日付が変わる少し前、学校と家と本部では、別々の場所で似たような紙が増えていた。
* * *
ヒカリは、職員室から借りた名簿を教室の机へ広げていた。
窓は半分だけ開け、廊下の灯りを借りる。夜の学校は昼より狭く見える。足音が一つ鳴るだけで、教室全部がそれを聞く。そんな場所で、ヒカリは一人ずつ名前の横へ鉛筆で小さな印をつけていった。
来られる人。
遅れる人。
夜番不可。
保健室補助。
探索班予備。
そのどれにも、今の惣流・アスカ・ラングレーは綺麗に入らない。病院にいるから欠席、と書けば簡単だ。簡単すぎて腹が立った。
ヒカリは鉛筆の先を、その行で止めた。
「委員長、そこ空いてるぞ」
ケンスケが教室の戸口から顔を出した。両手に折り畳み椅子を二脚ずつ持っている。数の割に、持ち方は思ったより雑だった。
「椅子、どこ置く?」
「一番後ろ。通路塞がないで」
「はいはい」
「はいは一回」
「最近それ好きだな」
ケンスケは笑いながらも、言われた通り椅子を壁際へ揃えた。続けて、袋から電池の束と短波ラジオを取り出す。昼間はふざけ半分で触っていたくせに、夜になると妙に真面目な顔になるのがこの男のずるいところだ。
「ラジオ、窓際の方が入りいいぞ」
「落とさない所」
「じゃあ教卓の横か」
「そこ。あと、紙コップも一緒に」
「学校で紙コップ?」
「使うでしょ。夜に誰か座り込んだ時」
ケンスケは一瞬だけ黙り、それから名簿の方を覗き込んだ。
「埋めないのかよ。夜番、人数きついだろ」
「だからって“欠”にはしないわよ」
「でも、今はいないじゃん」
「いないのと、消すのは違う」
自分でも少し強すぎる声だと思った。けれど、引っ込める気にはなれない。
ヒカリは欄の左端へ小さく印をつけ、そのまま何も書かなかった。空白は、書いた文字より目立った。
「戻る場所なんだから」
それだけ言って、黒板の方へ向き直る。
ヒカリは次に、黒板の端へ小さな表を書いた。見張り、給湯、保健、片付け。まだ仮の表だ。仮のくせに、名前を書き始めると急に教室の空気が現実になる。
見張り、給湯、保健、片付け。四つの列へ名前が入るたび、黒板は少しだけ発令所の作戦ボードみたいになった。使徒警報の時に遠くから聞いた怒鳴り声や、誰がどの避難路を押さえるかという早口の確認が、学校サイズへ縮んでここに戻ってきた感じがする。ヒカリはそれを嫌がるでも格好つけるでもなく、ただ必要だから書いている顔をしていた。
「自分の名前、勝手に書いたぞ」
ケンスケが言う。
「知ってる」
「いいのかよ」
「見張り言い出したの、相田君でしょ」
「まあ」
悪くない気分なのか、ケンスケはそれ以上文句を言わなかった。ヒカリはチョークを置き、名簿の端へ『椅子十二』『毛布四』『ラジオ一』『電池十分』と書き足した。続けて『おにぎり六』『紙コップ十二』と追記する。足りないものばかりだ。でも、足りないまま夜を迎えるより、足りないと分かっている方がましだった。
「見張り、俺とトウジで一回長めに回すわ」
ケンスケが言う。
「碇は病院だろ」
「相田君、勝手に決めないで」
「じゃあ委員長が決めろよ」
ヒカリは名簿を閉じた。
決める、という言葉が今夜やけに重い。けれど重いからといって、誰かがやらないわけにはいかない。
「決めるわよ」
黒板の前へ立ち、見張り・給湯・保健・片付けの欄を見渡す。
「でも先に決めるのは、誰が働けるかじゃない。誰を寝かせるかよ」
教室が静かになった。
人手として見れば、今の名簿は穴だらけだ。シンジの欄には病院往復、アスカの欄には空白、家族の手伝いで夜が難しい子もいる。穴の少ない表だけを作るなら、人をもっと乱暴に扱えばいい。けれど今ここで必要なのは、穴のあるまま、人が壊れない順番を考える表の方だった。
教室の後ろで、トウジが買ってきた夜食の袋が鳴った。窓の向こうでは、波の音に似た夜風がガラスを震わせている。ヒカリはその音を聞きながら、空白のまま残した一行をもう一度だけ見た。
書かないことでしか守れないものも、たぶんある。
* * *
ミサトの家では、夜食の鍋が小さく鳴っていた。
味噌汁の具はじゃがいもと玉ねぎだけ。遅く帰った日はそれで十分だと、最近は二人とも分かり始めている。シンジは食卓の上で明日の弁当箱を拭き、ミサトは薬局で買った消毒液と絆創膏を小分けにしていた。
「それ、どこに置くんですか」
「家用と学校用と、病院寄る時用」
答えながら、ミサトはポーチを三つ並べる。どれも百円ショップで買った安い物だ。赤いファスナーの方へ消毒液と絆創膏、青い方へ紙石けんとティッシュ、透明な方へ体温計とメモ帳。色で分けると迷いが減る。
「そんなに要るんですか」
「要る時は一気に要る」
シンジは弁当箱のゴムをかけ終え、次に箸箱を拭いた。動きが無駄に丁寧だ。何か考え込んでいる時ほど、手元だけ正確になるのがこの子の癖だとミサトはもう知っていた。
「明日、どこから行くの」
「学校」
「病院は」
「放課後」
「本部は」
そこでシンジの手が一瞬止まる。
「呼ばれたら」
学校、病院、家。本当はそれにもう一つ、エヴァの順番が無遠慮に割り込んでくる。初号機の定期起動実験、シンクロ率の再測定、LCL循環系の洗浄。そういう発令所の都合は、味噌汁や弁当箱の隣へ平気で並ぶ。この街で暮らすというのは、たぶん最初からそういうことなのだ。
「そう」
呼ばれたら行く。行くけれど、その前に学校へ行き、放課後に病院へ寄る。そういう順番を口にできるようになっただけでも、少し前のこの子からすれば前進だ。
ミサトは小さな封筒へ十円玉を入れ、弁当箱の横へ置いた。シンジは何も言わない。言わないまま、その封筒を自分の定期入れの裏へ差し込む。
「病院のメモ、更新した?」
「紙コップとゼリー、あと体温計の綿が少し」
「学校の方は」
「ラジオ一台。電池はまだある」
報告が、もう半分業務だ。十四歳の会話じゃないと思う。でも、それを十四歳じゃないと言って取り上げても、今はあまり意味がない。
味噌汁をよそいながら、ミサトはふと思う。家で鍋を温めることと、病院で紙コップを数えることと、学校で当番表を書くことは、本当はそんなに遠い行為じゃないのかもしれない。誰かが明日もそこにいられるように、小さい不足を前の日のうちに埋める。それだけの話だ。
「ミサトさん」
「なに」
「これ、学校に置いといてもいいですか」
シンジが差し出したのは、小さな懐中電灯だった。最初に持たされた非常袋へ入っていた、銀色の筒。
「予備電池も一緒に」
「いいわよ」
「誰かが使うかもしれないから」
誰か。その言い方に、アスカもヒカリもトウジも綾波も、たぶん全部入っているのだろう。
ミサトは頷き、ライトの裏へ小さく名前を書いた。物は名前がある方が戻ってくる。戻ってこなくても、どこから来たかは残る。
* * *
本部の中央管制では、マコトが回線表を三枚に書き写していた。
副モニタには第壱ケージと第弐ケージの映像が小さく残り、発進シークエンス用の数字だけが焼きついたように光っていた。誰もその画面を見ないふりをして、学校用の回線と病院用の周波数だけを抜き出していく。エヴァの発進準備に使うはずだった手つきが、今は名簿と見取り図と避難経路のために使われていた。
学校用。病院用。自宅保管用。シゲルが横から「情報絞れ」と口を出し、マヤが医務区画から上がってきて包帯と紙コップの在庫数を小声で伝える。誰も大きな声を出さない。大きな声を出すと、今ここにない人の分まで騒音になる気がしたからだ。
「この周波数だけ残します」
マコトが言う。
「子どもが持つなら三系統で充分です」
「地図は?」
「こっち。屋上と昇降口と保健室だけ赤で」
シゲルがコピー用紙の上へ赤線を引く。複雑な全体図は捨て、使う場所だけ残す。情報も荷物も、最後は持てる形に折り畳まないと意味がない。
マヤはその横で、病院行きの小袋へガーゼと綿棒を詰めていた。ふと手を止め、小さく息を吐く。
「学校って、本当に使うことになるんでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
やがてマコトが、紙を揃えながら言う。
「使わないなら、それが一番いい」
「でも、使う時に何もないのが一番困る」
シゲルの言い方はぶっきらぼうだったが、その通りだった。
回線表が三枚揃う。赤線を引いた見取り図が乾く。紙コップとガーゼの袋が机の端へ積まれる。それは世界を救うような仕事じゃない。けれど、救われたあとに人がどう生きるかを支えるには、そういう物の方がずっと長持ちするのだと、今夜の本部にいる大人たちは誰よりよく知っていた。