【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾参話 涙

その頃の綾波は、保健室へ寄る回数が少し増えていた。

 

 怪我をしたからではない。包帯や消毒液の置き場所を覚え、使った分だけ棚の前へ立ち止まるようになったからだ。誰に言われたわけでもないのに、切れかけた絆創膏の箱を手前へ出し、期限の近い消毒液を別にする。マヤさんがそれを見つけて「助かる」と言うと、綾波は困ったように一拍だけ間を置いた。

 

「そう」

 

 それだけの返事なのに、前の綾波とは違って聞こえる。

 

 ある晩、僕は発令所から上がってくる途中で、保健室の灯りがまだ点いているのに気づいた。覗くと、綾波が机の上へガーゼと体温計を並べていた。窓は少し開いていて、消毒液の匂いに夜風が混ざっている。

 

「まだ帰らないの」

 

「数を確認している」

 

「一人で?」

 

「足りないと困るから」

 

 言い方が妙に具体的だった。役割だから、ではなく、足りないと困るから。そこに誰かの顔が入っている。

 

 僕は棚の前に立ち、紙箱へマジックで日付を書き込む綾波の手元を見た。字は相変わらず整っている。でも、前より少しだけ筆圧がある。

 

「綾波、最近さ」

 

「なに」

 

「前より、色々見るよね」

 

 綾波はすぐには答えなかった。ガーゼの端を揃え、箱の蓋を閉じて、それからやっとこっちを見る。

 

「前は、見なくても困らなかった」

 

「今は?」

 

「今は、困る」

 

 短い返事だった。

 

 でもそれで十分だった。綾波が“困る”を自分の言葉として使うこと自体が、前よりずっと人間の側に寄っている。

 

 机の端には魔法瓶が一つ置いてあった。僕が見つけると、綾波は少しだけ視線を落とす。

 

「それ、綾波の?」

 

「葛城三佐が置いていった」

 

「中身は」

 

「お茶」

 

 蓋を開けると、まだ少し温かい匂いがした。ミサトさんがわざわざ置いていったのだろう。綾波は自分では注がず、しばらく魔法瓶の影だけを見ていた。

 

「飲まないの」

 

「熱い」

 

 その答えが少しだけ可笑しくて、でも笑うのは違う気がした。僕は紙コップを一つ取ってお茶を注ぎ、机の端へ置く。

 

 綾波はそれを見て、前なら礼も言わなかったと思う。

 今の綾波は、コップへ手を伸ばす前に小さく言った。

 

「……あとで飲む」

 

 断ったわけじゃない。その曖昧さがむしろ嬉しかった。

 

 保健室の外では、夜勤の足音がたまに行き過ぎる。発令所も医務室も、遅い時間ほど大人たちの疲れが見える。その疲れの隙間へ、綾波は前より長く留まるようになった。

 

 それはたぶん、誰かのために残るということを少しずつ覚えているからだ。

 

 その日の午後、マヤは中央医務室へ戻すための返却票を机へ置いていった。

 未使用ガーゼ二箱。紙コップ一束。体温計ケース一。予備電池二。

 余剰分。

 

 レイは票と棚を見比べた。

 数は合っている。合っているからこそ、ここから無くなる。

 

 紙コップは葛城三佐が置いていく魔法瓶に要る。

 体温計は学校にも病院にも要る。

 予備電池は見張りや無線に要る。

 

 レイは少しだけ考えて、返却票の〈余剰〉の欄へ細い線を引いた。その上に〈保留〉と書く。さらに端へ、小さく〈第一中学校分〉と付け足した。

 

 正式な指示ではない。

 聞かれれば勝手だと言われるだろう。

 けれど、余剰と書いた瞬間、それらはどこかの倉庫番号になる。保留と書けば、まだ誰かの体温や喉の渇きの近くへ残る。

 

 レイは紙コップと体温計ケースを下の棚へ移した。目立たない場所だが、必要な人ならすぐ見つけられる位置だった。

 

 数日後、レイはヒカリに頼まれて教室の非常箱を保健室まで運んでいた。

 

 段ボールは軽い。軽いが、中身は紙コップ、ガーゼ、使い捨てスプーン、赤鉛筆、紙テープ、体温計ケース。どれも一つだけでは意味が薄いのに、足りなくなるとすぐ困る物ばかりだった。

 

「重くない?」

 

 委員長が聞く。

 

「平気」

 

 レイは短く答えた。平気だった。重さの問題ではなく、誰がどこで使うのかが前より気になっていることの方が、自分には少し不思議だった。

 

 教室の窓側後ろから二番目、アスカの席はその日も空いたままだった。机は動かされていない。左側に、椅子一つぶんにも満たない隙間だけが残っている。箱を置く場所が足りないならそこへ寄せればいい、と綾波は一瞬思った。けれどヒカリが先に首を振った。

 

「そこはだめ」

 

「どうして」

 

「戻る時に座れなくなるから」

 

 ヒカリの答えは簡単だった。簡単なのに、レイには少し難しかった。使わない時間のために場所を残す。今いない人のために、物を置かない。その判断は合理的ではないのかもしれない。けれど、合理だけで教室を回すなら、最初に消えるのはたぶんそういう隙間だ。

 

 レイは箱を教卓の横へ置き直した。ヒカリは何も言わなかったが、それでいいという顔をした。

 

 その時、碇シンジが廊下の向こうから来た。病院へ持っていく布袋を二つ、左右へ分けて持っている。片方にタオルと紙コップ。もう片方にガーゼと体温計。重さを同じくらいにしたのだと、見れば分かった。

 

「ごめん、遅れた」

 

「別に」とヒカリが言う。「その袋、片方は保健室。片方は病院。混ぜないで」

 

「分かってる」

 

 レイは碇シンジの手元を見た。前なら一つの袋へ全部詰めていたかもしれない持ち物が、今日は最初から二つに分かれている。誰かのために運ぶ物と、自分が途中で落とさないための重さが、同じ手つきの中へ収まっている。

 

「綾波、そっち持てる?」

 

「持てる」

 

 受け取った袋は、体温計ケースの角が指へ当たった。軽い。軽いのに、中に入っている物の用途がすぐ浮かぶ。熱を測る。コップへお茶を注ぐ。ガーゼを替える。誰かが戻るまで、場所を荒らしすぎないようにする。

 

 アスカの席の横を通る時、レイは足を止めなかった。ただ、そこへ物を置かない理由だけは少し分かった気がした。空いているのではない。空けてあるのだ。

 

 それはレイにとって、前よりずっと人間の判断だった。

 

「碇君」

 

 発令所の帰り、連絡ブリッジで呼び止められた。

 

「なに」

 

「人は、どうして泣くの」

 

 いきなりだった。

 

 いきなりすぎて、僕は一瞬、変な笑いが出そうになった。けれど綾波はいつもこうだ。普通なら段階を踏む質問を、最初から核心の形で投げてくる。

 

「どうしてって」

 

「悲しいから?」

 

「それが多いと思う」

 

「嬉しい時も泣く」

 

「うん」

 

「じゃあ、どうして」

 

 僕は手すりに寄りかかった。

 

 答えられるはずがないと思う。僕だって、自分の涙の理由をいつも分かっているわけじゃない。

 

「たぶん、溢れるから」

 

「溢れる」

 

「一つの気持ちだけじゃなくて、色々混ざって、体に置いておけなくなるんじゃないかな」

 

 うまく言えている気はしなかった。

 

 でも綾波は真面目に聞いていた。

 

「じゃあ、泣けないのは」

 

「え?」

 

「溢れないから?」

 

 その問いには、喉が少し詰まった。

 

 僕は最近、ちゃんと泣いていない気がする。

 

 涙が出そうになることは何度もあるのに、どこかで止まる。止まるたび、自分が少しずつ乾いていく感じがして嫌だった。

 

「それもあるかもしれない」

 

「そう」

 

 綾波はそれ以上何も言わなかった。

 

 でも別れ際に、小さく続けた。

 

「私は、泣いてみたいと思う」

 

 その言葉が、胸へ引っかかった。

 

 発令所では、リツコさんとミサトさんの空気が前よりずっと悪くなっていた。

 

 加持さんのことだけじゃない。もっと深い所で、二人は今ようやく“同じものを見ながら別の結論を持つ”段階へ来ている感じがする。

 

 大人たちにも綻びはある。

 

 その綻びの上を、綾波やアスカが歩いている。

 

 そう思うと、やっぱり嫌だった。

 

 使徒が来たのは、そんな時だった。

 

 空じゃなかった。

 

 大きくて分かりやすい巨体でもなかった。

 

 もっと細くて、もっと気味が悪い。何かの感情がそのまま形になったみたいに歪な使徒だった。

 

 零号機へ取りつく。

 

 モニターの中で、零号機が使徒の内側へ包まれていく。

 

「綾波!」

 

 叫ぶ。

 

 前にも見た。知っていた。それでもやっぱり叫ぶしかない。

 

 使徒は、零号機を通して綾波の心へ入り込んでいく。愛だとか寂しさだとか、そんな言葉で片づけていいのか分からない種類の侵食だった。

 

 綾波の声が途切れ途切れに届く。

 

『私には……何もないと思っていた』

 

 ノイズの中で、それでもはっきり聞こえた。

 

『でも……怖い』

 

 心臓が強く打つ。

 

 綾波が、怖いと言った。

 

 それだけで、何かが壊れそうになる。

 

『碇君』

 

「いる!」

 

 返事が半分叫びになる。

 

「いるから!」

 

『……ありがとう』

 

 その一言が、僕にはひどく重かった。

 

 前の綾波が言ったのか、今の綾波が言ったのか、もう分からない。でもどちらでも同じくらい痛い。

 

 零号機の自爆シークエンスが立ち上がる。

 

 リツコさんが叫ぶ。ミサトさんも何か言っている。発令所が騒然となる。

 

「やめて!」

 

 叫んでも止まらない。

 

 止められない。

 

 綾波は、僕が間に合わない場所で、いつも自分から終わりを選ぶ。

 

『さようなら』

 

 白い光が膨れ上がる。

 

 僕はその瞬間、言葉にならない声を出したと思う。モニターが真っ白に染まり、発令所の空気が押し流される。誰かが泣いた。マヤさんかもしれない。僕かもしれない。

 

 気づいた時、零号機は消えていた。

 

 綾波も、もういない。

 

 病室へ向かうまでの記憶は、あまりはっきりしていない。

 

 ミサトさんに何か言われた気がする。リツコさんの顔が真っ青だった気もする。でも僕の中では全部が遠かった。

 

 遠くて、空っぽで、それなのに胸の真ん中だけが痛かった。

 

 綾波の部屋へ行くと、窓が少しだけ開いていた。前にも見た部屋だ。散らかっていて、でも前よりどこか“人がいた”感じがあった。

 

 コンロの上のやかん。読みかけの本。畳んだタオル。

 

 こういう小さいものが、どうしようもなく残酷だった。

 

 もう主のいない生活の跡なんて、何の役に立つんだろう。

 

「碇君」

 

 声に振り向く。

 

 そこに立っていたのは、綾波だった。

 

 白い包帯。赤い目。静かな顔。

 

 でも、僕が知っている“今の綾波”ではなかった。

 

「……おかえり」

 

 反射でそう言ってしまう。

 

 綾波は首を傾げた。

 

「ただいま?」

 

 前にも似たやり取りをした。

 

 でも今回は、前よりずっと苦しかった。

 

「あなた、泣いてるの」

 

 言われて、初めて気づいた。頬が濡れていた。

 

「……うん」

 

「どうして」

 

 どうして。

 

 その問いに、前より少しだけ答えられる気がした。

 

「君が怖いって言ったから」

 

 綾波はじっと僕を見た。

 

「私は?」

 

「うん」

 

「……そう」

 

 それから、少しだけ間を置いて言う。

 

「私、少しだけ、温かいことを覚えている気がする」

 

 その言葉に、涙がまた出た。

 

 綾波は戸惑ったように僕を見た。でも前より少しだけ、逃げずにそこにいた。

 

 僕はその場で泣いた。

 

 綾波のためだけじゃない。アスカのためだけでもない。ミサトさんや加持さんや、前の世界や、今の世界や、自分のどうしようもなさや、そういう全部が混ざって、ようやく少しだけ溢れた。

 

 泣けたからって何かが解決するわけじゃない。

 

 それでも、泣けないよりは少しだけ人間らしい気がした。

 

 * * *

 

 綾波レイは、自分が少しずつ“自分だけ”になれなくなっていることを知っていた。

 

 司令のための自分。

 エヴァに乗るための自分。

 碇シンジが見る時の自分。

 

 前までは、そのどれもが同じくらい空疎だった。役割があるだけで十分だったし、そこへ疑問を差し挟む必要も感じなかった。

 

 だが最近は違う。

 

 碇シンジは、役割の向こうを見ようとする。

 しかも、その見方が安定していない。

 遠くから見る時と、急に近くへ寄る時がある。

 そのたびに、自分が“使える部品”ではなく、ひとつの人間として扱われかけていることを知る。

 

 知ると、少しだけ困る。

 

 人間として扱われるなら、自分が何を望んでいるのかを少しは考えなくてはいけなくなるからだ。

 

 使徒が零号機へ絡みついた時、彼女は最初それを“戦闘”として処理しようとした。

 

 侵食。

 接触。

 自爆準備。

 必要な手順は分かっている。

 

 けれど使徒は、綾波のそういう手順の内側へ入ってきた。

 

 寂しいのかと問う。

 怖いのかと問う。

 碇シンジをどう思うのかと問う。

 

 答えられない質問だった。

 答えられないまま、でも否定もしきれない。

 

 自分は、自分が碇シンジの泣きそうな顔を覚えている。

 焼けたプラグの中で、自分を抱き起こした手の熱を覚えている。

 前の自分が消えた時、彼が“嫌だ”と顔に出したことも覚えている。

 

 それは、役割の記憶ではなかった。

 

 発令所へ降りる前、レイは保健室の返却票を一枚だけ裏返したことを思い出す。

 〈余剰〉を〈保留〉へ書き換えた、薄い誤差。

 司令のためでも、零号機のためでもない。葛城三佐の魔法瓶と、教室の空いた席と、碇シンジの不器用な手つきのために残した、小さすぎる勝手。

 

 その誤差があるぶんだけ、自分は前より少しだけ“部品ではない側”へ寄ってしまったのだとレイは知っていた。

 

(私は、怖い)

 

 ようやくその形になる。

 

 壊れることが怖いのではない。

 壊れたあと、また別の“私”がそこへ座った時に、碇シンジがどんな顔をするのか、それを見るのが怖い。

 

 彼はきっと、今の私を見て、前の私を思い出す。

 前の私を大事にして、今の私へ優しくする。

 その優しさが間違っているとは思わない。けれど、そのままでは彼はずっと誰かを記念碑のように並べてしまう。

 

 それは、碇シンジにとってあまり良くないことだとレイは思った。

 

 だから、終わらせるしかない。

 

 自分が終わるのではない。

 “今の私も前の私も同じようにそこへ並ぶ”ことを終わらせるために。

 

『碇君』

 

 回線越しの声は、予想していたよりずっと近かった。

 

 返事が来る。

 いる、と言う。

 どこにも行かないみたいな声で。

 

 少し可笑しかった。

 碇シンジは、いつも離れそうな顔をしているくせに、こういう時だけ真っ直ぐそこへ来る。

 

『ありがとう』

 

 その言葉は本当だった。

 

 助けてくれたからではない。

 私を“痛いもの”として見たからだ。

 部品や代用品ではなく、消えたら嫌だと思う相手として見たから。

 

 ならもう十分だとレイは思った。

 

 自爆シークエンスへ手をかける。

 怖い。

 でも前ほど空っぽではない。

 空っぽではないからこそ、終わりを選べる。

 

『さようなら』

 

 白い光が満ちる寸前、レイは一つだけ願った。

 

 碇シンジが、今度こそ生きている誰かを見る目を覚えてくれればいい。

 優しい過去や壊れた未来ではなく、怒ったり泣いたりする“今”を相手にできればいい。

 

 それはたぶん、自分には難しかった。

 

 だから少しだけ、彼にはできてほしいと思った。

 

 爆発のあと、別の“綾波”が目を開ける。

 

 記憶は曖昧だった。

 でも手の中に残る温度だけは、少しだけ確かだった。

 

 * * *

 

 自爆の直前、レイはひどく静かだった。

 

 怖くないわけではない。

 消えることに慣れているわけでもない。

 ただ、“怖い”と“嫌だ”の間に、前より少しだけ言葉が増えた。

 

 それは碇シンジのせいだと、レイは思う。

 

 彼は自分を特別扱いしたがる。

 でもその特別は、司令のような所有でも、赤木博士のような管理でもない。

 もっと曖昧で、不器用で、だからこそ面倒だ。

 

 前の綾波と今の綾波を同じように大事にしようとする。

 同じように大事にしようとして、違うと知るたび傷つく。

 それでもやめない。

 

(変な人)

 

 その感想は、最初に持った時と少し意味が変わっていた。

 

 前は理解不能という意味だった。

 今は、理解不能だけれど、少しだけ嬉しいという意味も混ざっている。

 

 嬉しい。

 

 その言葉を、自分へ向けて使う日が来るとは思わなかった。

 

 もし今、自分が消えたら、碇シンジはまた悲しそうな顔をするだろう。

 前の時よりもっと、自分の中で色々なものを混ぜて。

 それはたぶん、彼にとって良くない。

 

 でも、悲しむこと自体は悪くないともレイは思う。

 

 悲しむということは、何かをただの部品や代用品として見ていないということだから。

 誰かの不在に形があるということだから。

 

 だったら、次はその悲しみをちゃんと“今いる誰か”へ向けてくれればいい。

 過去の自分や、置き去りにした記念碑へではなく。

 

 レイは、碇シンジにそうしてほしかった。

 

 それが自分の願いだと認めることに、前ほど抵抗はなかった。

 

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