【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾伍話 Air

最初の轟音が響いた時、ミサトは一瞬だけ何の音か判断できなかった。

 

 使徒の砲撃じゃない。

 対人火器の、乾いて短い破裂音だ。

 

 その認識が追いついた瞬間、地下都市全体の空気が変わった。警報の種類が違う。人間が人間を殺す時の警報だ。発令所へ飛び込んできたマコトの顔は、使徒襲来時よりむしろ青ざめていた。

 

「戦自です!」

 

 その一言で、説明は足りた。

 

 端末が一斉に切り替わる。地上施設の監視カメラ。爆破されたゲート。エレベーターシャフトを制圧していく兵士たち。整然としている。訓練の行き届いた動きだ。だからこそ、嫌な実感が強い。

 

「狙いは?」

 

 ミサトが訊く。

 

「本部制圧。チルドレンおよびエヴァ鹵獲の可能性大」

 

 リツコの答えは冷たかった。冷たいというより、余計なものを切り落としている声だ。

 

 その直後、別系統の回線が割り込んだ。統合作戦本部からの自動指令。無機質な合成音声が、まるで倉庫の棚卸しでも読み上げるみたいな調子で告げる。

 

『特別保護対象は、第一・第二・第三チルドレンおよびエヴァ各機。一般職員、医療要員、避難民データは区画封鎖後に――』

 

「切って」

 

 ミサトは即座に言った。

 

「葛城三佐?」

 

「今ここで、その呼び方やめて。第3の少年じゃない。碇シンジよ。惣流アスカよ。綾波レイよ」

 

 発令所の空気が一瞬だけ止まる。

 そんなことを言っている場合じゃない。そういう顔が何人かのモニタに映る。分かっている。分かっていてなお、ここで一度言わないと、そのまま世界が番号の方へ流れていく気がした。

 

「伊吹二尉」

 

「はい」

 

「医務区画の軽症用キット、予備電池、短波周波数表の複写を一つ。第三中へ回せるようにまとめて。通せる経路が開いた時だけでいい」

 

「今それをやりますか」

 

「やるの。パイロットだけが保護対象じゃない」

 

「アスカを先に上げる」

 

 ミサトは即座に言った。

 

 弐号機はまだ湖の底だ。アスカもそこにいる。眠りと絶望の底へ沈んだまま。そこを叩かれれば終わる。

 

「シンジ君は?」

 

 マヤがかすれた声を出す。

 

 ミサトは一瞬だけ言葉を失い、それから息を吐いた。

 

「迎えに行く」

 

 理屈じゃない。今この瞬間、あの子を一人で放っておくのが一番まずいと分かっていた。

 

「葛城三佐」

 

 マコトが画面を睨んだまま言う。

 

「例の非常回線、また入りました。短い座標だけです」

 

「こっちにも」

 

 シゲルが別のモニターを指す。

 

「旧ゲヒルン保守網、誰かが生かしてます。隔離区画から整備シャフト十一Bまで、一度だけ通電」

 

「このルート、本来は塞がってるはずです」

 

 マヤが図面の端を押さえたまま言う。

 

「整備用シャッターも、二枚だけ手動で開閉した痕があります」

 

 その情報の形に、ミサトの胸が一瞬だけざわついた。

 だが今は追えない。追ったところで答え合わせをしている時間はない。

 

「ログは全部残して」

 

 吐き捨てるように言う。

 

「残ってる誰かがいるなら、あとで捕まえる」

 

 その頃、湖の底ではアスカがまだ眠っていた。

 

 眠りというより、深い水の中に押し込められている感じだった。上も下も分からない。音も遠い。なのに、自分がひどく一人なのだけは分かる。

 

 その一人の中へ、ようやく届く声があった。

 

 母の声。

 

 ずっと無いと思っていた。見捨てられたと思っていた。自分が一番じゃなくなった瞬間に全部終わったのだと、そう思い込んできた。

 

 でも違った。

 弐号機の中のぬくもりは、最初からここにあった。アスカが触れられなかっただけで、届かなかっただけで、無かったわけじゃない。

 

「ここに、いたの……」

 

 言葉にすると、水の中へ気泡みたいに消えていく。

 それでも、その一言で何かが変わった。沈んだままだった輪郭が、少しずつ戻ってくる。

 

 アスカは、自分がまだここにいると知った。

 それで十分だった。

 

 病室のドアを開けた瞬間、ミサトは舌打ちしそうになった。

 

 シンジは、ベッドの脇に立ち尽くしていた。

 白いカーテン。機械音。眠ったままのアスカ。その前で、まるで何かの判決を待つみたいな顔をしている。

 

「シンジ君!」

 

 呼ぶと、ゆっくり振り返った。

 焦点の合い方が遅い。最悪だ、とミサトは思う。こういう時のあの子は、すぐ“ここにいない方”へ引っ張られる。

 

「来なさい」

 

「でも」

 

「でもじゃない」

 

 ミサトはその腕を掴んだ。引いた。シンジは一歩だけ動き、それでも視線をベッドから切れない。

 

「……起きてよ」

 

 それは、たぶん自分へ言った言葉じゃなかった。

 

 ミサトは一瞬だけ動きを止める。

 この子は、前にもここで何かをやらかした顔をしている。そんなことはあり得ないはずなのに、そうとしか見えない痛み方をしている。

 

「嫌いなら嫌いでいいから」

 

 シンジが掠れた声で続ける。

 

「ちゃんと今の君の声で言ってよ」

 

 その一言に、ミサトの背筋が少しだけ冷えた。

 何をどこまで知っているのか。どうしてそんな、すでに一度取り返しがつかなくなった後みたいな口ぶりになるのか。

 

 問いただしている時間はない。

 

「シンジ君」

 

 低い声で呼ぶ。

 

「行きなさい」

 

「僕、まだ」

 

「迎えに行くのよ」

 

 それは命令だった。

 同時に、彼を現実へ押し戻すための最後の言い方でもあった。

 

「今いるアスカの方へ」

 

 ミサトは言い切った。

 

「眠ってるアスカでも、壊れたアスカでもなく、今まだそこにいるアスカの方へ行くの」

 

 シンジの瞳が揺れる。

 その揺れ方を見て、ミサトは確信した。やはりこの子は、“今”より先に失った後の顔を考えてしまう。

 

「行きなさい!」

 

 腕を離す。シンジはようやく足を動かした。

 

 通路へ飛び出した直後、戦自の銃撃と鉢合わせた。

 ミサトは反射的に発砲し、シンジを壁へ押しつける。反動で脇腹が熱くなる。撃たれたと理解するより先に、まだ動けるかどうかだけを確かめた。

 

 動ける。

 ならまだ仕事は終わらない。

 

「走る!」

 

 非常通路を駆ける。血が落ちる。足音が遠く近い。シンジの呼吸が荒い。あの子は今、自分が撃たれたことよりも、僕を連れて行かれることの方を怖がっている顔をしていた。

 

 その顔を見て、ミサトは少し笑いそうになった。

 こういう時だけ、あの子は妙に真っ直ぐだ。

 

 最終防壁の手前で、もう足が限界だと分かった。

 

「シンジ君」

 

「はい」

 

「聞きなさい」

 

 ミサトは壁へ手をついた。

 息を整える時間も惜しい。だからこそ、言葉は短くなる。

 

「大人だからって、全部分かってるわけじゃないの」

 

 シンジが目を見開く。

 

「私も怖い」

 

 正直に言う。

 正直に言わないと、この子は“分かっている大人”の命令だと受け取ってしまう。

 

「でも、だからあなたをここで止めない」

 

 ポケットの中の十字架を押しつける。

 

「行きなさい。今いる人間のために、今ある顔のために」

 

 キスをしたのは衝動に近かった。励ましでも、別れの記号でもなく、この子を最後の一歩だけ前へ押すための乱暴な方法だった。

 

 シンジの目が真っ白になり、それからようやく前を向いた。

 

 その背中を見送りながら、ミサトは壁にもたれた。

 痛い。死ぬかもしれない。けれど少なくとも、最後の最後に一人の子どもを“自分の選択”の方へ押し出すことはできた。

 

 それで十分だと思うしかなかった。

 

 そう思った直後、角の向こうから戦自の足音が近づいてきた。

 

 ミサトは最後の一発まで使うつもりで銃を握り直した。

 その時、非常灯が一瞬だけ落ちる。廊下の右手、塞がっていたはずの整備用シャッターが半枚ぶんだけ持ち上がった。

 

「葛城」

 

 低い声がした。

 

 次の瞬間、横合いから短い銃声が二つ。先頭の兵士が倒れ、ミサトの肩へ誰かの手がかかる。引きずり込まれるみたいにシャッターの向こうへ入ったところで、ようやく顔が見えた。

 

「……加持」

 

「詳しい話は後だ」

 

 息を切らしたまま、加持は言った。

 

「今は動け、葛城」

 

 英雄みたいな顔ではない。髭も伸び、シャツは汚れ、片腕には浅い裂傷まである。ただ、内部の地図を知っている人間だけが持つ迷いのなさで、分岐を次々選んでいく。

 

「生きてたの」

 

「死体が上がってないうちに勝手に葬るなよ」

 

「腹立つ」

 

「そうだろうな」

 

 皮肉を返す余裕がまだある。そのことに、ミサトは少しだけ本気で泣きそうになった。

 

 加持はミサトの肩を支えたまま、整備シャフトのさらに奥へ歩かせた。

 非常灯だけが細長く続く通路は、いつものネルフよりずっと骨格に近い顔をしている。剥き出しの冷却管、太い電力ケーブル、ところどころで交差する補機ダクト。表の発令所や会議室が“組織の顔”なら、ここは地下都市の内臓だった。

 

 曲がり角を一つ過ぎるたび、向こう側に巨大な空洞が口を開ける。そこを跨ぐキャットウォークの下では、停止した昇降機が黒い井戸みたいに沈み、もっと下の方で非常電源の低い唸りだけが響いていた。人類が宇宙へ行く前に作ったものが、たいていこういう生命維持装置ばかりだという事実を、ミサトは不意に思い出す。空を目指す前に、まず人は自分たちが潰れないための殻を掘る。未来というのは、案外ずっと土木と配管の顔をして始まるのかもしれなかった。

 

「こんな時にまで、見惚れる顔するなよ」

 

 加持が言う。

 ミサトは痛みで息を詰めたまま、かろうじて笑った。

 

「してないわよ」

 

「してる。昔から、お前はこういう大きい機械の腹の中に入ると一瞬だけ素直になる」

 

「嫌な記憶力」

 

「生き延びるには要る」

 

 加持は手すりの向こうを顎で示した。

 

「昔のSFってさ、やたら宇宙船だの恒星間航行だのを夢見てたけど、実際の人類が最初に作った“未来”はこういうもんだ。地下へ潜って、空調と電源と水を繋いで、明日まで死なないための巨大な臓器を街ごと抱える」

 

 その言い方が妙に加持らしくなくて、ミサトは横目で見た。

 加持は笑っていない。

 

「ロマンのない話ね」

 

「逆だろ」

 

 短く返る。

 

「何十万人分の呼吸と体温を、配管とポンプと予備電源で持たせるんだ。十分に気が狂ってるし、十分に綺麗だ」

 

 ミサトは少しだけ黙った。

 通路の下で、どこかのバルブが切り替わる鈍い音がした。地球の奥に作られた人工の街が、まだかろうじて生きている音だった。

 

「で、あんたは何しに戻ってきたの」

 

「英雄ごっこに見えるか?」

 

「見えない」

 

「なら答えは簡単だ」

 

 加持は先を見たまま言う。

 

「全部止まる前に、まだ返事のできる点を少しでも残したいだけだよ。回線でも、シャッターでも、人でもな」

 

 その答えに、ミサトは喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 加持は昔からそうだ。世界の真実なんて大きな言葉を持ち歩くくせに、最後には必ず、一本の導線とか、一人の生存者とか、そういう小さい単位へ帰ってくる。

 

「……死んでないなら、先に言いなさいよ」

 

「言ったら止めただろ」

 

「当たり前でしょ」

 

「だからだ」

 

 最低だ、と言いたかった。最低で、ずるくて、それでも今この通路のどこかに加持がいるという事実だけで、世界の壊れ方が少しだけましになるのも悔しかった。

 

 加持はミサトを支え直し、最後の扉を手動で開いた。

 向こう側には、古いゲヒルン時代の補助指令室が眠っている。未来の残骸みたいな部屋だった。けれど残骸であるということは、まだそこに形があるということでもある。

 

 整備シャフトの奥には、すでにマヤがいた。

 即席の担架と救急キット。顔色は悪いが手は止まっていない。

 

「葛城三佐!」

 

「あとで怒らせて」

 

 ミサトが言うより先に、マヤは脇腹の傷を確かめて止血帯を締めた。痛みで視界が白くなる。

 

 同じ空間の反対側では、マコトが古い端末へケーブルをつないでいた。シゲルは図面に赤線を引き、開閉するシャッター番号を口で並べている。

 

「加持さん、このコード、本当に通るんですか」

 

 マコトが言う。

 

「旧ゲヒルンのIFF迂回だ。三回通れば十分だろ」

 

「十分じゃないですよ」

 

「じゃあ四回目は工夫しろ」

 

 投げやりな口調なのに、指示だけは具体的だった。

 

「青葉二尉、十一Bと十七Fを交互に殺せ。兵が一直線に来られないだけでいい。伊吹二尉は葛城を落とすな。日向二尉、戦自の移動情報をわざと遅らせて流せ。こっちが何人いるか、向こうに確信を持たせるな」

 

 誰も返事をする余裕はない。

 でも全員、ちゃんと動いた。

 

 加持はそれを見てから、ようやくミサトへ視線を戻した。

 

「死ぬにはまだ仕事が残りすぎてるだろ」

 

 ミサトは痛みで息を詰めながらも、かすかに笑った。

 

「そう言うと思った」

 

 マヤが傷口を押さえ直しているあいだに、ミサトは机の端へ寄せられた防水袋を引き寄せた。さっき言い残した学校向けの荷だ。薬、絆創膏、紙コップ、予備電池、周波数表の複写。片方だけ潰れても困るような物ばかりだから、最初から二袋へ分けてある。

 

「まだ書くのか」

 

 加持が呆れ半分で言う。

 

「書くわよ」

 

 ミサトは油性ペンで袋の表へ大きく字を書いた。

 

《第三中保健室 洞木ヒカリ》

 

 避難拠点コードでも、搬送先記号でもない。受け取る人間の名前だ。

 

「私情の塊だな」

 

「そう」

 

 ミサトはペン先を止めずに言う。

 

「拠点Cより、この名前の方が早い。あの子は数を間違えない」

 

 マコトが配線の向こうで顔を上げた。

 

「十一Bの旧防災搬送管、二分だけ通せます!」

 

「十分よ。片方だけでいい、送って」

 

 自分で走れない以上、せめて宛先だけでも先に作る。大人にできる保護なんて、その程度の時もある。けれどその程度のことを、今は手放したくなかった。

 

 地下では、リツコがMAGIの前に立っていた。

 

 母を組み込んだ三つの人格。科学者としての母、女としての母、母としての母。そのどれもが、最後に自分を選ぶとは限らないと頭では分かっている。

 

 それでも、ボタンを押さずにはいられない。

 

「裏切らないでよ」

 

 呟いてから、リツコは自分でかすかに笑った。

 裏切りとは、こちらが先に期待した結果でしかない。

 

 端末へ手を伸ばす。

 認証。拒否。再試行。拒否。

 

『NO』

 

 たった二文字で、赤木リツコという女の半生はだいぶ綺麗に否定された。

 

「ほんと、最悪」

 

 泣けなかった。泣くには、母を知りすぎていたからだ。

 最後まであの女は、自分より男を選ぶ。分かっていた。分かっていてなお、同じ場所で同じ匂いを吸い続けてきた自分も滑稽だった。

 

 だが上では、さらに露骨に滑稽なものが進んでいた。量産機。国連。人類補完計画。理屈だけなら立派だ。実際には、子どもの心と身体を道具にしているだけだ。

 

 第二指令室の簡易モニターには、戦自の移動予測が赤線で流れていた。マコトは加持から渡された非常コードでIFFを偽装し、シゲルは旧ゲヒルンの保守網でシャッターを開閉し、マヤはミサトの止血と発令所側の最低限のバックアップを同時にこなしている。

 

 加持は英雄には見えなかった。

 ただ、抜け道とタイミングと、人がまだ人のために動ける数秒だけを知っている顔をしていた。

 

 だからこそ、その導線は本当に細かった。

 細いまま、それでも途切れてはいなかった。

 

 隔離区画では、渚カヲルが警報を聞いていた。

 

 白いベッド。薄い毛布。拘束具の外された手首に、まだ赤い跡が残っている。

 使徒の反応は消えた。データ上はそうらしい。けれどだからといって、彼が急に安全な何かへ変わったわけではない。発令所の誰もがそう考えているし、たぶんそれは正しい。

 

 カヲル自身も、正しいと思っていた。

 

 正しいと思っていたからこそ、ここで生きていることがまだ不思議だった。

 

「死ぬ方が簡単だったね」

 

 独り言は、警報に呑まれてほとんど音にならない。

 そこへ、扉のロックが小さく外れる音がした。

 

 綾波だった。

 

 白い廊下の光を背に、彼女はいつもの顔で立っている。けれど、いつものレイより少しだけ遠くを見ていた。誰かの命令を聞きに来た顔ではなく、自分で来た顔だ。

 

「……何」

 

「綾波レイ。今は忙しいんじゃないの?」

 

「忙しい」

 

 綾波は頷いた。

 

「でも、その前に来た」

 

「僕を処分しに?」

 

「違う」

 

 そこで、ほんの少しだけ間があった。

 

「生きる方を選んだなら、途中でやめないで」

 

 カヲルは目を瞬いた。

 

「厳しいね」

 

「あなたがそうした」

 

 ああ、と思う。

 この少女は、自分が思っていたよりずっとよく見ている。見ていて、なおその上でこうして言う。

 

「君も、どこかへ行くんだね」

 

「うん」

 

「碇司令のところ?」

 

 綾波は答えない。

 答えないことが、答えよりよほどはっきりしていた。

 

「僕は君を止められない」

 

「止めなくていい」

 

「でも、何が正しいかは分からない」

 

「分からないままでいい」

 

 綾波はカヲルをまっすぐ見た。

 

「誰かの部品として決まっているより、そっちの方が本当」

 

 それは、あの最深部で彼女が言ったのと同じ種類の声だった。

 柔らかくない。優しくもない。でも、残る。

 

「君は戻るつもり?」

 

「戻れるなら」

 

「碇シンジ君のところへ?」

 

 綾波は少し考えた。

 

「碇君だけじゃない」

 

 それから続ける。

 

「でも、碇君にも」

 

 その答えを聞いて、カヲルはようやく小さく笑った。

 

「そう。なら僕も、戻れるなら戻るよ」

 

 綾波はそれ以上何も言わず、扉の横の解除キーへ手を触れた。

 カヲルの区画だけでなく、隣の簡易病室のロックまで外れる。中には逃げ遅れた技術員が二人、身を寄せ合うように座っていた。

 

「手伝って」

 

「命令?」

 

「お願い」

 

 少し前に、誰かとした会話を思い出す。

 カヲルは立ち上がった。足元がふらつく。使徒ではなくなった体は、ひどく不便だった。でもその不便さが、いやに現実だった。

 

「分かった」

 

 綾波は一度だけ頷き、背を向ける。

 

 白い廊下の先へ消えていく背中を見送りながら、カヲルは深く息を吸った。

 簡単な終わりの方ではなく、手間のかかる方へ足を向ける。

 

 それが今の自分にできる、たぶん最初の選択だった。

 

 リツコは、モニターに映るアスカの復活を見た。

 

 湖面を割って立ち上がる赤い機体。

 量産機に囲まれ、それでも笑う少女。

 

 あれは同情してはいけない強さだ、とリツコは思った。

 見惚れてしまうほどむき出しの生への執着だった。

 

 アスカは、量産機を裂いた。

 蹴り、噛み、引きちぎり、叫ぶ。

 勝利のためというより、自分がまだここにいると世界へ言い張るために戦っているみたいだった。

 

 だからこそ、再起動した量産機が牙を剥いた瞬間、リツコは一度だけモニターから目を逸らした。

 見たくなかった。

 今さらそんな当たり前の感情が、自分の中にまだ残っていることが少し可笑しかった。

 

 空ではアスカが叫んでいた。

 

 母がいた。

 ずっと無いと思っていた場所に、確かにいた。

 その事実だけで、アスカはようやく“強さ”を誰かに見捨てられないための看板としてではなく、自分の手足として使える気がした。

 

 それだけじゃない。

 まだ終わっていないものが、いくつもあった。

 

 洗面所の水音。

 音楽室の夕焼け。

 病室で聞かされた、最低すぎる告白。

 それでも逃げずに聞き切った、自分の喉の熱さ。

 台所で「今度は逃げんじゃないわよ」と言った時の、あいつの間の抜けた顔。

 

 腹の立つことばかりだ。

 遅いし、鈍いし、勝手に重い。

 それでも、まだ言い足りない。まだ殴り足りない。まだ、今のあいつに言わせたい言葉が残っている。

 

「遅いのよ」

 

 誰へ向けたのか、自分でも分からない。

 母へか、世界へか、それともいつまでもここへ来ない誰かへか。

 

 量産機は強かった。けれど怖くはなかった。

 怖いものの本体は、もっと別の場所にある。見捨てられること。誰にも選ばれないこと。そういう痛みの方が、アスカにはずっと怖かった。

 

 今は違う。

 母がいる。

 だから負ける理由が減った。

 

 それに、まだ終わりの顔で会いたくなかった。

 言いっぱなしのまま、聞きっぱなしのまま、あのばかに自分だけ勝手に終わられたくなかった。

 

 減っただけで、消えたわけではない。量産機の槍が降り、弐号機の腕が裂ける。痛みはある。悲鳴も上がる。それでもアスカは最後まで歯を剥いた。

 

 だから、再起動した白い機体が群がってきた時、その暴力は余計に残酷だった。

 

 空へ吊り上げられる弐号機。

 裂ける。貫かれる。咀嚼される。

 

 その光景を、シンジは初号機の中で見ていた。

 

 見ているうちに、アスカに結びついたどうでもいい記憶ばかりが勝手にめくれた。

 

 洗面所のノブに掛けたヘアゴム。

 僕の皿から勝手に卵焼きを一本奪った朝。

 まずい缶ビールを一口飲んで顔をしかめた夜。

 音楽室の夕方、窓の外を見たまま「もったいなかったわね」と言った横顔。

 ドライヤー越しに「ちゃんと見てたから」と飛んできた声。

 台所で「今度は逃げんじゃないわよ」と言われた時の、視線をわずかに逸らした顔。

 戦闘後の車の中で、眠ったまま僕の肩へ重みを預けてきた体温。

 

 家ではうるさい同居人みたいで、学校では目を離すとすぐ噛みついてくるクラスメイトみたいで、戦闘では絶対に負けたくない相棒みたいで、ふとした拍子にはどうしようもなく女の子に見える。

 

 そういう、生きて怒っていたアスカの方ばかりが前に出る。

 

 だから余計に、空で裂かれている赤がただの弐号機には見えなかった。

 あれは、これからいくらでも失敗しながら続きを作れるはずだった時間そのものだ。

 僕がまだろくに名前もつけられていないまま欲しがっていた関係の、その続き全部だった。

 

 知っていたのに。

 戻ってきたのに。

 それでもまた間に合わない。

 

 その事実が、前よりもずっと深く骨へ刺さる。

 

「アスカ!」

 

 叫ぶ。初号機は拘束を引きずるように前へ出る。でも距離は埋まらない。埋まらないまま、空で赤い機体だけが壊されていく。

 

 知っていたから間に合うなんて、そんな都合のいい話じゃない。

 知っていたからこそ、これまで積み上げた小さい時間まで全部一緒に壊れていくのが見えてしまう。

 

 その絶望が初号機の中を白く満たした時、世界はもう境界を失い始めていた。

 

 最初にほどけたのは肉ではなかった。僕とアスカ、敵と味方、痛みを受ける側と見ているだけの側。そういう仕分けを可能にしていた見えない境界の方だ。発令所で数値として見ていたA.T.フィールドは、防壁である前に「これは僕の苦しみで、あれは他人の苦しみだ」と区切るための最低限の文法だったのだと、頭のどこかだけが妙に冷静に理解していた。

 

 都市全体が巨大なエントリープラグへ変わっていくみたいだった。人の群れ、建物、道路、地下の発令所。別々の縮尺で並んでいたものが、同じ液体の中へ沈められ、ひとつの神経系みたいに痙攣する。さっきまで遠くにあったはずの悲鳴が耳の裏へ直接触れ、知らない兵士の恐慌が自分の吐き気と区別しにくくなる。

 

 恐ろしいのは痛みそのものではない。痛みが自分のものかどうか確かめる手順が失われていくことだった。悲しみも同じだ。アスカを失う苦しみと、誰かが誰かを失う一般論が混ざった瞬間、僕はもうアスカの名前で泣けなくなる。それは優しさではなく、固有名の死だ。

 

 補完が本当に奪うのは、肉体より先にそこなのだと分かった。名前、指紋、癖、あの子の怒り方、ミサトさんの笑い方。そういう細部を“差し支えない差分”として均すこと。巨大な救済みたいな顔をしながら、実際には世界を細部のない平均へ近づけていく。

 

 視界が広がっているのに、解像度だけが落ちていくのが分かった。遠くまで見えるのに、どの顔が誰のものか分からない。地図の縮尺だけが無限に引かれて、凡例の方が失われていくみたいだった。発令所のモニタで世界全体を俯瞰する感覚と、LCLの中で誰かの痛みへ沈む感覚が、最悪な形で一つになっていた。

 

 もしこのまま進めば、僕はきっと楽になる。個別の名前で苦しむ必要がなくなるからだ。けれどそれは、アスカのために怒り、ミサトさんのために悲しみ、綾波のためにためらうという、全部違うはずの感情が一つの白さへ薄まることでもあった。人類補完という言葉の気味悪さを、僕はその時初めて身体で理解した。

 

 世界が巨大なプラグへ変わるというのは、つまり誰の視点にも最後の優先権がなくなるということだ。上から見れば全部が一つの現象へまとまる。けれどそのまとまりの中では、十四歳の僕が誰の名前を呼んで泣くかという順番だけが消えてしまう。都市規模の美しい現象になる代わりに、個人的な絶望の向きが失われる。それは、とても綺麗で、とても耐えがたかった。

 

 ATフィールドは、ずっと“壁”だと思っていた。でも本当は、壁である前に座標だったのかもしれない。どこまでを自分と呼び、どこから先を他人として数えるか。その原点と軸の取り方が人ごとに違うから、触れることは毎回わずかな変換を要する。補完はその変換手順を消して、全員を同じ座標系へ押し込もうとする。だから痛みも争いも減る代わりに、抱きしめるという行為の情報量まで消える。誰かへ手を伸ばすたび必要だった小さな演算、その手間こそが、ほんとうは愛情の具体だった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 戦自の侵入が始まった直後、学校では誰もまだ何が起きているかを正確には知らなかった。

 

 けれど、ラジオのノイズの奥に混ざる断片だけで十分だった。臨時ニュース、避難勧告、通信障害。ヒカリは保健室の鍵を取りに走り、ケンスケは屋上のラジオのアンテナを伸ばし、トウジはまだ本調子じゃない足で椅子を運んだ。

 

 校舎の壁の向こうで、金属が一度だけ鈍く鳴った。

 

「なんや今の」

 

 トウジが振り向き、ケンスケが理科準備室の脇の非常収納を開ける。そこには普段使わない搬送管の受け口があり、その底に小さな防水袋が引っかかっていた。油性ペンの字が、蛍光灯の下で少し滲んでいる。

 

《第三中保健室 洞木ヒカリ》

 

 ヒカリはその字を見て、一瞬だけ息を止めた。葛城三佐の字だ、とすぐ分かった。袋の中には絆創膏、小さな解熱剤、紙コップの束、予備電池、短波周波数表の複写が二枚。それと折りたたんだメモが一つ。

 

《来た人の名前だけは残して。葛城》

 

 たった一行だった。命令というより、引き継ぎの書き方だった。

 

 ヒカリはメモを二つに折り直し、白衣のポケットへ入れた。

 

「名簿!」

 

 ヒカリが叫ぶ。

 

「相田君、昨日の続き!」

 

「ある!」

 

「鈴原、保健室の毛布三枚だけ先に!」

 

「分かっとる!」

 

 学校はまだ拠点ではない。けれど、拠点になりかけた時の手つきだけはもう皆の体に入っていた。紙コップの箱を手前へ出し、体温計ケースを棚の端へ寄せ、ラジオの音量を絞る。誰に教わったわけでもない。これまで何度か練習みたいにやってきたことを、今は本当にやるだけだった。

 

 ヒカリは黒板の端へ急いで表を書いた。来た人、いない人、家へ戻った人、病院へ向かった人。欄が多すぎて、チョークがすぐ短くなる。

 

「碇君は?」

 

 ケンスケが聞く。

 

 ヒカリは一瞬だけ言葉に詰まり、それから首を振った。

 

「今は本部」

 

 それ以上は言えない。言わない方がいいのか、言えないだけなのか、自分でも分からない。けれど、ここで止まっている暇はない。ラジオの電池残量は半分、保健室の水は二本、毛布は三枚、椅子は十一脚。数えられる物を先に数えるしかなかった。

 

 屋上から戻ったケンスケがラジオを抱えて言う。

 

「本部側、かなりひどい。銃声っぽい」

 

 教室の空気が一瞬だけ凍る。

 ヒカリは名簿へ新しい線を引いた。『病院』『本部』『学校』。どこへ向かったかだけでも残しておかないと、後で誰も探せなくなる。その下に、まだ誰の名も入っていない空欄を一つだけ残す。戻ってくる人のための欄だった。

 

「紙テープ」

 

 ヒカリが手を出すと、トウジが黙って渡した。紙コップ、毛布、体温計。全部へ簡単な名前を書いていく。物に名前をつけるのは、人に名前を呼び返す準備でもあるような気がした。

 

 防水袋の底で、折りたたまれた周波数表がかすかに鳴った。油性ペンの字は少し滲んでいる。《第三中保健室 洞木ヒカリ》。避難拠点の番号ではなく、人の名前で届いた荷だった。

 

 世界の終わりはいつも巨大な音で来る。

 でもその音の中で人がやるのは、案外こういう小さな数合わせなのかもしれなかった。

 

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