【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

35 / 41
終章
第弐拾七話 砂の温度


第一節 砂の温度

 

日が傾き始めても、僕たちはしばらくそのままだった。

 

 波が寄せて、返す。

 

 空は青いまま少しずつ色を変え、海は赤みを残しながら鈍い光を返している。世界が本当に戻ったのか、戻りきっていないのか、正直よく分からない。

 

 分かるのは、砂がまだ温かいことと、アスカが隣で息をしていることだけだ。

 

 それだけなのに、そこから先へ動くのが妙に難しかった。

 

 補完の海は、何も返さなかった。

 境目を呑みこんで、全部を同じ白さへ薄めるだけだった。けれど目の前の海は違う。寄せて、返して、僕たちの足首の形だけを砂へ残しては引いていく。戻らないものと、戻ってくるものがあることを、波だけが静かに教えていた。

 

「ねえ」

 

 先に口を開いたのはアスカだった。

 

「いつまでそうしてる気?」

 

「そうしてるって」

 

「その、世界で一番可哀想なのは僕ですみたいな顔」

 

「してないよ」

 

「してる」

 

 即答だった。

 

 僕はいったん口をつぐむ。

 

 しているのかもしれない。少なくとも、何をどう動けばいいのか分からず固まっているのは本当だ。

 

「立てる?」

 

「誰に言ってんのよ」

 

 アスカはそう言って自分で立ち上がろうとしたけれど、途中で顔をしかめた。脚がまだ震えている。そりゃそうだ。あれだけ戦って、あれだけ壊れて、砂浜で目が覚めたのだ。すぐ普通に歩ける方がどうかしている。

 

 僕は反射で手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 

 アスカがその動きを見て、露骨に眉を寄せる。

 

「なによ」

 

「手、貸した方がいいのか分からなくて」

 

「聞きなさいよ」

 

「じゃあ、貸そうか」

 

「遅い」

 

 それでもアスカは手を出した。

 

 掴む。細い。軽い。生きている体の重さだ。

 

 引き上げると、アスカは一度だけよろけて、そのまま僕の肩を掴んだ。

 

「重い」

 

「そっちが寄りかかってるんだろ」

 

「うるさい」

 

 そう言いながらも、すぐには離れない。

 

 僕も何も言わないまま、そのまま立っていた。

 

 世界の終わりのあとで、誰かの体重を肩で感じるなんて、前の僕なら想像もしなかった。想像していたとしても、もっとましな場面にしていただろう。

 

 現実はそうじゃない。

 

 アスカは汗と砂と血の匂いが少し混ざっていて、僕だってたぶん同じくらいひどい。おまけに二人とも疲れすぎて、ロマンチックみたいな言葉はこの場にまるで似合わない。

 

 でも、だからこそ現実だった。

 

「とりあえず」

 

 アスカが言う。

 

「水と、寝る場所」

 

「うん」

 

「ぼさっとしてると日が落ちる」

 

「うん」

 

「返事だけじゃなく動け」

 

「分かってる」

 

 浜辺から上へ向かう。砂地からアスファルトへ上がるだけで、やけに遠い。足元がふらつくたび、アスカの爪が肩に少し食い込む。

 

 痛い。でも、その痛みまで含めてありがたかった。

 

「ねえ」

 

 またアスカが言う。

 

「なに」

 

「さっきのこと」

 

 どれ、と聞くほど鈍くはない。

 僕は一度だけ唾を飲み込んだ。

 

「……喉」

 

 アスカは顔をしかめた。怒っているのか、まだ痛むのか、その両方か。

 

「次やったら、本気で折る」

 

「うん」

 

「でも」

 

 そこで少しだけ声が変わる。

 

「黙って消える方が、たぶんもっとむかつく」

 

 僕は彼女を見た。

 アスカはこっちを見ない。

 

「触るなら聞く。離れるなら言う。勝手に一人で決めるな」

 

「分かった」

 

「あと、あたしを最後の一人みたいな顔で見るな」

 

 胸の奥が少しだけ痛む。

 

「今のあたし見なさいよ」

 

 汗と砂と血と、ひどい顔のまま立っている。綺麗じゃない。弱っている。でも、確かに今ここで怒っている。

 

「見てる」

 

「足りない」

 

「……ちゃんと見る」

 

 アスカはそこでようやく僕の方を見た。

 目の縁はまだ赤い。でも、その赤さごとまっすぐだった。

 

「ならいい」

 

 それだけ言って、また歩き出す。

 僕も一歩遅れてついていく。さっきより少しだけ、肩にかかる重さの意味が分かる気がした。

 

 道路に出ると、世界は本当に壊れていた。

 

 交差点の先には、何の機体のものか分からない白い装甲片が突き刺さっていた。敵のEVAの残骸か、弐号機を裂いた槍の欠片か、あるいは初号機の拘束具の破片かもしれない。アスファルトには十字に焼けた跡が残り、雨が乾いたあとの塩みたいな白さが薄くこびりついている。使徒はもういないはずなのに、戦場だけが街から先に消えきっていなかった。

 

 前にも壊れた街は見た。でも今回の壊れ方は少し違う。爆撃で瓦礫になったというより、一度全部“白く薄められてから”、そこへ無理やり現実を流し戻したみたいな壊れ方だ。

 

 塗装が剥げている建物。窓のないマンション。傾いた電柱。何も映さない信号機。どれも見慣れたはずの街なのに、輪郭が少しだけ曖昧だった。

 

 海だけは、補完の中で見たものと決定的に違っていた。あの白い海は何も返さなかった。入れば楽になる代わりに、どこまでが自分でどこからが他人かを確かめなくて済む場所だった。

 

 今、耳の裏で鳴っている海は違う。波の高さも、冷たさも、返り方も毎回少しずつ違う。同じ朝はもう来ない。でも、前の波が残した跡も完全には消えない。

 

 たぶん現実って、こういうものだ。前と同じ形には戻らないまま、次の一歩を要求してくる。僕たちも補完の前の形には戻らない。それでも歩くしかない。

 

「……最悪」

 

 アスカが小さく呟く。

 

「うん」

 

「何その返事」

 

「最悪だと思ったから」

 

「それは聞けば分かる」

 

 怒られても、前ほどこたえなかった。

 

 たぶん今は、お互いに“世界が終わったかもしれない”という前提があるからだ。多少感じ悪くても、多少口が悪くても、それだけで関係が壊れるほどの段階じゃない。

 

 ある意味、やっと同じ地面に立てたのかもしれないと思うと、やっぱりそれは少し気持ち悪かった。

 

 コンビニだった建物を見つけて入る。ガラスは割れ、棚は倒れ、食品のほとんどは駄目になっていた。それでも、奥の倉庫に残っていたペットボトルの水と乾パンは無事だった。

 

「一応、当たりだな」

 

 僕が言うと、アスカがしゃがみこんだまま答えた。

 

「こんな時にまで引き当て運だけはあるのね」

 

「褒めてる?」

 

「違う」

 

 乾パンの袋を開ける。口の中の水分が一気に奪われる感じがする。アスカはひとつ齧って、ものすごく嫌そうな顔をした。

 

「まずい」

 

「分かる」

 

「よく平気ね」

 

「平気じゃないよ」

 

 でも、まずいと言いながら食べられること自体が少しありがたかった。

 

 生き延びるというのは、たぶんこういうくだらない手触りの積み重ねだ。美味しくないものを食べる。ぬるい水を飲む。眠る場所を探す。そうやって一日ずつやり過ごす。

 

 誰かに好きだと言われることでも、世界の真実を知ることでもない。

 

 もっと小さくて、もっと面倒くさい。

 

 それを、今までの僕はどこか軽く見ていた。

 

「ねえ」

 

 アスカが水を飲みながら言う。

 

「他に誰か戻ってると思う?」

 

 その問いに、僕は少し時間がかかった。

 

「いてほしいと思う」

 

「質問に答えなさいよ」

 

「分からない」

 

「……そう」

 

 アスカはそれ以上責めなかった。

 

 分からないものは分からないのだ。ここで変に知ったふりをしないだけ、前より少しましかもしれない。

 

「ミサトさんは」

 

 名前を口にした瞬間、胸がきしんだ。

 

 あの背中。あの最後のキス。あの笑い方。

 

 知っている。知っているのに、まだ“いるかもしれない”側へ置いてしまいたくなる。

 

「ミサトさん、戻ってるかな」

 

 言い直すみたいに、アスカが続けた。

 

「トウジも、相田も」

 

「うん」

 

「ファーストも」

 

「……うん」

 

 綾波の名を聞いた瞬間、息が止まりそうになった。

 

 僕はあの白い場所で、綾波に何度も助けられた気がする。気がするだけで、本当に何が起こっていたのか全部は分からない。でも彼女がいなかったら、今ここでアスカの隣に立っていないことだけは分かる。

 

 だから戻っていてほしい。

 

 でも、戻ってきた綾波を“前の綾波”と比べてしまう自分もまだ残っている。

 

 やっぱり最低だ。

 

「……戻ってるといい」

 

 それだけ答えると、アスカはじっと僕を見た。

 

「何」

 

「いや」

 

「何よ」

 

「その言い方、前よりちょっとだけマシ」

 

「前って」

 

「前は、戻ってる“はず”とか言いそうだった」

 

 図星だった。

 

 僕は目を逸らした。

 

「知った顔してるの、ほんと感じ悪いもの」

 

「ごめ――」

 

「それは言うな」

 

「……うん」

 

 日が落ちる前に、近くの高台にある展望施設の残骸みたいな場所へ移動した。壁は半分崩れていたけれど、屋根はまだ残っている。中には古い避難物資の箱がいくつか置かれていた。毛布。懐中電灯。簡易ラジオ。乾きかけた救急セット。

 

 どれも誰かが用意した生存の名残だった。

 

 世界が終わる時まで、人は“明日”の準備をしていたのだと思うと、少しだけ胸が詰まった。

 

「ここでいい」

 

 アスカが言う。

 

「夜は冷えるし、もう動きたくない」

 

「分かった」

 

「寝る場所、そっちとこっち」

 

「うん」

 

「勝手に近づかない」

 

「近づかない」

 

「寝ぼけても駄目」

 

「……善処します」

 

「善処じゃない」

 

「分かりました」

 

 こういうやり取りができるのは、たぶんありがたいことだ。

 

 アスカが境界線を言葉にする。僕がそれを聞く。たったそれだけのことが、前の僕たちには全然できていなかった。

 

 毛布を広げ、少しだけ離れて座る。

 

 ラジオをつけても雑音しか入らない。懐中電灯の灯りは頼りない。夜風が入るたび、壊れた窓枠が軋む。

 

 沈黙が落ちた。

 

 前なら、こういう沈黙に耐えきれなくなっていたと思う。何か言わなきゃ、相手を退屈させている、嫌われる、そうやって勝手に焦っていた。

 

 今は違う。

 

 沈黙の方がましな時もあると、ようやく知った。

 

「ねえ」

 

 暗くなってから、アスカが言った。

 

「補完の中で、あんた何見たの」

 

 心臓が少し速くなる。

 

 何を見たか。

 

 それを説明する言葉は、たぶん一つも正確じゃない。

 

「いろいろ」

 

「ざっくりしすぎ」

 

「……自分がどれだけ他人を怖がってるか、とか」

 

「今さらね」

 

 僕は頷いた。

 

「他は?」

 

「僕が、人を都合よく固定したいってこと」

 

 アスカは一拍置いた。

 

「固定?」

 

「怒る前の君とか、傷つく前の綾波とか、そういう“まだ壊れてない時の相手”だけを心の中で大事にしたがるっていうか」

 

「最悪」

 

 それは否定できなかった。

 

「ほんっと最悪」

 

「知ってる」

 

「だからそれやめろってば」

 

 怒られた。

 

 でも、その怒り方は前ほど刺さらなかった。たぶん今のアスカは、本気で僕を遠ざけたいわけじゃないからだ。遠ざけたかったら、もっと静かに切る。

 

 それを少しだけ分かれるようになった。

 

「でもさ」

 

 アスカが毛布へくるまりながら続ける。

 

「それ、あんただけじゃない」

 

「え?」

 

「あたしだってやるわよ。勝手に“こうあるべき”って形にして、違ったら腹立てる」

 

「……そうなんだ」

 

「なんで驚くのよ」

 

「いや、驚くっていうか」

 

「何」

 

「言ってくれるんだなって」

 

 アスカは少しだけむっとした。

 

「世界終わったかもしれないんだから、それくらい言うわよ」

 

 その理屈は乱暴だけど、分からなくもなかった。

 

 終わりかもしれないから言えることがある。

 

 逆に、続くかもしれないと思うとまた言えなくなることも。

 

 たぶん今の僕たちは、その境目にいる。

 

 夜中、物音で目が覚めた。

 

 反射で体が跳ねる。

 

 白い月じゃない。量産機の影でもない。ただ風で扉の残骸が鳴っただけだった。

 

 それでも全身が嫌な汗で濡れていた。

 

「……何」

 

 暗がりの向こうで、アスカの声がした。

 

「起こした?」

 

「うるさかった」

 

「ごめん」

 

「だから」

 

「……うん」

 

 小さく息を吐く音。

 

「また見たの」

 

 何を、とは聞かれなかった。

 

 その方がありがたかった。

 

「少し」

 

「そう」

 

 アスカはしばらく黙っていた。

 

「触んないでよ」

 

 びくりとする。

 

「触ってない」

 

「分かってる」

 

 暗くて表情は見えない。でも、声の棘は前ほどではなかった。

 

「でも、もし起こすなら先に声かけなさい」

 

「……うん」

 

「いきなりは嫌」

 

「分かった」

 

 また沈黙。

 

 それで終わりかと思った時、アスカがぼそっと続けた。

 

「……あたしも、海の夢見るから」

 

 その一言に、喉が詰まった。

 

 同じなのかもしれない、と簡単には思いたくない。僕が見たものとアスカが見たものは、きっと同じじゃない。でも、海が残るくらいには、あの白い場所は二人の中に爪を立てている。

 

「そっか」

 

「それだけ?」

 

「何て言えばいいか分からない」

 

「……バカ」

 

 それでも、その“バカ”は小さかった。

 

 翌朝、外は薄い灰色だった。雲が低い。海からの風は昨日より冷たい。

 

 アスカは起きるなり不機嫌そうに顔を洗い、僕は非常用の水を節約しながらインスタントスープを温めた。味は薄い。塩気ばかりが舌に残る。

 

 それでも、二人で同じものを啜るだけで少し落ち着く。

 

「今日どうする」

 

 僕が聞くと、アスカはスプーンを止めた。

 

「街を見る」

 

「うん」

 

「あと、生きてるやつが他にいないか探す」

 

「分かった」

 

「それで」

 

 アスカが僕を見る。

 

「誰かが戻ってたら、今度はあんた、ちゃんと喋りなさいよ」

 

「……何を」

 

「必要なことを」

 

 必要なこと。

 

 それが何なのか、まだ全部は分からない。でも少なくとも、黙っていれば伝わるなんてもう思っていない。

 

「うん」

 

「あと、勝手に背負わない」

 

「努力します」

 

「善処も努力も嫌い」

 

「じゃあ、やる」

 

 アスカは眉をわずかに上げた。

 

「今のは、まあ……悪くない」

 

「あと」

 

 自分でも少し驚きながら、僕は続けた。

 

「どっちかがいなくなる時は、ちゃんと言おう」

 

 アスカが眉を寄せる。

 

「何それ」

 

「勝手に消えるの、もう嫌だから」

 

 壊れた窓枠が風で小さく鳴った。

 アスカはすぐには答えず、空になった紙コップの縁を指で弾く。

 

「……あんたがそれ言う?」

 

「言う」

 

「前科持ちのくせに」

 

「だから言う」

 

 しばらくして、アスカは鼻を鳴らした。

 

「じゃあ、あたしが先に行く時は言う。あんたも言いなさい」

 

「うん」

 

「返事じゃなくて守る」

 

「守る」

 

 それでようやく、アスカは小さく頷いた。

 

 それだけで、肩の力が少し抜けた。

 

 すぐに歩き出す代わりに、僕たちは展望施設の上階へ回った。

 屋上というには低く、見張り台というには半端な、海の方だけが少し開けたコンクリートの張り出しだ。壊れかけた手すりに、錆びたアンテナの残骸が一本だけ残っている。前の世界ではただの風景だったものが、今はそのまま通信設備の材料に見えた。

 

「何」

 

 アスカが言う。

 

「ちょっと試したい」

 

 リュックの底から受信機と短い導線を出す。旧ネルフ本部で拾ったクリップ線だ。加持さんが「短波は長さと高さがものを言う」と言っていたのを思い出しながら、僕は導線の片側をアンテナの残骸へ結び、もう片側を受信機へ繋いだ。即席すぎる。でも何もしないよりはましだ。

 

 スイッチを入れる。

 最初はただの砂嵐だ。ざらざらした白い雑音が耳の中を擦る。

 

「聞こえないじゃない」

 

「まだ」

 

 ダイヤルを少しずつ回す。周波数の目盛りは半分剥げていて、正確な数字なんてあってないようなものだ。それでも短波は時々、壊れた世界の上を遠くまで滑る。海面で反射し、雲の縁をかすめ、上空の薄い電離層へ跳ね返って戻ってくる。セカンドインパクトのあとで空の組成がどれだけ変わったのか、本当のところは誰にも分からない。分からないままでも、電波だけは時々こうして届く。科学って、案外そういうものだ。全部を理解してから使うんじゃない。届く条件を少しずつ拾い集めて、先に手順へしてしまう。

 

 風が強くなる。

 アスカが僕の横へ来て、ノートを開いた。

 

「何か聞こえたら書くから、時間言って」

 

「時計、合ってないかも」

 

「それでもいい。あとでズレ分引けばいいでしょ」

 

 その言い方が妙に本職っぽくて、僕は少しだけ笑った。

 

「何よ」

 

「いや、委員長に似てきたなって」

 

「ヒカリほど几帳面じゃないわよ。あいつなら秒まで揃える」

 

 言いながら、アスカはページの上へ欄を作っていた。

 時刻。方角。聞こえた単語。人数。もうそれだけで、ただのノートが小さな通信記録になる。

 

「呼ぶなら、どう呼ぶ?」

 

 アスカが訊く。

 

「え?」

 

「いきなり“誰かいますか”じゃ雑すぎるでしょ」

 

 たしかにそうだった。

 僕は少し考えて、受信機の送信側を指で押さえた。

 

「こちら、第三中学校。生存者二名。受信可能なら応答願います」

 

「まあ普通」

 

「普通って大事なんじゃなかったっけ」

 

「今のは少し硬い」

 

 アスカはノートの余白へ短く書いた。

 《こちら第三中学校/二名/応答求む》。次にその下へ、《聞こえなければ十数えて再送》と付け足す。

 

「一回で通じると思わない方がいいの」

 

「うん」

 

「あと、応答がなくても、いないって決めない」

 

 ペン先がそこで止まる。

 

「聞こえないだけかもしれないから」

 

 僕はその文字を見たまま、少し息を止めた。

 電波の話をしているはずなのに、別のことまで言われた気がした。

 

「……そうだね」

 

「何その顔」

 

「いや」

 

 アスカは僕の手元から送信側を取り、自分でマイクへ口を寄せた。

 

「こちら第三中学校。二名。受信できる人、いたら返答」

 

 彼女の声は、通信越しだと少しだけ低く聞こえた。

 送信を切る。十まで数える。雑音。何も来ない。

 でもアスカは二度目を送る。今度は少しだけ言い方を変える。

 

「第三中学校。二名。方位は海沿い。誰かいたら、聞こえた単語だけでも返して」

 

「単語だけでも?」

 

「完全な返事じゃなくていいから。聞こえたって分かれば次があるでしょ」

 

 その発想に、胸の奥が少し温かくなった。

 僕はたぶん、今まで一回で分かり合える返答みたいなものを期待しすぎていた。届かなければ終わり、返ってこなければ拒絶。そうやって勝手に回線を切っていた。

 

 けれど本当は、通信はもっと泥臭い。

 一語だけでも拾う。意味が欠けていても時刻と方角を残す。聞き返して、言い直して、それでも届かなかったら別の高さからもう一度送る。人と人のあいだだって、そのくらい手数がいるのかもしれない。

 

 ザー、というノイズの中へ、不意に細い音が立った。

 

『……こち……ら……』

 

 僕とアスカが同時に顔を上げる。

 

『……西……』

 

 それだけだった。

 それだけなのに十分だった。方角が一つ絞れる。向こうにも手順を知っている誰かがいる。

 

「書いた」

 

 アスカが素早くメモする。

 

「時刻、今」

 

「うん」

 

 彼女の肩が風で僕の腕へ軽く当たった。

 どちらも避けない。ノートが飛ばないよう、僕は反射で端を押さえた。アスカの指がその上へ重なる。一秒くらい、二人ともそのままだった。

 

「ねえ」

 

 アスカが受信機から目を離さないまま言う。

 

「さっきの約束の話」

 

「うん」

 

「ほんとはこういうのでいいのよ」

 

「こういうの?」

 

「どっちにいるか、今どうか、次にどうするか。必要なことを、必要な順番で言うの」

 

 受信機のノイズが一瞬だけ弱まる。

 遠くの波の音まで聞こえそうになる。

 

「派手に分かり合うとかじゃなくて、呼んで、待って、返ってきたらもう一回返す。聞こえなかったら高さ変えてやり直す。それくらい手間かけて当然なの」

 

「……僕、前は一回で済ませようとしてた」

 

「知ってる」

 

 即答だった。

 

「考えただけで伝わると思ってたでしょ」

 

 その通りだった。

 僕は黙って頷く。

 

「馬鹿」

 

 でも、その“馬鹿”は前よりずっと静かだった。

 

 もう一度だけ送信してから、僕たちは配線を外した。

 応急アンテナの手応えは頼りない。けれど方角は得た。記録も残った。

 

 ノートを閉じる時、アスカが小さく言う。

 

「戻ってから、日向さんにこの書き方で伝える。ヒカリには人数と方角。あと、相田には“今度から筆圧落とせ”って言っといて」

 

「なんで」

 

「地図の裏まで書いてあるから」

 

 思わず笑いそうになる。

 笑いそうになって、ちゃんと笑った。

 

「うん」

 

「何よ」

 

「こういうの、ちょっと好きかも」

 

「通信が?」

 

「やり直せる感じが」

 

 アスカは一瞬だけ目を細め、それからノートを僕の胸へ軽く押しつけた。

 

「なら、忘れないで」

 

「忘れない」

 

 展望施設を出る頃には、風の匂いが少し変わっていた。

 海の塩気と、コンクリートの冷たさと、どこか遠くの生活の匂い。壊れた世界の上を、まだ見えない誰かの声が通っている。その事実だけで、街へ下りる足が少し軽くなった。

 

 展望施設を出て、僕たちは街の方へ歩き始めた。

 

 朝の光の中で見る壊れた街は、夜よりましだった。まし、というだけで綺麗ではない。でも、何が壊れていて何が残っているかが少し見えやすい。

 

 途中、交差点の端にタイヤの跡を見つけた。

 

 新しいものかどうかは分からない。それでもアスカはしゃがみ込み、しばらくそれを見つめた。

 

「誰かいるかも」

 

「うん」

 

「期待しすぎるなって顔しないで」

 

「してない」

 

「してる」

 

 否定しきれなかった。

 

 期待しすぎると痛い。痛いと知っているからすぐ引く。

 

 でも、引いてばかりいたら本当に何も見つからない。

 

 アスカは立ち上がり、ふんと鼻を鳴らした。

 

「行くわよ」

 

 僕は少し遅れて、その後ろを追った。

 

 同じ歩幅じゃない。まだ少し離れている。

 

 でも、その距離は昨日の浜辺よりずっとましだった。

 

 僕たちはたぶん、これからも何度も失敗する。今だって何も解決していない。ミサトさんたちが戻っているかも分からないし、世界がどこまで元に戻っているかも分からない。アスカが僕を本当に許す日なんて来ないのかもしれない。

 

 それでも。

 

 それでも、歩くしかない。

 

 立ち止まって、勝手に相手を記念碑にしてしまうよりは、ずっとましだ。

 

 風が吹く。

 

 遠くで、どこかの看板がきしむ音がした。

 

 その音に混じって、ほんの一瞬だけ、学校のチャイムみたいなものが聞こえた気がした。

 

 気のせいかもしれない。

 

 でも、気のせいでもよかった。

 

 チャイムが鳴るなら、教室があった記憶へ戻れる。戻れなくても、その方向へ歩ける。

 

 僕は前を行くアスカの背中を見た。

 

 赤はまだ、生きている色だった。

 

 その色を、今度こそ壊れる前の記念碑じゃなく、動き続ける人間の色として見たいと思った。

 

 難しいだろう。

 

 たぶん何度も失敗する。

 

 それでも、今はもうその失敗ごと引き受けるしかない。

 

 海鳴りは、背中の方でまだ小さく続いていた。

 

 けれど僕たちは、もうそちらを振り向かなかった。

 

 

 

 

第二節 帰るための地図

 

タイヤの跡は、住宅街の方へ続いていた。

 

 古い配送トラックのものみたいに見える。新しいのか古いのかまでは分からない。でも、道の上に“誰かがここを通った”という痕があるだけで、世界は少しだけ違って見えた。

 

「どうする」

 

 僕が聞くと、アスカはしゃがみ込んだまま跡を指でなぞった。

 

「追う」

 

「うん」

 

「でもその前に、拠点」

 

「拠点?」

 

「水と食べ物見つけたから終わりじゃないでしょ。夜になるたびあの展望台に戻るの?」

 

 それはたしかに嫌だった。

 

「じゃあ……ミサトさんの所、行ってみる?」

 

 口にした瞬間、胸のどこかがきしんだ。

 

 アスカは立ち上がって、少しだけ僕を見た。

 

「平気?」

 

「平気じゃない」

 

「そう」

 

「でも、行った方がいいと思う」

 

「なら行く」

 

 それだけだった。

 

 慰めも、余計な気遣いもない。ないから助かる。今の僕は、下手な優しさを向けられるとたぶん崩れる。

 

 住宅街へ向かう道は、思った以上に静かだった。

 

 曲がり角を一つ過ぎるたび、遠くに旧ネルフ本部の外郭が見え隠れする。発進口の装甲板は途中で噛み合わなくなったまま、射出台のレールには雨が黒く溜まっていた。僕たちはまだそこへ行かない。行かないけれど、エヴァが上がっていった街の骨組みだけは、歩くたび視界の端に引っかかった。

 

 遠くで海鳴りがする。風が吹くたび、信号の壊れた箱がかすかに揺れる。車は何台か放置されていたけれど、人影はない。電車も止まったままだ。街は、一度人が全部抜けたあとに、建物だけを戻されたみたいな顔をしている。

 

「気持ち悪い街」

 

 アスカが言った。

 

「うん」

 

「穏やかなわけじゃないのに、穏やかなふりしてる」

 

 その言い方が妙にしっくりきた。

 

 たしかに、そうだ。瓦礫だらけでも、燃えているわけでもない。だから一見すれば穏やかに見える。でもそこに人がいないというだけで、街は街じゃなくなる。

 

 人がいない美しさなんて、たぶん廃墟にしか似合わない。

 

 ミサトさんのマンションへ着くまでに、何度か寄り道した。スーパーだった建物。ドラッグストア。ガソリンスタンド。必要なものを少しずつ持てるだけ拾う。懐中電灯。ライター。缶詰。使えそうな薬。毛布。

 

 荷物が増えるたび、アスカは文句を言った。

 

「重い」

 

「分ける?」

 

「嫌」

 

「じゃあ僕が」

 

「それも嫌」

 

 理不尽だと思う。でも、その理不尽さが妙にいつも通りで少し安心する。

 

 マンションは傾いていなかった。外壁にひびは入っているけれど、崩落は免れている。エントランスのガラスは割れていた。オートロックも死んでいる。足元に散らばったチラシが風でわずかに動いた。

 

「入るわよ」

 

 アスカが先に行く。

 

 僕は少し遅れてその後ろを追った。

 

 エレベーターは当然止まっていた。階段を上る。足音がやけに大きく響く。前は何度も上り下りしたはずの階段なのに、今は別の建物みたいに遠かった。

 

 部屋の前まで来ると、鍵は掛かっていなかった。

 

 ドアを開けた瞬間、古い空気が流れ出してくる。

 

 ビールと洗剤と、ちょっとだけ湿った畳みたいな匂い。

 

 懐かしい、と思う前に、息が詰まった。

 

 ここだ。

 

 ここで僕は暮らしていた。笑ったり、怒られたり、アスカと喧嘩したり、ミサトさんとごはんを食べたりした。世界が終わる前の、まだどうにかなりそうだった時間の匂いが、まだわずかに残っている。

 

 窓の外へ目をやると、遠い空の下に非常用の昇降シャフトとアンビリカルケーブルの塔が細く見えた。戦っていた時は巨大すぎて景色に見えなかったものが、今はただの街の傷みたいに静かだ。その静けさが、かえってあの夜のエヴァの咆哮を思い出させた。

 

「……何してんの」

 

 アスカの声で我に返る。

 

「入らないの?」

 

「入る」

 

 靴を脱ぎかけて、やめた。

 

 もうそんな段階じゃない。

 

 玄関を抜ける。リビングは少し荒れていた。倒れた缶。ずれたクッション。棚から落ちた雑誌。けれど、戦闘で壊れたというより、急いで人が抜けた後の散らかり方だった。

 

 テーブルの上に、乾ききったメモがあった。

 

 字はミサトさんのものじゃない。もっと丸い。たぶん、ペットホテルだか友人宅だかにペンペンを預けた時の古いメモだ。内容はかすれて読めない。でも、ああそういえば、あの子は前に一度ここを離れたんだっけ、と思い出す。

 

 生きていてほしい、と思った。

 

 ペンギンにまでそんなことを思う自分はだいぶ余裕がない。

 

「シンジ」

 

「なに」

 

「冷蔵庫」

 

「うん」

 

 開ける。中身の大半は駄目だった。でも奥にミネラルウォーターと調味料、未開封のレトルト食品がいくつか残っていた。

 

 戸棚の奥には、あの頃の非常袋まで残っていた。ネルフ支給の簡易地図、予備電池、臨時通行証の古いホルダー。今はもう紙切れ同然なのに、それでもエヴァに呼び出されていた暮らしの名残としてそこにあった。

 

「当たり」

 

「うん」

 

 アスカは自分の部屋だった場所へ消えた。

 

 僕はリビングに立ったまま動けなかった。

 

 ソファ。テレビ。流し台。ミサトさんのジャケットが、椅子の背にまだ掛かっている。見た瞬間、胸のどこかがぐしゃりと潰れた。

 

 あの人は、ここに戻るつもりだったのだ。

 

 たぶん、洗いかけの食器をそのままにして出たあの日も、帰ってきて続きから暮らすつもりだった。

 

 その“つもり”だけが、部屋の形で残っている。

 

 僕は椅子の背からジャケットをそっと外した。

 

 重い。

 

 布の重さしかないはずなのに、変に重かった。

 

「……ミサトさん」

 

 言葉にした瞬間、喉が焼けた。

 

 返事がないのは当然だ。

 

 でも、その当然さがどうしようもなく嫌だった。

 

 ジャケットを抱えたまま、僕は少しだけしゃがみこんだ。泣くほどにはなれない。泣いた方がましなのかもしれない。でも涙は出ない。ただ、体の芯が空になるみたいな感じだけがある。

 

「シンジ」

 

 振り向くと、アスカが立っていた。

 

 手には自分の部屋から持ってきたらしい毛布と、古いヘアブラシと、小さなポーチ。

 

 僕の顔を見て、少しだけ眉をひそめる。

 

「座りなさいよ」

 

「え?」

 

「立ったまま倒れられると邪魔」

 

 言い方は最悪だった。でも、その最悪さがちょうどよかった。

 

 僕はソファに座った。

 

 アスカは少しだけ迷ってから、向かいじゃなく隣の端に座る。

 

「……あの人、戻ると思う?」

 

 訊いたのは僕だった。

 

 アスカはすぐには答えなかった。

 

「分かんない」

 

「うん」

 

「でも」

 

 アスカはポーチのファスナーを指でいじりながら続けた。

 

「戻ってほしいって思うのは、別におかしくない」

 

 その言葉に、胸の奥がわずかに動いた。

 

「おかしくないかな」

 

「おかしくないわよ」

 

「僕、あの人の最後を」

 

 言いかけて止まる。

 

 知っている、という言葉を今ここで全部口にしてしまうには、まだ勇気が足りなかった。

 

 アスカはそれ以上聞かなかった。

 

「最後なんて、誰だって知る時は知るでしょ」

 

 乱暴だけど、たぶんアスカなりの慰めだった。

 

 しばらくして、僕たちは部屋を調べ始めた。

 

 懐中電灯の予備。カセットコンロ。保存の利く食料。タオル。乾電池。ミサトさんの部屋からは救急箱と地図帳も出てきた。地図帳は少し前のものだけれど、主要な道路や避難施設は載っている。

 

「これ、使える」

 

 アスカが床へ地図を広げる。

 

「学校。本部。病院。あと貯水タンクのある公園」

 

「うん」

 

「誰か探すにしても、まず人が戻りそうな場所」

 

「学校かな」

 

「鈴原たちが来るなら、ね」

 

 アスカはそう言ったあと、一拍置いた。

 

 委員長の名前は出なかった。出さなかったのか、出せなかったのかは分からない。

 

 僕は地図の上に指を置いた。

 

「病院も行きたい」

 

「アスカのため?」

 

「それもあるし、薬もいるかもしれない」

 

「ふぅん」

 

 アスカは一瞬だけ僕を見た。

 

「今回のは、別に感じ悪くない」

 

「珍しい」

 

「何が」

 

「褒めてくれるの」

 

「……撤回する」

 

「遅い」

 

 そんなやり取りをしているだけで、部屋の空気が少しだけ人間のものに戻る気がした。

 

 夜は、結局リビングとアスカの部屋で分かれて寝た。

 

 寝る前に、僕はミサトさんのジャケットをソファの背へ戻した。たたんでしまうのも違う気がしたからだ。

 

 違う気がする、というだけで物を動かさないのはたぶんよくない。でも今夜だけはそうしたかった。

 

 毛布にくるまって天井を見ていると、キッチンの方で小さな物音がした。

 

「……アスカ?」

 

「水」

 

 短い返事。

 

 しばらくして、また足音。

 

 襖の前で止まる気配がする。

 

「何」

 

「何でもない」

 

「それ、何でもない声じゃない」

 

 少し間があってから、アスカが言った。

 

「ミサト、あんたのこと好きだったわよ」

 

 心臓が強く打った。

 

「……なんでそんなこと」

 

「分かるわよ、それくらい」

 

 声は小さかった。

 

「母親ぶってるとか、保護者面してるとか、そういうのじゃなくてさ。あんたが帰ってくる音に、一番最初に反応してた」

 

 僕は何も言えなかった。

 

 アスカの言い方は、どこか不器用で、だから余計に本当っぽかった。

 

「だから」

 

 アスカは襖の向こうでひとつ息を吐いた。

 

「勝手に、もう全部終わった顔しないで」

 

 それだけ言って、足音が離れていく。

 

 でも、完全には遠ざからなかった。

 

 しばらくして、また小さな足音が戻ってきて、今度はキッチンのあたりで止まる。グラスを置く音。冷蔵庫の低い唸り。水道を少しだけひねる気配。僕は毛布を押しのけて起き上がり、暗い廊下をそっと抜けた。

 

 台所の明かりは点けず、冷蔵庫の中の白い灯りだけが開いた扉から漏れている。アスカはその前に立って、ペットボトルの水を直に飲んでいた。プラグスーツじゃない、見慣れた部屋着と、裸足の足首。その当たり前の格好が、かえって胸へ来る。

 

「何」

 

 気づかれた。

 

「喉、渇いて」

 

「へえ」

 

 アスカはペットボトルを差し出し、それからすぐに引っ込めた。

 

「勝手に口つけないで。コップ使って」

 

「分かった」

 

 棚からコップを取ろうとして、一つ多く手に取ってしまう。自分で気づいた瞬間、変な汗が出た。前の癖で、つい二つ分の音を立ててしまう。

 

 アスカはその手元を見ていた。

 

「……まだ、そうなるんだ」

 

「うん」

 

 隠せなかった。

 

「コップとか、椅子とか、そういうの」

 

「知ってる」

 

 アスカは冷蔵庫の扉を閉めた。台所がまた暗くなって、窓の外の薄い街明かりだけが残る。

 

「部屋って、嫌よね」

 

 ぽつりと、彼女が言う。

 

「人がいなくても、その人がいたやり方だけ残るから」

 

 流しの横には洗ったままの箸があり、冷蔵庫の扉にはマグネットで留めたままのメモがある。ソファの背にはミサトさんのジャケット。たしかに、この部屋は空っぽのくせに、誰も消してくれない在り方だけが残っていた。

 

「片づけた方が、いいのかな」

 

 僕が言うと、アスカは少し考えた。

 

「今はまだ」

 

 そこで言葉を切る。

 

「今はまだ、そのままでいいんじゃない」

 

「そのまま?」

 

「うん。何でもかんでも正しい場所へ戻すとさ、ほんとに終わったみたいになるでしょ」

 

 僕はコップへ水を注いだ。

 飲み込むたび、冷たさが喉を落ちていく。

 

「じゃあ、ジャケットも」

 

「置いときなさいよ」

 

 アスカは言う。

 

「帰ってきたら、あの人たぶん“何勝手に洗ってんのよ”とか言うわよ」

 

 その想像が、少しだけおかしくて、少しだけ苦しかった。

 

「言いそう」

 

「でしょうね」

 

 台所の床は冷たい。アスカは流しに腰を預け、足先で僕のスリッパを軽く蹴った。

 

「あと」

 

「なに」

 

「さっきの、ちゃんと覚えといて」

 

「全部終わった顔するなってやつ?」

 

「それも」

 

 アスカはペットボトルの蓋を閉めた。

 

「ミサトがあんたの帰る音に一番最初に反応してたってやつ」

 

「うん」

 

「だから、戻る場所がなくなったみたいな顔は、ほんと腹立つの」

 

 その言い方は不器用だった。でも不器用だから、変に取り繕っていない。

 

「……戻る場所って、一人じゃないのかもね」

 

 思わず漏れる。

 

 家。学校。病院。見張り台。名前を呼ばれる机。そういうものがいくつか重なって、やっと人は“帰る”を作るのかもしれない。

 

「今さら何言ってんの」

 

 アスカは呆れた声を出した。

 

「こっちは前から知ってる」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 少し沈黙が落ちる。

 冷蔵庫のモーターがまた唸り始めた。

 

「寝れない?」

 

 僕が訊くと、アスカは一拍遅れて答えた。

 

「部屋が静かすぎる」

 

「僕も」

 

「じゃあ、しばらくここいれば」

 

 アスカは言いながら、流しの横の丸椅子を足で僕の方へ寄せた。

 

「でも変なこと考え始めたら追い出す」

 

「それ、基準ひどくない?」

 

「ひどいわよ」

 

 言い切って、彼女は小さくあくびをした。

 

 僕は丸椅子へ座り、コップを両手で持った。アスカは流しにもたれたまま、窓の外の見えない街を眺めている。二人ともたいしたことは言わない。たいしたことは言わないのに、今ここで同じ静けさに耐えているだけで、少しだけ楽だった。

 

 しばらくして、アスカが先に言う。

 

「もう寝る」

 

「うん」

 

「また勝手に起きて、勝手に全部終わった顔しないでよ」

 

「しない」

 

「今のは、まあ信じとく」

 

 その言い方のまま、アスカは廊下へ戻っていった。

 

 僕は暗い台所にもう少しだけ残って、それからコップを洗って元の位置へ戻した。元の位置に戻せる物と、まだ戻せない物がある。その違いを、今は急いで整理しなくてもいい気がした。

 

 僕は暗い天井を見たまま、その言葉を何度も反芻した。

 

 全部終わった顔。

 

 たぶん、僕は何度もそういう顔をしてきた。

 

 知っているつもりで、諦める側へ先回りする顔。

 

 でも今は、本当にまだ終わっていないのかもしれない。

 

 終わっていないなら、地図はいる。

 

 帰るための地図も、探すための地図も、たぶんまだ必要だ。

 

 

 

 

第三節 ミサトの部屋

 

翌日は朝から雨だった。

 

 窓ガラスを叩く音が、妙にやかましい。壊れた街に降る雨は、普通の雨音より少しだけ空っぽに聞こえる。

 

 外へ出るのは諦めた。

 

 その代わり、部屋の中を少しずつ“住める場所”へ戻すことにした。

 

 散らばった缶を集める。床を拭く。使える食器だけを残す。カーテンを閉め直す。そんなことをしていると、自分たちが本当にここで何日か生きるつもりなのだと分かってくる。

 

「ちょっと、それ捨てないで」

 

「これ?」

 

 僕が手にしていたのは、冷蔵庫の脇へ落ちていた古い買い物メモだった。

 

 ミサトさんの字で、“たまご”“ビール”“からあげ”と書いてある。

 

「要るの?」

 

「要るわけじゃないけど」

 

 アスカはわずかに言い淀んだ。

 

「なんか、まだいい」

 

 その“まだ”の意味は、分かる気がした。

 

 僕たちは物を選別しながら、選別しきれないものをいくつも棚へ戻した。意味があるのかは分からない。でも、意味がないと決めて捨てるには早すぎた。

 

 昼過ぎ、アスカがミサトさんの部屋からアルバムを持ってきた。

 

「見つけた」

 

「勝手に見ていいのかな」

 

「今さらでしょ」

 

 それもそうだった。

 

 ソファへ並んで座る。表紙の角が少し擦り切れたアルバムを開く。中には、驚くほど普通の写真が多かった。

 

 加持さんが変な顔でピースしている写真。

 駅前の居酒屋らしい場所で、ミサトさんがジョッキを持ち上げて笑っている写真。

 まだ短髪の青葉さんと、妙に若い日向さんと、白衣姿のマヤさん。ネルフの人たちが、ネルフの顔じゃない時間に写っている。

 

「若い」

 

 思わず言うと、アスカが鼻を鳴らした。

 

「当たり前でしょ。昔なんだから」

 

「いや、何ていうか……大人って最初から大人の顔してるわけじゃないんだなって」

 

「何それ」

 

「ミサトさんって、最初からああいう人だったのかと思ってた」

 

「雑で、うるさくて、でも妙に面倒見がいいって?」

 

「うん」

 

「だいたい合ってるじゃない」

 

 そう言いながらも、アスカの指先は写真の上で少しだけ止まっていた。

 

 ページをめくる。

 水族館らしい場所の暗い写真。誰かの誕生日ケーキ。海辺で、風に髪を押さえながら笑うミサトさん。その隣に加持さんがいる写真もあれば、いない写真もある。大人だって、誰かといた時間と、いなかった時間を同じアルバムの中へ並べて生きてきたのだと、その雑な並び方だけで分かる。

 

「これ」

 

 アスカが一枚を指で押さえた。

 

 台所で、エプロン姿のミサトさんが流しに肘をついている。ピントは甘い。撮った人の手ぶれで、奥の棚が少し歪んで見える。でも、そのぶれのせいで生活の途中みたいな感じが逆に強い。

 

「誰が撮ったんだろ」

 

「加持さんじゃない?」

 

「そうかも」

 

 次のページに、見覚えのある写真が挟まっていた。

 アルバム本体の台紙とは別で、後から適当に差し込んだらしい一枚だ。少しだけ新しい。

 

 リビングの食卓。

 僕が買い物袋を両手に持ったまま変な顔をしていて、アスカがその横で何か言いかけている。たぶん、袋の持ち方が悪いだの重さが偏ってるだの、そういう文句を言っている瞬間だ。

 

「なにこれ」

 

 アスカが呟く。

 

「撮られてたの?」

 

「知らない」

 

 言いながら、胸の奥が変なふうに熱くなる。

 写真の中の僕たちは、本当にただの同居人みたいだった。エヴァのパイロットでもなく、世界の行く先を知っている人間でもなく、ただ買い物袋の重さで揉めているだけの中学生だ。

 

「変な顔」

 

 アスカが言う。

 

「そっちも」

 

「うるさい」

 

 でも、写真の中のアスカは怒っているわけじゃない。呆れてはいるけど、もう半分笑いそうな顔をしている。僕はその表情を、自分の記憶の中ではもっと取りこぼしていた気がした。

 

「こういう時もあったんだね」

 

 僕が言うと、アスカは少し黙った。

 

「……あったでしょ」

 

「うん。でも、知ってるつもりであんまり見てなかったのかも」

 

 前の世界の終わりを知っていると、何でも“その前振り”に見えてしまう。

 でも写真は違う。終わりを知らない瞬間の顔を、そのまま残す。だから残酷でもあり、助かりもする。

 

「写真って嫌い」

 

 アスカがぽつりと言う。

 

「何で」

 

「その時の顔を勝手に残すから」

 

 少し考えてから、続ける。

 

「でも、今はちょっとだけ、助かる」

 

 それはたぶん、僕も同じだった。

 

 ページの隙間から、もう一枚小さなメモが落ちた。ミサトさんの字で、ざっくりした買い物一覧と、その下に『写真、現像したら貼る!』と丸がついている。貼られなかった写真が、きっとまだどこかにあるのだろう。

 

「戻ってきたら」

 

 僕が言いかける。

 

「続きを貼るわよ、あの人」

 

 アスカが先に言った。

 

「曲がってても、空気入ってても、そのまま」

 

 想像すると、少しだけ笑えた。

 

「だから、それまで破くな」

 

「破かないよ」

 

「ならいい」

 

 アスカは写真を元の位置へ差し込もうとして、少しだけ迷い、結局その一枚だけは台紙の上へちゃんと貼らず、栞みたいに挟み直した。

 

 きちんと場所を決めるには、まだ早い。

 でも無かったことにはしない。その扱い方が、今の僕たちにはちょうどよかった。

 

 

 加持さんが笑っている。ミサトさんが変な顔をしている。どこかの海。どこかの飲み会。出張先らしいホテルの前。

 

 僕たちの写真もあった。

 

 学校の文化祭みたいな格好をしたクラス写真。プール帰り。弐号機の前でピースしているアスカ。台所で鍋を囲んでいる僕とミサトさん。ペンペンまで写っている。

 

「……ほんとにあったんだ」

 

 思わずそう呟いた。

 

「何が」

 

「こういう時間」

 

 知っているはずなのに、写真になると急に信じられなくなる。

 

 僕はたしかにここにいた。アスカもいた。ミサトさんもいた。加持さんもいた。みんな一度、同じ光の中に並んで笑っていた。

 

「何よそれ」

 

 アスカがアルバムを閉じかけて、やめた。

 

「あったに決まってるじゃない」

 

「うん」

 

「……でも」

 

「え?」

 

 アスカは次のページをめくりながら言った。

 

「写真で見ると、ちょっと気持ち悪いかも」

 

「どうして」

 

「だって、まともに見えるもの」

 

 その言い方が妙にアスカらしかった。

 

 写真の中の僕たちは、たしかにまともに見えた。喧嘩も、拗れも、補完も、何も起きないみたいな顔で並んでいる。

 

 もちろん、それは嘘だ。

 

 でも、嘘であることが悪いとも限らないのかもしれない。人間はたぶん、そうやって一瞬だけ形の整う時間を拾って生きている。

 

 夕方近くになって、停電した部屋は早めに暗くなった。

 

 僕がランタン代わりの懐中電灯をテーブルへ置くと、アスカがふいに言った。

 

「加持さんも、戻るかな」

 

 その問いは、ミサトさんの時よりやや硬かった。

 

「……分からない」

 

「知ってる」

 

「ごめん」

 

「だからそれやめて」

 

 アスカは唇を噛んだ。

 

「でもさ」

 

「うん」

 

「戻ってほしいと思うの、変じゃないわよね」

 

「変じゃない」

 

「だってもう、どうにもなんないじゃない」

 

「うん」

 

「なのに、戻ってきてほしいって思うの」

 

 それは、たぶん加持さんだけじゃない。

 

 母さんにも。ミサトさんにも。僕たちは戻らないかもしれない誰かへ、何度でも同じことを願ってしまう。

 

「アスカ」

 

「なによ」

 

「僕もそうだよ」

 

 アスカは一拍置いたあと、鼻を鳴らした。

 

「知ってる」

 

 それ以上は何も言わない。

 

 言わない方がましな時間もある。最近、ようやくそういうことが少し分かってきた。

 

 夜中に、アスカの悲鳴で目が覚めた。

 

 最初は夢の続きかと思った。量産機の声か、プラグの警報か、そういうのだと。でも違った。隣の部屋から、たしかにアスカの声がした。

 

 飛び起きる。

 

 襖の前で止まる。

 

 そこで、前みたいに反射で開けていたらたぶん駄目だった。

 

「アスカ」

 

 声をかける。

 

「入るよ」

 

 返事はない。

 

 でも何もしないわけにもいかない。僕は襖を少しだけ開けた。

 

 暗い部屋の中で、アスカは布団を胸元まで引き上げたまま、呼吸を荒くしていた。目は開いている。でも焦点がうまく合っていない。

 

「平気?」

 

「平気に見える?」

 

 かすれた声だった。

 

「見えない」

 

「なら聞くな」

 

 それでも、追い返しはしなかった。

 

 僕は部屋の入口のところへしゃがんだ。

 

「海?」

 

 アスカの肩がわずかに震える。

 

「……うるさい」

 

「ごめん」

 

「だからそれ」

 

「うん」

 

 ひと呼吸ぶん間があく。

 

「量産機も」

 

 アスカがぼそっと言った。

 

「夢に出る」

 

「うん」

 

「自分の声も」

 

「うん」

 

「気持ち悪い」

 

 僕は返事を迷った。

 

 気持ち悪い、という言葉は僕たちの間でひどく重い。重いくせに、今はそれ以外の適切な言葉が見当たらない。

 

「そうだね」

 

 やっとそれだけ言う。

 

 アスカは顔をしかめた。

 

「分かったような顔しないで」

 

「してない」

 

「してる」

 

「じゃあやめる」

 

「それもむかつく」

 

 それならどうしろというのか。

 

 でも、そうやって口を尖らせてくれる方が、さっきの悲鳴よりずっとましだった。

 

「……ここにいる?」

 

 言われたのかと思って顔を上げたら、アスカの方も少し驚いた顔をした。

 

「え?」

 

「いや、違」

 

 珍しくアスカが言い直しかける。

 

 でも途中でやめた。

 

「別に、いたいならいれば」

 

 それはたぶん、かなり譲歩した言い方だった。

 

 僕は少しだけ迷ってから、部屋の入口の内側へ座り直した。近づきすぎない。遠すぎない。まだその距離しか分からない。

 

「ねえ」

 

 アスカが天井を見たまま言う。

 

「ミサトの部屋でさ」

 

「うん」

 

「写真見た時、あんた変な顔してた」

 

「変な顔ばっかりって言うね」

 

「多いもの」

 

 否定できない。

 

「何思ってたの」

 

「……まともな時間って、写真の中にしか残らないのかなって」

 

 言ったあと、少し恥ずかしくなった。

 

 でもアスカは笑わなかった。

 

「違うわよ」

 

「え?」

 

「写真にならなかった時間にも、まともだった時間はあった」

 

「例えば」

 

 アスカは少しだけ考えてから、あまり僕を見ないまま言った。

 

「停電した日の夜とか。暗い台所で味のないスープ飲んだ時とか。ペンペンが魚盗んで、ミサトが素足のまま追いかけた時とか」

 

 思わず笑いそうになる。

 

「写真になってないね」

 

「でしょ」

 

「でも、覚えてる」

 

「当たり前じゃない」

 

 アスカは鼻を鳴らした。

 

「写真に残ってないからって、無かったことにはならないわよ」

 

 その言葉は、たぶん写真の話だけじゃなかった。

 

 僕はしばらく何も言えなかった。

 

「加持さんのことも?」

 

 気づいたら、そう訊いていた。

 

 アスカは少しだけ肩を固くした。

 

「……うん」

 

「そっか」

 

「何よ」

 

「いや」

 

「同情する顔やめて」

 

「してない」

 

「してる」

 

 暗くてよく見えないはずなのに、そういう時だけアスカはよく分かる。

 

「僕だって、加持さんのこと好きだったよ」

 

 ぽつりと言うと、アスカは一拍置いた。

 

「変な意味じゃないからな」

 

「分かってるわよ」

 

「じゃあ言うなよ」

 

「先に予防線張ったのはそっち」

 

 その通りだった。

 

 ひと呼吸ぶんの沈黙が落ちる。

 

「……あの人さ」

 

 アスカが小さく言った。

 

「ずるかった」

 

「うん」

 

「優しくて、でも選んではくれない感じが」

 

「うん」

 

「だから余計に、追いかけたくなったのかもしれない」

 

 その言葉を、僕は静かに聞いた。

 

 前ならたぶん、そこで安易に慰めたか、逆に黙り込んだかのどちらかだった。今はそのどちらも違う気がした。

 

「僕も似たようなこと、してた」

 

「何に」

 

「誰かに選ばれたいって思って、その代わり自分では選ばないでいた」

 

 アスカが寝返りを打つ気配がする。

 

「最低」

 

「うん」

 

「でも、まあ……あたしも人のこと言えない」

 

「珍しい」

 

「何が」

 

「そういうこと言うの」

 

「世界終わったかもしれないんだから、それくらい言うわよ」

 

 前にも聞いたような理屈だと思って、少しだけ口元がゆるんだ。

 

「何笑ってんのよ」

 

「笑ってない」

 

「笑ってた」

 

「少しだけ」

 

「感じ悪い」

 

 そう言いながらも、本気で怒っている声ではなかった。

 

 僕は入口のところへ座ったまま、膝を抱えた。

 

「シンジ」

 

「なに」

 

「そのまま寝ると風邪ひく」

 

「アスカだって」

 

「うるさい」

 

「じゃあ、毛布持ってくる」

 

「いらない」

 

「いるだろ」

 

「……一枚だけ」

 

 それはたぶん、かなり大きな譲歩だった。

 

 僕は自分の毛布を半分だけ持っていって、部屋の入口に戻った。近づきすぎない。触れない。そういう距離を、今は守った方がいいと分かる。

 

 雨の音は夜更けまで続いた。

 

 けれど、さっきまでみたいな空っぽの音じゃなくなっていた。部屋の中に二人分の呼吸があるだけで、雨の音は少しだけ日常に近づく。

 

 翌朝、雨は上がっていた。

 

 アスファルトが濡れている。ベランダの手すりに水滴が並び、遠くの空は薄い灰色からゆっくり青へ戻りかけていた。

 

 僕たちはカセットコンロで湯を沸かし、インスタントの味噌汁を分けた。塩気が強い。けれど体が温まるだけで少し楽になる。

 

「今日、学校」

 

 アスカが言った。

 

「うん」

 

「あと、病院」

 

「うん」

 

「順番間違えないでよ。学校の方が近い」

 

「分かってる」

 

 地図をたたむ。リュックに食料と水を詰める。救急箱も入れる。生きる準備なんて、一つ一つはやたら地味だ。それが少しありがたかった。

 

 出かける前に、僕はもう一度だけリビングを見回した。

 

 ジャケットはまだ椅子の背に掛かっている。アルバムは棚へ戻した。テーブルの上のメモも、捨てずにそのままだ。

 

「また戻るでしょ」

 

 アスカが玄関から言う。

 

「え?」

 

「拠点にするんだから」

 

「……うん」

 

「なら、いちいち最後みたいな顔しない」

 

 その通りだった。

 

 僕は頷いて、ドアを閉めた。

 

 

 

 出かける前、僕たちはリビングのテーブルへ地図帳とノートを広げた。

 

 窓の外は晴れているのに、部屋の中にはまだ前日の雨の湿気が残っている。カセットコンロの脇へ置いた鍋には、朝の味噌汁の残りが少しだけ温もりを残していた。食べ終えた器を片づけるより先に、アスカはテーブルの上の空き缶と雑誌を端へ追いやる。

 

「まず順番。学校、本部、病院」

 

「学校が先なんだ」

 

「人が戻るなら学校が一番ありそうだから。あんたもそう言ったでしょ」

 

 その通りだった。僕はノートの余白へ順番を書き、地図のページ番号を脇へメモする。アスカは持ち出した物を床へ並べた。ペットボトル二本、乾パン二袋、缶詰三つ、包帯、消毒液、折り畳みナイフ、懐中電灯、予備電池。目の前に並べると、拾えた物の少なさと多さが同時に見える。

 

「全部一つのリュックへ入れるなよ」

 

「分かってる」

 

「分かってないから言うの」

 

 アスカはリュックを二つ引き寄せた。片方はミサトさんの家に残っていた古い登山用。もう片方は僕の通学鞄に近い、肩がけの大きめの袋だ。

 

「水と薬は別。どっちか落としても片方で持つ」

 

「食べ物は?」

 

「半分ずつ。缶詰は重いから二つと一つで分ける。乾パンはこっち。電池は軽い方に寄せる」

 

 彼女はそう言いながら、実際に手を動かした。包帯と消毒液を一つのポーチへまとめ、水は互い違いに入れる。乾パンの袋は端を折って空気を抜き、缶詰の角が背中へ当たらない向きまで気にする。

 

「そんなに変わる?」

 

「変わるわよ。歩いてるうちに分かる」

 

 僕も言われた通り缶詰の位置を動かす。たしかに少しだけ背負い心地が変わる。たぶん彼女は、物の重さより先に、それを持って歩く時間の方を考えている。

 

 テーブルの上には、ミサトさんの古いボールペンが一本残っていた。インクはまだ出た。僕はノートへ地図の簡単な写しを作り始める。学校、旧ネルフ本部、病院、貯水タンクのある公園。主要な交差点と、昨夜見つけた崩落地点。アスカは覗き込み、一本だけ線を引き直した。

 

「そこ、狭い道通った方が早い」

 

「でも昨日ガラスが散ってた」

 

「なら遠回りでもいい。靴底削れる方がまし」

 

 議論は大きくない。大きくないくせに、こうして一つずつ決めないと外へ出られないのが今の現実だった。

 

 僕は書き写した地図を二枚に分けた。片方を自分のポケットへ、もう片方をアスカへ差し出す。

 

「いる?」

 

「いる」

 

 受け取る指先が、ほんの少しだけ僕の爪に触れた。触れただけで、前より大騒ぎしなくなった自分たちが少し可笑しい。

 

「明日の荷物も、最初から二つに分けとく」

 

 アスカが床のリュックを見たまま言う。

 

「帰りに拾う物まで考えるなら、その方がいい」

 

「明日も出る前提なんだ」

 

「当たり前でしょ。一回行って終わるわけないじゃない」

 

 言い方はきつい。けれど、そのきつさの中に続ける気がある。

 

 続ける。戻る。翌日の分まで見て荷物を組む。そういう発想が、僕にはまだ時々足りない。

 

「半分はあたしが持つ」

 

 アスカはノートから目を上げずに言った。

 

「最初からそう決めといた方が、あとで揉めない」

 

 僕はすぐ返事ができなかった。

 嬉しかったのか、情けなかったのか、自分でもよく分からない。ただ、その一言で明日の輪郭が急にはっきりした。

 

「……うん」

 

「返事遅い」

 

「聞いてたから」

 

「だったら手を動かす」

 

 そう言われて、僕は残っていた乾パンを袋へ分けた。テーブルの上で地図が二枚に増え、荷物が二つに分かれ、行き先が三つ並ぶ。

 

 それだけのことなのに、世界の終わりのあとで初めて“明日の支度”をしている気がした。

 

 荷物を二つに分け終えたあとも、僕たちはすぐには立ち上がらなかった。

 朝の光が少しずつ角度を変え、テーブルの上の地図の白を薄く照らしている。片づけるべき物はもうほとんど片づいたのに、まだ部屋のあちこちに“住んでいた人の癖”だけが残っていた。椅子の背へ掛けたままのジャケット、冷蔵庫の横のメモ、雑誌へ挟まったレシート、加持さんの置き忘れらしいライター。

 

 アスカはそれを一つずつ見て、それからアルバムの方へ視線を滑らせた。

 

「さっきの写真の話」

 

 前置きもなく言う。

 

「うん」

 

「あんた、ああいうの見てると、そこへ住みたくなるタイプでしょ」

 

「住みたくは……」

 

「なる」

 

 即答だった。

 

「分かるのよ。あんた、まともそうな一枚あると、そこを正解にしようとするから」

 

 胸の奥を指で押されたみたいだった。

 否定したいのに、うまく言葉にならない。

 

「だって、写真の中の方が分かりやすいし」

 

 観念してそう言うと、アスカは小さく鼻を鳴らした。

 

「ほら」

 

 彼女はテーブルの上のボールペンを指で転がした。

 

「写真ってさ、前後が切れてるじゃない」

 

「前後?」

 

「撮る前に何言ってたかも、撮った後に喧嘩したかも、写んないってこと」

 

 その言い方は妙に冷静だった。

 

「だからまともに見えるの。止まってる一瞬だけなら、誰だって分かってる顔くらいできるでしょ」

 

 僕はアルバムの閉じた表紙を見た。

 たしかに、そこへ写っていた僕たちはまともだった。ちゃんと笑い、ちゃんと同じ時間の中にいた。けれどその一枚の外側に、無数の言い損ねや苛立ちや沈黙があったことも、今なら分かる。

 

「……それでも、残したいって思うよ」

 

 僕が言うと、アスカは首を傾けた。

 

「残すのはいいわよ」

 

「え?」

 

「問題は、それを本物より上に置くこと」

 

 アスカはそこで少しだけ言葉を選んだ。

 

「前の海のことでも、病院のことでも、あんたはたぶん“こうだった”って形を早めに決めたがる。怖いから」

 

 図星だった。

 分からないまま待つのが苦手だ。誰かが変わる途中を見ているのも、正解のないまま隣にいるのも苦手だ。だから僕はつい、分かりやすい一枚を探してしまう。

 

「でもね」

 

 アスカはテーブルの端へ寄りかかり、窓の方を見た。

 

「あたし、あんたの中で“砂浜で起きた女”とか、“許してくれた女”とか、そういう写真みたいなやつになるのは嫌」

 

 息が止まりかけた。

 

「そんなつもりじゃ」

 

「つもりの話じゃない」

 

 声は強くない。強くないから余計に逃げられない。

 

「これからも機嫌悪い日あるし、あんたにむかつく日もあるし、意味なく黙りたい時もある。ヒカリにだけ喋ることだってあるし、理不尽に嫉妬する時だってあるかもしれない。そういうの込みでいられないなら、都合のいい写真の方へ逃げた方が早いでしょ」

 

 僕は少しのあいだ黙った。

 反論を探していたんじゃない。ようやく、何を言われているのかがちゃんと分かったからだ。

 

「逃げたくない」

 

 口にすると、自分の声が思っていたより低かった。

 

「君を、そういう一枚にしたくない」

 

 アスカはすぐにはこっちを見なかった。

 

「じゃあ、何なの」

 

「……僕の明日の荷物を半分奪う人」

 

 一拍置いてから、アスカが呆れた顔をした。

 

「なによそれ」

 

「だって本当だよ。地図の線を引き直して、靴底の減り方で道を選んで、缶詰の向きまで勝手に変える。そういうので、僕の行く先が毎回ちょっと変わる」

 

 言いながら、少しずつ恥ずかしくなった。

 

「それ、褒めてるの?」

 

「かなり」

 

「変な褒め方」

 

「知ってる」

 

 アスカはようやくこちらを見た。

 呆れている。でも完全には突き放していない顔だった。

 

「……まあ、写真よりはましかもね」

 

 小さくそう言って、彼女は立ち上がった。僕の肩紐に手を掛け、さっき分けたばかりの荷物の位置をまた少しだけ直す。

 

「左右の重さ、まだ変」

 

「え、そう?」

 

「そう。歩いてるうちに腰に来る」

 

 背中越しに、彼女の指が肩甲骨の近くを短く滑る。必要な調整だけのはずなのに、その短さが妙に長く感じた。

 

「……アスカ」

 

「何」

 

「さっきの話」

 

「うん」

 

「僕、君にちゃんと変わってほしいって思ってる。昨日と違うこと言ってもいいし、僕を嫌いになる日があってもいいし、それでも、その時の君の方を見たい」

 

 そこまで言ってから、自分で少し震えた。

 きれいな告白じゃない。告白にしたくて言ったわけでもない。ただ、今の話の続きを誤魔化さずに言うと、こうなるしかなかった。

 

 アスカは黙っていた。

 沈黙は長くも短くもない。ただ、逃げ道だけはちゃんと塞ぐ長さだった。

 

「……そういうの」

 

 やがて彼女が言う。

 

「嫌いじゃない」

 

 心臓が一度だけ強く鳴った。

 でもアスカはそこで終わらせない。

 

「嫌いじゃないけど、だからって急に全部うまくやれると思わないで」

 

「思わない」

 

「思ったら殴る」

 

「うん」

 

「あと、あたしを“生き残った証拠”みたいに扱ったら、もっと殴る」

 

「分かった」

 

「分かってなさそう」

 

「分かるまで聞く」

 

 それを聞いて、アスカはほんの少しだけ目を丸くした。

 それから、前髪をかき上げるみたいな雑な仕草で顔を逸らす。

 

「……そういうの、ずるい」

 

「何が」

 

「ちゃんと聞くとか言うやつ」

 

 でも、その“ずるい”は嫌悪の響きじゃなかった。

 アスカは僕のリュックを床から持ち上げ、重さを確かめるみたいに一度だけ揺らしたあと、僕へ返す。

 

「行くわよ」

 

「うん」

 

「明日の話は、明日もする」

 

「え?」

 

「一回で伝わったことにするなって意味」

 

 昨日、海の手前で交わした約束と同じだ。

 大事なことほど一回で終わらせない。確認して、言い直して、生活の中へ落としていく。

 

「……うん」

 

「その返事は、ぎりぎり合格」

 

 そう言って、アスカは先に玄関へ向かった。

 僕はその背中を見ながら立ち上がる。写真みたいに止まった一枚じゃない。今も先へ進みながら、何度でも言い直しが必要な背中だった。

 

第四節 誰かの戻る音

 

学校は、思っていたより壊れていなかった。

 

 校門は少し傾き、ガラスは何枚か割れていたけれど、校舎そのものは立っている。校庭の白線は雨で薄れていた。プールの水面だけが不自然に静かだ。

 

「変」

 

 アスカが言う。

 

「学校って、人がいないとこんなに気持ち悪いのね」

 

 分かる気がした。

 

 教室って、椅子や机があるだけじゃ教室にならない。そこに誰かが座って、適当な話をして、窓際でぼんやりして、チャイムに文句を言って、そうやって初めて教室になる。

 

 昇降口で上履きに履き替えようとして、やめた。

 

「何してんの」

 

「癖で」

 

「バカ」

 

 アスカは土足のまま上がっていく。

 

 その背中を追いながら、僕は妙な気持ちになった。ルールのない学校は、学校じゃない。ただの空き箱だ。

 

 二階の教室まで行くと、ドアは半分開いていた。

 

 僕たちの席がある。

 

 アスカの席も、綾波の席も、トウジの席も、委員長の席も、そのままだ。机の上に残った落書き。カーテンの汚れ。黒板に薄く残った日付。

 

 誰かが途中で席を立って、そのまま戻ってこなかったみたいな教室だった。

 

 僕は自分の席に近づいた。

 

 机の中には、折れた鉛筆と、提出しそびれたプリントが入ったままだった。そんなものまで残っているのが、ひどく嫌だった。

 

「……いる」

 

 アスカが小さく言う。

 

「え?」

 

 振り向いた瞬間、教室の後ろでがたんと音がした。

 

「誰!」

 

 アスカが即座に叫ぶ。

 

 次の瞬間、ロッカーの陰からひょいと顔を出したのは、ケンスケだった。

 

「うわっ、ほんとにいた!」

 

 こっちの台詞だ。

 

「ケンスケ」

 

「碇! 惣流! 生きてたんだな!」

 

 ケンスケは前より少し痩せていた。制服じゃない。ミリタリー系のベストに、見覚えのあるカメラを下げている。体育館の非常物資でも漁ったのか、やたら実用的な格好だ。

 

「お前、何してんの」

 

 トウジなら呆れるところだろう言い方で、アスカが聞いた。

 

「俺? とりあえず、ここを拠点にしてる」

 

「一人で?」

 

「今のところは」

 

 ケンスケは頭をかいた。

 

「でも昨日から、誰か戻ってくるんじゃないかって思って見張ってたんだよ。学校って、みんなの記憶が集まってるだろ」

 

 その発想が、いかにもケンスケだった。

 

「いつからいたの」

 

「一昨日」

 

「一人で?」

 

「一人で」

 

「よく平気だな」

 

「平気じゃないさ」

 

 ケンスケは笑った。でもその笑い方は、前みたいな無邪気さだけではなかった。

 

「でも、ぼさっとしてても誰も助けてくれないだろ」

 

 その言葉に、僕は少しだけ詰まった。

 

 ぼさっとしていたつもりはない。でも、こうして先に拠点を作っていたのはケンスケの方だ。僕とアスカは、まだ“とりあえず二人で生き延びる”ところまでしか来ていない。

 

「他に、誰か見た?」

 

 僕が聞くと、ケンスケは首を振った。

 

「まだ。でも、物音はした。誰かが戻ってきて、また移動したのかもしれない」

 

「トウジは」

 

「見てない」

 

 その答えに、教室の空気が少しだけ沈む。

 

 ケンスケはすぐに表情を切り替えた。

 

「とりあえず、保健室に物資ある。あと家庭科室も。水は屋上のタンクから少し取れる」

 

「……やたら詳しい」

 

「学校は人類最後の砦だからな」

 

「何その理屈」

 

「気分の問題」

 

 それでも、少し救われた。

 

 ケンスケがいるだけで、教室は少しだけ教室に近づく。うるさいし、妙に前向きだし、危機感がずれている。でもそれがありがたい。

 

 保健室へ向かう途中、廊下の端で足音がした。

 

 三人同時に止まる。

 

 今度はがたんじゃない。もっと小さい、誰かが壁に手をついた音。

 

 保健室のドアが半分開いていた。

 

 その向こうで、委員長が床に座り込んでいた。

 

「……委員長」

 

 声が勝手に出る。

 

 委員長は顔を上げた。目がうまく焦点を結んでいない。濡れたみたいに髪が頬へ張りつき、制服も乱れている。戻ってきたばかりなのだとすぐに分かった。

 

「……碇君?」

 

 掠れた声。

 

「アスカ……相田君……」

 

 次の瞬間、委員長の目からぽろぽろ涙がこぼれた。

 

 立ち尽くすしかなかった僕より先に、アスカが動いた。

 

「ちょっと、座ったまま泣かないでよ」

 

 言い方はきつい。でも、もうしゃがみこんでいる。

 

「立てる?」

 

 委員長は頷こうとして、途中で力が抜けた。アスカが舌打ちして肩を貸す。

 

「ほら、保健室のベッド」

 

 ケンスケが慌ててシーツをはぎ、場所を作る。

 

 僕はコップへ水を入れた。手が少し震えている。

 

 ベッドに座らせると、委員長は僕たちを順番に見た。

 

「……ほんとに?」

 

「ほんと」

 

「夢じゃなくて?」

 

「たぶん」

 

「その答え方やめなさいよ」

 

 アスカが言う。

 

 委員長はその声で少しだけ正気に戻ったみたいだった。

 

「……鈴原は?」

 

 その名前が出た瞬間、部屋の空気がまた固くなる。

 

 僕は答えに詰まった。

 

 見ていない。知らない。そう言うしかないのに、その正しさがひどく冷たく感じる。

 

「まだ会ってない」

 

 結局、ケンスケが先に言った。

 

「でも俺らが戻ってるなら、あいつだって戻るかもしれん」

 

 委員長は唇を噛んだ。

 

「うん……」

 

 それは納得じゃなく、自分を支えるための返事だった。

 

 少し休ませたあと、委員長は自分から立ち上がった。

 

「私も、何かする」

 

「いいわよ、寝てなさい」

 

 アスカが言う。

 

「でも」

 

「でもじゃない。今ふらついてんでしょ」

 

「アスカ」

 

「何」

 

「ありがとう」

 

 その一言に、アスカが一瞬だけ固まる。

 

「……別に」

 

 そっぽを向く。でも耳だけ少し赤くなっていた。

 

 夕方までに、僕たちは教室と保健室、家庭科室をある程度片づけた。ケンスケは手際が良かった。委員長は本調子じゃないのに、布巾を持つとすぐ“委員長の顔”になる。アスカは文句を言いながらも重いものをどんどん運ぶ。

 

 ミサトさんの部屋から持ち出した物は、いったん教壇の上へ並べた。

 

 缶詰。乾電池。救急箱。地図帳。短波受信機の導線。古い懐中電灯。

 その端に、ネルフ支給の臨時通行証ホルダーが二つ転がる。透明のビニールは黄ばんでいて、中の赤い札だけがまだ妙に鮮やかだった。

 

「これ、使えるかもな」

 

 ケンスケが手を伸ばしかける。

 

「使わない」

 

 委員長がすぐに言った。

 

「なんで?」

 

「そういう札があると、持ってる人が先に行く役になるから」

 

 委員長はホルダーを持ち上げ、中の赤い字を見た。

 〈臨時通行〉〈作戦補助〉。誰が通る側で、誰が待つ側かを、一目で決めるための札だ。

 

「地図は使う。電池もラジオも使う。でも、こういう“誰が先に走るか決める札”は、学校へ持ち込まない」

 

 アスカが腕を組んだまま言う。

 

「学校でまで待機番号なんて見たくないし」

 

 ケンスケは少しだけ口を閉じ、それから頷いた。

 

「じゃあ、ベッドの札は名前で書く。番号なし」

 

「うん」

 

 委員長はホルダーから中の札だけを抜き、机の端へ裏向けに重ねた。

 代わりにメモ帳を開き、保健室のベッド割りへ名前を書いていく。洞木、相田、惣流、碇。空けておく欄が一つ。

 

「戻ってくる人の分」

 

 僕が見ると、委員長は短く言った。

 

「番号で回すなら、最初から学校じゃなくていい」

 

 その言い方は静かだった。でも、静かなだけで十分強かった。

 

 僕は古いホルダーの透明な縁を指でなぞった。

 使えそうな道具はいくつもある。けれど、使えるからって全部を持ち込んでいいわけじゃない。

 再建って、たぶんそういう選り分けから始まる。

 

 僕だけが、何となくその全員を見てしまっていた。

 

 生きている。

 

 今のこの時間で動いている。

 

 そのことが嬉しいのに、嬉しいだけで済まない自分がまだいる。もう失いたくない。そう思った瞬間に、また勝手に記念碑にしそうになる。

 

「碇、何ぼーっとしてんだよ」

 

 ケンスケの声で我に返る。

 

「これ、理科準備室の鍵。見てきてくれ」

 

「うん」

 

 鍵を受け取って歩き出す。途中、アスカが小さく言った。

 

「今のあんた、ちょっと前の顔」

 

「前の顔?」

 

「一人で勝手に重くなってる時の」

 

 図星だった。

 

「ごめ――」

 

「言うなってば」

 

「……うん」

 

 理科準備室には乾電池とラジオの予備がいくつかあった。あと、古い地球儀と、使いかけのチョークと、半分壊れた人体模型。

 

 そんなものまで妙に懐かしい。

 

 戻る途中、窓から校庭を見ると、夕日が少しだけ差していた。雨上がりの地面が鈍く光っている。

 

 その端に、自転車の跡が新しくついていた。

 

「ケンスケ!」

 

 呼ぶと、ケンスケがすぐに走ってくる。

 

「どうした」

 

「これ、さっきまで無かったよね」

 

「無かった」

 

 四人で校庭へ出る。

 

 跡は門の方から入って、途中で途切れていた。まるで、そこまで来て迷ったみたいに。

 

「誰かいる」

 

 委員長が小さく言う。

 

 ケンスケは頷いた。

 

「病院の方かもしれない。あっち、さっき少しだけ人影見えた気もするんだ」

 

 委員長の顔が変わる。

 

「行く」

 

「今日はもう暗い」

 

 アスカが即座に止めた。

 

「でも!」

 

「暗い中で探して入れ違ったら最悪でしょ」

 

 正論だった。

 

 委員長は唇を噛んで、それでも頷いた。

 

 その夜、僕たちは学校へ残ることにした。

 

 保健室のベッドを委員長に。教室を僕とケンスケ。家庭科室の隣をアスカに。簡単な分担だけ決める。

 

 ランタンの薄い灯りの中で、ケンスケが地図へ丸をつけながら言った。

 

「明日、病院だな」

 

「うん」

 

「鈴原、戻ってるといいね」

 

 委員長が小さく言う。

 

「戻ってるわよ」

 

 アスカが即答した。

 

「そう決めた方が、まし」

 

 強引な理屈だった。でも、今はそれで十分だった。

 

 誰かの戻る音は、たぶん最初はとても小さい。

 

 でも、一度聞いてしまったら、もう耳を塞いで生きるわけにはいかない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。