使徒が来ない日が数日続くと、学校はすぐに「次の準備」を始めた。
授業が終わったあと、ヒカリは教卓の上へ見張り表の下書きを広げた。方眼紙に引かれた線の上へ、時間、場所、担当、備考。まだ正式な当番表ではない。けれど空欄のまま放っておく気もない、そんな紙だった。
「屋上、昇降口、保健室前、職員室の電話。見回る場所はこの四つ」
ヒカリが言う。
「電話ってまだ使えるの?」とケンスケが聞く。
「使えないかもしれない。でも確認する人は必要」
正論だった。正論であることが、この手の話ではいつも少し怖い。
僕とアスカは屋上担当にされ、ケンスケは通信の確認、レイは保健室前の物資整理、トウジは階段と昇降口の往復を任された。皆それぞれ文句を言うのに、最後はちゃんと引き受ける。
屋上へ出ると、夕方の風が強かった。フェンスの向こうに街が広がる。光っている窓、死んだままの信号、空の色を映す水たまり。どこがまだ人の場所で、どこから先がただの構造物になっているのか、境目が曖昧だ。
屋上からは、遠くに旧発進口の装甲板まで見えた。街の端で半分沈んだままの射出台、そのさらに向こうに、使徒迎撃用の砲台跡。エヴァが上がる時だけ街になる場所と、学校が見張り台になる場所が、同じ夕焼けの中へ並んでいる。その景色が少し嫌だった。
「ライト、そこ置かない」
アスカがすぐ言った。
「風で落ちる」
僕は手すりの根元からライトを引き寄せ、階段口の壁際へ移した。
「じゃあ通信の方は」
「こっち。アンテナが引っかからない角度」
彼女は自分の髪を押さえながら、フェンスの影を一度見た。日の入りが早くなれば、ここはたしかに見えづらい。紙の見取り図を見ているだけでは分からない位置だ。
ケンスケはノイズと格闘しながら、ノートへ角度を書き込んでいた。東二十五度、西十度、屋上南端だと混線、北端だと途切れがち。軍事オタクの集中力が、こういう時はやたら役に立つ。
「学校ってさ」
僕がぽつりと言うと、アスカが振り向いた。
「何」
「こういう確認まで始めると、本当に何かの拠点みたいだなって」
「みたいじゃなくて、そういう想定なんでしょ」
言い方は素っ気ない。けれどアスカ自身、通信の置き場もライトの向きも、実際に“使う前提”で決めている。
ヒカリは方眼紙へ時間帯を書き足していた。放課後、日没前、最終下校時刻、夜間の巡回。昼の学校にはなかった言葉が、黒板や方眼紙へ増えていく。
「委員長」
トウジが階段口から顔を出す。
「そこまでやるんか」
「やるわよ」
ヒカリは顔を上げずに答えた。
「決めてなかったら、何か起きた時に誰も動けないもの」
その“何か”を、皆が言葉にしない。言葉にしなくても十分に分かっているからだ。
* * *
帰り道、ミサトさんから買い物メモを渡された。
卵、味噌、豆腐、洗剤、単三電池、缶ビール一本、ティッシュ。最後の一本だけが、保護者というよりいつものミサトさんだった。
「缶ビールいる?」
僕が訊くと、アスカがすぐ鼻を鳴らす。
「いらない。どうせ不味い」
「じゃあ買わない?」
「でもメモにあるから買うのよ」
商店街のスーパーは夕方の客で混んでいた。買い物かごの中身は、どこの家もだいたい似ている。肉、野菜、調味料。そこへ電池や洗剤が混ざると、少しだけ今の街らしい顔になる。
僕が洗剤の詰め替えパックと電池をまとめて持つと、アスカがすぐ半分抜いた。
「だから一袋に寄せない」
「レジで分ければいいだろ」
「レジの後に持つのはあんたでしょ」
その理屈に負けて、卵と豆腐は僕、洗剤と電池はアスカ、味噌とティッシュは後で分けることになった。食料と生活用品を分けるだけで、袋の重さが驚くほど変わる。
「ほら」
アスカが片方の袋を軽く振った。
「歩いて帰るなら、こういう方が楽」
坂道を上りながら、僕はふと、いつか本当にもっと重い荷物をこうして分ける日が来るのかもしれないと思った。地図、薬、水、食べ物。今はまだ買い物袋だ。でも、やっていることの手つきはそんなに違わない。
家へ戻ると、ミサトさんはまだ帰っていなかった。玄関に靴が一足もなく、部屋の中は少し冷えている。
「先に作る」
アスカが言った。
「味噌汁?」
「それと卵焼き。豆腐早く使わないと悪くなる」
台所の蛍光灯の下で、僕たちは買ってきた物を一つずつ棚へ収めた。電池は玄関脇の籠へ、洗剤は洗面所の下、ティッシュは食卓の引き出し。置き場所が決まると、それだけで家の輪郭が少し締まる。
アスカはヘアゴムで髪を結び、包丁を握った。
「豆腐切って」
「何センチ」
「適当」
「適当で怒るだろ」
「じゃあ二センチ」
言い合いながら、手は動く。味噌汁の湯気、卵の黄身、まな板へ当たる包丁の音。学校で見張り表を書いていた同じ日とは思えないくらい、台所の時間は小さい。でも、その小ささが妙に救いだった。
ミサトさんが帰ってきたのは、卵焼きが最後の一本になった頃だった。ジャケットを肩からずり落とし、靴を脱ぐより先にため息をつく。
「ただいま……あ、いい匂い」
「遅い」
アスカが言う。
「買い物メモに缶ビール一本って書いたくせに、自分で買ってこないんだから」
「ごめんごめん。会議が長引いたのよ」
ミサトさんはそう言いながら、玄関脇の籠に新しい電池が入っているのを見つけた。
「へえ、ちゃんと補充したんだ」
「当たり前」
「すごいじゃない」
「褒めなくていい」
ぶっきらぼうに返すアスカの耳が、少しだけ赤くなっていた。
夕食のあと、ヒカリの方眼紙を思い出して、僕は学校用のノートへ屋上から見えた風景を簡単に写した。死角になる路地、見張り台に向く窓、夕方になると光る建物。アスカは洗った食器を拭きながら、それを横目で見た。
「そこ、階段口の向き逆」
「え」
「だから、右から上がった時にフェンスが先に来るの。今日見たでしょ」
言われて描き直す。たしかにその方が正しい。
「……ありがと」
「言っとくけど、あたしの記憶力を当てにしすぎないでよ」
「でも見てたんだろ」
「見てたわよ。あんたがすぐ変な角度に向けるから」
その言い方が、少し可笑しかった。
* * *
同じ夜、旧ネルフ本部の通信室では、シゲルが古い受信機の裏蓋を開けていた。
通信室の壁際には、発令所から外したサブモニタがまだ積んである。そこへ映るのはもう使徒のパターン青でも、エヴァの発進カウントでもなく、学校へ回す短波受信機の受信状態と、見張り台の交代時刻だけだった。戦闘のための機械が、そのまま配膳表と夜番のための機械へ変わっていく。
「学校に回すなら、こっちの方が軽いです」
マコトが机の上へ並べられた二台の短波受信機を見比べる。一台は感度がいいが重い。もう一台は古いが乾電池で長く持つ。
「軽い方を渡して」
ミサトが言う。
「持ち歩くのは子どもなのよ」
マヤが医療品の箱へラベルを貼りながら頷く。
「保健室に簡易キットも少し回します。包帯、消毒、痛み止め。使うかどうかじゃなく、あると落ち着くから」
通信室の机の上にも、学校と同じように表が増えていた。回線、電源、医療、補給。大人の場所では字が少し細かくなるだけで、やっていることは同じだ。
ミサトは短波受信機を一台持ち上げ、その重さを確かめた。
「明日、シンジ君に渡す」
「碇君だけですか」
マコトが訊く。
「アスカにも説明する。あの子の方が、持ち方と置き方を先に覚えるから」
シゲルがそこで小さく笑った。
「分かります」
誰も否定しなかった。
学校と本部。子どもと大人。台所と通信室。別の場所で別の人間が、似たような表を書き、似たような荷物を分け、同じ明日のための準備をしている。
それが今の第三新東京市の、いちばん正直なかたちだった。
* * *
その翌日、見張り台と配膳表は本当に使われた。
放課後の体育館には、部活帰りの生徒と保健室へ寄る予定の子が残っていた。ヒカリは教卓の代わりに折りたたみ机を置き、その上へ配膳表と紙コップ、ポット、簡易見取り図を並べる。見張り担当、給湯、片付け、病院行き。線で引いた役割は、動き出すとすぐ人の声と足音に変わった。
大きな警報は鳴っていない。それでも、見張り担当が窓の外へ耳を澄ます姿や、ラジオの周波数を合わせる手つきは、使徒襲来の時に校内放送越しで聞いたあの緊張へ少し似ていた。違うのは、今ここにあるのがエヴァの発進ではなく、温かい湯と紙コップだということだけだった。
「相田君、ラジオは窓際じゃなくて壁際。雑音拾うから」
「鈴原君、椅子は二列。通路塞がない」
「碇君、ポット熱いから一人で持たない」
「アスカ、紙コップはその棚」
言い切るたび、ヒカリの声が体育館の空気を少しずつ整えていく。正しさで人を押すのではなく、今はそうでもしないと誰も次の動きを決められないのだと分かっている声だった。
トウジは文句を言いながらも椅子を二脚ずつ運び、ケンスケはラジオの受信状態をノートへ書き込み、綾波は紙コップの束を一列に並べていく。碇シンジがポットを抱えると、惣流がすぐ手を出した。
「半分」
「片手で持てるよ」
「こぼしたら終わりでしょ。持てる持てないじゃなくて、転ばないように持つの」
言われて、シンジは取っ手の反対側を持ち直す。二人で運ぶと、湯の揺れ方が少しだけ落ち着いた。体育館の床に作った仮の導線を、惣流は先に足でなぞって確かめる。階段を使わない。出入口は一つ空ける。病院へ回す分は先に除ける。その判断が早いから、周りも後からついていきやすい。
その時、壁際のラジオが急にざらついた。
『……がっ……こう……きこ……』
雑音に食われた声だった。
海鳴りみたいな低いノイズの奥で、たしかに人の声だけが掠れた。
「今の!」
ケンスケが飛びつくようにラジオへ寄る。トウジも椅子を持つ手を止めた。
『……み……ず……ふた……り……』
そこで切れた。
体育館の空気が変わる。今までただの手順だった見張り台と配膳表が、急に誰かの喉と腹へ繋がる。
「海側や」
トウジが言う。
「昨日の中継小屋の方ちゃうか」
「屋上行って角度変える。碇、来い!」
ケンスケが言いかけたところで、ヒカリが名簿を閉じた。
「待って」
その一言だけで、足音が止まる。
「行く前に、今ここにいる人数を崩さない」
「でも今の、誰かおるんやぞ」
トウジの声は鋭い。間違ってはいない。間違っていないから、ヒカリはすぐに怒らなかった。
「分かってる。だからこそよ。断片の声に全員が引っ張られたら、今ここで倒れる子が出る」
「委員長、時間なくないか」
ケンスケがノートを片手に言う。声が少し上ずっている。
ヒカリは机の上を見た。
紙コップは十しかない。残っている子は十三。ポットは一つ。保健室から戻ったばかりで顔色の悪い子が二人いる。見張りに上がれる子と、今は椅子へ座らせるべき子が、同じ体育館に混ざっている。
「先に決めるのは、誰が行けるかじゃない。誰が今ここで倒れないかよ」
昨日の夜と同じ言葉だった。でも、今日はその重さが違った。
「相田君、もう一回だけ受信。鈴原君は窓閉めないで。碇君とアスカは湯を先に配る。綾波さん、熱ある子を保健室の近くへ寄せて」
「委員長!」
トウジが食い下がる。
「あと一分待ったら向こうが動けんかもしれへん」
「一分で全員が走る方が危ない」
ヒカリは顔を上げた。
「行くなって言ってるんじゃないの。行かせる順番を決めるって言ってるの」
そこへ、ラジオからもう一度だけ雑音が走った。
『……みず……がっこう……たす……』
今度はさっきより短い。けれど、余計に焦りを呼ぶ短さだった。
アスカが紙コップを持つ手を止め、ラジオの方を見る。
「今のだけで人数減らす方が困るわよ」
静かな声だった。
「屋上上げるなら二人まで。しかも空腹のままはなし。階段でふらついたら探すどころじゃないでしょ」
言いながら、彼女はシンジからポットを受け取り、先に一番顔色の悪い子の紙コップへ湯を注いだ。
「……相田、先に飲めるやつから飲ませて。あんた、上でふらついたら最悪だから」
ケンスケは反論しかけて、やめた。自分が興奮しているのも、自分が一番先に屋上へ駆け出しそうになっていたのも分かっている顔だった。
配膳表は、配るためだけの表ではなかった。誰が残っているか、誰がまだ戻っていないか、誰へ先に温かいものを渡すか、そして誰を今は出さないかを決める表でもあった。ヒカリが鉛筆で名前の横へ印をつけ、シンジが紙コップへ湯を注ぎ、綾波が足りない分を後ろから差し出す。その小さい連携の積み重ねで、体育館はただの待機場所ではなくなっていく。
「……委員長」
ケンスケがラジオのつまみを戻しながら言った。
「三分だけ。三分待って、もう一回来なかったら屋上で拾う」
「うん」
ヒカリは頷いた。
「でもその三分で、飲ませるものは飲ませる。名前も書く。誰が行って、誰が残るかを、曖昧なままにしない」
トウジは歯を食いしばったまま椅子を置き直し、それから小さく息を吐いた。
「……分かった」
渋い返事だった。でも、従う時の声だった。
三分は短い。短いくせに、人間の手はその間にもいくつかのことを出来る。紙コップへ湯を注ぐ。保健室行きの子を壁際へ寄せる。屋上へ上がる二人の名前の横へ赤で印をつける。ラジオの受信時刻を書く。空腹のまま走りそうな奴へ、おにぎりを半分押し込む。
そして三分後、ラジオはもう一度だけ掠れた。
『……がっこう……みず……』
今度は方向が少しはっきりしていた。
ケンスケとトウジが顔を見合わせる。ヒカリはもう迷わない。名簿の端へ、屋上確認の欄を追加して二人の名前を書いた。
「行って。十分で戻る。戻れないなら先に打つ」
「了解」
「紙コップは持ってかない」
アスカが言う。
「風で飛ぶから。水筒だけ」
シンジがすぐ保温袋から一本抜いて差し出した。
見張り台と配膳表は、そこで初めて同じ仕事になった。外の声へ手を伸ばすために、内側の人数を崩さない。救いに見える衝動を、そのまま次の破綻にしない。そのための紙と湯と鉛筆が、今の学校には要った。