【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐話 見知らぬ、天井

目が覚めた時、天井は前と同じだった。

 

 白い照明。病室の匂い。カーテンの隙間から差し込む昼の光。前の僕なら、そこでようやく自分が本当にここへいると理解して、どうしたらいいか分からなくなっていたと思う。

 

 今の僕は逆に、ここから先の方が怖かった。

 

 時間がある。

 まだ壊れていない時間が、残っている。

 

 それは希望みたいにも思えたし、拷問みたいにも思えた。前は知らずに踏み抜いた失敗を、今度は知ったまま見送るかもしれない。その可能性の方が、何も知らなかった頃よりずっと重い。

 

 点滴の管が腕に刺さっている。胸の奥はまだ戦闘の揺れを覚えていて、目を閉じるとすぐに使徒の顔が浮かんだ。けれど、怖さより先に来たのは別の種類の吐き気だった。

 

 ここからまた始まる。

 知っている順番で、人が集まって、傷ついて、壊れて、最後にはあの海へ行く。

 

 もし何も変えられなかったらどうするんだろう。

 

 前は知らないから怯えた。

 今は知っているから怯えている。

 

 どちらがましなのか、正直よく分からなかった。

 

 扉が開く。

 

「目が覚めたのね」

 

 リツコさんだった。その後ろにミサトさんがいる。二人とも少し疲れた顔をしていたけれど、僕を見る目にはまだ余裕があった。ここはまだ、世界が終わる前の場所だ。

 

「気分は?」

 

「最悪です」

 

「正直でよろしい」

 

 ミサトさんが笑う。その笑い方を見て、胸の奥が妙にきしんだ。僕はこの人の最後を知っている。知っていて、その笑顔に普通に返事をしている。それだけで、何か悪いことをしている気になった。

 

「でも、初戦としては上出来よ。びっくりするくらい」

 

「たまたまです」

 

「たまたまであんな動きできるなら、みんな苦労しないわ」

 

 ミサトさんの言葉に、リツコさんは黙ったままカルテをめくった。たぶん二人とも、僕が前情報なしに動いたにしては妙に踏み込みがいいと思っているのだろう。けれど、問い詰めるほどではない。今のところは。

 

「痛むところは?」

 

「全身」

 

「比喩じゃなく?」

 

「たぶん、比喩じゃないです」

 

 それでようやくミサトさんが少し吹き出した。笑い声を聞くと、ひどく安心する。安心すること自体が怖い。

 

 その時、廊下の向こうでストレッチャーの車輪が鳴った。

 

 思わずそちらを見る。

 

 白いシーツ。薄い病院着。包帯の巻かれた腕。横たわったまま、天井だけを見ている赤い目。

 

 綾波だった。

 

 立ってなんかいない。歩いてもいない。前の僕を動かすために病室の前まで来られるような状態ではまだなくて、看護師と技術員に付き添われたまま、傷ついた身体ごと静かに運ばれていく。

 

 僕は思わず息を止めた。知っている綾波と、まだ僕をほとんど知らない綾波が、目の前でうまく重ならない。

 

 ストレッチャーは病室の前を通り過ぎた。その途中で、綾波は一度だけこちらを見た。

 

 見た、と思った瞬間にはもう視線は逸れている。何かを伝えたい目ではない。ただ、そこに他人がいたから見ただけの目だ。たぶん、僕に会いに来たわけでもない。ただ移送されている途中で、たまたまここを通っただけだ。

 

 それでも、その白い横顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 

 知っているから雑に扱えない。

 知らない相手としても見きれない。

 

 その中途半端さが、僕をますます変な人間にする。

 

 僕は何も言わなかった。言えることが、まだ何もなかった。

 

 検査だの聴取だのが終わる頃には、日が少し傾いていた。病院の廊下の光は白くて、時間の感覚を薄くする。そういう場所に長くいると、自分が誰の人生を生きているのか分からなくなりそうだった。

 

 結局、ミサトさんの家に住むことになったのは前と同じだった。

 

 

 病院を出る前に、ミサトさんは看護師から紙袋を一つ受け取った。

 

「洗面用具と着替え少し。最低限だけね」

 

 覗くと、歯ブラシ、薄いタオル、安い櫛、それから病院の売店で買ったらしいノートが入っていた。新品の生活というより、とりあえず今夜をしのぐための一式だ。そういう最低限の用意が、かえって現実だった。

 

 マンションへ着くと、ミサトさんは玄関の電気も点けないうちから収納を開け始めた。予備のシーツ、客用のタオル、使いかけの洗剤、何年も前の旅行鞄。散らかっていると言っていたけれど、散らかり方の奥には「置き場所」があった。

 

「シンジ君、これ使って」

 

 渡されたのは少し色の褪せたコップと、新しい歯ブラシだった。

 

「タオルは洗面所の上段。洗う前のは籠。洗った後のは……その時考える」

 

「考えるんだ」

 

「家事って大体そういうものよ」

 

 言いながら、ミサトさんは押し入れから布団を引っ張り出す。僕は反射で手を出し、重い方を受け取った。前にも触った重さだと思った瞬間、自分で少しだけ嫌になる。知っていることが先に体へ出る。

 

「こっちの部屋使って。襖、少し立てつけ悪いから、開け閉めは下から」

 

 言われる前に、僕の手が襖の下側へ伸びかけた。危なかった。慌てて指を引く。

 

「どうしたの?」

 

「なんでもない」

 

 部屋の隅へ布団を敷く。壁際には古いスタンドライト、その横に使っていない本棚。僕は紙袋の中身を並べ、ノートだけを机の上へ置いた。自分の物が少し置かれただけで、部屋の空気がほんのわずかに変わる。

 

 ミサトさんは廊下の先から顔だけ出した。

 

「あと、これ」

 

 差し出されたのは小さな銀色の鍵だ。

 

「玄関の補助錠。昼間一人になることもあるだろうから、閉め方だけ覚えて」

 

 鍵は軽かった。でも掌の中ではひどく重い。家の中へ入るための鍵じゃない。この家を内側から閉めるための鍵だ。

 

「なくしたら?」

 

「泣く」

 

「ミサトさんが?」

 

「両方」

 

 冗談めかしているくせに、そういうところだけきちんと現実へ戻る。

 

 玄関脇の棚には小さな懐中電灯と予備電池、消毒液、メモ帳まで置かれていた。ふだんの暮らしと非常時の暮らしが、同じ棚の上に重ねてある。この街ではそれが特別な備えではなく、最初から生活の一部なのだろう。警報と停電の近くで働くミサトさんの家なら、なおさら平時だけを信用しない暮らし方になるのだと思った。

 

「うちね、ルールってほどじゃないけど、一応あるの」

 

 ミサトさんは指折り数えた。

 

「帰るのが遅くなる時はメモ。洗濯物は溜めすぎない。食べられる物は勝手に食べていいけど、最後の一本は聞く。あとは」

 

 一度だけ言葉を切る。

 

「困った時、黙って消えない」

 

 それが一番ルールらしかった。

 

 僕はすぐには頷けなかった。前の僕はそのルールを破った。今の僕も、たぶん気を抜くと同じことをする。

 

「……努力します」

 

「努力でいいわよ。最初から完璧とか期待してないし」

 

 そう言って、ミサトさんは洗面所の方へ消えた。水の流れる音がして、缶の倒れる音がして、それから「やっぱり片付けなきゃ駄目か」と小さく呟く声が聞こえる。

 

 僕は部屋の真ん中に立ったまま、鍵をポケットへ入れた。泊まる場所じゃない。戻る場所として渡された鍵の重さを、まだうまく扱えなかった。

 

 車の中で、ミサトさんはわざと軽い調子を崩さなかった。

 

「急で悪いけど、うち、結構散らかってるから」

 

「……そんな気はしてました」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

「そんな気?」

 

「いえ、その、想像つくっていうか」

 

「何よそれ、ひっどーい」

 

 笑いながらもやや怪訝な顔をされた。危ない。前にも何度かこういう失敗をした。知っていることが先に口から出る。気をつけているのに、気をつけるほど逆に変になる。

 

 マンションの廊下の匂いまで、前と同じだった。

 

 玄関を開ける。ペンペンの鳴き声。缶ビールの空き缶。脱ぎっぱなしの靴。冷蔵庫の低い唸り。

 

 何もかも同じなのに、違う。

 

 前はここへ来て、居場所が欲しかった。好きになってもらいたかった。期待して、勝手に傷ついて、勝手に拗ねていた。

 

 今は違う。

 

 もう、ああいう期待は危険だと知っている。期待した分だけ、崩れた時に痛い。だから最初からどこかで諦めていた。その方が楽だからだ。

 

「とりあえず、ここがシンジ君の部屋ね」

 

 前と同じ部屋だった。

 

 ベッド。机。小さな棚。カーテン。どれも別に特別じゃない。なのに、胸の奥が妙にざわつく。前にここで眠った。逃げた。泣いた。アスカと襖一枚隔てて息を潜めた夜もあった。

 

 まだ何も起きていない。

 起きていないのに、記憶だけが先に体を緊張させる。

 

「荷物はそれだけ?」

 

「はい」

 

「男の子ってほんと身軽ね」

 

「そうかな」

 

「そうよ。あ、でも最低限は今度買いに行きましょ。下着とか学校用品とか」

 

 学校、という言葉に少しだけ胃が重くなる。トウジ。ケンスケ。ヒカリ。担任の先生。教室の空気。あの場所は戦場じゃないのに、別の意味で僕を追い詰める。

 

「学校、嫌?」

 

 僕が黙ったのを見て、ミサトさんが訊いた。

 

「嫌っていうか」

 

「怖い?」

 

 図星だった。

 

「……うん」

 

「そりゃそうよね」

 

 笑わないで言う。そこがありがたかった。

 

「でも大丈夫。嫌なやつがいたらお姉さんがシメてあげるから」

 

「それは余計に嫌です」

 

「何でよ」

 

 そのやり取りだけで、肩の力が少し抜けた。

 

 夕食は、前と同じくほとんど出来合いだった。けれど温かい味噌汁があるだけで、病院の匂いが少し遠ざかる。ペンペンが足元をうろつき、ミサトさんがビールを開け、テレビではどうでもいいバラエティが流れていた。

 

 どうでもいいものが流れている部屋は、それだけで少し救いだった。

 

「シンジ君ってさ」

 

「はい」

 

「もっと、子供っぽいのかと思ってた」

 

 胸がちくりとした。

 

 子供っぽい、と言われるのは嫌なはずだった。前はそうだった。でも今は、子供っぽくいられない自分の方が嫌だった。

 

「子供ですよ」

 

「そうね」

 

 ミサトさんはそれ以上追及しなかった。そこがこの人の優しさで、同時にずるさでもある。踏み込むべき場所を分かっている大人は、やっぱり苦手だ。

 

 夜、自分の部屋へ入ってからもしばらく眠れなかった。

 

 壁の向こうの音。冷蔵庫の音。遠くを走る電車の音。そういう生活音が全部、前の時間を引きずってくる。

 

 僕は布団の中で目を閉じたまま、妙なことを考えていた。

 

 世界を救えるかどうかなんて、まだ分からない。

 でも少なくとも、ここで朝を迎えられるかどうかくらいは、自分に関わってくる。

 

 明日になれば学校だ。

 父さんはたぶん電話に出ない。

 トウジに殴られて、ケンスケに騒がれて、それから綾波を見る。

 

 その順番を知っている。

 

 知っていて、なお朝が来るのが少し怖かった。

 

 * * *

 

 病室の前を通り過ぎたあと、綾波レイは彼女にしては珍しく戸惑いというものを覚えていた。

 

 自分でもはっきりしない。司医務室の前が少し騒がしかったからか、それとも初号機を動かした碇司令の息子を一目だけ見たからか。

 

 白い壁に背を預ける。

 

 碇司令の息子は変だった。

 

 最初から変だったけれど、少し見ただけでも予想した種類の“変”ではなかった。怯えている。はっきり分かるくらい怯えているのに、逃げる方向が普通の子どもと違う。自分を守るより先に、誰かの痛みを確かめようとするみたいな目をしていた。

 

 それはレイにとって、理解しにくい優しさだった。

 

 優しい人間は、たいてい見返りを欲しがる。

 司令に褒めてほしいとか、周りに認められたいとか、そういう形で。

 碇司令の息子からは、それが薄かった。

 

 薄い代わりに、別の何かが濃い。

 拒まれる前から拒まれた顔をしているような、妙な遠さ。

 

 そう思ったのは本心だった。

 

 けれど同時に、その“変”が気になったのも本心だった。

 

 * * *

 

 リビングでペンペンを挟んで二人で食卓を囲んだ夜、ミサトはいつもより早く酔いが回った。

 

 ビールの缶が二本目へ入る頃、ようやく少年の呼吸の仕方が見えてくる。昼間は取り繕う。痛いところを聞かれれば冗談に逃がす。家に帰って、鍋の湯気やテレビの音やペンペンの鳴き声が混じった頃に、ようやく肩が落ちる。

 

 落ちるのに、完全には緩まない。

 

「シンジ君ってさ」

 

「はい」

 

「本当は、もっと子どもでいられたんじゃない?」

 

 何気なく投げたつもりの一言に、少年の箸が一瞬止まった。

 

「今も子どもです」

 

「そうね。でも、なんていうか」

 

 うまく言葉にならない。

 

 だらしなく散らかった部屋にも、同居人の行儀の悪さにも、十四の男の子ならもっと素直に怒るか呆れるかするはずだ。なのにシンジは、最初から“こういうもの”として受け入れようとする。諦めが早い。早すぎる。

 

「慣れるのが早いのよね」

 

 ようやくそう言うと、シンジは少し困った顔をした。

 

「早く慣れた方が、楽だから」

 

 その答えに、ミサトは妙に胸が詰まった。

 

 楽だから。

 

 たぶん本音だ。けれど、その“楽さ”は子どもが覚えるには少し早い種類のものだとも思った。

 

「ねえ」

 

「はい」

 

「明日から学校だけど、無理して“普通の中学生”やらなくていいのよ」

 

 言った瞬間、シンジの目がわずかに揺れた。

 

 図星だったのだろうと、そこで初めて気づく。

 

「……そんなふうに見えますか」

 

「ちょっとね」

 

「そっか」

 

 シンジはそれ以上は言わなかった。

 けれど、その夜、洗い物を終えたあとで台所の流し台にもたれたまま長く動かなかった。背中が小さく、頼りなく見える。けれどあの背中は、今日使徒に向かっていった背中でもある。

 

 普通の子どもなのか、そうではないのか。

 

 たぶんその答えは、どちらでもあるのだろうとミサトは思った。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 翌朝、洗面所の棚には僕の物が少し増えていた。

 

 新しい歯ブラシ、売店で買った安い櫛、昨夜ミサトさんが押し入れから出してきた薄いタオル。たったそれだけなのに、洗面所の空気が少し変わる。誰かの家に泊まっているんじゃなく、ここで朝の順番を持ち始めた感じがした。

 

 ミサトさんは出勤前に、玄関脇の棚を指で叩いた。

 

「ここ、触っていい所。懐中電灯と予備電池、消毒液と絆創膏、メモ帳。減ったら書く」

 

「書く?」

 

「書く。家の物って、なくなった瞬間に困るから」

 

 メモ帳の一ページ目には、すでに『電池 三』『絆創膏 一箱』と書いてある。誰が書いたのかは分からない。たぶんミサトさんだ。雑だけど読める字だった。

 

「食べ物は?」

 

「最後の一本だけ聞く」

 

 昨日も聞いたルールだ。でも朝の光の中で聞くと、夜よりずっと生活の決まりに見えた。

 

 朝食のあと、僕は机の上で連絡帳用のノートへ自分の名前を書いた。裏表紙の内側には、ミサトさんの電話番号とマンションの番号、それから玄関の補助錠の開け方を小さくメモする。何かあった時に、頭が真っ白でも手だけは動くように。

 

 家を出る前、ポケットの中で鍵の形を確かめた。冷たくて軽い。軽いのに、昨日より少しだけ「戻る場所」の重さがある。

 

 マンションの廊下で、僕は一度だけ振り返った。閉まったドアの向こうには、まだ洗い終わっていないコップと、冷蔵庫の唸りと、玄関脇のメモ帳がある。

 

 世界はまだ全然安全じゃない。

 でも、こういう小さい物を朝の順番に入れていくしか、たぶん生活は始まらないのだと思った。

 

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