【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

27 / 41
第弐拾弐話 せめて、人間らしく

使徒の出現が少し遠のいたしばらくのあいだ、僕たちの毎日はやけに日常的だった。

 

 普通と言っても、仲良しになったとか、急に何もかも上手くいくようになったとか、そういう話じゃない。

 相変わらず喧嘩はするし、食卓ではすぐ険悪になるし、学校で顔を合わせれば半分くらいは嫌味の応酬になる。

 

 でも、前ならそこで終わっていた。

 終わっていたはずのものが、最近はそのまま次の場面まで続くようになっていた。

 

 朝、僕が先に家を出ても、駅の手前で結局アスカに追いつかれる。

 

「ちょっと、歩くの速い」

 

「速くないよ」

 

「嘘。置いてく気でしょ」

 

 言いがかりだと思う。

 でも追いつかれたあとで僕が少しだけ歩幅を緩めると、アスカは何も言わずその速度に合わせる。

 

 改札を抜ける時、僕が定期を落として、アスカが舌打ちしながら拾う。

 

「ほんっと鈍い」

 

「ありがとう」

 

「お礼言うくらいなら最初から落とさないで」

 

 そういう、どうでもいい小さなやり取りが増えた。

 

 食卓では相変わらず、僕の皿から卵焼きが一本消える。

 

「それ僕の」

 

「知ってる」

 

「じゃあ取るなよ」

 

「遅いのが悪いの」

 

 文句を言いながら、アスカは自分の皿に残っていたブロッコリーをこっちへ押しつけてくる。

 割に合っているのかいないのか分からない交換だ。

 

 夜、ミサトさんの帰りが遅い日は、二人で台所へ立つ。

 アスカは包丁を持つとやたら力む。玉ねぎの切り方が大きい。僕が直すと嫌な顔をする。でも嫌な顔をしたまま横へどかない。

 

「ちょっと貸して」

 

「何よ、あたしだってできるわよ」

 

「できてないから言ってる」

 

「むかつく」

 

 それでも、炒めた野菜へ塩を入れる役だけは渡してこない。

 妙なところで譲らない。

 

 食後、ミサトさんがまだ戻らないと、アスカは缶ビールを一口だけ飲んで顔をしかめる。

 僕が呆れると、「不味いのに何で大人ってあんなに飲むの」と本気で不思議そうに言う。

 

 アスカはすぐ缶の縁から口を離し、眉間へ深い皺を寄せた。

 そのたび、台所の蛍光灯の下には、戦うためじゃないアスカがちゃんと残っていると思えた。

 

 学校でも、変化は小さいのに目立った。

 

 放課後、委員長が教壇の前に立って名簿を開いた。

「今日は備品箱の確認をします。三年A組は私たちが担当だから」

 教室の空気が少し硬くなる。ダンボール箱から乾電池や携帯ラジオ、懐中電灯が机の上に並べられた。ケンスケが腕まくりをして手際よく電池を並べ、使用期限を読んでいく。

「綾波さんはライト二本、碇君とアスカはラジオと電池、相田君は箱の整理、鈴原は地図係ね」

 委員長が短く指示する。僕は重いダンボールを抱え上げようとして腕が震えた。すぐ横からアスカが支えの手を差し出す。

「ばか、そんな持ち方したら中身崩れるわよ。半分貸しなさい」

 二人で箱を運び、空いた机にそっと置く。腕にかかる重さが少し軽くなった。同時に、手放したはずの責任が別の形で指先に残る。

 ケンスケはダイヤルを回し、雑音の奥に何かの声が混じった。「聞こえる? 混線してるけど、学校の放送が入ってくるらしいぜ」

 アスカは電池を手早く並べ替え、使用期限の近いものを箱の手前に寄せた。「これ、古いやつから使いなさいよ」と誰に言うともなく呟く。委員長が「助かる」と言って一覧表にチェックを入れた。

 トウジは見取り図を広げ、出入口の位置を指で追っている。「こっちの廊下、前は封鎖されとったけど今は通れるんか?」と首を傾げる。

 笑いが起きる。笑っている間も手は止まらない。僕はラジオの電池を入れ替えながら、今日のこの作業がただの練習ではなく、終わりに続く何かの始まりだと肌で理解し始めていた。

 

 

 その日の最後に、委員長は僕たちを屋上へ上げた。

 

「見張り表、机の上だけで作っても意味ないから。実際に見える範囲を確認するの」

 

 夕方の風が強い。フェンス越しに校庭と商店街の屋根が見え、その先には第三新東京市のビル群が斜めの光を返している。ケンスケは双眼鏡を首から提げ、委員長はクリップボードへ方角と時間を書き込み、アスカは屋上の端から端まで歩いて足場を確かめた。

 

「ここ、夜だと暗い」

 

 アスカが階段口の横を指す。

 

「ライト置くならフェンス側じゃなくてこっち。風で落ちる」

 

「了解」

 

 委員長が即座にメモする。そういう時だけ、二人は無駄にぶつからない。正しさの向きが少し似ているのかもしれないと、最近は思う。

 

 ケンスケが双眼鏡を渡してきた。

 

「駅前、まだ見える。あと南側の道路、ここからだと角が死角だ」

 

 覗くと、本当に死角ができていた。紙の地図だけでは分からない曲がり方だ。委員長はそれを見取り図の端へ書き足し、僕はライトをどこへ置けば影が伸びすぎないか試した。

 

 風で髪が乱れる。フェンスが低く鳴る。校舎の窓ガラスの割れた所だけが、夕日を変な角度で返した。

 

「碇君、そこで立ったら下から見えない」

 

 委員長に言われて一歩ずれる。

 

「見張るなら、自分の足場も相手からの見え方も考える」

 

 なるほどと思う。見張るという行為一つにも、立ち位置と荷物と視界の段取りがある。

 

 アスカはフェンス際へ立ち、商店街の屋根を眺めたあとで僕の腕からラジオを取った。

 

「アンテナ、こっちに向ける」

 

「聞こえる?」

 

「まだノイズ。でも角度はこっち」

 

 彼女はラジオを胸の高さへ上げ、ほんの少し傾けた。雑音の中に短い音声が混じる。言葉としては拾えない。でも完全な無音よりずっとましだ。

 

「こういうの、学校っぽくないよね」

 

 ケンスケが言った。

 

「放課後にやることが、見張り位置と受信状態の確認だぜ」

 

「学校やからやるの」

 

 委員長がクリップボードから目を上げずに返した。

 

「人が集まる場所なら、見張りも要るし、誰が何を見るかも決めないと回らないでしょ」

 

 その言い方に、僕は息を飲んだ。今はまだ訓練のつもりで聞いていられる。けれど、いずれ本当に学校を回す時が来たら、この屋上の風景ごと必要になるのだろう。

 

 帰り際、アスカがフェンスへ貼られた古い避難図をはがしかけて、やめた。

 

「新しいの描くなら、これも残しとく」

 

「見にくいよ」

 

「前の印があった方が直しやすい」

 

 そう言って、彼女は避難図の端だけを押さえ直した。古い線の上へ、新しい線を引く。その考え方は、たぶん学校にも、僕たち自身にも少し似ていた。

 

 

 体育の後、トウジがニヤニヤしながら僕を小突く。

 

「なんや、お前ら最近よう一緒におるな」

 

「別に」

 

「その“別に”は怪しいんやて」

 

 ケンスケまで妙な顔で頷く。

 

「惣流、最近わりとお前待ってるし」

 

「待ってないわよ!」

 

 教室の後ろからアスカが噛みつく。

 噛みつくのが早すぎて、余計に図星みたいだった。

 

 ヒカリはいつも通り言った。

 

「アスカ、プリント回して」

 

 アスカは面倒そうに眉を寄せただけで、もうその呼び方にいちいち引っかからなかった。

 放課後ヒカリと並んで歩く時の距離も、前よりずっと近い。

 

 それとは別に、学校の方も最近は少しずつ変な実務が増えていた。

 

 停電のあと、教頭が「非常用品の所在くらいは把握しておけ」と言い出し、放課後に各クラスから数人ずつ残されるようになったのだ。懐中電灯、乾電池、救急箱、携帯ラジオ、毛布。黒板の端には委員長がチョークで表を引き、どの教室に何があるかを書きつけていく。

 

「碇君、理科準備室の電池。鈴原は倉庫。相田君はラジオ入るか確認。アスカは見張り表、字大きくね」

 

「なんであたしが表書き係なのよ」

 

「一番読めるから」

 

 委員長に即答され、アスカが露骨に嫌そうな顔をする。それでも教卓の前へ立つと、チョークは迷わず動いた。職員室、保健室、昇降口、屋上。見回りの時間と担当を、余白もほとんど残さず書き込んでいく。こういう時だけ、アスカの字はやけに早い。

 

 僕は理科準備室から単一電池の箱を二つ抱えて戻った。廊下の角を曲がったところで、アスカに止められる。

 

「持ちすぎ」

 

「これくらい平気」

 

「平気って顔してない」

 

 言うなり、片方の箱をひったくって自分の脇へ抱える。文句を言うくせに手つきは早い。

 

「落としたら最悪なんだから、半分でいい」

 

「ありがとう」

 

「礼じゃなくて学習しなさい」

 

 そのやり取りを見ていたケンスケが、ノイズをいじりながら笑った。

 

「お前ら、そういう時だけやけに噛み合うよな」

 

「噛み合ってない!」

 

 アスカが即座に怒鳴り、トウジが毛布の束を抱えたまま肩を揺らす。委員長だけが黒板を振り返らずに言う。

 

「喧嘩しててもいいから早くして。暗くなる前に当番決めるの」

 

 教室の前へ戻ると、黒板には見張り表と一緒に簡単な校舎見取り図まで出来ていた。僕が抜かしていた階段横の物置に、アスカが短くチョークを足す。

 

「ここ、ライトもう一本あったでしょ」

 

「……あ」

 

「見てないの、あんた」

 

 言い返せない。僕は箱を机へ置き、委員長は余ったチョークを揃え、ケンスケは受信音を少しだけ絞った。硬い音と白い線だけが、放課後の教室へ長く残った。

 

 その日の最後に、教頭と学年主任が教室へ顔を出した。

 

「見張り表、三年だけじゃ足りんだろう」

 

 黒板を見上げた教頭が言う。

 

「二年も回せ。夜番は一時間ずつ。必要なら一年も廊下見回りに入れる」

 

「長すぎます」

 

 即座に言ったのは委員長だった。

 教壇の前に立ったまま、チョークを持ち替える。

 

「屋上は風が強いし、食べてない子や眠れてない子を一時間立たせたら、使徒が来る前に人が倒れます」

 

「綺麗ごと言ってる場合か。人手がないんだぞ」

 

「人手がないからです」

 

 委員長は黒板の端に、新しく線を引いた。

 

「一人で行かない。三十分で交代。熱のある人、食べてない人、眠れてない人は夜番に入れない。一年と二年は屋上夜番なし」

 

「委員長、増やしてどうすんのよ、そのルール」

 

 アスカが机へ腰を預けたまま言う。

 言い方は呆れているのに、目は真面目だった。

 

「守らないと、先にこっちが壊れる」

 

 ヒカリが答えるより先に、ケンスケが手を挙げた。

 

「記録つけるなら三十分刻みの方が、どこで何が起きたか分かりやすいです。あと夜に一人で動かすのは危ない。見張りじゃなくて捜索になります」

 

 トウジも毛布の束を抱えたまま頷く。

 

「飯食ってへんやつは、役に立たん。ふらついて落ちたら終いや」

 

 僕は黒板の白い線を見ながら言った。

 

「使徒が来なくても、事故は起きます。見張りは人を減らすためじゃなくて、人を残すためにやるんだと思う」

 

 教頭が眉をひそめる。

 

「しかしな」

 

「足りないからって、壊れかけのやつから使うのは馬鹿でしょ」

 

 アスカがチョークを取り上げ、ヒカリの書いたルールの下へ一本線を引いた。

 

「エヴァじゃないんだから、代わりが利く前提で回さないで」

 

 教室が一瞬だけ静まる。

 

 ヒカリはその沈黙の中で、チョークを取り返し、黒板のいちばん上へ大きく書いた。

 

 《せめて、人間らしく》

 

「綺麗ごとじゃありません」

 

 ヒカリの声は、小さいのによく通った。

 

「人手が足りなくても、人を部品みたいに回したら終わりです。せめて、人間らしくやる。そのための表にします」

 

 教頭はすぐには返事をしなかった。

 けれど黒板の文字を見て、それから僕たちの顔を順番に見て、最後には小さく鼻を鳴らした。

 

「……分かった。まずはそれで回してみろ」

 

 去っていく背中を見送りながら、ケンスケが小さく口笛を吹く。

 

「委員長、強」

 

「強くしないと通らないの」

 

 ヒカリはそう言って、夜番表の欄へさっきの四つのルールを赤で囲った。

 

 紙の上に書かれたそれは、気休めかもしれない。

 でも気休めのままにしないために、今こうして字にしているのだと分かった。

 

 * * *

 

 ヒカリは、自分の口がもうとっくに変わっていることを知っていた。

 

 同期訓練の頃、合図のたびに名字が長いと言って、それからは普通に「アスカ」と呼ぶようになった。

 きっかけはそれだけだ。

 でも、名前が変わると見えるものも少し変わる。

 

 朝のホームで、少し遅れて来た碇シンジを見つけると露骨に嫌そうな顔をして、それでもそのまま同じ車両へ乗る。

 購買でパンを取る時、碇君の分まで一瞬迷って、結局一つ多く買ってしまう。

 家庭科の時間、班分けで一緒になったら「足引っ張らないでよね」と言いながら、手元が危ないと無言でフォローに回る。

 

 そういう小さいところが見えてしまうと、もう今さら“惣流さん”には戻れなかった。

 

 アスカの方も最初のうちは「委員長」で通していたくせに、気が緩むとわりと早く「ヒカリ」が先に出るようになっていた。わざと距離を一枚戻す時だけ、たまに昔の呼び方が混ざる。

 

 その代わり、別の日にヒカリは逆の変化も見た。

 

 音楽室の扉が少し開いていて、中からチェロの音が漏れてくる。

 覗くつもりはなかったのに、ふと足が止まった。

 

 弾いているのは碇君だ。

 窓際にはアスカがいる。文句を言うでもなく、帰るでもなく、椅子へ座って最後まで聞いている。

 

 曲が終わると、アスカはわざとらしく肩をすくめた。

 

「ま、前よりはマシじゃない」

 

 褒めているのに、褒めていると言いたくない時の声だった。

 碇君の方は、嬉しいのを隠そうとして少し失敗していた。

 

 ヒカリはそこで足を止めた自分が、妙にこそばゆくなった。

 

(そっか)

 

 あの二人は、ただ喧嘩しているだけじゃない。

 でも、だからといって簡単な言葉でくくれる感じでもない。

 

 それが少しだけ羨ましくて、少しだけ心配でもあった。

 

 * * *

 

 定期シンクロテストの結果を見ながら、リツコは眉を寄せた。

 

 数値だけなら悪くない。

 むしろ安定している。第二・第三の両名ともに単体適性は維持され、ペア運用時の位相差も以前より少ない。

 

 だが、素直に喜びづらい要素が一つある。

 

「シンジ君、自己保存の閾値がまた下がってるわね」

 

 モニターへ視線を落としたまま言うと、隣のミサトが嫌そうな顔をした。

 

「褒めてないわよね、それ」

 

「褒めるわけないでしょ」

 

 第三の少年は、反応速度も予測修正も前より明らかに速い。第二の少女の動きに対する追従だけで言えば、すでに訓練量以上のものを見せている。

 問題は、その精度の何割かが“自分が壊れても一手先へ届けばいい”という無意識の軽さで支えられていることだった。

 

 隣で聞いていた綾波レイは、モニターの波形を静かに見ていた。

 

「第二と第三は、前より喧嘩している」

 

 唐突にそう言う。

 

「なのに数値は安定しているの」

 

 リツコは肩をわずかにすくめた。

 

「喧嘩の仕方が変わったのよ。前は相手を見ないままぶつかってた。今は見た上でぶつかってる」

 

 見た上でぶつかる。

 それは戦術的には改善だが、人間関係として楽になるとは限らない。

 

 テスト後、アスカは結果表をひったくるように受け取った。

 

「何よこの数値。あたしより追従率高いってどういうこと」

 

「アスカの動きが前より読みやすいんだよ」

 

「はぁ!?」

 

 怒鳴る。

 怒鳴るが、次の瞬間には「じゃあ次は外すから」と本気で言い返してくる。

 その言い方を聞いて、リツコは内心だけで首を振った。

 

 外す気などない。

 勝ちたいし、一番でいたい。

 それでも今のアスカは、シンジが自分の動きへ食らいついてくることそれ自体を、以前ほどは否定していない。

 

 ライバル意識が消えたわけではない。

 むしろ逆だ。ようやく、競いながら頼る相手として認識し始めている。

 

 その微妙な進展を、当人たちだけがいちばん下手に扱っていた。

 

 * * *

 

 夜更けに缶ビールを開けながら、ミサトはソファへ沈んだ。

 

「最近さ、あの二人、前より家っぽいのよね」

 

 リツコが、適当に相槌を打つ。

 

「家っぽい?」

 

「うまく言えないけど。アスカがシンジ君に当たるのも、シンジ君がアスカの分までご飯作るのも、いちいち特別な事件じゃなくなってきたっていうか」

 

「それはずいぶん進展じゃないの」

 

「進展、ねえ」

 

 ミサトは缶を傾ける。

 

「近づくほどややこしくなる種類の子たちじゃない」

 

「それもそうね」

 

 リツコは静かに笑い、否定はしなかった。

 

「けど、遠いまま終わるよりはいい」

 

 その言葉が、妙に引っかかった。

 ミサトは一瞬だけ黙り、それから缶をテーブルへ置く。

 

「……終わる前提で言わないでよ」

 

 リツコは謝らない。

 謝らない代わりに、珍しく真面目な顔で言った。

 

「終わるかもしれないからよ。明日ひっくり返る現場じゃ、最後に交わした一言とか、そういうのだけが後で残る」

 

 ミサトはその意味をすぐには返せなかった。

 だが少なくとも、最近のシンジがアスカへ向ける目から、ただの義務感や罪悪感だけではないものが混ざり始めていることくらいは、自分にも分かっていた。

 

 それはたぶん、恋とか好意とか、まだ一語では片づけられない種類の変化だ。

 同居人で、同僚で、喧嘩相手で、時々たまらなく近く見える誰か。

 

 中途半端で、厄介で、だからこそ生きている。

 

 その時間が、たぶん僕たちには必要だった。

 

 必要だったけれど、楽ではなかった。

 

 あの夜に一度だけ越えた距離のせいで、前より余計に意識してしまう場面も増えたからだ。

 

 洗面所ですれ違う時、アスカの髪が肩へ触れそうになるだけで、こっちは無駄に息を止める。アスカの方も、その反応に気づくたび、怒るのか黙るのか分からない顔で視線を逸らす。

 

 名前のつかない近さだけが、毎日の端へ少しずつ溜まっていた。

 

 大きく進展したわけじゃない。

 劇的に仲良くなったわけでもない。

 でも、前なら絶対に気づかなかった種類の変化が、毎日の端っこへ少しずつ溜まっていた。

 

 アスカの方を見れば、少し前より怒り方の種類が増えている。

 無視して切る怒りじゃない。ちゃんと相手へ向く怒りだ。

 僕の方も同じで、ただ怯えて黙るだけじゃなく、時々は言い返すし、言い返したあとでちゃんと後悔もする。

 

 その後悔まで含めて、僕は前より少しだけアスカの近くにいた。

 

 だから、崩れ始めた時は余計によく分かった。

 

 アスカがおかしくなり始めたのは、誰の目にも分かるくらいだった。

 

 ただし、その“おかしい”に名前をつけるのは難しい。

 泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。むしろ外から見れば、いつも通りに怒り、いつも通りに噛みついている。

 

 問題は、その“いつも通り”を維持するのにかかる力が、日に日に大きくなっていることだった。

 

 朝、起きてこない。

 起きても鏡の前から動かない。

 動いても、何度も髪を結び直す。

 食卓で箸を止める時間が増える。

 学校では、ヒカリの注意へ噛みつく勢いが一拍遅れる。

 帰ってきても、ドライヤーの音が無駄に長い。

 

 小さい。全部小さい。

 だから余計に、見ている側は何もできない。

 

 僕は毎朝、洗面所の前で待つ時間が少しずつ長くなっていくのを数えていた。

 数えてどうなるわけでもない。けれど、そうでもしないと“今はまだ大丈夫な範囲だ”と自分に言い聞かせられなかった。

 

 ある朝、洗面台の前にアスカのヘアゴムが落ちていた。

 拾ってノブへ掛けておく。たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にそわつく。助けたわけじゃない。何かを解決したわけでもない。ただ、同じ家に住んでいる人間の忘れ物を手の届く場所へ置いただけだ。

 

 しばらくして洗面所から出てきたアスカは、それに気づいて一瞬だけ止まった。

 

「……ありがと」

 

 ほとんど聞こえない声だった。

 でも次の瞬間には、もういつもの顔に戻っている。

 

「なによ、その顔」

 

「いや」

 

「得意そうにしないでよね。これくらい自分でできるんだから」

 

「してない」

 

「してる」

 

 そう言い捨てて、アスカは強い足音で出ていく。

 

 たった今礼を言ったことまで、自分で気に入らないのだと分かった。

 そういう小さな綻びが、最近のアスカには増えすぎていた。

 

「まだ?」

 

 襖の向こうから声をかける。

 

「うるさい」

 

 返ってくるのは、いつも通りの不機嫌な声だ。いつも通りなのに、少し掠れている。

 

「遅刻する」

 

「分かってるわよ」

 

 分かっているなら、もっと早く出てきてほしい。そう思う。でも、それを言うとたぶんもっとこじれる。

 

 結局、僕は黙る。

 

 黙ると、今度はそれが癇に障るらしい。

 洗面所のドアが開き、アスカが露骨に嫌そうな顔でこちらを見る。

 

「なによ、その顔」

 

「どの顔」

 

「聞き分けのいいふりしてる顔」

 

 言い返せなかった。

 それは図星に近い。僕は今、アスカに対して“余計なことを言わない方がいい”と判断している。判断して、その結果、必要なことまで言えなくなっている。

 

 アスカはそういう僕の沈黙を、たぶん“理解した顔”として受け取る。

 そしてそれが一番嫌なのだ。

 

 学校では、ヒカリの方が先に気づいていた。

 

「アスカ」

 

 プリントを回しても反応が遅い。名前を呼ぶと、アスカは少し間を置いてから顔を上げる。

 

「何よ」

 

「返事くらいしなさいよ」

 

「聞こえてるわよ」

 

「聞こえてるなら早く受け取りなさい」

 

 いつもなら、ここでアスカはもっと大きな声を出す。今日は違う。噛みつく前に、一度だけ迷う。どこまで怒る力が残っているのか、自分で測っているみたいな間がある。

 

 ヒカリはそれが嫌だった。

 

 惣流・アスカ・ラングレーは失礼だし、わがままだし、学級委員の仕事を増やす天才だ。でも、あれだけうるさい子が急に静かになり始めると、逆に教室の方が落ち着かなくなる。

 

「ねえ、鈴原」

 

 昼休み、ヒカリが小声で言う。

 

「アスカ、最近おかしくない?」

 

 トウジはパンを噛みながら、わずかに眉をひそめた。

 

「おかしいっちゅうか……機嫌悪いんやろ」

 

「機嫌悪いのは前からよ」

 

「それもそうか」

 

 トウジは視線だけでアスカの方を見る。

 窓際で腕を組んだまま、外を見ている。ケンスケが何か話しかけても、反応が薄い。あれはたしかに、ただ機嫌が悪いのとは少し違う。

 

 昼休み、ヒカリがパンを半分差し出しても、アスカは珍しく即座に手を出さなかった。

 

「いらない」

 

「朝、食べてないでしょ」

 

「平気」

 

「平気な顔してない」

 

 その声は、咎めるより心配する友達の声だ。

 アスカはその声に一瞬だけ揺れたが、すぐに視線を逸らした。

 

「……今、食べると気持ち悪いの」

 

 それだけ言う。

 拒絶ではなかった。けれど助けを求めるほど素直でもない。

 

 ヒカリは急かさなかった。代わりに机の端へ置いてあった夜番表を引き寄せ、赤鉛筆で〈惣流〉の欄に一本線を引く。

 

「じゃあ今日の屋上は外す」

 

「は?」

 

 アスカが顔を上げる。

 

「勝手に決めないで」

 

「昨日、決めたでしょ。食べてない人と気分の悪い人は夜番に入れない」

 

「平気だって言ってるじゃない」

 

「平気な顔してない」

 

 ヒカリの声は硬かった。

 優しいだけの声じゃない。ルールを守らせる声だ。

 

「委員長命令?」

 

「そう」

 

「最悪」

 

「知ってる。でも、落ちるよりまし」

 

 アスカは何か言い返しかけて、言葉を飲み込んだ。

 パンを押し返す代わりに、夜番表の自分の名前だけを睨む。消されたわけじゃない。今日の欄だけが、赤い線で横にずれている。

 

 その小さな変更が、妙に残酷に見えた。

 守るための線なのに、外された側には自分が要らないと言われたみたいに見える。

 

 その時、ヒカリは気づいた。碇シンジも同じ方向を見ている。

 だが彼の視線は心配より少し重い。何かを先に知っているみたいで、見ていて気味が悪い。

 

「碇君」

 

 ヒカリが呼ぶと、僕ははっとして顔を上げた。

 

「何」

 

「あなた、最近ずっとアスカのこと見てる」

 

 教室の空気が一瞬だけ止まる。

 ケンスケがにやけ、トウジが肘で小突き、アスカがものすごく嫌そうな顔で振り向いた。

 

「見てないわよ、こんな奴に」

 

 アスカの反応が早すぎて、かえって分かりやすい。

 

「見てないとは言ってない」

 

 僕が小さく返すと、今度はアスカの眉が吊り上がる。

 

「なにそれ」

 

「別に」

 

「別に、で済ますな!」

 

 教室じゅうの視線が集まる。

 前ならここで黙り込んだと思う。今の僕は、黙るのがもう少しだけ嫌になっていた。

 

「最近、眠れてる?」

 

 その問いに、アスカの顔色が変わった。

 

「何よ突然」

 

「見てると、そういう感じがするから」

 

「だからその“見てる”って言い方が気持ち悪いのよ!」

 

 机を叩いて立ち上がる。

 教室の空気が一気に尖る。

 

 ヒカリはその瞬間、自分が余計なことを言ったのだと理解した。けれど、理解してももう遅い。

 

 アスカは鞄を掴んだまま教室を出て行った。

 後を追いかけるべきかどうか、僕は迷った。迷って、結局追いかけた。

 

 屋上の扉の前で追いつく。

 

「アスカ」

 

「来ないで」

 

「少しだけ話したい」

 

「話したいのはあんたでしょ」

 

 屋上のフェンスに背を預けたまま、アスカは僕を睨んだ。

 

「なんでそうやって、何でも分かったみたいな顔するの」

 

「してない」

 

「してる」

 

「心配してるだけだよ」

 

「いらない」

 

 即答だった。だがその即答の後に、アスカは一瞬だけ目を閉じた。

 

「心配してるって顔で近づかれるの、一番嫌なの」

 

 小さく言う。

 怒鳴り声より、そっちの方が痛かった。

 

「可哀想とか思ってる?」

 

「思ってない」

 

「嘘」

 

「嘘じゃない」

 

「じゃあ何よ」

 

 僕は言葉に詰まった。

 君が壊れていくのをもう一度見たくない。そう言えば少しは本音に近い。でも、それだって結局は僕の側の恐怖だ。

 

「……嫌なんだ」

 

「だから何が」

 

「君が、どんどんいなくなる感じがするのが」

 

 言った瞬間、駄目だと分かった。

 またやった。今のアスカじゃなく、失うかもしれない先の方を先に口にした。

 

「違う」

 

 自分で自分の言葉を追いかける。

 

「今の君が、しんどそうなのが嫌なんだ」

 

 アスカはしばらく黙った。

 それから、ひどく冷たい顔で笑った。

 

「最悪」

 

「え?」

 

「それ、いちばん最悪」

 

 背を向ける。

 

「あたしがどうなってるかじゃなくて、“いなくなる感じ”って言った」

 

 その指摘は正確すぎた。

 僕はまた、今のアスカじゃなく“失うかもしれないアスカ”の方を見ていた。

 

「違う、そうじゃなくて」

 

「じゃあ言い直しなさいよ!」

 

 言えなかった。

 言い直せない沈黙だけが残る。

 

 それを見て、アスカは本当に嫌そうな顔をした。

 

「やっぱり分かった顔が一番むかつく」

 

 そのまま扉を開けて出て行く。

 僕は追えなかった。

 

 * * *

 

 階段を下りながら、アスカは自分の呼吸が浅いことに腹を立てていた。

 

 今の君がしんどそうなのが嫌なんだ。

 

 言い直したのは分かった。あれが本音に近づこうとしたのも、たぶん本当だ。前なら、あいつはそこで黙っていた。今日は追いかけて、下手くそなまま言い直した。

 

 それでも遅い、とアスカは思う。

 遅いし、見られたくない所まで見られてしまったあとでそんなことを言われても、どう受け取ればいいのか分からない。

 

 嬉しいのかもしれない、と一瞬でも思った自分へ、いちばん腹が立った。

 

 だから怒るしかない。

 怒っていれば、まだ負けたみたいじゃないから。

 

 発令所では、もっと露骨に数字が落ちていた。

 

「弐号機シンクロ、基準値以下」

 

 マヤの声が硬い。

 

「テスト継続は?」

 

 ミサトが問う。

 

「短時間なら可能。でも戦闘レベルでは危険です」

 

 リツコは画面を見たまま答えた。

 

「原因は?」

 

「心因性」

 

 その一言で済ませるのは乱暴だと、言った本人も分かっている顔だった。

 

「そんなの分かってるわよ」

 

 ミサトは低く言う。

 

「心因性の、何よ」

 

 リツコは一拍置いた。

 

「崩れ方が速すぎる」

 

 それが、いちばん正確な表現だった。

 

 弐号機との齟齬は数値として現れている。だが本当の問題は、その下にある少女の自意識の方だ。アスカは、強さを自分の輪郭にしてきた。輪郭が揺らげば、機体との間だけでなく、世界との間にも隙間ができる。

 

「碇シンジの視線も良くないわ」

 

 リツコが続ける。

 

「アスカは自分の弱り方を、先に見抜かれるのをひどく嫌うタイプよ」

 

「シンジ君にそんな悪気はない」

 

「分かってる。でも悪気がない方が面倒なこともある」

 

 それは正しかった。

 碇シンジの“心配”は、時々相手の誇りを踏む。優しさのつもりで近づいて、可哀想と見ているつもりはないのに、結果としてそういう目に見える。

 

 自分の命を軽く見ている子どもが、他人の壊れ方だけを先に見つける。

 その歪さは、確かにアスカと最悪の相性だった。

 

 使徒は、あまりにも空の高い所から来た。

 

 静かで、白くて、遠い。

 遠いのに、こちらの中身だけを狙ってくるような気配がある。

 

「何あれ」

 

 アスカが吐き捨てる。前を向いたまま、でも声の裏に疲れがあった。

 

「見てるだけで頭痛い」

 

 僕は何も言えなかった。

 前にも同じように思った気がする。けれど、今のアスカにとってはたぶん、単なる嫌悪感では済まない。

 

 作戦ブリーフィングの最中、僕はミサトさんへ言ってしまった。

 

「今日はアスカを出さないで」

 

 静かだった会議室の空気が、一気に固まる。

 

「それは」

 

 ミサトさんが言葉を探すより先に、後ろから椅子の脚が鳴った。

 

「なによそれ」

 

 アスカの顔は青かった。怒りだけじゃない。恥ずかしさと、見抜かれたくない恐怖と、ほんの少しの本物の疲れが全部一緒になっている。

 

「あたしが足手まといだって言いたいわけ?」

 

「違う」

 

「違わない!」

 

「そうじゃなくて」

 

「じゃあ何よ!」

 

 言えない。君が壊れるのを知っているからなんて、今ここで言うのは最低だ。だから結局、また言葉が足りないままになる。

 

 その足りなさだけが、アスカをさらに追い詰める。

 

「ほんっと最低」

 

 射出された弐号機を、僕は止められなかった。

 

 使徒の光は、見上げるだけで気持ち悪かった。視線ではないのに、頭の中を勝手に覗かれている感じがする。弐号機が空へフィールドを伸ばす。アスカの声は最初だけ、いつも通りに鋭かった。

 

『こんなの、すぐ終わらせるわよ』

 

 でも、それは長く続かなかった。

 

 使徒の光が折れる。音もなく、けれど確実に弐号機へ触れる。

 

『いや……』

 

 最初の声は、小さかった。

 小さいのに、発令所じゅうへ広がる。

 

『見ないで……』

 

 モニターには映像以上のものが流れていた。大きな人形。吊られた身体。赤いドレスの母。笑わない眼。幼い声。割れた鏡。僕には見えないはずのものまで、アスカの声の調子で分かってしまう。

 

『あたしじゃない……!』

 

 悲鳴。ノイズ。途切れ途切れの呼吸。

 叫ぶほど、弐号機の輪郭が崩れていく。

 

 その崩れ方の中に、別の断片まで混ざり始めた。

 

 チェロの弦がまだ少しだけ指に残っていた夜。

 唇が重なったあとで、僕の腕が恐る恐るアスカの背中へ回ってきたこと。

 その不器用さの中に、逃げないと決めた気配だけは確かにあったこと。

 マグマの中で引き上げられた時の熱。

 焼けたプラグの中で、自分の呼吸より先にこちらの生死を確かめた声。

 それから、キスのあと洗面所で水を吐いた夜。

 長く触れたくせに、その先で本当に欲しかった“抱きしめられる”を自分で認められなくて、水の音で誤魔化したあの息苦しさ。

 

 僕の記憶じゃない。

 アスカの中身が、使徒にこじ開けられてこちら側へ漏れてきているのだと分かる。

 

『なんであんたがそこにいるのよ!』

 

 突然、アスカの声が変わった。

 幼い悲鳴の底から、今のアスカの怒鳴り声が浮かび上がる。

 

『何もしないくせに! 分かった顔するくせに!』

 

 胸がひどく冷えた。

 

『助ける時だけ助けて! 抱きしめる時だけ抱きしめて! いちばん欲しい時には来ないくせに!』

 

 息が止まる。

 発令所の誰かが何かを叫んでいる。聞こえない。

 

『見てるだけなら最初から見るな! 優しい顔なんかするな!』

 

 使徒は残酷だった。

 アスカのプライドだけじゃなく、その下に隠していた恥も、欲しがっていたものも、うまく言えなかった感情まで一緒に引きずり出す。

 

 マグマの中で助けられた時の熱。

 夜の台所で、シンジがちゃんと自分を女の子として見て怯えていたことへの動揺。

 キスのあと、水の音で誤魔化すしかなかったみっともなさ。

 それでいて、肝心な時には自分の痛みより“壊れるかもしれない誰か”の方を先に見てしまう、あの最悪の優しさ。

 

『あんたが一番、気持ち悪いのよ……!』

 

 それが怒りだけじゃないと分かってしまう方が、何倍も痛かった。

 

 僕は何もできなかった。

 前にもそうだった。今回も同じだ。知っていたから助けられるほど、心を抉る使徒は甘くない。

 

『いや……いや、いやぁ……!』

 

 その声を最後まで聞いてしまった。

 前より長く聞いた気がする。実際には数秒かもしれない。けれど、その数秒で、惣流・アスカ・ラングレーという少女が自分の中に隠していた“見られたくない形”が全部剥き出しになっていく。

 

 使徒はそれを容赦なく暴いた。

 

 沈黙を切ったのは、父さんの声だった。

 

『零号機、ロンギヌスの槍を使用する』

 

 発令所の空気がそこで一度だけ凍った。普段なら計画の奥へしまわれている赤い槍が、専用コンテナごと射出台へ運ばれていく。綾波の返答は短い。嫌とも怖いとも言わない、あの静かな声だった。

 

『了解』

 

 モニターの隅で、零号機が槍を受領する。細長い赤が機体の両腕に収まった瞬間、兵器というより禁物の儀式具みたいに見えた。次の一拍で、綾波は地上から空を見上げ、ほとんど助走もなくそれを投げた。

 

 赤い線が一度だけ世界を縫う。

 軌道上の使徒の中心を貫き、白い光が遅れて裂けた。悲鳴みたいなノイズが切れ、弐号機へ突き刺さっていた視線もそこでやっと外れる。

 

 撃破確認。けれど槍は戻らない。高々度の彼方へ抜け、そのまま回収不能軌道へ消えていく。リツコさんが低い声で損耗を読み上げ、ミサトさんは何か言いかけて飲み込んだ。アスカの心は壊れ、槍は失われた。勝利という言葉が、こんなに空虚に聞こえたのは初めてだった。

 

 戦闘終了後、発令所で誰もすぐには喋れなかった。

 ミサトさんは唇を噛み、リツコさんは低い声で手順だけを並べる。マヤさんは泣きそうな顔で画面を閉じ、青葉さんは珍しく目を逸らした。

 

 大人たちだって、こういう時に何を言えばいいのか分からない。

 そのことだけが妙に残酷だった。

 

 病室の前まで来て、僕は三回ほど引き返しかけた。

 

 中へ入ったところで何が言えるのか分からない。慰める資格もない。可哀想だと思うのはもっと失礼だ。分かっている。分かっているくせに、行かないままにしておく方が嫌だった。

 

 眠ったままのアスカは、ひどく静かだった。

 静かすぎて、あれだけ喋る人間の名残がどこにもないみたいに見える。その見え方がまた嫌だった。

 

「ごめん」

 

 最初に出たのは、それだった。

 すぐに最低だと思う。謝って済むなら、今ここにこうして座っていない。

 

「僕、たぶん君を助けたいんじゃなくて」

 

 喉が詰まる。

 

「君が壊れるところを、もう見たくなかっただけなんだと思う」

 

 眠ったままのアスカに向かって言うのは卑怯だ。起きていたら、もっと違う言葉を探したかもしれない。あるいは何も言えなかったかもしれない。

 

「あの夜、君に触れたのに」

 

 唇のことを、そのまま言うのはためらわれた。

 でも、あの夜に一度だけ受け取った体温のことを無かったことにして、ただの心配だけを並べるのも違う気がした。

 

「抱きしめたくせに、今日の僕は何もできなかった」

 

 自分で言って、ひどく遅いと思う。

 

「好きだって、まだちゃんと言えない。言えないくせに、いなくなるのは嫌だって思う」

 

 返事はない。

 それでも呼吸だけは続いている。その事実だけが、辛うじて僕を椅子に座らせていた。

 

「……起きたら、ちゃんと怒ってよ」

 

 それが願いなのか罰なのか、自分でもよく分からなかった。

 

 廊下に出ると、ヒカリがいた。

 

 たぶん偶然じゃない。面会時間も階の位置も、きっちり調べてから来たのだろう。学級委員らしい真面目さが、こういう時だけ余計に痛い。

 

「……中、いたの?」

 

「うん」

 

「どうだった」

 

 難しい問いだった。

 

「眠ってる」

 

「そう」

 

 ヒカリはしばらく何も言わなかった。

 それから、小さく言う。

 

「アスカさ、感じ悪い時ほんと感じ悪いのに」

 

「うん」

 

「いなくなると、こんなに腹立つんだね」

 

 その言い方があまりにもヒカリらしくて、僕は少し救われた。

 怒っている。怒っているから、まだちゃんとアスカへ向いている。

 

 家へ帰ると、アスカの不在はもっとはっきり分かった。

 騒がしさが消える。洗面所に並んだ化粧品が動かない。部屋の襖が閉じたまま。そんな当たり前の欠落が、どうしようもなく目につく。

 

 ノブには、朝に掛けたままだった古いヘアゴムが残っていた。

 取ってしまおうか迷って、結局そのままにする。明日になったら本人が文句を言いながら持っていく、そんな普通の想像だけはまだ捨てたくなかった。

 

 ミサトさんは珍しくビールを開けなかった。

 その代わり、テーブルの向こうで長く黙っていた。黙っているくせに、僕の方は時々見ている。責めるでも慰めるでもない、どう扱えばいいのか測りかねている目だ。

 

 それがかえって苦しかった。

 

 夜更け、台所で水を飲んでいると、綾波が来た。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「アスカに、会いたいの」

 

 直球だった。

 

「うん」

 

「どうして」

 

「嫌われたままでも、会わないよりましだから」

 

 口にしてから、自分で少し驚いた。

 前ならもっと格好をつけたはずだ。好かれたいわけじゃない。許されたいわけでもない。ただ、生きている相手として怒られたい。そういう言い方しかできない自分が情けないし、でもそれがいま一番本当でもあった。

 

 綾波はしばらく考えた。

 

「それは、人間らしいの?」

 

「……分からない」

 

「そう」

 

 綾波はコップに水を注ぐ。

 

「でも、分からないまま会いたいなら」

 

「うん」

 

「たぶん、それでいい」

 

 その言葉は不思議だった。

 慰めでも、答えでもない。ただ、分からないままでも今いる相手へ向くことを否定しない声。

 

 せめて、人間らしく。

 それがどういうことか、僕にはまだ分からない。

 でも少なくとも、痛いからといって全部を先回りで閉じてしまうのは違うのかもしれない。

 

 その程度のことだけが、この夜に残った。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 金曜の放課後、ヒカリは教室の後ろへ小さな木箱を持ち込んだ。

 

 蓋の裏に〈三年A 非常用〉と墨で書いてある。中には紙コップ、乾電池、ガーゼ、使い捨てのスプーン、メモ帳、赤鉛筆。全部が少しずつで、全部が「大した物じゃない」と言えそうなくらいの量だ。なのに箱としてまとまると、妙に教室の重心になる。

 

「ここ、使うの?」

 

 ケンスケが覗き込む。

 

「使わない方がいいに決まってるでしょ」

 

 ヒカリは蓋を支えたまま答えた。

 

「でも、ないよりあった方がいいの」

 

 アスカが箱の中身を勝手に仕分け始めた。紙コップは手前、電池は種類ごと、ガーゼは湿気を避けて上。僕が赤鉛筆を横へ置こうとすると、すぐに止められる。

 

「それ寝かせると折れる」

 

「そんなに変わる?」

 

「変わるわよ。先がすぐ潰れる」

 

 言われて立て直す。ヒカリはその横でメモ帳の一ページ目へ「残量」「補充日」「持ち出し先」と見出しを書いた。

 

「誰かが使ったら、ここに書く。戻したら戻したって書く」

 

「めんどくさ」

 

 ケンスケが言う。ヒカリは顔も上げない。

 

「だからやるの」

 

 その押し返し方に、アスカが少しだけ口元を動かした。笑ったわけじゃない。けれど「分かる」と言いたげな顔だった。

 

 箱を棚へ上げる時、僕はつい一人で持ち上げようとして、また止められた。

 

「だから重心」

 

 アスカが反対側へ手を入れる。

 

「半分持つ」

 

「この箱、別に重くないよ」

 

「箱は軽くても、中身が崩れる」

 

 そういう理由で半分持つのかと、少し可笑しくなる。けれど、教室の棚へ載せ終えた時には確かに中の紙コップも電池も綺麗なままだった。

 

 帰り道、僕たちは商店街で牛乳と豆腐を買った。ミサトさんが遅い日の買い足しだ。レジ袋が一つだとかさばるので、アスカが勝手に二つへ分ける。

 

「卵はあたし」

 

「僕が持つよ」

 

「割ったらむかつくからダメ」

 

「信用ないな」

 

「知ってるでしょ」

 

 知っている、という返事は飲み込んだ。代わりに豆腐と牛乳の入った袋を受け取る。持つと、片方だけが重くなりすぎず歩きやすい。駅までの坂を下りながら、僕は何でもない顔でそのことを確かめていた。

 

 家へ着くと、アスカはまず冷蔵庫へ卵をしまい、その次に玄関脇の棚を覗いた。学校の非常箱と同じように、家の備えの並びまで気になるらしい。懐中電灯、電池、消毒液、折り畳み地図、メモ帳。

 

「ミサト、また電池減ってる」

 

「前に学校へ一本持ってった」

 

「書いときなさいよ」

 

 アスカはそう言って、家のメモ帳へ『学校へ一』『要補充』と書き足した。教室の箱と同じ書き方だ。

 

 学校と家が、少しずつ同じ論理で回り始めている。

 そのことが不安でもあり、なぜか少しだけ安心でもあった。

 

 夜、僕は台所で味噌汁を温めながら、さっき買った袋の分かれ方を思い出した。一つだと持ちにくい。二つだと歩きやすい。そういう単純なことを、最近やっと体で覚え始めている。

 

 アスカは流しの横で包丁を洗いながら、こちらも見ずに言った。

 

「明日、学校の箱に紙テープ足しといて」

 

「うん」

 

「家の方も」

 

「分かった」

 

 それだけの会話だ。

 でも、その「分かった」が前より少しだけ長く続く気がした。

 

 

 翌朝、学校の非常箱には、きちんと紙テープが一本増えていた。

 

 ヒカリはそれを見て何も言わず、補充日だけを書き足した。家のメモ帳にも同じ字が増えていることを僕は知っている。学校と家で、似たような不足を似たような手つきで埋めていく。その反復が、最近の僕たちの日常になりつつあった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。