補完の中では、境目がなかった。
海と空の境目も、自分と他人の境目も曖昧で、思い出そうとした相手より先に別の匂いや声が入り込んでくる。アスカを考えたはずなのに、次の瞬間にはミサトさんの台所の匂いがして、綾波の白い手が重なり、父さんの背中がそこに立つ。
そこでは、言い損ねても困らない。
聞き返さなくても、何となく通じたことになってしまう。
失う前から失った形を想像して怯えなくていい。
ほんの一瞬、楽だと思った。
でも、すぐに気持ち悪くなった。
誰に会いたいのか、誰に怒ってほしいのか、誰にごめんと言いたいのか。その「誰に」が薄くなるからだ。優しいのに、誰にもちゃんと触れていない。
補完がくれたのは、たぶん完全な理解じゃない。
言い直しも、待つ時間も、気まずさもいらない世界だ。
けれど僕が欲しかったのは、そんな白くて薄い楽さじゃなかった。
皿が鳴ること。
荷物の重さが偏ること。
誰のコップか、どの席が誰の場所かを、毎日少し面倒くさく確かめ直すこと。
そういう摩擦があるから、相手が今ここにいると分かる。
好きだという言葉も、たぶん同じだ。
誰でもいい慰めじゃなく、この人に届かなければ困ると限定すること。その分だけ、傷つくし、責任も増える。けれど、その不利さを引き受けない感情は、どこまで行っても「誰にでも向く優しさ」のままだ。
父さんは、たぶん別の仕方で名前を使っていた。
第3の少年。初号機パイロット。適格者。札としての名前だ。僕もずっと、そういう札でいれば嫌われずに済む気がしていた。
でも、戻りたいのは札の世界じゃない。
アスカがアスカのまま怒り、綾波が今の綾波として黙り、ミサトさんが命令じゃなく約束の言葉を使う世界だ。分かり損ねるたび少し傷ついて、それでも明日の朝にはまた同じ台所や教室へ戻る世界。
だから、ここへ沈んだままは嫌だった。
最初に現れたのは電車の中だった。
向かい合うシート。夕方の光。窓の外は真っ白で、どこにも続いていない。
アスカが座っている。足を組み、肘を窓枠へ預け、こちらを見もしない。
「あんた、あたしを好きなんじゃないわよ」
いきなりそう言う。
「好きだよ」
「嘘」
即答だった。
「あんたが好きなのは、自分を見捨てない誰かでしょ」
反論できなかった。
「ミサトに甘えて、綾波に救われて、カヲルに許されて、それで足りないから今度はあたし?」
「そんなつもりじゃ」
「つもりの話してない」
補完の中のアスカは、現実のアスカよりずっと容赦がない。あるいは、現実でもずっとそうだったのかもしれない。僕がそこまで近づく勇気を持てなかっただけで。
電車が消える。次は教室だった。明るい窓。チャイム。トウジとケンスケが騒ぎ、委員長が怒り、綾波が普通の制服を着ている。加持さんまで窓の外から手を振っていて、父さんが職員室の前に立っている。誰も死んでいない。誰も壊れていない。
簡単な世界だった。頑張らなくても居場所があって、エヴァも使徒も要らない、都合のいい世界。
一瞬、いいと思った。
教室の後ろの棚には見張り表も地図もなかった。紙コップは使っても減らず、当番表の空欄は誰かが勝手に埋めてくれる。ミサトさんの台所では鍋が自然に温かくなり、買い物袋は最初から二つの重さが揃っている。定期も学生証も落ちない。ラジオはいつも雑音ひとつなく入る。そんな世界だった。
便利だった。便利すぎた。
誰も「持ちすぎ」と言わない。誰も「そこは空けておきなさい」と止めない。席は最初からきちんと並び、戻ってくる人のために隙間を残す必要もない。明日の荷物を二つに分ける手間もない。だって、そもそも重さがないからだ。
僕は教卓の前で立ち止まった。黒板の端には白いチョークで《今日も平和》とだけ書かれている。ヒカリは笑っていて、アスカは怒らない。綾波は何も困らない。カヲル君は最初から許している。父さんまで僕の肩へ手を置く。
委員長が出席簿みたいな紙を持っていた。けれど、それは出席簿ではなかった。全員の名前が最初から揃っていて、欠席欄も、行き先の欄も、戻ってくる人のための余白もない。
「今日は記録、要らないの」
委員長が笑う。
「みんないるもの。誰がどこへ行ったか書かなくていいし、席を一つ空けておく必要もないでしょ」
その言い方に、背中が冷えた。
ここではたしかに誰も失われない。けれど同時に、誰かが帰ってくるのを待つ時間もない。名前はあるのに、そこへ戻ってくる感じがない。ただ“全員いる”っていう答えだけが先にあって、そこへ辿り着くまでの面倒が丸ごと消えていた。
そんなもの、いくらでも欲しかったはずなのに、目の前へ出されると息が詰まった。
ここでは誰も他人の都合に引っかからない。失敗しても皿は鳴らず、忘れ物をしても誰も困らず、待っているあいだに紙コップの数を数える必要もない。つまり、誰かと生きるための面倒が最初から全部抜き取られている。
それは優しいのではなく、薄かった。
アスカが怒らない世界は、アスカが僕を見ていない世界だ。
委員長が席を空けない世界は、誰も戻ってこなくても困らない世界だ。
ミサトさんが鍋を焦がさない世界は、疲れて帰ってくる夜そのものがない世界だ。
違う。
僕が欲しかったのは、失敗しない世界じゃない。失敗したあとで、鍋の火を弱めたり、荷物を半分に分けたり、席を一つ残したりできる世界だ。
面倒で、気まずくて、でも明日の持ち物を考えなくてはいけない世界だった。
でも、その世界のアスカは僕に何も求めていなかった。怒りも、嫉妬も、寂しさもない。こっちを見て笑うだけだ。その笑顔は薄くて、触った瞬間に破れそうだった。
違う。
僕が会いたかったのは、そんな紙みたいな誰かじゃない。
場面がまた切り替わる。病室。白いベッド。眠ったままのアスカ。前の世界の病室と、今回の世界の病室が重なって、何枚もの白いシーツが積み上がっているみたいだ。
その脇に座る僕へ、綾波が訊く。
「碇君は、何が欲しいの?」
難しい問いだった。
好かれたい。許されたい。見捨てられたくない。そんな答えならいくらでも出る。でも、それは全部自分に向いた欲求だ。
アスカに対して欲しいものは、たぶんもっとくだらない。
朝の洗面所で、ノブに掛けたヘアゴムを取りながら文句を言う声。
台所で、まずい缶ビールを一口飲んで顔をしかめる顔。
音楽室で、夕焼けを見ながら「もったいなかったわね」と言う横顔。
そういう、役に立たないのに何度でも思い出してしまう時間が欲しい。
「……起きてほしい」
声が震えた。
「怒ってほしい。嫌だって言ってほしい。勝手に分かった顔をするなって、ちゃんと今の声で言ってほしい」
綾波は首をわずかに傾げた。
「どうして?」
「その方が、本当だから」
「本当は痛い」
僕は頷いた。
「痛いのに、欲しいの?」
「欲しい」
答えた瞬間、病室の白さがひび割れた。
そこへ父さんの背中が現れる。司令室の椅子。手を組む癖。振り向かないまま落ちる声。
「お前は何を望む」
「分からない」
「分からないまま、また同じことをするのか」
「そうかもしれない」
「それでいいのか」
「良くないよ」
思わず叫んでいた。
「良くない。でも分からないんだよ。誰かといたい。嫌われたくない。近づくと壊れる気がする。どうしたらいいのか分からない」
司令室の壁が歪む。
「子どもだな」
父さんは振り向かないまま言った。
腹が立つのに、その通りでもあった。僕は子どもだ。誰かの人生を諭せるほど大人じゃないし、自分の感情だってまだうまく扱えない。
なのに世界だけは、いつも大人の決断みたいなものを要求してくる。
「だから管理が要る」
父さんは続けた。
「人は分類し、配置し、索引を振って初めて運用できる。名はそのためにある」
その言い方で、胸の奥が一気に冷えた。
第3の少年。初号機。適格者。予備。父さんの言い方では、たしかにずっとそうだった。名前は呼びかけじゃなく、引き出しの札みたいなものだった。
「違う」
喉が痛い。
「名前は、呼んで、ちゃんとその人が振り向くためにあるんだ」
「返事など不確定要素だ」
「そうやって父さんは、都合の悪いものを全部切り捨ててきた」
言いながら、自分の声が震えているのが分かった。
「第3の少年って呼べば、碇シンジが何を怖がってるか考えなくていい。綾波を器って呼べば、あの子が今どうしたいか聞かなくていい。アスカを適格者って呼べば、傷ついた一人の女の子だって忘れられる」
父さんは黙っている。
「父さんを許せない」
自分でも唐突だった。でも、口にした瞬間、それが嘘じゃないと分かった。
「そうか」
「うん。でも、許せないまま父さんと同じことをするのも嫌なんだ」
「同じこと?」
「必要だって言って、他人の痛みを見ないふりすること。会いたい相手一人のために、他の人を道具にすること」
少しの沈黙。
「ユイへ会うことの何が悪い」
初めて、父さんの声が少しだけ人間の熱を持った。
「悪いよ」
僕はすぐに返した。
「母さんのことしか見なくなったら、他の人はみんな通り道になる。父さんは僕たちを、そういうふうに使った」
「甘いな」
父さんはあっさり言った。
「甘いよ」
僕もすぐ返した。
「でも、甘くない顔で人を選別する方が、僕はもっと嫌だ。僕が戻りたいのは、誰が今どこにいるかを、番号じゃなく名前で書き直せる世界だ」
ミサトさんが現れた。最後の通路の、あの時の顔だ。
「大人になれ、とは言わない」
「なれるわけない」
「そうね」
ミサトさんはかすかに笑った。
「でも、選びなさい」
「何を」
「痛くない幻より、痛い現実を」
簡単に言うなと思う。でも、その簡単さがこの人の強さでもあった。大人はずるい。ずるいくせに、そういう時だけ本当に必要なことを言う。
「碇君」
そこで、もう一つ声が重なった。
綾波だった。白い病室の方からではなく、ひび割れた境目そのものから滲むみたいに現れる。
「私は、あなたが傷つかないための答えにはならない」
赤い目が、真っ直ぐこっちを見る。
「あなたが選ぶことをやめたら、私もまた誰かの都合へ戻る。器とか、代わりとか、そういう名前のない方へ」
「綾波……」
「私はもう、そこへ戻りたくない」
慰める声じゃない。
自分の側の意志を守るための、静かな言い方だった。
「あなたが名前で呼んだ分だけ、私はもう前と同じじゃない」
「……うん」
「だから、やめないで」
「私も、私をやめない」
そこで、どこかの音楽室みたいな単音が鳴った。
振り向くと、カヲル君がいた。
白いホームの端。夕方とも夜明けともつかない光の中で、前みたいに出来すぎた笑い方はしていない。
「君に会いに来た、というより」
カヲル君は少し目を伏せた。
「君が僕のところへ逃げてこないか、見に来たのかもしれない」
「逃げる?」
「僕は君に好きだと言っただろう」
「……うん」
「だから君は、僕を握りしめたままにもできた。何をしても嫌わない相手みたいに」
胸が痛んだ。
否定したいのに、できない。
「そんなつもりじゃ」
「つもりじゃなくても、そうなることはある」
カヲル君の声は静かだった。
責めてはいない。ただ、逃がしてもくれない。
「僕も同じだよ」
彼は続ける。
「君にあんな言い方をすれば、僕はずいぶん安全な場所にいられた。返事がなくても、傷つかなくても済む場所に」
それは、隔離室で聞いた言い直しに少し似ていた。
でも今はもっと、僕の前に置かれている。
「一つの整った音だけでは、歌にならない」
音楽室で聞いた言葉が、今度は別の重さで響く。
「君が戻るなら、ぶつかる音も外した音もある方へ戻るしかない。僕も、レイも、ミサトも、アスカも、君の都合どおりには鳴らない」
「……分かってる」
「本当に?」
そこで初めて、カヲル君は少しだけ目を細めた。
「分かっていて、それでも戻るの?」
怖かった。
怖いけれど、ここで黙るとまた前と同じになる気がした。
「戻るよ」
喉が詰まる。
「君を、許してくれる誰かの代表みたいにしないためにも」
カヲル君は一瞬だけ目を見開いて、それからひどく静かに笑った。
「うん。それなら、たぶん大丈夫だ」
彼はそれ以上近づいてこない。
手も伸ばさない。ただ、その距離のまま残る。
その距離のままいる方が、今はずっと本当だった。
白い世界の向こうから、アスカの声がした。
「あんたさ」
振り向く。腕を組んだアスカが立っている。怒っている。傷ついている。寂しがっている。全部が同時にそこにあった。
「それでも、あたしを選ぶの?」
その問いは残酷だった。
優しい誰かでも、都合のいい誰かでもなく、目の前で僕を拒絶しうる一人の他人を選べるのかと問われていた。
「……選ぶ」
自分で言ってから、少しだけ言い直したくなる。
言い切れるほどすっきりした話じゃない。救われたい気持ちも、独りになりたくない気持ちも、たぶんまだ混ざっている。
それでも、他にもっと正しい言葉が見つからなかった。
「どういう意味で」
アスカがすぐに返す。
逃がさないための問いだ。
「分からない」
「は?」
「でも、家で一番うるさい同居人としても」
声が掠れる。
「学校で、気づくと目で追ってしまう相手としても。戦う時に、背中を預けたい相手としても。喧嘩するとすごく面倒なのに、いなくなると困る相手としても」
アスカは黙っている。
黙っているから、止まれなかった。
「時々、どうしようもなく女の子に見えて、困る相手としても」
そこまで言って、頬が熱くなる。
格好悪い。遅い。今さらだ。
「どれか一つじゃなくて、君がいい」
白い世界が、ひどく静かになった。
「欲張り」
アスカが小さく言う。
「知ってる」
「自分が何言ってるか分かってる?」
「半分くらいしか」
「最悪」
でも、その“最悪”は完全な拒絶じゃなかった。
「怖いよ」
僕は続けた。
「嫌われるのも、うまく言えないのも、全部怖い」
「知ってる」
「でも、嫌われないために何も言わないでいたら、結局また君を、寂しい時だけ縋る相手にしてしまう。都合のいい逃げ場みたいに」
アスカは目を細めた。
「やっとそこ?」
「遅い?」
「馬鹿みたいに遅い」
それでも声の角は、少し丸い。
「寂しい時の逃げ場にされるの、真っ平だもの」
「あたしだって怖かったわよ」
アスカは前を向いたまま続ける。
「一人なのが怖いから、誰より上に立ちたかった。勝ってれば捨てられないと思ってた。でもそんなの、全然違った」
否定はできなかった。
「だから、あんたが怖いのも分かる。でも分かるからって、許すとは限らない」
僕は黙って頷いた。
「それでも戻りたいの?」
喉が詰まっても、答えは変わらなかった。
痛い場所へ。壊れた世界へ。境目のある場所へ。好きだと言っても拒まれるかもしれない場所へ。
それでも戻りたいと思った。
白が剥がれる。波の音が近づく。
目を開けると、空は青かった。
浜辺だ。
前にもここへ来た。今度も同じ浜辺のはずなのに、最初に感じたのは手の感覚だった。指が震えている。喉の方へ伸びそうになった手を、僕は砂へ押しつけた。
ざらつきが掌へ食い込む。
痛みがある。その痛みで、ようやく自分がここにいると分かる。
少し離れたところで、アスカが目を開けた。
しばらく僕を見て、それから砂に埋もれた僕の手を見た。
「……なによ、その顔」
声は掠れていた。でも、生きている声だった。
「怖いんだ」
僕は言った。逃げる前に言え、と補完の中で何度も返されたことを思い出しながら。
「君に触るのが怖い。嫌われるのが怖い。僕がまた、君を傷つけるのが怖い」
アスカは黙って聞いていた。
「でも、君が起きたのに何も言わないままでいる方が、もっと怖い」
喉が痛い。言葉が途切れそうになる。
「僕はたぶん、君のことをちゃんと見てなかった。生きてる君より、壊れた君の方を先に思い出してた。守りたいとか言いながら、今の君に何を言われるかをずっと怖がってた。寂しくなった時にだけ、君の名前を答えみたいに使おうとしてた」
アスカの睫毛がわずかに動く。
「最低ね」
否定できなかった。
「ほんっと最低」
僕は目を逸らさなかった。
「気持ち悪い」
「……うん」
痛い。でも、前ほど打ちのめされなかった。これは今のアスカが、今の僕へ言ってくれている言葉だ。そこに意味がある。
アスカはゆっくり上体を起こし、顔をしかめた。僕は反射的に手を伸ばしかけて、途中で止める。
その動きを見て、アスカが小さく鼻を鳴らした。
「なによ」
「手、貸した方がいいのか分からなくて」
「そこで止めるのも感じ悪い」
「どっちだよ」
「知らないわよ、バカ」
口調は弱いのに、ちゃんとアスカだった。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
結局、僕は手を差し出した。アスカは数秒だけその手を睨んでいたが、やがて嫌そうな顔で掴んだ。
「重い」
「そっちが寄りかかってるんだろ」
「うるさい」
二人で波打ち際に座り込む。海はまだ赤みを残している。空は高くて、風が強い。世界は元に戻ったとは言い難い。これからどうなるのかも分からない。
でも今ここで分かることが一つだけあった。
アスカが生きている。
「ねえ」
アスカが前を向いたまま言う。
「補完、見た?」
「少し」
「最悪だったわ」
僕は頷いた。
「気持ち悪かった」
喉で返事が潰れた。
「でも、あんたが思ってるよりは分かったかもしれない」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「何が」
「バカシンジが、何に怯えてるか」
「そっか」
「でも、だからって面倒見る義理はないから」
短く頷く。
「勘違いしないで」
「してない」
「ほんとに?」
「少しはしてるかも」
「正直すぎ」
弱く笑ったように見えた。
僕は膝を抱えたまま、言葉を探した。ここで好きだと言い切るのは違う気がした。今の僕の好きは、まだいろんな気持ちが混ざりすぎている。救われたい気持ちも、独りになりたくない気持ちも、全部そこへくっついている。
でも、何も言わないのもまた違う。
「アスカ」
「なによ」
「僕、たぶんまた失敗する」
「でしょうね」
「君を怒らせるし、たぶん傷つける」
「今さら」
「でも、今度は逃げないようにする。分からないなら、分からないまま今の君に聞く」
アスカは一拍置いた。
「約束できるの?」
「分からない」
「は?」
「でも、分からないままやる」
ひどく頼りない言葉だった。格好悪いし、全然決まっていない。でも今の僕には、そのくらいしか言えない。
アスカはしばらく僕を見て、それから大きく息を吐いた。
「ほんっと、あんたって中途半端」
「知ってる」
「でも、まあ」
視線を逸らしたまま、小さく続ける。
「何も言わないよりは、マシ」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
アスカの手が、砂の上でわずかに動く。迷ってから、僕はその近くに自分の手を置いた。触れない。触れないけれど、遠くもしない。
それを見て、アスカが小さく鼻を鳴らす。
「なによ、その距離」
「分からなくて」
「バカ」
そう言って、アスカは指先だけを少しこちらへ寄せた。小指が触れる。ほんのわずかな接触だった。
それだけなのに、世界の輪郭が少しだけ戻った気がした。