【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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間話六 白い包帯と配線図

渚カヲルが来てから、日常は少しだけ薄くなった。

 

 壊れかけた薄さではない。むしろ逆で、どこかがあまりに静かに噛み合いすぎて、手で触ると簡単に破れそうな種類の薄さだった。発令所の大人たちは皆忙しい。ミサトさんは会議と警戒配備の間を行き来し、マヤさんは医務区画へ泊まり込み、青葉さんと日向さんは古い回線と新しい警報の継ぎ目を埋めている。

 

 そのくせ、学校ではチャイムが鳴る。

 ヒカリは名前を呼ぶ。

 ケンスケは雑誌を隠し、トウジは足を引きずりながらも椅子を動かしたがる。

 

 普通の速度と壊れる速度が、同じ時間の中に二重で走っている感じだった。

 

 旧ネルフ本部では、その二重さがもっと露骨だった。第壱ケージのモニタは生きたまま、弐号機の修復進捗だけが止まり、発令所の警報設定はカヲルの来訪以後ずっと一段高いままだ。パターン青が出ていない時間にも、誰かがATフィールド警報の閾値を確かめ、零号機と初号機の起動ログを見返している。静かなのに、静かさの底に戦闘準備が沈んでいた。

 

 * * *

 

 放課後、ヒカリは僕へ小さな紙袋を押しつけた。

 

「これ、病院」

 

「なに?」

 

「替えのタオルと、歯ブラシと、紙コップ。保健の先生が持っていけって」

 

 中を覗くと、きれいに畳んだタオルが二枚、未開封の歯ブラシ、紙コップの束、使い捨てスプーン、それから小さなメモ帳まで入っている。誰かが寝たきりでいる時に要るものばかりだった。

 

「相田君がラジオ持ってくって言ってたけど、重いからやめさせた」

 

 ヒカリは名簿を抱えたまま言う。

 

「音がある方がいい時もあるけど、今は持って行くものの順番が先」

 

 言い方が、以前よりずっと実務的だった。悲しみを秩序で押さえているのか、秩序を守ることで悲しみに形を与えているのか、その両方なのかは分からない。

 

「ありがとう」

 

「お礼はいい」

 

 ヒカリはすぐ顔をそらした。

 

「病院の帰り、昇降口の電池だけ見てきて。あそこ昨日また切れたから」

 

 お願いというより業務連絡だった。そういう風に言ってもらえる方が、今は助かる。

 

 病院のアスカは相変わらず眠ったままだった。包帯の巻き方は前より減ったが、代わりに腕の内側や首元の痣がよく見える。見えるたび、量産機の白い影と海の匂いが一緒に蘇る。

 

 僕は紙袋の中身を一つずつ棚へ置いた。タオル。歯ブラシ。紙コップ。並べるだけの作業なのに、ちゃんとここで誰かが生活している前提になる。

 

「……来たよ」

 

 返事がないのを分かっていて言う。

 

「委員長が持たせてくれた」

 

 窓辺の椅子へ座る。前と違うのは、最近こういう時間に何も言わず座っていられるようになったことかもしれない。言葉で全部を済ませようとすると、すぐ嘘になる。だからタオルの位置を直し、紙コップを重ね、メモ帳へ日付を書く。

 

 今日、何を持ってきたか。

 次に何が要るか。

 そういう小さい記録だけが、眠った相手との間にぎりぎり残る会話みたいだった。

 

 メモ帳の端には、昨日委員長が書いた物資表の写しが挟んであった。包帯、消毒、電池、毛布。学校の見張り表と、病室の必要物資が同じノートの中に並ぶ。そのこと自体が少し不思議で、少しだけ納得もできた。

 

 生き延びる段取りは、場所が変わっても似た形をしている。

 

 アスカの指先は動かない。

 でも生きている体の重さは、ここにもある。

 

「起きたら、またむかつくこと言うんだろ」

 

 小さく呟く。

 

「でも、今はそれでいいから」

 

 * * *

 

 その夜、旧ネルフ本部では配線図が机の上を埋めていた。

 

 シゲルは床へ這うケーブルを辿り、マコトは非常回線の切替表を新しい用紙へ書き直し、マヤは医療品の搬出優先順位へ赤い印を付けていく。全部が戦いの準備でもあり、逃げる準備でもある。

 

 机の端には、エントリープラグ回収手順と第弐ケージ非常開放の図まで混ざっていた。誰がどこへ走るかを決める線と、誰をどのケージから引き上げるかを決める線が、同じ配線図の上で交差している。

 

「B系統、あと一回落ちたら予備に切り替えます」

 

 マコトが言う。

 

「切り替えた瞬間、第三ブロックの自動扉が鈍ります」

 

「なら先に手動へ」

 

 ミサトは即答した。

 

「シンジ君たちの動線だけは絶対塞がない」

 

 マヤが顔を上げる。

 

「医務室の寝台、三台分空けました。運び込むなら北通路からの方が早いです」

 

「了解」

 

 シゲルが配線図の上へ新しい線を引く。予備発電、短波、エレベーター停止、手動開放。紙の上では簡単だ。けれど一つ間違えれば、そのまま誰かの移動が止まる。

 

 ミサトはその線を見下ろしたまま、ふいに思った。学校で委員長が書いている当番表と、ここで大人たちが書いている配線図は、やっていることがあまり変わらない。

 

 誰がどこを見るか。

 どの順番で動くか。

 足りないものは何か。

 何を先に守るか。

 

 世界の終わりは巨大な理念で来るのかもしれない。けれど、それに抗う手つきはたいてい紙と鉛筆と荷物の持ち方みたいな小さいものから始まる。

 

「葛城三佐」

 

 マコトが、書き写した回線表を差し出した。

 

「学校に持たせるなら、この周波数だけ絞った方がいいです。複雑だとシンジ君たちが混乱する」

 

「ありがとう」

 

 ミサトは表を受け取り、端を二つ折りにした。ポケットへ入る大きさだ。大きすぎる地図より、折って持てる紙の方が生き延びる時は強いことを、最近は誰もが知っている。

 

 机の隅には、加持が残した古いメモまであった。拾えるものは拾え。持てるものだけ持て。帰り道まで考えろ。あの人は大事なことほど雑に書く。

 

「むかつく」

 

 ミサトが呟くと、シゲルが顔を上げた。

 

「何がです」

 

「思い出すとだいたい腹立つのよ」

 

 それ以上は説明しなかった。説明しなくても、今ここにいる全員が喪失をそれぞれ別の形で抱えている。

 

 * * *

 

 帰宅したのは夜更けだった。

 

 シンジは台所の灯りだけを点けて、弁当箱を二つ並べていた。中身は卵焼きと残り物のきんぴら、冷凍の白身魚、ブロッコリー。大したものじゃない。でも蓋を閉めれば、明日の昼を少しだけ支える重さになる。

 

「まだ起きてたの」

 

 ミサトが言うと、シンジは手を止めた。

 

「待ってたわけじゃないです」

 

「それ、待ってた子の言い方」

 

 からかうと、シンジは返事をしなかった。代わりに、食卓の端へ折りたたんだ紙を出す。学校の見張り表の写しと、ヒカリが書いた物資の不足欄だった。

 

「明日、昇降口の電池交換してから病院寄ります」

 

「うん」

 

「帰りに洗剤も」

 

「うん」

 

「あと……アスカの病室、紙コップ足りてたけど、スプーンはもう少しあった方がいいかも」

 

 淡々とした報告だった。

 でもその淡々さの中に、今この子が何を見て歩いているかがちゃんと入っている。

 

「ありがと」

 

 ミサトが言うと、シンジはわずかに目を伏せた。

 

「まだ、全部は無理です」

 

「何が」

 

「ちゃんと今を見ろって言われても、すぐには」

 

 誰に言われたのかは聞かなくても分かった。アスカか、綾波か、あるいは別の誰かかもしれない。でも、その言葉がシンジの中でちゃんと働いていることだけは伝わる。

 

「でも、メモは取れる」

 

 そう言って、彼は病室用のメモ帳を見せた。日付、持っていった物、足りない物、次に要る物。細い字で、何ページか分すでに埋まっている。

 

 ミサトはそれを見て、かすかに笑った。

 

「十分」

 

「十分じゃないです」

 

「十分よ」

 

 大人の側が全部を守れるわけじゃない。守れないからこそ、こうして子どもたちが紙の端へ明日の不足を書く。

 

 それはひどく危うくて、でも同時に、ひどく人間らしい営みだった。

 

 * * *

 

 翌日の夕方、シンジは病院行きの紙袋と、本部から借りた簡易受信機の配線図を一緒に抱えていた。片方は白い包帯や紙コップ。もう片方は、折りたたんだ配線図と予備電池。病院と本部へ持っていく物なのに、重さを合わせるために左右へ分けてあるあたりが、自分でも少し可笑しかった。

 

「ずいぶん整ってるね」

 

 連絡通路の角で声がした。渚カヲルだった。手には端子の小箱と、ミサトが使うらしい古い受信機の裏蓋。相変わらず、何をしていても場違いなくらい静かだ。

 

「持ちやすいようにしただけ」

 

「そう。前の君なら、たぶん片側へ全部詰めていた」

 

 図星だった。シンジは返事をしない。カヲルはその沈黙まで含めて聞いている顔をする。

 

「それ、病院用?」

「うん」

「こっちは本部?」

「そう」

 

 カヲルは配線図の束へ目を落とした。

 

「白い包帯と配線図。どちらも、切れたら困る線を繋ぎ直すためのものなんだね」

 

 軽い口調なのに、逃げ道がない。シンジは紙袋の口を持ち直した。

 

「最近、そういうのばっかり見てる気がする」

 

「在庫と不足を?」

 

「うん。誰に何が要るかとか、どこに何が足りないかとか」

 

「愛の話みたいだ」

 

「え?」

 

「人を好きになる時も、本当は似たようなものじゃないかな。相手が何を足りないと思っているか、どこで困るか、どこへ戻るかを見ようとする」

 

 シンジは顔をしかめた。

 

「そんな綺麗なものじゃないよ」

 

「綺麗じゃない方が、本当かもしれない」

 

 カヲルは言う。

 

「君はもう、“許してくれる誰か”を探すだけじゃなくて、“今困っている誰かに何を持って行くか”を考え始めている。とても地味で、でも前よりずっと他人の話だ」

 

 褒められているのか、覗かれているのか分からなかった。たぶん両方だ。

 

「君って、本当に怖いことを言うね」

 

「優しいことだけ言う方が怖いよ」

 

 即答だった。

 

 通路の窓の向こうで、夕焼けが病院棟の壁へ薄く当たっている。シンジは紙袋の中のメモ帳を思い出した。持っていった物、足りなかった物、次に要る物。その全部が、誰かの機嫌や体温や都合に結びついている。

 

「彼女達にも、そうやって持って行くの?」

 

 カヲルがさらりと聞いた。

 

「同じじゃないけど」

 

「違うんだ」

 

「違うよ。綾波は……黙って置いておく方がいい時があるし、アスカは勝手に置くと怒るから」

 

 そこまで言って、シンジは自分の声が少しだけ変わっていることに気づいた。困りごとの違いを、前より先に口にしている。

 

 カヲルは楽しそうに笑うでもなく、ただ静かに頷いた。

 

「それなら、たぶん君は前より間違える価値のある場所に立ってる」

 

 意味の分かるような、分からないような言葉だった。けれど、その意味をすぐ確かめたくなるあたりが、やっぱり渚カヲルは怖い。

 

 別れ際、カヲルは受信機の小箱を持ち上げた。

 

「僕はこっちを繋いでくる。君はそっちを届けてきなよ」

 

 配線図と包帯。どちらも間に合わなければ困る。シンジは短く頷き、病院棟の方へ歩き出した。背中に向かって、カヲルが小さく言う。

 

「記録は捨てないで。人は忘れるからね」

 

 忘れるから書く。失くすから分ける。戻る場所を空ける。そのどれもが、補完の白い世界にはなかった行為だと、シンジは歩きながら思った。

 

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