【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾四話 最後のシ者

食堂のトレイを持ったまま、僕は一瞬だけ立ち止まった。

 

 コロッケパン。

 紙パックのミルク。

 ゼリー飲料。

 味の濃い惣菜パンと、甘すぎる飲み物。

 

 どれも僕が好きで取ったものじゃない。

 気づいた時には手が勝手に伸びていた。アスカが起きていれば「センスない」と言いながら半分奪っていく類のものばかりだと、載せ終えてから分かる。

 

 戻そうかと思って、やめた。

 

「君一人で食べるには、ずいぶん偏っているね」

 

 声がして振り向く。

 渚カヲルが、最初からそこにいたみたいな顔で立っていた。トレイを片手に持ち、こちらの返事を急かしもしない。

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

 彼は向かいへ腰を下ろした。

 

「君、トレイを置く時だけ左を少し空ける」

 

 言われて初めて気づく。

 たしかに僕は、自分の席の左側へ妙に丁寧に隙間を空けていた。誰かの肘がぶつからないようにするみたいに。

 

「癖だよ」

 

「うん。誰かがいた癖だ」

 

 軽い言い方だった。

 軽いくせに、逃げ道がない。

 

 僕はミルクのストローを差し込んだ。うまく入らなくて、一度だけ紙パックの角を潰す。そういう情けない手元を、カヲル君は笑わずに見ていた。

 

「アスカはまだ眠ってる」

 

 自分でも、どうして先にその名前が出たのか分からない。

 

「そう」

 

「綾波は、前より僕を見る」

 

「うん」

 

「ミサトさんは忙しいし」

 

 そこまで言って、口をつぐむ。

 加持さんの名前は出なかった。出した瞬間に、今ここにある空気まで少し冷たくなりそうだったからだ。

 

 カヲル君はパンの袋を開けるでもなく、しばらく僕のトレイを見ていた。

 

「君は不在に合わせて生活するんだね」

 

「……どういう意味」

 

「いない人の分を、まだ体が覚えてる」

 

 答えられなかった。

 

 たしかに最近の僕は、味噌汁の椀を一つ多く出しかけたり、台所のノブに掛かったままのヘアゴムへ目を止めたりする。必要がなくなったと頭では分かっている動作を、体だけが先にやる。

 

 それは寂しいという一言では足りない、もっと鈍くてみっともない癖だった。

 

「……分かったみたいに言わないでよ」

 

 ようやくそれだけ言うと、カヲル君はかすかに笑った。

 

「ごめん」

 

「謝らなくていい」

 

「そうか」

 

 そこも軽い。

 でも軽いからといって、何も見ていないわけじゃない。それが厄介だった。

 

 渚カヲルは、最初から近かった。

 

 距離の詰め方にためらいがない。会ってすぐ笑う。沈黙を怖がらない。人が普通なら隠す種類のことまで、相手の顔色を見ずに口にする。

 

 そういう人間は本来苦手なはずだった。

 なのに僕は、彼といると少しだけ呼吸が楽になった。

 

 たぶん彼は、僕に何かを期待しないからだ。

 あるいは、期待していたとしても、それを“期待している顔”で見せないからだ。

 

 発令所の誰もが、今はどこかで疲れていた。アスカは眠ったまま。ミサトさんは加持さんの不在を言葉にしない。綾波は綾波で、前より僕を見る。そのどれもが重い。

 

 カヲル君だけが、最初からこちらの重さを軽い調子で受け止める。

 それが、少し怖くて、少しありがたかった。

 

 

その日の夕方、僕は一人で旧音楽室へ入った。

 

 文化発表会のために使っていた譜面台と椅子が、片付けきれないまま端へ寄せられている。器楽庫の脇には、僕のチェロケースが薄く埃をかぶったまま立てかけてあり、その横の机には白紙の地図が何枚か重なっていた。避難経路の写しに使おうとして、まだ誰も手をつけていない紙だ。

 

 カヲル君はそこにも、最初からいたみたいな顔で現れた。

 

「君は空の部屋を見つけるのが上手いね」

 

「ついてきたの?」

 

「音がしなかったから、逆に気になったんだ」

 

 彼は机の白紙を一枚持ち上げ、光へ透かした。

 

「何も書いてないのに、もう地図みたいだ」

 

「どこがそう見えるの」

 

「誰かがこれから線を引くって分かるから」

 

 意味の分からないことを平然と言う。それなのに、少しだけ分かってしまうのが厄介だった。

 

 僕はケースを開けた。四本の弦と黒い指板だけは、世界がどこまで壊れても妙に裏切らない。

 

 最初の開放弦は、思っていたより濁った。

 

「狂ってるね」

 

 カヲル君が言う。

 

「調律?」

 

「うん。部屋の湿気もあるし、たぶん移動の時に少しずれてる」

 

 僕はもう一度だけA線を鳴らした。同じラのはずなのに、前に聞いていたラとは少し違う。たぶん耳の方も変わっている。

 

「変だな」

 

「でも、だから面白い」

 

 カヲル君は窓際へ寄り、音の消え方を聞くみたいに目を細めた。

 

「同じ譜面を弾いても、部屋が違えば残響が違う。楽器は同じでも、空気の方が前と別物なんだ」

 

 その言い方は相変わらず少し詩みたいで、でも前より浮いていなかった。

 

「エヴァも、少し似てるのかもしれないね」

 

「似てる?」

 

「同じ初号機でも、乗る人の呼吸と、その時の恐怖で反応が変わる。LCLは信号を伝えるだけの液体じゃなくて、パイロットの内側を拡声する媒質でもあるから」

 

 彼は言葉を選ぶように続けた。

 

「音楽で言えば、楽器と演奏者とホールの三つが毎回少しずつ違う。だから完全な再現は起きない。でも、そのずれの中でたまに一瞬だけ綺麗に揃う」

 

 音楽室と客間での訓練が脳裏をよぎる。半拍ずれただけで失敗したこと。逆に、合った瞬間に気味が悪いくらい噛み合ったこと。

 

「揃いすぎるのも怖い」

 

 僕が言うと、カヲル君はすぐ頷いた。

 

「うん。共鳴は美しいけど、続きすぎると壊す」

 

 リリンの古いSFに出てくる巨大な共振器みたいだ、と彼は小さく笑った。

 

「都市全体を一つの周波数へ合わせて、遠い星と交信したり、地下の怪物を起こしたりする類の装置。そういうものはいつだって魅力的だけど、だいたい最後に人間の方が耐えられなくなる」

 

 僕は弦の上に指を置いたまま、窓の外を見た。

 第三新東京市も少し似ている。地上と地下、発進口と射出台、変電所と発令所。巨大な体を一瞬だけ戦闘のための一拍へ合わせる街。

 あれはたしかに壮大だった。恐ろしくて、不気味で、それでもどうしようもなく目を奪う種類のものだった。

 

「リリンは」

 

 カヲル君がぽつりと言う。

 

「巨大な装置を作るのが好きだよね。自分たちの孤独が外まで届くかもしれないと思うと、急に空や海へ線を引きたくなる」

 

「孤独が?」

 

「そう。会いたい相手が遠いほど、機械は大きくなる」

 

 それは少し分かる気がした。届かないから、電波塔を立てる。届かないから、都市ごと兵器にする。届かないから、補完みたいなことまで考える。

 

 でも、どれだけ大きな装置を作っても、目の前の誰かに一言ちゃんと伝える方が難しい時がある。

 アスカに。ミサトさんに。綾波に。加持さんにすら。

 

「変なの」

 

 僕が言うと、カヲル君は少し笑った。

 

「変だね。宇宙へ向ける送信機の方が、隣の席の相手へ返事をするより簡単なことがある」

 

 僕はもう一度だけ短い旋律を弾いた。

 少し外れた音が部屋の中へ広がって、それでも完全には壊れなかった。

 

「前より、間違った音に慣れたかもしれない」

 

「それはたぶん、生きるのに必要な耳だ」

 

 カヲル君はそう言って、白紙の地図を一枚手に取った。

 

「まっすぐな線しか許さない人は、たぶん誰とも長く歌えないから」

 

 そこで話が終わるかと思ったら、カヲル君は理科準備室の奥を顎で示した。

 

「少し寄っていく?」

 

 案内されて奥へ入ると、埃をかぶった教材棚の上に、古い天体図と壊れかけた短波ラジオが並んでいた。文化祭で使うはずだったのか、紙でできた土星の輪まで潰れたまま箱へ入っている。窓のない準備室は薄暗く、薬品戸棚のガラスへ僕たちの影が二重に映った。

 

「この部屋は未来の匂いがするね」

 

 カヲル君が言う。

 

「未来の匂い?」

 

「うん。星図とか、真空管とか、放物線アンテナの模型とか。今すぐ宇宙船を作れるわけじゃないのに、ここには“遠くへ届くかもしれない”物だけが集められている」

 

 その言い方が少し可笑しくて、でも分かる気もした。理科準備室にはいつも、日常の延長じゃないものが置いてあった。名前も用途も半分しか分からない器具。ここではない場所を前提にした図面。未来というより、まだ届いていない返事の匂いだ。

 

 カヲル君は天体図の端を持ち上げ、その下にあったラジオのダイヤルを指で軽く回した。雑音だけが低く鳴る。

 

「リリンは昔から、遠い星を観察することに自身の夢を重ねて見ていたんだね」

 

「今は違うのかな」

 

「今もたぶん同じだよ。ただ、距離の単位が変わっただけで」

 

 彼はラジオの雑音へ耳を澄ますみたいに少し首を傾けた。

 

「第三新東京市の地下都市も、旧ネルフ本部も、やっていることの根っこは似ている。誰かが孤立して死なないように、声と電力と水を配り直す。宇宙へ向かう代わりに地下へ潜っているけれど、孤独へ機械で橋を架けようとしている点では、あまり変わらない」

 

 棚の上の星図には、黄ばんだインクで夏の大三角が描かれていた。昔の誰かが、教室の明かりを消して、ここで星の名前を教えたのかもしれない。遠くの恒星の話をしながら、その実、自分の町の空を見上げるために。

 

「遠い方が、夢にしやすいんだろうね」

 

 僕が言うと、カヲル君は頷いた。

 

「うん。遠い相手なら、勝手に綺麗にしやすい」

 

 胸が少し痛んだ。

 それが星の話だけじゃないと、すぐ分かったからだ。

 

「隣の席にいる誰かとか、同じ食卓に戻ってくる誰かとか、そういう距離の相手ほど、本当はずっと難しい」

 

 カヲル君は続ける。

 

「近いから、匂いも、機嫌も、昨日の言い方も消えない。宇宙船の設計図より、今ここで誰かの左側を空けるかどうかの方が、よほど人間の本質に触れる」

 

 準備室の棚には、壊れた顕微鏡の横に、非常用の乾電池や使いかけの白紙ノートまで積まれていた。星図と予備電池が同じ棚に入っている。その取り合わせが、今の世界には妙にふさわしく思えた。遠い星の夢と、今夜の明かりを切らさないための現実が、どちらも同じ“未来”の側に置かれている。

 

「昔の人は、宇宙へ行けば孤独が変わると思ったのかな」

 

「どうだろう」

 

 カヲル君は少し笑った。

 

「でも、人はたぶん孤独そのものを消したいわけじゃない。孤独が一方通行で終わるのが嫌なんだ。だから送信機を作るし、受信機も作る」

 

 その言い方を聞いて、僕はアスカの席の左側に残してしまう隙間を思い出した。誰かが戻ってくるための幅。呼びかけに対する返事のための余白。あれもある意味では、小さな受信機なのかもしれない。

 

「君は、そういう余白を最初から少し確保する」

 

 カヲル君が言った。

 

「チェロでも、地図でも、椅子の位置でも」

 

「癖だよ」

 

「うん。癖はその人の設計思想だ」

 

 その言い方に、少しだけ笑ってしまう。

 

「大げさ」

 

「大げさじゃないよ。どんな未来を作りたいかって、結局は物の置き方に出るから」

 

 理科準備室の薄暗さの中で、その言葉だけがやけに残った。巨大な兵器の思想も、今夜使うラジオの置き場も、誰の隣へ椅子を寄せるかも、たぶん本当は同じ地続きの問題なのだ。誰が誰へ届く前提で世界を並べるのか、という問題。

 

 カヲル君はラジオのダイヤルから指を離した。雑音が止む。急に部屋が静かになって、準備室の空気が少し冷たく感じられた。

 

 

「弾くの?」

 

「少しだけ」

 

「僕はその“少しだけ”があまり信用できない」

 

 言われて、少しだけむっとする。けれど反論する前に、カヲル君は譜面台を一つ持ち上げて僕の隣へ置いた。高さを合わせ、椅子を半歩だけ寄せる。手伝っているのか侵入しているのか、相変わらず境目が曖昧だ。

 

「ここ、君はいつも左を空けるね」

 

「……また、それを言うんだ」

 

「癖なんだろう?」

 

 僕は返事をせず、代わりに開放弦を一つ鳴らした。音が部屋へ広がり、白紙の地図の上で反響する。カヲル君はその響きを聞きながら、机の紙をきれいに揃え始めた。

 

「譜面も地図も似ている」

 

「何が」

 

「どこで誰が入るか、先に決めておくところ」

 

 彼は一枚の紙へ鉛筆で薄く線を引いた。窓、廊下、階段、屋上。学校の簡単な見取り図だ。

 

「誰かがここへ来た時、何も書いてない白紙より、一本でも線がある方が少し安心する」

 

「その線を間違えたら?」

 

「その時は直せばいい」

 

 簡単に言う。

 

「君は直せるものまで、最初から墓石にする癖がある」

 

 痛いところをまた言われた。

 

「……好きでそうしてるわけじゃない」

 

「知ってる」

 

 カヲル君はようやく僕を見た。

 

「でも、好きじゃなくても癖にはなる」

 

 僕は弦へ指を置いたまま動けなかった。窓の外では風がカーテンを揺らし、廊下のどこかで椅子を引く音がした。誰かがまだ学校を使っている。その気配だけで、ここがただの空き部屋ではなくなる。

 

「アスカは怒る」

 

 気づけば、そんなことを言っていた。

 

「僕が勝手に分かった顔すると、すぐ怒る」

 

「いいことだ」

 

「どうして」

 

「今ここにいる彼女を見ろって言ってるんだから」

 

 僕は小さく息を吐いた。

 

「簡単に言わないでよ」

 

「簡単には言ってないよ」

 

 カヲル君は白地図の端へ、さっきの線をもう一本足した。

 

「ただ、君は一人で全部の線を引こうとする。だから途中で怖くなる」

 

 彼は鉛筆を机へ置いた。

 

「本当は、誰かが横から書き足す余白が要るんだ」

 

 その言葉のあとで、僕はようやくもう一度弦を鳴らした。単純なフレーズだった。けれど隣に白地図があり、カヲル君がその端を押さえているだけで、音は少しだけ違って聞こえた。

 

「ねえ、碇シンジ君」

 

「なに」

 

「君は音を鳴らす時、誰かの分の余白まで確保するんだね」

 

「……何の話」

 

「チェロ」

 

 心臓が小さく跳ねた。

 

「見てたの?」

 

「聞こえたんだよ。文化発表会の練習の時も、音楽室の前を通るとすぐ分かった」

 

「……それじゃ、盗み聞きみたいだ」

 

「褒め言葉だと思ってほしい」

 

 そう言って、彼はようやくパンの袋を開けた。

 

「一人分の音しか鳴らしていないのに、最初から後ろの声が入る場所を空けてある」

 

「導入なんだから、そういうものだよ」

 

「当たり前を当たり前にできるのは、案外むずかしいよ」

 

 その言い方は、食堂よりどこか別の場所へ向いているみたいだった。

 僕はそれ以上問い返さなかった。

 

 * * *

 

 初めてまともに長く話したのは、共同浴場の一番端だった。

 

 湯気で曇ったガラス。塩素と石鹸の匂い。タイルに落ちる水の音。そういうどうでもいいものの中で、カヲル君はまるで古い友達みたいな顔で隣に腰を下ろした。

 

「碇シンジ君」

 

「なに」

 

「君、少しずつ静かになってるね」

 

 いきなりだった。

 冗談めかして返す余裕が、一瞬で吹き飛ぶ。

 

「前から、こんなものだよ」

 

「違う」

 

 カヲル君は首を横へ振る。

 

「前は、黙っていても“聞いてほしい”の方が見えていた。今は、その前に“先に諦めておく”のが見える」

 

 返す言葉がなかった。

 カヲル君の言うことは、当たっている時ほど腹が立つ。

 

「……分かったみたいに言わないでよ」

 

「分かったつもりはないよ」

 

 彼は浴槽の水面を見たまま言った。

 

「ただ、君は最近、空いた場所ばかり見ている」

 

「空いた場所?」

 

「食卓の端。病室の椅子。台所の流し。教室の窓際。そういう所」

 

 ぞっとした。

 食堂でのことまで見られていた気がしたからだ。

 

「見すぎだよ」

 

「君の視線が分かりやすいんだ」

 

 そうかもしれない。

 僕は嘘が下手だし、誤魔化そうとするほど余計な所へ目が行く。

 

「君は、ひどく誰かに会いたがっている」

 

 湯気の向こうを見たまま、彼が言う。

 

「会いたいよ」

 

「誰に?」

 

 その問いは残酷だった。

 ミサトさんにも、綾波にも、トウジにも、委員長にも、加持さんにだって言いそびれたことはある。けれど、その全部のいちばん近くにアスカがいる。

 

 起きて怒鳴ってほしい。嫌いだと言うなら今の声で言ってほしい。勝手に分かった顔をするなと、軽蔑するならこっちを見て軽蔑してほしい。

 

 そう思う自分が気持ち悪いとも思う。

 好かれたいんじゃない。嫌われてもいいから、いまそこにいる相手として向き合いたい。そんなの、ずいぶん都合のいい願いだ。

 

「……たぶん、アスカに」

 

 言うと、カヲル君は驚きもせずに頷いた。

 

「そう」

 

「笑わないんだ」

 

「どうして笑うの?」

 

「変だから」

 

「変かな」

 

 少し考えるような顔で、彼は言った。

 

「傷つけ合うと分かっていても会いたいと思うのは、自然なことだよ」

 

「自然じゃないよ」

 

「そう思いたいのは君の方だ」

 

 また何も言えなくなる。

 カヲル君はそういう黙り方を恐がらない。沈黙が来ても、自分の正しさに酔った顔をしない。ただそこに置く。

 

「君は誰かを記念碑にしている」

 

 その言葉は、腹より先に胸へ刺さった。

 

「セカンドチルドレンも、ファーストチルドレンも、葛城三佐も」

 

 穏やかな声だった。

 

「失った時の痛みを先に知ってしまったから、生きている彼女たちを見る前に、壊れた形を思い出してしまう」

 

 図星だった。

 図星すぎて、すぐには怒れない。

 

「……それの、何がいけないの」

 

 やっと出た声は、少し掠れていた。

 

「悪いとは言わない」

 

 カヲル君は肩をすくめた。

 

「でも、それでは今ここにいる彼女たちがとても孤独だ」

 

 孤独。

 言われた瞬間、アスカの“ちゃんと今のあたしを見なさいよ”が蘇る。綾波の、温度のある質問も。

 

 守りたいつもりで、僕はずっと誰かの今を置き去りにしていたのかもしれない。

 

 カヲル君はそこでわずかに目を伏せた。

 

「それに」

 

「なに」

 

「僕はきっと、君に殺される」

 

 血の気が引いた。

 

「何を言ってるの」

 

「そういう顔をするんだね」

 

 カヲル君は、寂しそうに、それでもどこか嬉しそうに笑った。

 

「やっぱり君は、知っているんだ」

 

 否定できなかった。

 その顔をした時点で終わりだった。

 

「簡単に言わないでよ」

 

「簡単じゃないよ」

 

 カヲル君はようやく僕を見た。その目は穏やかなのに、どこか人の外側にある。

 

「君は優しくなりたいんじゃなくて、今いる相手に間に合いたいんだろう?」

 

 それは少し違う気もしたし、ひどく近い気もした。

 

「君は、合唱をしたことがある?」

 

「……急に?」

 

「同じ譜面を見て、違う声が揃うまで待つ。あれは案外、他人と一緒にいることに似ている」

 

「……急に、何の話」

 

「僕はそういうのを知らなかったから」

 

 そこで初めて、彼の声の軽さが少しだけ痩せた。

 

「最初から同じ方へ行けるなら、それでいいと思っていた」

 

「そんなこと、ないと思う」

 

「うん。今はそう思う」

 

 何をどう言えばいいのか分からなかった。

 カヲル君の言葉は時々、僕より僕の外側を知っているみたいで気味が悪い。けれど今は、それと同じくらい、彼自身の輪郭が曖昧なことの方が気になった。

 

「カヲル君は、何を待ってるの」

 

 訊くと、彼は目を細めた。

 

「たぶん、君と同じだよ」

 

「同じじゃないよ」

 

「そうかもしれない」

 

 否定も肯定も、やっぱり軽かった。

 その軽さが、本当は何かを隠しているのだと、その時の僕はまだ半分しか分かっていなかった。

 

 * * *

 

 その日の夕方、音楽室でチェロに触れていた。

 

 文化発表会はもう遠い。

 合唱の譜面は机の端で少し曲がったまま埃をかぶっている。世界はそんなものを簡単に中断する。でも、ケースの金具の冷たさだけは変わらない。

 

 最初の音を鳴らす。

 前奏にもなりきらない、短いフレーズ。

 

「やっぱり君だった」

 

 ドアの方で声がした。

 振り向くと、カヲル君が立っている。廊下の夕焼けを背負って、どこか現実感が薄い。

 

「人の気配だけで入ってこないでよ」

 

「ノックしたよ」

 

「気づかなかった」

 

「それだけ集中していたんだね」

 

 彼は勝手に隣へ来ない。

 ドアの脇に寄りかかったまま、音楽室の中を見回した。

 

「ここはいいね」

 

「そう?」

 

「音のための部屋だから。言葉より、少しだけ嘘が少ない」

 

「音だって、嘘はつくよ」

 

「つく。でも、つく時の歪みが見えやすい」

 

 相変わらずよく分からない。

 でも前みたいに、分からないから全部嫌だとは思わなくなっていた。

 

「何か弾いて」

 

「命令?」

 

「お願い」

 

 仕方なく、僕は文化発表会で使うはずだった導入の前半だけ弾いた。

 まだ体が覚えている。クラスの声が重なるはずだった所へ来ると、音の薄さが目立つ。

 

 終わると、音楽室はすぐに静かになった。

 

「どう?」

 

「羨ましいな」

 

「……どういう意味」

 

「一つの旋律が、最初から一人で完結していない」

 

 カヲル君は窓の外を見る。

 

「導入は、誰かが入る余地を前提にしてる。自分だけで綺麗に閉じない」

 

「だから導入なんだよ」

 

「うん。でも、僕はそういう音の作り方を、たぶんずっと知らなかった」

 

 彼の横顔は穏やかなのに、言葉の底だけが少し暗い。

 

「一つの綺麗な音になれれば、それでいいと思ってた」

 

「それ、何かの比喩?」

 

「半分くらいは」

 

「やっぱり、少し分かりにくいな」

 

「知ってる」

 

 そこでようやく、彼はかすかに笑った。

 

「でも、合唱って変だね」

 

「何が」

 

「誰も同じ声にならないのに、同じ歌だと信じる」

 

「同じにならない方が、普通なんじゃないかな」

 

「そうだね。普通だ」

 

 その“普通だ”に、妙な実感がこもっていた。

 

「君はその人のことを、ずいぶん具体的に覚えている」

 

 唐突に言われて、手が止まる。

 

「誰のこと」

 

「アスカ」

 

 返事に困った。

 

「さっきの間」

 

 カヲル君が言う。

 

「四小節目で少しだけ遅れた。あそこ、彼女の声が入る所なんだろう?」

 

「……よく、そこまで分かるね」

 

「ごめん」

 

「謝らなくていいんだよ」

 

 自分でも呆れるくらい、同じやり取りだった。

 

 でも、その繰り返しの中で少しずつ、カヲル君の輪郭も変わる。

 何でも分かっているみたいに見える人、だけじゃない。分かっていないものの前で立ち尽くして、それでも軽い調子を崩さない不思議な人なのだと、ようやく見え始めていた。

 

「アスカは、歌う時だけ息の入り方が違うんだ」

 

 口が勝手に動いた。

 

「普段は全部前に出るのに、歌う時だけ一瞬だけ合わせる」

 

「うん」

 

「悔しいくせに、ちゃんと合わせてくる」

 

「うん」

 

「そういうの、見てると」

 

 言葉が詰まる。

 

「見てると?」

 

「……会いたくなる」

 

 カヲル君はそこで何も言わなかった。

 何も言わないで聞いている。それが、少しありがたかった。

 

 * * *

 

 中央通路で綾波とすれ違った時、カヲルは足を止めた。

 

 白い廊下。消毒液の匂い。遠くで聞こえる換気音。

 似合いすぎるほど似た色の二人なのに、同じではないとすぐ分かる。

 

「綾波レイ」

 

 綾波は立ち止まったまま、彼を見た。

 前なら必要最小限しか見なかっただろう目つきで、今はもう少しだけ奥まで見る。

 

「なに」

 

「君は、人に近すぎると言った」

 

「うん」

 

「近いみたいに見えて、近くないとも」

 

「本当のこと」

 

 カヲルは一度だけ瞬きをした。

 誰かにそう言われるのは、たぶん初めてではない。けれど綾波の言い方には、自分も同じ側に半分足をかけているという変な正確さがあった。

 

「君は厳しいね」

 

「その本当は、少し痛い」

 

「そう」

 

 綾波は淡々と頷く。

 

「痛くないものは、時々、よく分からない」

 

 カヲルはかすかに笑った。

 

「碇シンジ君も、似たようなことを言うね」

 

「碇君は、言わない」

 

「思っている」

 

 そうかもしれない。

 綾波は否定しなかった。

 

「あなたは、消えるつもり」

 

 言葉が直線的すぎて、カヲルは逆に息をつく。

 

「僕は最後の使徒だからね」

 

「それは役目」

 

「役目は形だよ。中身まで決める」

 

「決めない」

 

 綾波の声は小さいのに、はっきりしていた。

 

「私は前の私じゃない。でも今の私まで、前の私の代わりだと決められるのは嫌」

 

 白い顔のまま、彼女は続ける。

 

「碇君は、前の私を覚えている。今の私と前の私を同じように大事にしようとして、違うと知るたび傷つく」

 

「変だね」

 

「変。でも、それで今の私がいないことにはならない」

 

 カヲルは返事をしなかった。

 綾波の言葉は静かで、でも逃げ場がなかった。

 

「あなたが自分を使徒としてしか見ないなら」

 

 綾波が言う。

 

「それは、私を器としてしか見ない人と同じ」

 

 さすがに、その一言は効いた。

 

「君は案外、残酷だね」

 

「そうかもしれない」

 

 綾波はそこで初めて首をわずかに傾げた。

 

「でも、消えることを親切だと決めるのは、あなた一人の考え」

 

 親切。

 その語感が、カヲルには妙に刺さった。

 

 彼はずっと、自分がここに残ることは害でしかないと思っていた。使徒である以上、最後は殺されるか、世界を壊すかしかないのだと。だったら、先に自分から終わりを選ぶ方が綺麗だと。

 

 綺麗。

 たしかにそれは、とても自分本位な語だった。

 

「君は、生きるのが怖くないの?」

 

 綾波は一拍置いた。

 

「怖い」

 

 意外でも何でもない声で、彼女は答える。

 

「今の私が、誰かに前の私と違うと知られるのも怖い。違うから好きじゃないと言われるのも怖い」

 

「それでも?」

 

「今ここにいる私を見てほしいと思う」

 

 その言葉のまっすぐさに、カヲルは一瞬だけ目を伏せた。

 

「羨ましいな」

 

「なら、あなたもそうすればいい」

 

 綾波はそれだけ言って歩き出した。

 白い廊下の先へ、小さな足音が消えていく。

 

 カヲルはしばらくその場に立ったまま、綾波の残した気配だけを見送った。

 

 * * *

 

 五人目の適格者としての彼は、発令所での存在感もどこか異質だった。

 

 ミサトさんは初めから警戒していたし、リツコさんの声もいつもより硬い。冬月の目はさらに暗い。父さんだけが、何もかもを織り込み済みみたいな顔をしている。

 

 カヲル君はその全部を気にしない。

 気にしないまま、僕と同じ空気の中へ入ってくる。

 

 それがますます不気味で、同時に少し羨ましかった。

 

 ターミナルドグマへ降りていく背中を追った時、前より足が重かった。

 結末を知っているからではない。知っているのに、なおここまで一緒に歩いてしまったからだ。

 

 エヴァの中で、手が震える。

 カヲル君は静かに降りていく。白い背中は迷いがない。迷いがないこと自体が、どこかで僕を置いていく。

 

「戻ってきてよ」

 

 通信へ向かって言った。

 

「やめてよ」

 

「それはできない」

 

 返ってくる声は相変わらず穏やかだ。

 

「君は優しいね」

 

「違う!」

 

「そうかな」

 

「優しいとかじゃない。こういうのが、もう嫌なんだ」

 

 喉が熱くなる。

 

「誰かが勝手にいなくなるのも、何も言わないまま終わるのも、もう見たくないだけだ」

 

「うん」

 

「君のことだって、よく分かってない!」

 

「うん」

 

「なのに、会えてよかったって思ってしまってる。そのこと自体が、すごく苦しいんだ」

 

 最深部で、カヲル君は止まった。

 見上げる先の白い巨人は、前に見た時よりもずっと裸だった。胸を貫いているはずのロンギヌスの槍がない。使徒へ投じられたまま、あの赤い槍は地球へ戻っていない。その空白ごと見た瞬間、カヲル君の表情がほんの少しだけ変わる。

 

「そうか」

 

 それだけだった。

 

 彼はそこで、ようやく初めて本当に人間らしい困惑を見せた気がした。

 予定していたものと違う。信じていた構図が違う。その認識が、あの穏やかな顔に小さな亀裂を入れる。

 

「シンジ君」

 

「なに」

 

「これは、アダムじゃない」

 

 声の色が、初めて目に見えるほど揺れた。

 

「……リリスだ」

 

 僕は知っていた。

 知っていたけれど、彼自身の口からそれが落ちるのを聞くと、胸の奥が変なふうに冷えた。

 

 ゼーレに与えられた役目。

 最後の使徒。

 人類の敵。

 そういう全部の上へ置かれていた“帰る場所”が、今この瞬間に崩れたのだ。

 

「じゃあ、もうやめて」

 

「簡単だね、君は」

 

「簡単じゃない!」

 

「うん。簡単じゃない」

 

 カヲル君は白い巨人を見上げたまま、小さく息を吐いた。

 

「でも、これで僕が何なのかはもっと曖昧になった」

 

「曖昧でも、いいはずだよ」

 

「よくないよ」

 

 その否定だけは、やけにはっきりしていた。

 

「使徒である限り、僕は君たちを脅かす。僕がここにいるだけで、誰かが僕を兵器として使おうとする。なら」

 

「なら死ぬって?」

 

 思わず遮る。

 

「勝手に決めないでよ」

 

 前よりも、ずっと強い声が出た。

 

「君がどう終わるかを、君一人で綺麗に決めるな」

 

 カヲル君が、少しだけ振り返る。

 

「綺麗?」

 

「そうだよ」

 

 たぶん僕は怒っていた。

 アスカにも、レイにも、ミサトさんにも言うべきだった怒りと同じ種類のものを、今度はちゃんと目の前の彼へ向けていた。

 

「君は、何でも分かったみたいに笑って、最後だけ全部自分で引き受ければ、それで優しいことになると思ってるんじゃないの」

 

「それは」

 

「違うよ」

 

 喉が痛い。

 でも止まらなかった。

 

「それじゃまた同じだ。僕が君を、都合のいい終わり方で覚えるだけだ」

 

「君は僕をそこまで大事にしてくれるの?」

 

「そういう言い方、しないでよ」

 

 泣きそうになりながら、吐き捨てる。

 

「僕は君を、分かった気になったまま終わらせたくないだけだ」

 

 その時、最深部の白さがゆっくり揺れた。

 

 視界の端で、細い影が一つ動く。

 ガフの扉のような暗い穴の手前、レイが立っていた。

 

「降りて」

 

 カヲル君の肩がわずかに震える。

 

「レイ」

 

 綾波は白い巨人を見上げ、それからカヲル君を見る。

 

「そこは帰る場所じゃない」

 

「知ったよ」

 

「なら、降りて」

 

「降りたら、僕は何になる」

 

 綾波は少しだけ考えるように目を伏せた。

 それから、とても簡単な声で言った。

 

「今ここにいる、あなた」

 

 役目でも分類でもなく、目の前に立っている相手をそのまま指す言い方だった。

 

「君はいつも簡単に言うね」

 

「難しくすると、また誰かが勝手に決める」

 

 綾波の目は静かだった。

 

「私は、器として作られた。前の私もいた。今の私も、たぶん部品だと思われている」

 

「うん」

 

「でも、今ここにいる私は一人しかいない」

 

 その一言は、白い広間のどこよりも現実だった。

 

「あなたも同じ」

 

 カヲル君は何も言わない。

 言わないまま、白い巨人とレイと僕とを順番に見る。

 

「僕が残れば、嫌われるかもしれない」

 

「うん」

 

 綾波は頷いた。

 あまりにもあっさり頷くから、逆に逃げ場がない。

 

「怖がられるかもしれない」

 

「うん」

 

「閉じ込められるかもしれない」

 

「うん」

 

「それでも?」

 

 綾波は僕を一瞬だけ見た。

 その視線に押されるみたいに、僕も言う。

 

「それでも、今の君がそこにいるなら、僕はそっちの顔を覚えたい」

 

 怖かった。

 この言葉で全部が良くなるわけじゃない。君が残ったら残ったで、きっと面倒は増える。ミサトさんもリツコさんも警戒する。父さんやゼーレがどう動くかも分からない。

 

 でも、それでもだった。

 

 カヲル君はそこで初めて、本当に迷う顔をした。

 綺麗な微笑みでも、達観でもない。どうしていいか分からないまま立っている、人間みたいな顔。

 

「死ぬ方が、簡単だね」

 

 彼が小さく言う。

 

「うん」

 

 僕は答えた。

 

「簡単な方は、もう嫌なんだ」

 

 その瞬間、白い巨人の前でカヲル君のA.T.フィールドが揺らいだ。

 

 青い輪郭が、薄い膜みたいに剥がれていく。

 剥がれた光は上へ逃げず、逆に足元へ落ちた。人の形から、“使徒”という名札だけがはがれていくみたいだった。

 

 発令所のモニターがいっせいに乱れる。

 耳の奥で、誰かの叫ぶ声がかすかに混線した。

 

『パターン青、低下!』

 

『対象のA.T.フィールド急減!』

 

『まさか……』

 

 カヲル君は苦しそうに息を吸い込んだ。

 膝が揺れる。

 

「僕は」

 

 彼は白い巨人から目を離さずに言った。

 

「使徒としての役目を終えることよりも、渚カヲルのまま残ってみるよ」

 

 最後の音が消えるみたいに、青い光がふっと途切れた。

 

 その瞬間、彼の体が崩れる。

 僕は反射的に初号機の腕を伸ばした。掴むというより、落ちるのを受けるみたいな動きだった。

 

 軽かった。

 怖いくらいに、ただの体の重さだった。

 

『対象のパターン青、消失!』

 

『生命反応は維持されています!』

 

 発令所の騒ぎが遠い。

 僕の耳には、自分の呼吸と、腕の中の浅い呼吸しか入らない。

 

「カヲル君」

 

 呼ぶと、彼は目だけを少し動かした。

 

「……大丈夫?」

 

「たぶん」

 

 ひどく弱い声で、彼はそう言った。

 

「その答え方、ずるいね」

 

 笑おうとして、咳き込む。

 

 綾波は少し離れた所からその様子を見ていた。

 表情は薄い。でも、完全に無表情ではなかった。

 

「それでいい」

 

 彼女が小さく言う。

 

「分からないまま残る方が、今は本当」

 

 その言葉で、僕はようやく自分が震えていることに気づいた。

 

 殺さなかった。

 前と同じ所まで来て、今度は殺さなかった。

 

 それが正しいかどうかは分からない。

 でも少なくとも、前よりずっと目の前の顔を見て決めた。

 

 それだけは嘘じゃなかった。

 

 * * *

 

 渚カヲルは、そのあと医療区画に隔離された。

 

 ミサトさんは露骨に警戒していたし、リツコさんはもっと露骨に観察していた。ゼーレからの通信は増え、父さんは何も言わず、それが余計に不気味だった。

 

 使徒の反応は消えた。

 データ上はそうらしい。

 でも、使徒だったものが急に“ただのクラスメイトです”みたいな顔で受け入れられるわけがない。

 

 僕だってそこまで楽観していなかった。

 

 それでも、会いに行かずにはいられなかった。

 

 隔離室は、驚くほど普通の病室に似ていた。

 白い壁。簡易ベッド。点滴台。違うのは、扉の外側に二重のロックがあることと、窓がないことくらいだ。

 

 カヲル君は上体を起こしていた。

 いつもの笑顔より少しだけ色が薄い。人間の血色、なのだと思うと妙な気分だった。

 

「やあ」

 

「元気そうに言わないでよ」

 

「元気ではないよ」

 

 即答だった。

 それが少しおかしくて、でも笑えなかった。

 

「ごめん」

 

「何が」

 

「君に、ずいぶん面倒を背負わせた」

 

「……今さらだよ」

 

「そうだね」

 

 そこは前と同じ軽さだった。

 でも、その軽さは前みたいに浮いていない。ちゃんと疲れた体の上に乗っている。

 

「僕、君に好きだと言っただろう」

 

「……うん」

 

 不意打ちだった。

 こういう時にそういう話を持ってくるのが、本当にこの人はずるい。

 

「あれ、少し綺麗にしすぎていた気がする」

 

「綺麗?」

 

「返事が要らなくて、傷つかなくて、ただ君を肯定するだけの言葉にしようとしていた」

 

 カヲル君は少しだけ息を整えてから、枕元の白いシーツを指でつまんだ。

 

「好きだ、という言葉は便利なんだ」

 

 彼は静かな声で言う。

 

「ちゃんと限定しなければ、どこへでも逃がせる。君を肯定しているように見せながら、実は自分が傷つかない場所へ置いておける」

 

「……そんなつもりだったの」

 

「半分はね」

 

 カヲル君は苦笑した。

 

「君が誰を好きでも構わない、君が誰の隣へ行っても祝福する、そういう綺麗な顔をしていれば、僕は最後まで“痛くない人”でいられるから」

 

 その言い方は、あまりにも正直だった。

 

「でも、それだと僕は君に会ったことにならない」

 

 彼は天井を見る。白い蛍光灯の光が、疲れた横顔へ薄く落ちていた。

 

「ただ君の出口になっただけで終わる」

 

 出口。

 その言葉に、僕は少し息を止めた。楽な方へ抜けるための扉。痛くない人。許してくれるだけの誰か。そういうものに、僕はたしかにすがりたかった。

 

「僕、たぶん誰に対してもそれをやる」

 

 気づけば口にしていた。

 

「綾波にも、ミサトさんにも、アスカにも」

 

「うん」

 

 否定しない。

 

「でも、もう気づいてるなら半分は違う」

 

「半分」

 

「人は自分のずるさに無自覚なままの方が、よほど綺麗に壊す」

 

 カヲル君はそこで初めて、少しだけ僕を見た。

 

「だから、僕を痛くない出口にしないでくれると嬉しい」

 

 その頼み方は弱っていて、だから本当だった。

 

「会ってよかったと思った相手として残して。便利な中継点じゃなくて」

 

 中継点、という言葉がこの部屋に妙に似合う気がした。誰かへ行く前に一度だけ立ち寄る場所。そこで息をついて、また別の誰かへ向かうための途中。

 そういうものにしてしまえばたしかに楽だ。でも楽なものは、だいたいあとで人を空っぽにする。

 

「分かった」

 

 僕が言うと、カヲル君は少しだけ目を閉じた。

 

「うん。それなら、渚カヲルとしてここに残る意味がある」

 

 カヲル君は天井を見る。

 

「優しいつもりだった。でも、あれはたぶん、僕自身が痛くない場所に立ちたかっただけだ」

 

 何て言えばいいのか分からなかった。

 カヲル君が自分の言葉をそんなふうに言い直すとは思っていなかったからだ。

 

「僕は君みたいにまっすぐじゃない」

 

「知ってる」

 

「返せない」

 

「それも知ってる」

 

 彼はそこで少し笑った。

 

「うん。だから今度は、君に何かを返してもらう形じゃなく、ここにいる練習をするよ」

 

「練習?」

 

「同じ譜面を見て、ずれるのを我慢する練習」

 

 音楽室での話を思い出す。

 それを彼が覚えていたことが、意外だった。

 

「難しいよ」

 

「知ってる」

 

「嫌われるかもしれないし」

 

「知ってる」

 

「閉じ込められたままかもしれない」

 

「それもね」

 

 そこまで分かっていて、なお残ると言う。

 そのことが、前よりずっと重かった。

 

「……僕も、君を都合のいい人にしそうだった」

 

 言うと、カヲル君は目を瞬いた。

 

「都合のいい人?」

 

「何でも分かってくれて、怒らなくて、勝手に許してくれる人」

 

「僕はそんなに出来た人間じゃないよ」

 

「今は少し分かる」

 

「残念」

 

「そこで残念がらないでよ」

 

 ようやく少しだけ、笑えた。

 

「でも」

 

 カヲル君は窓のない壁を見るみたいに、何もない方へ視線を向けた。

 

「君がそう思っていたことは、少し嬉しい」

 

「何で」

 

「僕が、君の中でちゃんと一人分の誰かだったってことだから」

 

 その言い方は、また少しだけずるい。

 ずるいけれど、前みたいに綺麗すぎはしなかった。

 

 扉の外で、足音がした。

 現実の足音だ。見張りの兵士か、マヤさんか、誰かは分からない。

 

 世界はまだ終わっていない。

 終わっていないから、むしろ色々なものがこれから壊れるのだと分かっていた。

 

 その予感の中で、それでも僕たちは少しだけ黙っていた。

 黙っていても、前みたいに全部が片づいた気はしなかった。

 片づかないまま残る方が、たぶん今は正しかった。

 

 * * *

 

 その夜、中央管制では別の種類の違和感が静かに積み上がっていた。

 

 隔離区画の監視ログが十七秒だけ欠けている。

 閉鎖したはずの旧ゲヒルン保守網へ、一瞬だけ電圧が流れた痕がある。

 マコトの端末には、死んだはずの非常回線から短い座標列が一行だけ届き、シゲルは「誰かが古いシャッターを手で動かしてる」と低く舌打ちした。マヤは図面を見比べて、「このサービスルート、本来は塞がってるはずです」と顔をこわばらせる。

 

 誰かが内部を知っている。

 けれど今は追えない。

 

 戦自が動き始めたという報が入る頃には、その違和感ごと本部の別の騒音へ呑まれていた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 カヲル君が来てから、教室の空席の見え方が少し変わった。

 

 減ったわけじゃない。むしろ増えた気すらする。アスカの席は相変わらず空いているし、綾波は前とは違う静けさで座っている。そこへカヲル君が自然に入ってくると、空いているはずの場所の輪郭だけが逆にはっきりした。

 

「君、また左を空けてるね」

 

 昼休み、カヲル君が弁当箱を開きながら言った。

 

「癖だって言っただろ」

 

「うん。でも癖って、だいたい誰かの形だ」

 

 軽い。

 軽いのに、逃げられない。

 

 僕は卵焼きを箸で切り、片方を弁当箱の端へ寄せた。前ならそこに誰かが勝手に箸を伸ばしてきた。今は来ない。来ないくせに、体の方だけがまだ空けて待っている。

 

 放課後、ヒカリに呼ばれて保健室の倉庫を片づけた。体温計ケース、ガーゼ、紙コップ、毛布。棚の上段から順に出し、古い順に並べ直す。カヲル君も「手伝うよ」と言って当然みたいに入ってきた。

 

「似合わないね」

 

 僕が言うと、カヲル君は毛布を畳みながら微笑んだ。

 

「保健室?」

 

「そう。もっとチェロとか、夕焼けとか」

 

「僕がそこにいると絵になる、みたいな偏見だね」

 

「否定しないんだ」

 

「否定するほどでもない」

 

 やっぱりずるい。

 

 ヒカリはそんなやり取りに構わず、棚の前で名札の張り替えをしていた。『紙コップ』『綿』『包帯』『体温計』。誰が見ても分かる字で、大きく書く。カヲル君がその名札を見て、少しだけ感心したように言う。

 

「物に名前をつけるのは大事だね」

 

「大事よ」

 

 ヒカリは即答した。

 

「名前がないと、皆“その辺”に置くから」

 

「人も同じかな」

 

 ふとカヲル君が言う。

 ヒカリは手を止めて、少しだけ彼を見る。

 

「知らない。でも、呼ばれないと困る人はいるでしょ」

 

 その返しがあまりにも真っ直ぐで、僕は少し息を詰めた。

 

 作業が終わる頃、カヲル君は体温計ケースを三つ重ねて持とうとして、逆にヒカリに止められた。

 

「一つずつ」

 

「持てるよ」

 

「持てても落としたら割れる。碇君、半分」

 

 言われて、僕は一つを受け取った。カヲル君は少しだけ目を丸くし、それから素直に頷いた。

 

「なるほど。物の都合を先に見るんだね」

 

「そうしないと、最後に手間が増えるの」

 

「勉強になるな」

 

 口ではそう言いながら、彼の目は少しだけ楽しそうだった。教室でも保健室でも、カヲル君はすぐに人の空白へ入ってくる。でもその入り方が今は前より少し重く見える。自分がどこへ入ってきているかを、彼も前より意識しているからかもしれない。

 

 帰り道、僕は保健室から預かった体温計ケースを病院へ持って行った。アスカの病室の前で立ち止まり、中へ入る前に一度ケースの数を確かめる。二十本。中身は揃っている。

 

 どうしてそんなことをするのか、自分でもよく分からない。

 ただ、数が合っていることだけは今すぐ分かる。分からないことだらけの中で、そういう物の数だけはまだ手で掴める。

 

 病室へ入ると、眠ったままのアスカの枕元には、前にトウジが持ってきた絵本が一冊だけ置いてあった。誰かがめくった形跡はない。でも、そこにあるだけで病室の白さが少し変わる。

 

 僕は体温計ケースを棚の手前へ置き、空の紙コップを回収した。動作はすべて小さい。小さいのに、その小ささの中へ今の生活が全部入っている気がした。

 

 誰かの左側を空けること。

 名前のある場所を残すこと。

 体温計の本数を数えること。

 それらは全部別々の話に見えて、たぶん同じ方を向いている。

 今ここにいない相手が、戻ってきた時に困らないようにすること。

 

 その意味を、僕はまだうまく言えない。

 でも、言えないままでも手だけは少しずつ覚えていくのだと思った。

 

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