一枚、薄い一覧表が滑り落ちた。

 拾い上げると、第一中学校在籍者の連絡先と既往歴が並んだ名簿だった。だが頁の下半分には、別の欄が付いている。精神傾向、適応予測、予備適性。見慣れた学校の名前の隣に、急にネルフの字が混ざる。

 

「……これも学校用?」

 

 僕が訊くと、ミサトさんは一瞬だけ言葉を切った。

 

「表はね」

 

「表?」

 

「連絡先と持病と、誰が何に気をつけるかっていう欄までは使う。そういうのは、戻すための情報だから」

 

 ミサトさんは紙の下半分を指で隠した。

 

「でも、その先は別。誰が何に向いてるとか、どこまで壊れても動けるとか、そういう書き方は人を助ける時の顔じゃない」

 

 僕は名簿を見たまま動けなかった。

 同じ名前でも、書かれ方が違うだけでまるで別の紙みたいだったからだ。

 

「人の名前って、書いてあれば残るわけじゃないんですね」

 

 思わずそう言うと、ミサトさんは苦く笑った。

 

「残るわよ。でも、何として残すかで全然違う」

 

 彼女はその一覧を三つの封筒のうち、〈明日また確認するもの〉へ入れた。

 今夜のうちに決めきれない紙は、せめて家の食卓の上で“即決しない”所へ逃がすしかない。

 

 学校がただの学校じゃなく聞こえる。

 けれど、最近のヒカリやケンスケの動きを見ていると、それが大げさな想像ばかりでもない気がした。

 

 僕は見取り図のコピーを一枚取り分けた。昇降口、階段、理科室、保健室、屋上。教室の配置は知っている。でも、備蓄庫や屋上の給水設備まではまだ知らない。

 

「それ、気になる?」

 

「うん」

 

「じゃあ折り畳んで持ちなさい。大きいままだと使えない」

 

 ミサトさんは地図の端を二つ折り、さらに半分へ折った。ポケットに入る大きさだ。大きな情報を持ち歩ける形へ畳む。その手つきが、最近はやけに大事に見える。

 

 ファイルの底から、短波受信機の周波数表が出てきた。数字の並びは意味が分からない。けれど横に青葉さんの字で、『学校へ回すなら三系統で十分』『子どもにはこれ以上多いと混乱』と書き添えてある。

 

「子どもって」

 

 思わず口にすると、ミサトさんは僕の顔を見た。

 

「子どもでしょ」

 

「まあ」

 

「変なとこで納得するのね」

 

 そう言いながら、彼女は封筒へ周波数表のコピーを二枚入れた。一枚は学校用、一枚は家用。家用と学校用が同列に置かれることが、少し怖い。

 

 食事の途中、僕はふと訊いた。

 

「加持さんって、こういうのも見てたんですか」

 

「見てた」

 

 ミサトさんは箸を止めないまま答えた。

 

「地図、鍵、回線。派手じゃないけど、最後に効く物ばっかり」

 

「そうなんだ」

 

「だから腹立つのよ。こういうメモ見るたび、あいつの雑な字まで思い出すから」

 

 悪態なのに、そこへ混ざる疲れは隠しきれていなかった。僕は何も言えず、代わりにファイルから出てきた古いメモを整えた。『水は重い。帰り道まで考えろ』『電池は分けろ』『表は一枚にまとめるな』。どれも乱暴な字で、でも内容だけはまともすぎる。

 

 食後、僕たちは書類を三つの封筒へ分けた。

 残すもの。

 持ち出せるもの。

 明日また確認するもの。

 

 僕の手元には、学校の見取り図と受信機の周波数表、それから保健室に置けそうな備品の一覧が残った。紙の束としては薄い。なのに、持って帰る物の重さとしては十分だった。

 

「明日、委員長に見せてもいいですか?」

 

「必要なら」

 

「必要です。」

 

「なら見せなさい」

 

 ミサトさんはそう言って、最後のファイルを閉じた。

 

 台所を片づける頃には、夜がだいぶ深かった。流しの横には洗った弁当箱、食卓には折り畳んだ地図、玄関脇の棚には非常袋と補助錠の鍵。その並びを見ていると、家も学校も本部も、最近は同じ種類の手つきで繋がっていく気がする。

 

 寝る前に、僕はポケットへ折り畳んだ地図を一度だけ入れてみた。ちゃんと入る。入るだけで、明日の学校が少し違って見えた。

 

 戻る場所というのは、たぶん最初から一つじゃない。

 家へ戻る。

 学校へ戻る。

 病院へ寄る。

 そういう複数の帰り道を、紙一枚の中へ畳んで持つしかない時もあるのだと思った。

 

 

 同じ頃、冬月は司令室へ戻る前に、食卓へ置かれた三つの封筒を思い出していた。

 

 残すもの。持ち出せるもの。明日また確認するもの。

 それは研究者の分類ではなく、生活者の分類だ。ネルフが何から生まれたかを知る老人の目には、その三分類の方がよほど残酷で、よほど正直に見えた。

 

 組織は理念で始まるのかもしれない。

 だが、終わりに近づいた時に人を支えるのは、結局そういう封筒の分け方なのだと、冬月は嫌でも知っていた。

 

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