【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾六話 まごころを、君に

補完の中では、境目がなかった。

 

 海と空の境目も、自分と他人の境目も曖昧で、思い出そうとした相手より先に別の匂いや声が入り込んでくる。アスカを考えたはずなのに、次の瞬間にはミサトさんの台所の匂いがして、綾波の白い手が重なり、父さんの背中がそこに立つ。

 

 そこでは、言い損ねても困らない。

 聞き返さなくても、何となく通じたことになってしまう。

 失う前から失った形を想像して怯えなくていい。

 

 ほんの一瞬、楽だと思った。

 

 でも、すぐに気持ち悪くなった。

 誰に会いたいのか、誰に怒ってほしいのか、誰にごめんと言いたいのか。その「誰に」が薄くなるからだ。優しいのに、誰にもちゃんと触れていない。

 

 補完がくれたのは、たぶん完全な理解じゃない。

 言い直しも、待つ時間も、気まずさもいらない世界だ。

 けれど僕が欲しかったのは、そんな白くて薄い楽さじゃなかった。

 

 皿が鳴ること。

 荷物の重さが偏ること。

 誰のコップか、どの席が誰の場所かを、毎日少し面倒くさく確かめ直すこと。

 そういう摩擦があるから、相手が今ここにいると分かる。

 

 好きだという言葉も、たぶん同じだ。

 誰でもいい慰めじゃなく、この人に届かなければ困ると限定すること。その分だけ、傷つくし、責任も増える。けれど、その不利さを引き受けない感情は、どこまで行っても「誰にでも向く優しさ」のままだ。

 

 父さんは、たぶん別の仕方で名前を使っていた。

 第3の少年。初号機パイロット。適格者。札としての名前だ。僕もずっと、そういう札でいれば嫌われずに済む気がしていた。

 

 でも、戻りたいのは札の世界じゃない。

 アスカがアスカのまま怒り、綾波が今の綾波として黙り、ミサトさんが命令じゃなく約束の言葉を使う世界だ。分かり損ねるたび少し傷ついて、それでも明日の朝にはまた同じ台所や教室へ戻る世界。

 

 だから、ここへ沈んだままは嫌だった。

 

最初に現れたのは電車の中だった。

 向かい合うシート。夕方の光。窓の外は真っ白で、どこにも続いていない。

 

 アスカが座っている。足を組み、肘を窓枠へ預け、こちらを見もしない。

 

「あんた、あたしを好きなんじゃないわよ」

 

 いきなりそう言う。

 

「好きだよ」

 

「嘘」

 

 即答だった。

 

「あんたが好きなのは、自分を見捨てない誰かでしょ」

 

 反論できなかった。

 

「ミサトに甘えて、綾波に救われて、カヲルに許されて、それで足りないから今度はあたし?」

 

「そんなつもりじゃ」

 

「つもりの話してない」

 

 補完の中のアスカは、現実のアスカよりずっと容赦がない。あるいは、現実でもずっとそうだったのかもしれない。僕がそこまで近づく勇気を持てなかっただけで。

 

 電車が消える。次は教室だった。明るい窓。チャイム。トウジとケンスケが騒ぎ、委員長が怒り、綾波が普通の制服を着ている。加持さんまで窓の外から手を振っていて、父さんが職員室の前に立っている。誰も死んでいない。誰も壊れていない。

 

 簡単な世界だった。頑張らなくても居場所があって、エヴァも使徒も要らない、都合のいい世界。

 

 一瞬、いいと思った。

 

 教室の後ろの棚には見張り表も地図もなかった。紙コップは使っても減らず、当番表の空欄は誰かが勝手に埋めてくれる。ミサトさんの台所では鍋が自然に温かくなり、買い物袋は最初から二つの重さが揃っている。定期も学生証も落ちない。ラジオはいつも雑音ひとつなく入る。そんな世界だった。

 

 便利だった。便利すぎた。

 

 誰も「持ちすぎ」と言わない。誰も「そこは空けておきなさい」と止めない。席は最初からきちんと並び、戻ってくる人のために隙間を残す必要もない。明日の荷物を二つに分ける手間もない。だって、そもそも重さがないからだ。

 

 僕は教卓の前で立ち止まった。黒板の端には白いチョークで《今日も平和》とだけ書かれている。ヒカリは笑っていて、アスカは怒らない。綾波は何も困らない。カヲル君は最初から許している。父さんまで僕の肩へ手を置く。

 

 委員長が出席簿みたいな紙を持っていた。けれど、それは出席簿ではなかった。全員の名前が最初から揃っていて、欠席欄も、行き先の欄も、戻ってくる人のための余白もない。

 

「今日は記録、要らないの」

 

 委員長が笑う。

 

「みんないるもの。誰がどこへ行ったか書かなくていいし、席を一つ空けておく必要もないでしょ」

 

 その言い方に、背中が冷えた。

 ここではたしかに誰も失われない。けれど同時に、誰かが帰ってくるのを待つ時間もない。名前はあるのに、そこへ戻ってくる感じがない。ただ“全員いる”っていう答えだけが先にあって、そこへ辿り着くまでの面倒が丸ごと消えていた。

 

 そんなもの、いくらでも欲しかったはずなのに、目の前へ出されると息が詰まった。

 

 ここでは誰も他人の都合に引っかからない。失敗しても皿は鳴らず、忘れ物をしても誰も困らず、待っているあいだに紙コップの数を数える必要もない。つまり、誰かと生きるための面倒が最初から全部抜き取られている。

 

 それは優しいのではなく、薄かった。

 

 アスカが怒らない世界は、アスカが僕を見ていない世界だ。

 委員長が席を空けない世界は、誰も戻ってこなくても困らない世界だ。

 ミサトさんが鍋を焦がさない世界は、疲れて帰ってくる夜そのものがない世界だ。

 

 違う。

 

 僕が欲しかったのは、失敗しない世界じゃない。失敗したあとで、鍋の火を弱めたり、荷物を半分に分けたり、席を一つ残したりできる世界だ。

 

 面倒で、気まずくて、でも明日の持ち物を考えなくてはいけない世界だった。

 

 でも、その世界のアスカは僕に何も求めていなかった。怒りも、嫉妬も、寂しさもない。こっちを見て笑うだけだ。その笑顔は薄くて、触った瞬間に破れそうだった。

 

 違う。

 僕が会いたかったのは、そんな紙みたいな誰かじゃない。

 

 場面がまた切り替わる。病室。白いベッド。眠ったままのアスカ。前の世界の病室と、今回の世界の病室が重なって、何枚もの白いシーツが積み上がっているみたいだ。

 

 その脇に座る僕へ、綾波が訊く。

 

「碇君は、何が欲しいの?」

 

 難しい問いだった。

 好かれたい。許されたい。見捨てられたくない。そんな答えならいくらでも出る。でも、それは全部自分に向いた欲求だ。

 

 アスカに対して欲しいものは、たぶんもっとくだらない。

 

 朝の洗面所で、ノブに掛けたヘアゴムを取りながら文句を言う声。

 台所で、まずい缶ビールを一口飲んで顔をしかめる顔。

 音楽室で、夕焼けを見ながら「もったいなかったわね」と言う横顔。

 そういう、役に立たないのに何度でも思い出してしまう時間が欲しい。

 

「……起きてほしい」

 

 声が震えた。

 

「怒ってほしい。嫌だって言ってほしい。勝手に分かった顔をするなって、ちゃんと今の声で言ってほしい」

 

 綾波は首をわずかに傾げた。

 

「どうして?」

 

「その方が、本当だから」

 

「本当は痛い」

 

 僕は頷いた。

 

「痛いのに、欲しいの?」

 

「欲しい」

 

 答えた瞬間、病室の白さがひび割れた。

 

 そこへ父さんの背中が現れる。司令室の椅子。手を組む癖。振り向かないまま落ちる声。

 

「お前は何を望む」

 

「分からない」

 

「分からないまま、また同じことをするのか」

 

「そうかもしれない」

 

「それでいいのか」

 

「良くないよ」

 

 思わず叫んでいた。

 

「良くない。でも分からないんだよ。誰かといたい。嫌われたくない。近づくと壊れる気がする。どうしたらいいのか分からない」

 

 司令室の壁が歪む。

 

「子どもだな」

 

 父さんは振り向かないまま言った。

 

 腹が立つのに、その通りでもあった。僕は子どもだ。誰かの人生を諭せるほど大人じゃないし、自分の感情だってまだうまく扱えない。

 

 なのに世界だけは、いつも大人の決断みたいなものを要求してくる。

 

「だから管理が要る」

 

 父さんは続けた。

 

「人は分類し、配置し、索引を振って初めて運用できる。名はそのためにある」

 

 その言い方で、胸の奥が一気に冷えた。

 第3の少年。初号機。適格者。予備。父さんの言い方では、たしかにずっとそうだった。名前は呼びかけじゃなく、引き出しの札みたいなものだった。

 

「違う」

 

 喉が痛い。

 

「名前は、呼んで、ちゃんとその人が振り向くためにあるんだ」

 

「返事など不確定要素だ」

 

「そうやって父さんは、都合の悪いものを全部切り捨ててきた」

 

 言いながら、自分の声が震えているのが分かった。

 

「第3の少年って呼べば、碇シンジが何を怖がってるか考えなくていい。綾波を器って呼べば、あの子が今どうしたいか聞かなくていい。アスカを適格者って呼べば、傷ついた一人の女の子だって忘れられる」

 

 父さんは黙っている。

 

「父さんを許せない」

 

 自分でも唐突だった。でも、口にした瞬間、それが嘘じゃないと分かった。

 

「そうか」

 

「うん。でも、許せないまま父さんと同じことをするのも嫌なんだ」

 

「同じこと?」

 

「必要だって言って、他人の痛みを見ないふりすること。会いたい相手一人のために、他の人を道具にすること」

 

 少しの沈黙。

 

「ユイへ会うことの何が悪い」

 

 初めて、父さんの声が少しだけ人間の熱を持った。

 

「悪いよ」

 

 僕はすぐに返した。

 

「母さんのことしか見なくなったら、他の人はみんな通り道になる。父さんは僕たちを、そういうふうに使った」

 

「甘いな」

 

 父さんはあっさり言った。

 

「甘いよ」

 

 僕もすぐ返した。

 

「でも、甘くない顔で人を選別する方が、僕はもっと嫌だ。僕が戻りたいのは、誰が今どこにいるかを、番号じゃなく名前で書き直せる世界だ」

 

 ミサトさんが現れた。最後の通路の、あの時の顔だ。

 

「大人になれ、とは言わない」

 

「なれるわけない」

 

「そうね」

 

 ミサトさんはかすかに笑った。

 

「でも、選びなさい」

 

「何を」

 

「痛くない幻より、痛い現実を」

 

 簡単に言うなと思う。でも、その簡単さがこの人の強さでもあった。大人はずるい。ずるいくせに、そういう時だけ本当に必要なことを言う。

 

「碇君」

 

 そこで、もう一つ声が重なった。

 綾波だった。白い病室の方からではなく、ひび割れた境目そのものから滲むみたいに現れる。

 

「私は、あなたが傷つかないための答えにはならない」

 

 赤い目が、真っ直ぐこっちを見る。

 

「あなたが選ぶことをやめたら、私もまた誰かの都合へ戻る。器とか、代わりとか、そういう名前のない方へ」

 

「綾波……」

 

「私はもう、そこへ戻りたくない」

 

 慰める声じゃない。

 自分の側の意志を守るための、静かな言い方だった。

 

「あなたが名前で呼んだ分だけ、私はもう前と同じじゃない」

 

「……うん」

 

「だから、やめないで」

 

「私も、私をやめない」

 

 そこで、どこかの音楽室みたいな単音が鳴った。

 

 振り向くと、カヲル君がいた。

 白いホームの端。夕方とも夜明けともつかない光の中で、前みたいに出来すぎた笑い方はしていない。

 

「君に会いに来た、というより」

 

 カヲル君は少し目を伏せた。

 

「君が僕のところへ逃げてこないか、見に来たのかもしれない」

 

「逃げる?」

 

「僕は君に好きだと言っただろう」

 

「……うん」

 

「だから君は、僕を握りしめたままにもできた。何をしても嫌わない相手みたいに」

 

 胸が痛んだ。

 否定したいのに、できない。

 

「そんなつもりじゃ」

 

「つもりじゃなくても、そうなることはある」

 

 カヲル君の声は静かだった。

 責めてはいない。ただ、逃がしてもくれない。

 

「僕も同じだよ」

 

 彼は続ける。

 

「君にあんな言い方をすれば、僕はずいぶん安全な場所にいられた。返事がなくても、傷つかなくても済む場所に」

 

 それは、隔離室で聞いた言い直しに少し似ていた。

 でも今はもっと、僕の前に置かれている。

 

「一つの整った音だけでは、歌にならない」

 

 音楽室で聞いた言葉が、今度は別の重さで響く。

 

「君が戻るなら、ぶつかる音も外した音もある方へ戻るしかない。僕も、レイも、ミサトも、アスカも、君の都合どおりには鳴らない」

 

「……分かってる」

 

「本当に?」

 

 そこで初めて、カヲル君は少しだけ目を細めた。

 

「分かっていて、それでも戻るの?」

 

 怖かった。

 怖いけれど、ここで黙るとまた前と同じになる気がした。

 

「戻るよ」

 

 喉が詰まる。

 

「君を、許してくれる誰かの代表みたいにしないためにも」

 

 カヲル君は一瞬だけ目を見開いて、それからひどく静かに笑った。

 

「うん。それなら、たぶん大丈夫だ」

 

 彼はそれ以上近づいてこない。

 手も伸ばさない。ただ、その距離のまま残る。

 

 その距離のままいる方が、今はずっと本当だった。

 

 白い世界の向こうから、アスカの声がした。

 

「あんたさ」

 

 振り向く。腕を組んだアスカが立っている。怒っている。傷ついている。寂しがっている。全部が同時にそこにあった。

 

「それでも、あたしを選ぶの?」

 

 その問いは残酷だった。

 優しい誰かでも、都合のいい誰かでもなく、目の前で僕を拒絶しうる一人の他人を選べるのかと問われていた。

 

「……選ぶ」

 

 自分で言ってから、少しだけ言い直したくなる。

 言い切れるほどすっきりした話じゃない。救われたい気持ちも、独りになりたくない気持ちも、たぶんまだ混ざっている。

 それでも、他にもっと正しい言葉が見つからなかった。

 

「どういう意味で」

 

 アスカがすぐに返す。

 逃がさないための問いだ。

 

「分からない」

 

「は?」

 

「でも、家で一番うるさい同居人としても」

 

 声が掠れる。

 

「学校で、気づくと目で追ってしまう相手としても。戦う時に、背中を預けたい相手としても。喧嘩するとすごく面倒なのに、いなくなると困る相手としても」

 

 アスカは黙っている。

 黙っているから、止まれなかった。

 

「時々、どうしようもなく女の子に見えて、困る相手としても」

 

 そこまで言って、頬が熱くなる。

 格好悪い。遅い。今さらだ。

 

「どれか一つじゃなくて、君がいい」

 

 白い世界が、ひどく静かになった。

 

「欲張り」

 

 アスカが小さく言う。

 

「知ってる」

 

「自分が何言ってるか分かってる?」

 

「半分くらいしか」

 

「最悪」

 

 でも、その“最悪”は完全な拒絶じゃなかった。

 

「怖いよ」

 

 僕は続けた。

 

「嫌われるのも、うまく言えないのも、全部怖い」

 

「知ってる」

 

「でも、嫌われないために何も言わないでいたら、結局また君を、寂しい時だけ縋る相手にしてしまう。都合のいい逃げ場みたいに」

 

 アスカは目を細めた。

 

「やっとそこ?」

 

「遅い?」

 

「馬鹿みたいに遅い」

 

 それでも声の角は、少し丸い。

 

「寂しい時の逃げ場にされるの、真っ平だもの」

 

「あたしだって怖かったわよ」

 

 アスカは前を向いたまま続ける。

 

「一人なのが怖いから、誰より上に立ちたかった。勝ってれば捨てられないと思ってた。でもそんなの、全然違った」

 

 否定はできなかった。

 

「だから、あんたが怖いのも分かる。でも分かるからって、許すとは限らない」

 

 僕は黙って頷いた。

 

「それでも戻りたいの?」

 

 喉が詰まっても、答えは変わらなかった。

 

 痛い場所へ。壊れた世界へ。境目のある場所へ。好きだと言っても拒まれるかもしれない場所へ。

 

 それでも戻りたいと思った。

 

 白が剥がれる。波の音が近づく。

 

 目を開けると、空は青かった。

 

 浜辺だ。

 前にもここへ来た。今度も同じ浜辺のはずなのに、最初に感じたのは手の感覚だった。指が震えている。喉の方へ伸びそうになった手を、僕は砂へ押しつけた。

 

 ざらつきが掌へ食い込む。

 痛みがある。その痛みで、ようやく自分がここにいると分かる。

 

 少し離れたところで、アスカが目を開けた。

 

 しばらく僕を見て、それから砂に埋もれた僕の手を見た。

 

「……なによ、その顔」

 

 声は掠れていた。でも、生きている声だった。

 

「怖いんだ」

 

 僕は言った。逃げる前に言え、と補完の中で何度も返されたことを思い出しながら。

 

「君に触るのが怖い。嫌われるのが怖い。僕がまた、君を傷つけるのが怖い」

 

 アスカは黙って聞いていた。

 

「でも、君が起きたのに何も言わないままでいる方が、もっと怖い」

 

 喉が痛い。言葉が途切れそうになる。

 

「僕はたぶん、君のことをちゃんと見てなかった。生きてる君より、壊れた君の方を先に思い出してた。守りたいとか言いながら、今の君に何を言われるかをずっと怖がってた。寂しくなった時にだけ、君の名前を答えみたいに使おうとしてた」

 

 アスカの睫毛がわずかに動く。

 

「最低ね」

 

 否定できなかった。

 

「ほんっと最低」

 

 僕は目を逸らさなかった。

 

「気持ち悪い」

 

「……うん」

 

 痛い。でも、前ほど打ちのめされなかった。これは今のアスカが、今の僕へ言ってくれている言葉だ。そこに意味がある。

 

 アスカはゆっくり上体を起こし、顔をしかめた。僕は反射的に手を伸ばしかけて、途中で止める。

 

 その動きを見て、アスカが小さく鼻を鳴らした。

 

「なによ」

 

「手、貸した方がいいのか分からなくて」

 

「そこで止めるのも感じ悪い」

 

「どっちだよ」

 

「知らないわよ、バカ」

 

 口調は弱いのに、ちゃんとアスカだった。

 そのことが、どうしようもなく嬉しい。

 

 結局、僕は手を差し出した。アスカは数秒だけその手を睨んでいたが、やがて嫌そうな顔で掴んだ。

 

「重い」

 

「そっちが寄りかかってるんだろ」

 

「うるさい」

 

 二人で波打ち際に座り込む。海はまだ赤みを残している。空は高くて、風が強い。世界は元に戻ったとは言い難い。これからどうなるのかも分からない。

 

 でも今ここで分かることが一つだけあった。

 アスカが生きている。

 

「ねえ」

 

 アスカが前を向いたまま言う。

 

「補完、見た?」

 

「少し」

 

「最悪だったわ」

 

 僕は頷いた。

 

「気持ち悪かった」

 

 喉で返事が潰れた。

 

「でも、あんたが思ってるよりは分かったかもしれない」

 

 その言葉に、僕は顔を上げた。

 

「何が」

 

「バカシンジが、何に怯えてるか」

 

「そっか」

 

「でも、だからって面倒見る義理はないから」

 

 短く頷く。

 

「勘違いしないで」

 

「してない」

 

「ほんとに?」

 

「少しはしてるかも」

 

「正直すぎ」

 

 弱く笑ったように見えた。

 

 僕は膝を抱えたまま、言葉を探した。ここで好きだと言い切るのは違う気がした。今の僕の好きは、まだいろんな気持ちが混ざりすぎている。救われたい気持ちも、独りになりたくない気持ちも、全部そこへくっついている。

 

 でも、何も言わないのもまた違う。

 

「アスカ」

 

「なによ」

 

「僕、たぶんまた失敗する」

 

「でしょうね」

 

「君を怒らせるし、たぶん傷つける」

 

「今さら」

 

「でも、今度は逃げないようにする。分からないなら、分からないまま今の君に聞く」

 

 アスカは一拍置いた。

 

「約束できるの?」

 

「分からない」

 

「は?」

 

「でも、分からないままやる」

 

 ひどく頼りない言葉だった。格好悪いし、全然決まっていない。でも今の僕には、そのくらいしか言えない。

 

 アスカはしばらく僕を見て、それから大きく息を吐いた。

 

「ほんっと、あんたって中途半端」

 

「知ってる」

 

「でも、まあ」

 

 視線を逸らしたまま、小さく続ける。

 

「何も言わないよりは、マシ」

 

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。

 

 アスカの手が、砂の上でわずかに動く。迷ってから、僕はその近くに自分の手を置いた。触れない。触れないけれど、遠くもしない。

 

 それを見て、アスカが小さく鼻を鳴らす。

 

「なによ、その距離」

 

「分からなくて」

 

「バカ」

 

 そう言って、アスカは指先だけを少しこちらへ寄せた。小指が触れる。ほんのわずかな接触だった。

 

 それだけなのに、世界の輪郭が少しだけ戻った気がした。

 

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