【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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間話七 座席表と体温計

席替えではなかった。

 

 黒板の横へ貼ってあった座席表の紙が、何度も剥がして貼り直したせいで端から裂けただけだ。担任は朝のホームルーム前、出席簿を脇へ抱えたままヒカリに言った。

 

「委員長、新しい座席表をお願いしますね。」

 

「はい」

 

 それだけの仕事だった。定規で罫線を引き、列ごとに名前を書き写す。前から一段、窓側から一つずつ。誰がどこへ座るかは、もうとっくに決まっている。ただ紙へもう一度写し直すだけだ。

 

 ヒカリは机の並びを見渡した。

 前から三列目、中央。

 その少し後ろ。

 窓側後ろから二番目。

 

 そこへ、迷わず書く。

 

 惣流・アスカ・ラングレー。

 

 長い名前は、少しだけ枠からはみ出しそうになる。ヒカリは定規を指で押さえたまま、最後の一文字まできちんと書いた。机がそこにある以上、名前もそこにある。それだけの話だった。

 

「委員長、それも書くんやな」

 

 後ろからトウジの声がした。まだ少し無理の残る歩き方で、教卓の横まで来ている。

 

「書くわよ」

 

「だってずっと休みやろ」

 

「休みでも席は席でしょ」

 

 言い返すと、トウジは「まあな」とだけ言って、自分の鞄を机へ置いた。からかうでもなく、妙にあっさり引いたので、ヒカリの方が少し肩の力を抜いた。

 

 教室の掃除当番が、雑巾と一緒に古いプリントの束を運び込んできた。置き場がなくて、窓際の空いた机へ載せかける。ヒカリはすぐに止めた。

 

「そこはだめ」

 

「え、でも使ってないし」

 

「使ってないんじゃないの。今いないだけ」

 

 少し強く言いすぎたかと思ったが、当番の子は「あ、ごめん」と素直に教卓側へ持ち直した。教室の中では、そういうやり取りが前より増えた。空いているように見える場所が、実際にはそうでもないことを、皆が少しずつ覚えてきている。

 

 席は、誰かが勝手に使っていい空白ではない。

 戻ってきた人が、最初に困らないための場所だ。

 

 ヒカリは新しい紙を黒板の横へ貼った。白い画鋲を四つ。角が浮かないように押し込む。まだ一時間目も始まっていない教室で、それだけが妙にちゃんとした朝の仕事に見えた。

 

 その時、保健の先生が戸口から顔を出した。

 

「洞木さん、あとで手伝える?」

 

「何ですか」

 

「今朝ちょっと熱のある子が多いの。体温計の消毒と、記録」

 

「分かりました」

 

 保健の先生が軽く手を振って去る。トウジがその背中を見送りながら、小さく息をついた。

 

「最近、ほんま増えたな」

 

「夜ちゃんと寝てない子が多いから」

 

「寝れるか、あんなんで」

 

 窓の外を見ながら言う。何が、とは言わない。夜の警報。遠くで鳴るサイレン。ニュースで繰り返される不穏な言葉。学校へ来て、席へ座って、ノートを開いても、そこまでで全部が普通へ戻るわけではない。

 

「鈴原も、まだ無理しないで」

 

「委員長に言われる前に分かっとる」

 

 そう返しながらも、トウジは机へ腰を下ろす時に少しだけ顔をしかめた。ヒカリは見ないふりをした。見ないふりをしても、あとで出席簿の備考へ一言書くくらいはする。それが委員長の仕事だった。

 

 * * *

 

 保健室の机の上には、朝から体温計が並んでいた。

 

 アルコール綿、記録表、使い終わった綿を捨てる小さな缶。保健の先生がケースを開けるたび、ガラスの細い音がした。どれも同じように見えるのに、測る相手によって返してくる数字は違う。

 

「洞木さん、拭いたら右」

 

「はい」

 

「使用済みの時間も書いといてね。後で混ざるから」

 

「はい」

 

 ヒカリは返事をしながら、記録表の欄へ小さく時刻を書き込んでいく。三十六度七分。三十七度三分。三十六度五分。数字だけ見れば単純だ。けれど、保健室へ来る子はみんな同じ顔をしていない。少しだけ赤い鼻をした子。腹痛を訴える子。単に眠そうな子。額は熱くなくても、椅子へ座った瞬間に力の抜ける子もいる。

 

「この子はお迎え呼ぶわ」

 

 保健の先生が三十七度台の数字を見て言う。

 

「洞木さん、担任の先生に一言お願い」

 

「分かりました」

 

 ヒカリが記録表をめくっていると、戸口で足音が止まった。碇シンジだった。遅刻ではない。でも、教室へ戻る途中でそのまま通り過ぎられる顔色でもなかった。

 

「碇君、どうしたの」

 

「いえ、別に」

 

「別に、って顔じゃないでしょ」

 

 保健の先生が椅子を顎で示した。

 

「座って。ついでに測るから」

 

「大丈夫です」

 

「そう言う子ほど測るの」

 

 抵抗らしい抵抗もしないまま、シンジは観念して椅子へ座った。ヒカリは体温計を一本渡す。受け取る指先が少し冷たい。

 

「脇」

 

「……うん」

 

 保健室は急に静かになった。ガラス一本で何か大きなことが決まるわけでもないのに、待っているあいだだけは皆が息を浅くする。

 

 やがて保健の先生が体温計を受け取り、目盛りへ目を落とした。

 

「三十六度四分」

 

 普通の数字だった。

 

「熱はないわね」

 

 言ってから、保健の先生はすぐに続けた。

 

「でも、熱がないから平気って話でもないわよ」

 

 シンジは視線を落としたまま頷いた。頷き方が妙に素直で、ヒカリは逆に少し腹が立った。こういう時、この子は叱られることにだけはちゃんと従う。従った顔のまま、別の無茶をしに行く。

 

「お昼、ちゃんと食べなさい」

 

「はい」

 

「帰りも、しんどかったら寄ること」

 

「はい」

 

 保健の先生が白湯の入った紙コップを差し出す。シンジは両手で受け取った。手元だけ見ていると、病人みたいだと思う。でも体温計の数字は普通で、出席簿の上ではたぶん今日も「出」になる。

 

 ヒカリは記録表の端へ、碇シンジ 三六・四 経過観察、とだけ書いた。大げさな処置ではない。保健室で寝かせるほどでもない。けれど、何も書かずに返すのも違う気がした。

 

 体温計は熱を測る。

 でも、誰がどこまで平気じゃないかまでは書いてくれない。

 

 保健の先生が別の子を呼ぶ声を背中で聞きながら、ヒカリは消毒済みの体温計をケースへ戻した。透明な細いガラスが並ぶ。数は足りている。足りているのに、朝の学校には足りないものがいくつもある。

 

 睡眠。

 安心。

 それから、何でもない顔で教室へ戻るための余裕。

 

 そういうものは、体温計の目盛りには出ない。

 

 * * *

 

 昼休み、シンジは弁当箱の蓋を開ける前に、黒板の横を見た。

 

 座席表が新しくなっていた。

 朝のうちにヒカリが貼り替えたのだと、字を見ればすぐ分かる。四角くて、急いでいても崩れない字。自分の名前の位置を目で辿り、その少し後ろ、窓側へ視線が止まる。

 

 惣流・アスカ・ラングレー。

 

 名前は消えていなかった。

 

 新しく来た転校生の席も、その日ずっと空いていた。そちらは誰も話題にしない不在で、教室の隅へ押しやられている。アスカの席だけが、毎時間ちゃんと数えられる不在だった。

 

「なんや」

 

 トウジがパンの袋を開けながら言う。

 

「また見とる」

 

「……別に」

 

「別に、って顔ちゃうやろ」

 

 朝の保健の先生と似たことを言う。シンジは嫌そうに目を逸らしたが、トウジはそれ以上追わなかった。代わりに教卓の横のクリアファイルを顎で示す。

 

「あれ、惣流の分やて」

 

 ファイルの中には今日配られたプリントが何枚か挟んであった。数学、英語、古典。表紙の上に、ヒカリの字で《惣流分》と書いてある。配ったその場で机へ置くのではなく、まとめて挟むための薄い透明ファイルだった。

 

「持っていくの?」

 

 思わず訊くと、ちょうどそこへ来たヒカリが顔を上げた。

 

「今は持っていかないわよ」

 

「じゃあ何で」

 

「戻った時に、どれが何枚か分からなくなるでしょ」

 

 もっともだった。

 読める状態じゃない相手に、今日の授業プリントを渡してどうするという話でもある。けれど配られたものを何もかも流してしまうのも違う。そのちょうど真ん中に、あのファイルがあるのだと分かった。

 

「たまるで、これ」

 

 トウジが言う。

 

「たまるわよ」

 

 ヒカリは即答した。

 

「だから日付書いてるの」

 

 ファイルの隅には小さく日付が振ってあった。何月何日、何限、科目名。几帳面すぎると思う。でも、そうでもしないと「戻ったあと」が最初からややこしくなるのだと、シンジにも分かった。

 

 ケンスケが弁当を持ったまま加わってくる。

 

「だったらノートもコピーしとく?」

 

「しなくていい。そこまでやると本人が怒る」

 

「たしかに」

 

 三人とも少しだけ黙った。言われると、起きたアスカが机を叩きながら「なんで勝手にそこまでやってんのよ」と怒る顔だけは簡単に浮かぶ。その想像ができるあいだは、たぶんまだ完全には遠くない。

 

 シンジは座席表をもう一度見た。紙へ書かれた名前は静かだ。返事もしないし、文句も言わない。でも、そこに書いてあるだけで、教室の中の扱いが少し変わる。誰も勝手にその席を物置きにしない。プリントを山積みにしない。掃除のバケツも置かない。

 

 席が残っているだけで、皆が“いない人”の扱い方を少し間違えにくくなる。

 

 それは大したことじゃないのかもしれない。

 でも、今のシンジにはその大したことじゃなさが妙にありがたかった。

 

 その日の五時間目、教室の後ろで机を動かす作業があった。掃除用具入れの前を広くするため、後列だけ一度寄せる。シンジが何も言わずにアスカの机へ手をかけようとすると、ヒカリが先に来た。

 

「それ、窓側一センチだけ」

 

「一センチ?」

 

「戻す時ずれるから」

 

 ヒカリは定規まで持ってきていた。そこまでやるのかと半分呆れたが、言われた通りに動かす。作業が終わると、彼女は本当に定規で机の端を測り、元の線へ戻した。

 

「そこまでしなくても」

 

「そういうの、後で分かるのよ」

 

 机の足が床の擦れた跡へきっちり収まる。たしかに、アスカならずれていたら気づくだろう。気づいて文句を言うだろう。そういうくだらない確信だけが、教室の空気を少しだけ生き物にする。

 

 * * *

 

 放課後、シンジは鞄を肩へ掛けてから、保健室の前で足を止めた。

 

 寄るつもりはなかった。でも戸が半分開いていて、中でヒカリが体温計ケースを棚へ戻しているのが見えた。朝と同じ手つきだ。使い終わった本数を数え、ケースの右と左を見比べて、蓋を閉める。

 

「病院?」

 

 ヒカリが先に訊いた。

 

「うん」

 

「今日も」

 

「うん」

 

 それ以上でもそれ以下でもない返事になった。ヒカリはケースを棚へ入れ、代わりに記録表を閉じる。

 

「保健の先生が言ってたわよ。明日もその顔なら先に来いって」

 

「そんな顔してる?」

 

「してる」

 

 即答だった。

 

「熱はなかったけどね」

 

「熱がないからって、無茶していいわけじゃないでしょ」

 

 朝、自分でも似たことを思った。けれど他人の口から言われると、急に言い逃れの余地がなくなる。シンジは返事を探したが、結局見つからなかった。

 

 ヒカリは少しだけ視線を外し、それから低い声で続けた。

 

「惣流の席、詰めてないから」

 

「……うん」

 

「プリントもまとめてる。今持っていく気はないけど」

 

「ありがとう」

 

「お礼じゃないわよ」

 

 ヒカリは少しだけ眉を寄せた。

 

「戻った時に、どこ座るのって所から始めたくないだけ」

 

 それは教室の話だった。

 でもシンジには、教室だけの話に聞こえなかった。

 

「トウジがね」

 

 ヒカリが付け足す。

 

「戻ったらプリントで机埋まるぞって言ってた」

 

「絶対怒る」

 

「でしょ」

 

 そこでようやく、二人とも少しだけ笑った。笑い方は小さい。すぐ消える。でも、まったくないよりはずっとましだった。

 

 シンジが保健室を出ようとした時、ヒカリが後ろから呼び止めた。

 

「碇君」

 

「なに」

 

「自分の分の体温も、たまにはちゃんと気にしなさい」

 

 振り返ると、ヒカリはもう記録表へ目を戻していた。言い終わったものをわざわざ見届けないあたりが、いかにも委員長らしい。シンジは小さく頷いてから、今度こそ廊下を歩き出した。

 

 体温計の入ったケースが棚の中でかすかに鳴る。

 その音だけが、妙に長く耳に残った。

 

 * * *

 

 病院へ着くと、ちょうど看護師がアスカの病室から出てくるところだった。

 

「今、測り終わったところ」

 

 手の中の体温計を軽く振りながら言う。

 

「入っていいわよ」

 

 シンジは会釈して中へ入った。白いカーテン、消毒液の匂い、機械の小さな音。もう見慣れたはずなのに、毎回少しだけ足が止まる。

 

 ベッドの上のアスカは、今日も眠ったままだった。

 

 看護師が枕元の記録板へ数字を書き込むのが見えた。三十六度七分。高くも低くもない、ごく普通の数字だった。

 

 普通。

 

 その言葉だけが、ひどく場違いに思えた。

 

 熱はある。ちゃんと生きた体の温度だ。

 でも、その数字だけでは何一つ戻っていない。

 

「……今日さ」

 

 椅子へ座ってから、シンジは小さく口を開いた。

 

「委員長が座席表、書き直してた」

 

 返事はない。

 

「お前の名前、そのままだったよ。窓側後ろから二番目」

 

 病室の窓は閉まっている。教室の窓から入ってくる風とは全然違う。でも、言葉にすると少しだけ向こうの空気が混ざる気がした。

 

「プリントもまとめてた。今持っていってもしょうがないから、戻った時に渡すって」

 

 そこまで言って、シンジは少し黙る。

 

「トウジが、絶対たまるって」

 

 自分で言いながら、少しだけ笑いそうになる。アスカが起きてそれを見たら、たぶん本当に怒る。何で勝手に溜めてんのよ、くらいは言うだろう。むしろ言ってくれた方がいい。

 

 シンジはベッド脇の柵へそっと手を置いた。触るのは金属だけだ。アスカの手じゃない。その距離が今はちょうどよかった。

 

「僕も、朝、熱測られた」

 

 白いシーツを見ながら言う。

 

「なかった。普通だった」

 

 その“普通”が、自分にもアスカにも似合わない気がした。

 

「お前も今、普通だった」

 

 記録板の数字をもう一度見る。

 

「でも、普通ってそれだけじゃないんだな」

 

 体温計は、体の熱を測る。

 座席表は、戻る場所を残す。

 どっちも当たり前の道具で、できることはそんなに多くない。起こしてくれるわけでもないし、代わりに話してくれるわけでもない。

 

 それでも、どちらも勝手に終わらせないためには足りていた。

 

 熱があるから、まだここにいる。

 席があるから、戻ってきた時に困らない。

 

 たったそれだけのことを、誰かが朝から手を動かして守っている。

 

「だから」

 

 シンジは小さく息を吐いた。

 

「起きたら、自分で文句言えよ」

 

 窓の外で、救急車か何かの音が遠く鳴った。病室の中のアスカは動かない。でも、シンジはその沈黙を前より少しだけ違うものとして聞いていた。

 

 いないのではない。

 まだ戻っていないだけだ。

 

 帰り際、シンジは立ち上がって椅子を元の位置へ戻した。看護師の邪魔にならない角度。次に来た時、また同じように座れる位置。ほんの少し整えるだけの動作だった。

 

 座席表も体温計も、たぶんその程度のものだ。

 大きな奇跡の代わりにはならない。ただ、戻ってきた人が最初に困らないようにしておく。

 

 今はそれで十分だと、シンジは初めて思った。

 

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