【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第弐拾八話 静かなる復興のとき

第一節 前の海、今の声

 

病院は、学校より壊れていた。

 

 正面玄関のガラスは砕け、待合の椅子はばらばらになっている。けれど建物自体は残っていた。非常シャッターには戦自の銃痕が残り、その脇の床にはエヴァ搬送用ストレッチャーの車輪跡みたいな深い黒ずみが何本も走っている。救急外来の隅には乾いたLCLの塩みたいな跡まであった。補完の影響がこの建物の表面へまだ貼り付いたままだった。残っているから余計に、生々しい。人が逃げた痕だけがそこかしこに残っている。

 

「別行動しないでよ」

 

 アスカが言う。

 

「分かってる」

 

「今のは相田にも言ったの」

 

「知ってる」

 

 僕たちは一階から順に見て回った。委員長は顔色が悪い。トウジのことになるとどうしても足が早くなる。でも一人にするわけにもいかないから、ケンスケがずっと隣についていた。

 

 救急外来の奥で、車椅子の音がした。

 

 その瞬間、委員長が息を呑む。

 

「……鈴原」

 

 声が震えていた。

 

 僕たちが駆けつけるより先に、委員長が走った。

 

 トウジは本当にいた。

 

 車椅子に座り、少し痩せた顔でこちらを見ている。隣には妹さんがいて、点滴台みたいなものに寄りかかっていた。二人ともひどく疲れた顔をしていたけれど、生きていた。

 

「委員長……?」

 

 トウジの声が、前より少し掠れている。

 

 委員長はそこでようやく止まって、次の瞬間には泣いていた。

 

「ばか!」

 

 それだけ言って、トウジの肩を叩く。

 

「お、おい、痛いって」

 

「ばかばかばか!」

 

 保健室で見た涙より、今の方がよほど委員長らしかった。

 

 ケンスケが横で顔をしかめる。笑っているのに、目が赤い。

 

「よかったな、トウジ」

 

「お前らも……生きてたんか」

 

「しぶとくな」

 

 トウジが笑う。

 

 その笑い方を見た瞬間、僕はようやく本当に肩の力が少し抜けた。

 

 全部じゃない。

 

 全部が元に戻るわけじゃない。

 

 でも、誰かがこうして自分の名前で笑っている。それだけで、世界の輪郭は少し戻る。

 

 妹さんの方はまだぼんやりしていた。委員長がすぐに水を運び、ケンスケが毛布をかけ、アスカが点滴スタンドの車輪を直している。誰も指示しなくても勝手に動く。

 

 僕だけが、少し遅れて薬品棚の方へ向かった。

 

 ああいう時、僕はすぐ手が足りていない所を探す。役に立ちたいというより、立ち尽くしているのが怖いからだ。

 

 薬と包帯を箱へ詰める。

 

 視界の端に、白いカーテンが見えた。

 

 それだけで足が止まる。

 

 この病院だ。

 

 あの部屋も、たぶんまだどこかにある。

 

「シンジ」

 

 アスカが声をかけてきた。

 

「上の階、見るわよ」

 

「うん」

 

 トウジたちは一階で休ませることにして、僕とアスカは二人で上へ向かった。エレベーターは死んでいる。階段を上るたび、足元がひどく重い。

 

 知っている。

 

 何階のどの辺りに、あの部屋があったのか。

 

 でも知っていると言うわけにはいかないから、僕はなるべく普通の足取りを装った。

 

 無理だった。

 

「何」

 

 途中でアスカが立ち止まる。

 

「え?」

 

「さっきから変」

 

「……変じゃない」

 

「変」

 

 即答だった。

 

 逃げようかと思った。でも逃げたら、たぶんもう一生言えない。

 

「ここ」

 

 僕は廊下の端を見た。

 

「前に、君がいた部屋がある」

 

 アスカは目を細めた。

 

「知ってる。だから?」

 

「そこに行きたくない」

 

「何で」

 

 問い詰める声じゃなかった。むしろ静かすぎて逃げ場がない。

 

 僕は手すりを握った。冷たい鉄の感触が指に食い込む。

 

「……話す」

 

「何を」

 

「僕が、ずっと君に言わなかったこと」

 

 アスカは何も言わず、先に歩き出した。

 

 その後を追うしかない。

 

 病室のドアは半分壊れていた。中は空だ。ベッドも、点滴台も、何もない。白い壁だけが妙に明るい。

 

 僕は入口で止まった。

 

「ここで」

 

 喉が乾く。

 

「前の世界で、僕は君を見た」

 

「前の世界」

 

 アスカがゆっくり振り向く。

 

「それ、何」

 

 もう逃げられなかった。

 

「僕、たぶん一度、ここまで全部やり直してる」

 

 静かな病室で、自分の声だけがやけに大きい。

 

「世界が終わるところまで、行った」

 

 アスカの表情が変わらないのが、逆に怖かった。

 

「使徒のことも、君が壊れることも、ミサトさんたちがどうなるかも、僕は最初から少し知ってた」

 

「……だから」

 

「うん」

 

「だからあんた、ずっと変だったのね」

 

 責めるでもなく、納得するでもなく、ただ事実として言う。

 

「前の僕は、この部屋で、眠ってる君を見て」

 

 喉が詰まる。

 

 それでも止まれない。

 

「最低なことをした」

 

 アスカの眉がわずかに動く。

 

「どこまで」

 

 その問いがいちばんきつかった。

 

「……起こそうとして、でも起きなくて、僕」

 

 言葉が途切れる。

 

「自分でも止められなくなって、最低なことをした」

 

 アスカの顔から色が消えていくのが分かった。

 

 沈黙が落ちる。

 

「気持ち悪い」

 

 ようやく出た声は、ひどく小さかった。

 

 否定しなかった。

 

「何それ」

 

「その通りだと思った」

 

「何で今さら言うのよ!」

 

 その瞬間、頬に衝撃が走った。

 

 アスカの平手だった。

 

「何で今まで黙ってたのよ!」

 

「怖かったから」

 

「誰が!」

 

「君が」

 

 もう一発飛んできた。

 

「ふざけんな!」

 

 アスカの目が濡れている。

 

「ふざけんな、ばかシンジ! それであたしに変な顔して、触るの怖いとか、死ぬのが怖いとか、全部一人で抱えてたわけ!?」

 

 唇がうまく動かなかった。頷くことしかできない。

 

「最悪!」

 

 その通りだった。

 

「最悪すぎて、ほんとに気持ち悪い!」

 

 返す言葉が見つからなかった。

 

「それで、最後は?」

 

 僕は息を止めた。

 

「最後?」

 

「その前の世界の最後よ」

 

 逃げたくなった。でも、ここまで言ってまだ逃げるのはもっと卑怯だ。

 

「海で」

 

 声が掠れる。

 

「君と二人だけになって、僕は」

 

 指が震える。

 

「君の首を絞めた」

 

 アスカが息を呑むのが分かった。

 

 自分で言って、自分の胃がひっくり返りそうになる。

 

「でも君は、僕に触れて、『気持ち悪い』って言った」

 

 あの浜辺の音が、急に耳の奥へ戻ってくる。

 

「それで、僕は」

 

「それで、やり直したわけ」

 

 アスカの声は、もう怒鳴り声じゃなかった。

 

 低くて、冷えていて、だから余計に怖い。

 

「そう」

 

 長い沈黙。

 

 アスカは僕を見ていた。

 

 軽蔑している。怒っている。泣きそうでもある。全部が同時にあった。

 

「……最低」

 

 喉の奥で返事が潰れた。

 

「ほんとに」

 

「分かってる」

 

「それ、聞かされたあたしがどうしたらいいと思うの」

 

 その問いには、答えがなかった。

 

 許してほしいなんて言えない。言えるはずがない。

 

「分からない」

 

 だから、それしか言えない。

 

「でも、言わないまま君の気持ちまで決めるのは、もっと駄目だと思った」

 

 アスカは唇を噛んだ。

 

「遅いのよ」

 

 僕は小さく頷いた。

 

「遅すぎる」

 

 今さら否定する資格なんてない。

 

「何で今さら……」

 

 最後の方は、ほとんど聞こえなかった。

 

 アスカはそのまま病室を出て行った。

 

 追いかけなかった。

 

 追いかける資格なんて、たぶん無い。そうやってまた自分で決めつけるのも違うと分かっていても、今すぐ後ろを追えるほど僕は図太くなかった。

 

 空っぽの病室に一人で立つ。

 

 白い壁。壊れたベッド柵。床に残る古い染み。

 

 ここでようやく、僕は膝から力が抜けた。

 

 全部終わったかもしれないと思った。

 

 言えば少しはましになるなんて、そんな都合のいい話はない。言ったら終わることだってある。当たり前だ。

 

 それでも、言わなかった時よりはましだと、どこかで思いたい自分もいた。

 

 ずいぶん勝手だ。

 

 階段の踊り場で、しばらく座り込んでいた。

 

 下からはかすかに人の声が聞こえる。委員長の泣き声が落ち着き、ケンスケの妙に明るい声が続き、トウジの低い返事が混ざる。生きている人たちの音だ。

 

 その音に混ざって、足音が戻ってきた。

 

 顔を上げる。

 

 アスカだった。

 

 まだ目元は少し赤い。でも、自分の足で戻ってきた。

 

「……何」

 

 僕が言うと、アスカは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「その、捨てられた子犬みたいな顔やめて」

 

「してない」

 

「してる」

 

 そこは即答だった。

 

 アスカは数段上に立ったまま、僕を見下ろす。

 

「許したわけじゃないから」

 

「分かった」

 

「一生許さないかもしれない」

 

 それでも目を逸らせなかった。

 

「でも」

 

 少しだけ言い淀む。

 

「でも、だからって今のあたしまで勝手に決めるな」

 

 胸の奥が痛くなる。

 

「今の君を見る」

 

「前のあたしがどう言ったとか、どう死んだとか、どうされたとか。そんなので今のあたしを見ないで」

 

「……分かった」

 

「分かってない顔してる」

 

「努力する」

 

「善処も努力も嫌い」

 

「じゃあ、やる」

 

 アスカは眉をわずかに上げた。

 

「次に黙って抱え込んだら殴る」

 

「今も殴られた」

 

「足りない」

 

 その言い方が、少しだけアスカらしくて、変に泣きそうになった。

 

「あと」

 

「なに」

 

「さっきの話、もう一回詳しく聞くかもしれない」

 

 それは、たぶんかなり重い宣告だった。

 

 僕は頷いた。

 

「その時に逃げたら、ほんとに終わり」

 

「逃げない」

 

「……ほんとに?」

 

「怖いけど」

 

「それは聞いてない」

 

「でも逃げない」

 

 アスカはしばらく僕を見て、それから小さく息を吐いた。

 

「今のは、まあ……ぎりぎり」

 

 許容の一歩手前みたいな言い方だった。

 

 それでも、何も言われないで去られるよりずっとましだった。

 

 僕たちは一階へ戻った。

 

 委員長はトウジの隣に座り、ケンスケは窓から外を見張っている。僕とアスカの顔を見て、三人とも何か言いたそうだったけれど、誰も言わなかった。

 

 それでよかった。

 

 全部を今ここで説明する必要はない。必要な時に、必要な相手へ、言えばいい。

 

 その当たり前を、僕はたぶん初めて少しだけ掴み始めていた。

 

 

 

 

第二節 チャイムの鳴る方へ

 

 夕方、学校へ戻る途中で、僕たちは一度だけ屋上へ寄った。

 

 誰かが洗った毛布が風に揺れている。見張り台のアンテナは斜めのままだけど、壊れた街の上に細い影を落としていた。下の校庭ではケンスケが何か叫び、委員長がそれを怒鳴り返している。その生活の音が聞こえる位置まで来て、ようやく僕は少し呼吸を整えられた。

 

 アスカはフェンスにもたれず、少し距離を空けて立った。

 

「さっきの話」

 

 先に切り出したのは、彼女の方だった。

 

「終わったと思わないで」

 

「うん」

 

「終わらせる気もないけど」

 

 風が吹く。赤茶けた校舎の壁に、夕方の光が浅く張りついている。

 

「でも、ルールは決める」

 

 僕は黙って頷いた。

 

「今後、あたしに関係あることを思い出したら、その日のうちに言う」

 

「その日のうちに」

 

「全部まとめてじゃなくていい。あんた、抱え込むと勝手に腐らせるから」

 

 反論できない。

 

「で、詳しく聞くかどうかはその時のあたしが決める」

 

「分かった」

 

「あと、前のあたしを言い訳にして今のあたしから目ぇそらさない」

 

 胸の奥が少しだけ痛む。

 

「……やる」

 

「努力じゃなくて」

 

「やる」

 

 アスカはそこで小さく息を吐いた。

 

「それと」

 

「なに」

 

「さっき、あんた、同じところで立ち尽くしてたでしょ」

 

 病院の階段の踊り場のことだと分かる。

 

「うん」

 

「次にそうなったら、呼ぶから」

 

 意外で、少しだけ顔を上げた。

 

「呼ぶ?」

 

「そう。聞こえなかったら肩も引く」

 

「……痛そう」

 

「痛くする気で言ってるの」

 

 アスカは即答した。

 

「勝手に一人で前の海に落ちる方が面倒だから」

 

 その物言いが、妙にありがたかった。

 

「ありがとう」

 

「今のはまだ早い」

 

 そう言ってから、少しだけ目を細める。

 

「ただ、あんたが戻ってくるなら、その手間くらいはかける」

 

 戻ってくる。

 その言葉を、僕は心の中で何度か繰り返した。戻る場所がある、という意味だけじゃない。落ちかけても引き戻される側に、今の僕はまだ残っていていいのだという意味に聞こえたからだ。

 

「僕も」

 

 自然に言葉が出た。

 

「君が前のことで止まったら、今度はちゃんと聞く」

 

 アスカは少しだけ目を丸くして、それからすぐ嫌そうな顔をした。

 

「それ、うまくやりなさいよ」

 

「難しい」

 

「知ってる」

 

 しばらく、二人でフェンスの向こうを見た。

 学校の屋上は高くない。見える街も壊れたままだし、海の方角の空はまだ広すぎる。でも、ここには見張り台があり、干した毛布があり、下から人の声が上がってくる。補完の白い場所とは違う、小さくて面倒な現実だ。

 

「降りるわよ」

 

 アスカが言う。

 

「ヒカリが呼ぶ前に」

 

「うん」

 

 階段へ向かう時、アスカは一度だけ振り返った。

 

「さっきの“気持ち悪い”」

 

 心臓が跳ねる。

 

「今のあたしがどう思うかは、まだ決めてない」

 

 そこで言葉を切る。

 

「だから、その顔すんな」

 

「どの顔」

 

「もう死刑宣告受けましたみたいな顔」

 

 自分でもしていたのだと思う。

 

「まだ保留」

 

 アスカは言った。

 

「今のあたしは、まだ保留にしてる」

 

 その保留が、たぶん今の僕にはいちばん重くて、いちばんありがたい執行猶予だった。

 

 階段を下りかけたところで、アスカがまた止まった。

 

「あと、一個」

 

「うん」

 

「未来を知ってた、みたいな顔で全部まとめないで」

 

 僕は足を止める。

 

「まとめる?」

 

「そう。使徒が来るとか、誰が傷つくとか、そういう大きい話だけ見て、“分かってた”に入れるの」

 

 アスカは踊り場の窓から差す光を背にして、ゆっくり言った。

 

「でもさ、あんた、今のあたしのこと、全然知らないじゃない」

 

 痛いところだった。

 

「例えば?」

 

 訊き返すと、アスカは少しだけ考えた。

 

「病院の薄い毛布、首に当たると痒いとか。退院してもしばらく病院の匂いだけで気分悪くなるとか。甘い紅茶より、薄いスープの方が今はまだましとか。ヒカリに“アスカ”って呼ばれると、腹立つのに少しだけ嬉しいとか」

 

 最後の一つで、アスカは自分でも嫌そうな顔をした。

 

「……そういうのは、前の世界があっても分からないでしょ」

 

 僕は答えられなかった。

 答えられないこと自体が、たぶん答えだった。

 

「未来を知ってるって、地図だけ持って歩いてるのと似てるのよ」

 

 アスカは続ける。

 

「海があるとか、病院があるとか、階段が何階にあるとか、そのくらいは分かる。でも実際に歩くと、今日は床が濡れてるとか、踊り場で息が詰まるとか、右足が痛いとか、そういうの全然違う」

 

 風が吹いて、踊り場の埃が少し舞った。

 

「人間も同じ。大きい出来事だけ知ってても、それで“分かった”って顔されたら、そりゃ気持ち悪いわよ」

 

「……うん」

 

「だから今のあたしを見る時は、“前の世界を知ってる僕”じゃなくて、“今ここで聞き直す僕”でいなさい」

 

 その言葉は、叱責というより条件だった。

 

「分かった」

 

「それと」

 

 アスカは少しだけ躊躇ってから言った。

 

「前のあたしにしたことは、消えない。それは消えないままでいい。でも今のあたしが決めることまで、その罰の中へ入れないで」

 

 僕は息を呑んだ。

 

「罰だから近づかないとか、罰だから何も言わないとか、そういうの。聞こえはましでも、結局はまた自分で全部決めてるだけでしょ」

 

 図星だった。

 僕は罪悪感の顔をしたまま、そこへ隠れることばかり考えていた。赦されないなら何もしない方がましだと、勝手に線を引いていた。けれどそれは、相手の判断を待つことと少し違う。

 

「人の気持ちってさ」

 

 アスカは手すりへ軽く指を置いた。

 

「観測したら固定される粒子じゃないの。昨日と今日で揺れるし、同じ日の朝と夜でも変わるし、正しいこと言われても腹立つ時あるし、最低って思ってる相手の顔を見たくなる時だってある」

 

 その言い方が、ひどく人間らしかった。

 

「だから、今のあたしは今のあたしで測り直す。あんたもそうしなさい」

 

「測り直す」

 

「そう。毎回ちゃんと」

 

 観測。

 測り直す。

 未来予測やシミュレーションの言葉みたいなのに、言われていることはもっと単純だ。相手の顔色を見て、今の声を聞いて、昨日の結論で今日を塗り潰さないこと。

 

「……僕、みんなを出来事として見てたのかもしれない」

 

 思わず口から出た。

 

「起きることの順番とか、壊れる場面とか、そういうので覚えてて、その間の生活をちゃんと見てなかった」

 

 アスカは一度だけ目を伏せた。

 

「そうね」

 

 否定されない。

 

「でも、今から直すなら、まだぎりぎり人間のままでしょ」

 

 その一言が、妙に深く入ってきた。

 

 階段の下から、ケンスケの笑い声が上がる。

 委員長が何か言い返し、トウジが低い声で止める。生活の音だ。出来事と出来事のあいだを埋める、どうでもいいようでどうでもよくない音。

 

 アスカは先に階段を下り始めた。

 

「行くわよ」

 

「うん」

 

「あと、さっき言った“詳しく聞くかも”ってやつ」

 

 数段下で振り返る。

 

「その時、思い出せないことは思い出せないって言っていい。でも誤魔化すのは駄目」

 

「誤魔化さない」

 

「……ならいい」

 

 今度こそ、僕たちは一階へ戻った。

 

それから、少しだけ時間が過ぎた。

 

 何日か、という数え方が正しいのか、何週間かと言うべきなのか、曖昧だった。時計はまた動き始めていたし、カレンダーも残っている。けれど僕たちは、日付より先に“今日は誰が戻ったか”“水はどれだけ残っているか”“夜は何人で見張るか”を数えるようになっていた。

 

 学校は、半分だけ学校に戻った。

 

 ただし、戻った物の中には旧ネルフの機材も混ざっていた。発令所から外したサブモニタ、短波受信機、予備の非常灯、エヴァ整備用だった工具箱。誰もそれを大げさには言わない。でも家庭科室の隅や見張り台の足元にそういう物が置かれているだけで、この拠点がただの学校ではなく“戦場の後ろ側”でもあると分かった。

 

 教室は避難室になり、保健室は本当に保健室になった。家庭科室では炊き出しの真似事みたいなことをしている。理科準備室は乾電池とラジオの倉庫。体育館には毛布が並んだ。

 

 委員長はあっという間に“委員長”へ戻った。戻ったというより、こういう時に余計にそうなるのだろう。ケンスケは見張りと記録係を勝手に兼任していて、カメラがまだ使えることに執着していた。トウジは足が本調子じゃないのに動きたがり、毎回委員長に怒られている。

 

 その光景が、どうしようもなく普通だった。

 

 普通じゃないのに、普通に見える。

 

 たぶん人間は、こういうふうにしか生き延びられない。

 

「シンジ君、火、見ててくれる?」

 

「うん」

 

「煮込みすぎないでね」

 

「分かってる」

 

 炊き出しの鍋をかき混ぜながら返事をする。前なら、こういう“役割”が与えられるとほっとした。今も少しはほっとする。でも前ほど、それだけに逃げ込もうとは思わなくなっていた。

 

 役割は役割だ。

 

 それで誰かとの関係が片づくわけじゃない。

 

 アスカは、最初の数日は学校へ来たり来なかったりだった。人が増えると機嫌が悪くなる。トウジやケンスケと顔を合わせると余計に刺々しくなる。委員長とは言い合いになりかけて、そのくせ本当に辛そうな時は何も言えなくなる。

 

 でも、少しずついる時間が増えた。

 

 教室の掃除を手伝う。配給の缶詰に文句を言う。夜になると見張りに出て、風邪を引きそうな誰かを見つけては怒鳴る。そういうやり方で、アスカは自分の場所を確かめているのだと分かった。

 

 前みたいに、上手くやろうとして全部を間違える感じじゃない。

 

 今はもっと泥臭い。

 

 嫌なら嫌だと顔に出るし、駄目な日は本当に来ない。でも来る日は来る。それだけで十分だと思う。

 

 僕たちの間の距離も、少しずつ変わった。

 

 近くなったというより、測り直している感じだった。

 

 朝の挨拶をする。しない日もある。何か頼まれたら、できるだけはいかいいえで答える。余計な先回りをしない。黙り込んだら、必要な時だけ声をかける。

 

 そんな当たり前が、やけに難しかった。

 

 でも、難しいまま繰り返していると、少しずつ慣れてくる。

 

 ある日の夕方、音楽室へ行くと器楽庫の奥に置いていたチェロケースが無事だった。

 

 少し弦は狂っている。けれど胴は割れていない。発電機の電力を借りて明かりをつけ、僕は何となく蓋を開けた。

 

 弓を持つ。

 

 最初の音が鳴るまで、少し時間がかかった。

 

 前にも弾いた短い導入。文化発表会で使うはずだった、クラスの歌へつなぐ四小節。結局、あの“発表会”がどうなったのかはもう分からない。でも指はまだ、その入りを覚えていた。

 

 音楽室へ音が満ちる。

 

 学校の中でチェロを弾くなんて、前なら少しだけ恥ずかしかったと思う。今は逆だった。音が鳴ると、壊れた校舎が少しだけ“場所”に戻る気がする。

 

「へえ」

 

 後ろから声がして、僕は手を止めた。

 

 アスカだった。

 

 ドアにもたれたまま、腕を組んでいる。

 

「覗き見は感じ悪い」

 

「勝手に聞こえてきたの」

 

「そう」

 

「続ければ」

 

 意外なことを言う。

 

「嫌じゃないの?」

 

「別に」

 

 アスカは窓のそばまで歩いてきて、夕焼けの残る校庭を見た。

 

「変な静けさよりは、まし」

 

 僕はもう一度弦へ弓を置いた。

 

 同じ曲の途中から弾く。アスカは何も言わない。言わないまま、窓の外を見ている。

 

 しばらくして、曲が終わった。

 

 沈黙が落ちる。

 

「前にさ」

 

 アスカが言った。

 

「合唱の導入、やるって言ってたわよね」

 

「うん」

 

「結局、やれなかった」

 

「うん」

 

「もったいなかったわね」

 

 その一言が、なぜだかひどく胸に来た。

 

 もったいなかった。

 

 世界の終わりについて、そんな言い方をする人はあまりいないだろう。もっと大きく、もっと悲劇みたいな言い方をしたがるはずだ。

 

 でも、アスカはそう言う。

 

 もったいなかった。

 

 たぶんそれは、話を軽くしないための言葉だった。

 

「そうだね」

 

「あと、あんた」

 

「なに」

 

「最近、前より人の話を聞く」

 

「聞く?」

 

「人の話」

 

 それは褒めているのかどうか分かりづらかった。

 

「前がひどすぎたんじゃない」

 

「それもある」

 

 否定できない。

 

 アスカは少しだけこちらを見た。

 

「でも、たまにまだ変」

 

「知ってる」

 

「知ってるなら直しなさいよ」

 

「やってる」

 

「遅い」

 

 前にも何度かしたやり取りだった。でも今は、その一つ一つが少し違う。怒鳴り合いだけで終わらない。途中で止まって、言い直す余地がある。

 

 それがどれだけありがたいことか、僕はたぶん前より分かっている。

 

「アスカ」

 

「なによ」

 

 僕は弓を下ろした。

 

 こういう時、まだ“好き”とは言えないと思う。その言葉の中に、僕はまだ自分を助けたい気持ちを混ぜてしまうからだ。混ぜてしまううちは、たぶん駄目だ。

 

 でも、何も言わないのも違う。

 

「僕、まだうまく言えない」

 

「知ってる」

 

「君のこと、どういうふうに好きなのか」

 

 アスカは目を細めた。

 

「何それ。告白の練習?」

 

「違う」

 

「じゃあ何」

 

「言い訳しないで言おうとしてるだけ」

 

 アスカは黙った。

 

「僕、たぶんまだ自分を助けたい気持ちもある」

 

「あるでしょうね」

 

「うん。でも、それだけじゃないようにしたい」

 

「ふぅん」

 

「君がいる朝を、今の朝として迎えたい」

 

 自分で言っていて、ひどく不格好だと思う。

 

 それでも、今の僕にはそれが一番本当だった。

 

「前の海とか、前の失敗とか、そういうのの償いじゃなくて」

 

 喉が少しだけ乾く。

 

「これからの方で、一緒にいたい」

 

 アスカはしばらく何も言わなかった。

 

 夕焼けが少しずつ薄くなる。校庭に伸びた影が長くなる。遠くで誰かの鍋を叩く音がして、配給の合図だと分かる。

 

「……それ」

 

 アスカがようやく口を開いた。

 

「“好き”よりは、まし」

 

 胸の奥が、静かに熱くなった。

 

「まし、か」

 

「勘違いしないで」

 

「してない」

 

「してる顔」

 

「少しだけ」

 

「正直すぎ」

 

 アスカは窓から離れ、僕のすぐ横までは来ないまま、隣の机へ腰掛けた。音楽室の机なんて意味がないのに、その座り方はどこか教室みたいだった。

 

「一緒にいたいなら」

 

 アスカが前を見たまま言う。

 

「逃げないこと」

 

「うん」

 

「勝手に重くならないこと」

 

「うん」

 

「あと、腹が立つ時は腹が立つって言うこと」

 

「それ、難しい」

 

「難しくてもやりなさい」

 

「うん」

 

「返事だけはいいのよね」

 

 そこで、ようやくかすかに笑った気がした。

 

 僕はもう一度だけ弦へ弓を置いた。

 

「もう一曲、弾いていい?」

 

「勝手にどうぞ」

 

 今度はもっと簡単な曲を選ぶ。導入じゃない。昔、父さんの前で失敗した曲でも、母さんのための曲でもない。ただ、指が覚えているだけの短い旋律。

 

 アスカは最後まで黙って聞いていた。

 

 曲が終わる頃、校庭のスピーカーがぶつりと鳴った。ケンスケがいじっていた配線がうまくいったのだろう。続いて、ひどく歪んだ、それでも確かに学校のチャイムの音が響いた。

 

 思わず顔を上げる。

 

 アスカも少しだけ目を見開いていた。

 

「何それ」

 

「ケンスケじゃない」

 

「……あいつ、ほんと変なとこで有能」

 

 チャイムは途中で音程を外し、それでも最後まで鳴った。

 

 誰もいないはずだった学校に、また終業の音が満ちる。

 

 完璧じゃない。直ってもいない。でも、壊れっぱなしでもなかった。

 

 僕はアスカを見た。

 

 アスカも、今度はこちらを見返した。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「明日もここ、来る?」

 

「来るよ」

 

「ふうん」

 

「アスカは」

 

「気分」

 

「そっか」

 

「でも」

 

 アスカは視線をわずかに逸らした。

 

「隣、空いてたら座るかも」

 

 それだけ言って、先に立ち上がる。

 

 僕は少し遅れて立ち上がった。

 

 音楽室のドアを開けると、廊下の向こうから夕飯の匂いと、委員長の怒る声と、ケンスケの笑い声が流れてきた。

 

 世界はまだ全然ましじゃない。

 

 死んだ人は戻らないかもしれないし、戻る人がまだいるのかも分からない。街は壊れたままだし、僕たち自身もろくに修理なんてできていない。

 

 それでも。

 

 それでも、チャイムが鳴る方へ歩いていける。

 

 そのことだけは、今の僕には確かなことだった。

 

 

 

 

第三節 保健室の午後

 

 学校へ人が戻り始めてからも、午後の保健室だけは少し違う時間が流れていた。

 

 委員長が薬の在庫を数え、ケンスケが窓際でラジオをいじり、トウジが本調子じゃない脚を組んだまま文句を言う。そこへアスカが気まぐれに入ってきて、シンジは用もないのに湯を沸かす。

 

 誰も“元通り”とは言わない。

 言わなくても、そうではないことくらい皆分かっている。

 

 でも委員長が紙へきっちり名前を書きつけ、ケンスケが見張り当番表を作り、トウジがそれに文句を言うたび、世界は少しだけ“続き”を持ち始める。

 

「シンジ君、砂糖どこ?」

 

「右の棚」

 

「右のどこよ」

 

「上から二段目」

 

「最初からそう言いなさいよ」

 

 アスカが怒り、委員長が呆れ、ケンスケが笑う。

 

 トウジが「ほんまお前ら相変わらずやな」と言って、少しだけ空気がゆるむ。

 

 シンジは最近、こういう時にわざと一歩引きすぎないようにしていた。前なら笑い声の外側で様子を見ていた。今は必要なら口を挟むし、怒られたらそれを受ける。

 

 痛くないわけではない。

 それでも、痛いからこそそこへ居るのだと少しだけ思えるようになってきた。

 

「ねえ」

 

 保健室の窓から空を見ながら、アスカが言った。

 

「チャイム、また鳴らすんでしょ」

 

「ケンスケが?」

 

「他に誰が」

 

「やるよ!」

 

 窓際から即座に声が返る。

 

「次はもっときっちり修理するからな!」

 

「うるさい」

 

 アスカはそう言ってから、少しだけ視線を横へ滑らせた。

 

「……鳴ったら、また音楽室行く?」

 

 あまりにも何でもない言い方だった。

 

 だからシンジは、一瞬だけ本気で聞き逃しかけた。

 

「行く」

 

 返事はすぐ出た。

 

 アスカは鼻を鳴らす。

 

「なら、変な顔しないでよね」

 

「してる?」

 

「してる」

 

 ヒカリがため息をつき、トウジがニヤニヤし、ケンスケが露骨に面白がる。

 

「やめろよ」

 

 シンジが言うと、アスカが横から小さく続けた。

 

「でも、前よりはマシ」

 

 その“マシ”は、以前みたいな突き放し方ではなかった。

 

 十分でも、完璧でもない。

 それでもここにいていいと言われた気がして、シンジは肩の力を少し抜いた。

 

 ヒカリは薬瓶を並べながら、二人のやり取りを横目で見た。

 前みたいに、どちらかが試してどちらかが固まって終わる感じではない。今はまだぎこちなくても、次の時間の約束だけは残る。

 委員長としては、その違いだけでだいぶ助かると思った。

 

 そのあと、ケンスケがチャイムの配線を見に出て、トウジが湯たんぽ代わりの瓶を取りに行き、アスカも薬缶を持って隣の流しへ消えた。保健室に残ったのは、ヒカリとシンジだけだった。

 

 ヒカリは薬瓶のラベルを揃えたまま、しばらく何も言わない。

 言わないままの方が、かえって逃げ場がない。

 

「碇君」

 

「何」

 

「ひとつだけ、前から腹立ってること言っていい?」

 

 僕は頷いた。

 

「この前、病院で西側の階段のこと言ったでしょ」

 

 心臓が小さく跳ねた。

 

「崩れた廊下の先じゃなくて、先にそっちを指した。あれ、初めて来た人の言い方じゃなかった」

 

 否定しようとして、できなかった。

 

「……ごめん」

 

「謝るかどうかは、今いいの」

 

 委員長は顔を上げる。

 

「便利なのは分かる。碇君がそうやって先に気づいてくれるから助かったこともある。でも、それと別で腹立つの」

 

 声は静かだった。怒鳴らないぶんだけ、重い。

 

「知ってたかもしれない、って想像があとから付いてくるから」

 

 僕は何も言えなかった。

 

「鈴原のことも、アスカのことも、碇君は時々“起きる順番”だけ先に見てるみたいな顔する」

 

 図星だった。

 

「全部は知らない」

 

 ようやくそれだけ言う。

 

「大きいことの順番みたいなのが、頭から離れないだけで。今の細かいことは、全然分かってない」

 

 委員長は少しだけ目を細めた。

 

「そういうの、前にアスカにも言われた?」

 

「……言われた」

 

「だったら覚えておいて」

 

 委員長は夜番表の端を指で叩く。

 

「使える知識と、信じられるかどうかは別」

 

 その一言が、妙に深く刺さった。

 

「今ここで一緒に動いてるのは、なかったことにしたからじゃない。足りないままでも、名前で呼べる方を選んでるだけ」

 

 保健室の窓から風が入る。

 薬品の匂いと、煮立つ湯の匂いが混ざる。

 

「だから、便利な地図みたいな顔で全部引っぱらないで」

 

 委員長は言った。

 

「分からないなら分からないって言って。知ってることがあるなら、ちゃんと今の誰かの顔を見てから言って」

 

 僕は頷いた。

 

「……うん」

 

「それなら、まだ一緒にやれるから」

 

 そこでようやく、委員長は視線をラベルへ戻した。

 

 僕もそれ以上は何も言えなかった。

 戻ってきたものはたしかにある。

 でも戻らないまま残るものもある。その両方を見ないふりしないことが、今の“続き”なのだと思った。

 

 窓の外で、午後の風が校庭を撫でていく。

 チャイムはまだ鳴らない。

 でも鳴る時は、きっとまた誰かが笑う。

 

 その笑い声の中へ、今度は自分の声も混ぜたいと、シンジは静かに思った。

 

 

 

第四節 白い帰還

 

 学校へ人が戻り始めてしばらく経っても、一度に全部が良くなったわけではなかった。

 

 水が足りない。

 薬が足りない。

 眠りが足りない。

 

 夜になると、誰かが海の夢で目を覚ます。物音一つで教室のあちこちから息を呑む音がする。朝になると、昨日まで動いていた発電機が急に黙る。そういうことの繰り返しだった。

 

 ヒカリは全部を回そうとした。

 配給表を作り、見張り当番を決め、消毒液の残量を数える。誰かが揉めれば間に入り、怪我人が出れば保健室へ走る。そうやって立っている間は平気そうに見えるのに、夜の倉庫で一人になると動けなくなる日があった。

 

 僕がそれに気づいたのは、だいぶ遅かった。

 

 薬箱を取りに行った倉庫の床へ、委員長がしゃがみ込んでいた。泣いてはいない。でも、泣くより少し手前の顔で、空の段ボールを見ていた。

 

「洞木さん」

 

 声をかけると、委員長は慌てて顔を上げた。

 

「ごめんね、ちょっと座ってただけ」

 

 そう言って立とうとして、うまく立てない。

 僕は反射的に手を差し出した。でも、どう支えればいいのか分からず変な位置で止まる。

 

「何してんのよ」

 

 後ろからアスカの声が飛んできた。

 

「こういう時にぼさっと突っ立ってるの、一番感じ悪い」

 

「分かってるよ」

 

「分かってないからそうなるんでしょ」

 

 痛かった。でも、その通りでもあった。

 僕は“役に立つこと”の方へ逃げるくせに、人の限界が見えた瞬間だけ急に手つきが鈍る。鍋をかき混ぜることも、包帯を運ぶこともできるのに、疲れた顔の横へ座ることがまだ下手だ。

 

 結局、アスカが先に委員長の隣へしゃがんだ。

 

「ヒカリ」

 

 声はぶっきらぼうだった。

 

「五分でいいから休みなさい」

 

「でも」

 

「でもじゃない」

 

 その言い方が、妙に委員長を黙らせた。

 委員長は数秒だけ唇を噛んで、それから小さく頷いた。

 

「……ありがとう」

 

「今はシンジにじゃなくて、あたしに言いなさい」

 

「そうだね」

 

 委員長はそこでようやく、かすかに笑った。

 

 僕は何も言えなかった。

 役割へ逃げないこと。勝手に一人で重くならないこと。必要な時に、そこへいること。

 

 アスカから言われたことを、僕はまだ全然やり切れていない。

 

 その日の夕方、校門の方でケンスケが大きな声を上げた。

 

「おい、誰か来る!」

 

 皆が顔を上げる。

 壊れた校舎の影を縫うように、二つの人影が歩いてきた。

 

 白い髪の少女と、黒髪の少年。

 

 僕は思わず立ち上がっていた。

 

「……綾波」

 

 綾波は前より少し痩せていた。制服ではない。どこかの病院から持ち出したみたいな薄いカーディガンを羽織り、肩から小さな袋を提げている。

 

 その半歩後ろに、カヲル君がいた。

 こちらも痩せている。顔色は良くない。でも、自分の足で歩いていた。

 

 アスカの肩が、目に見えて強張る。

 

 委員長は一瞬だけ息を止め、それからいつもの委員長の顔を作った。

 

「綾波さん、渚君」

 

 その呼び方が、ひどく丁寧で、だからこそありがたかった。

 

「戻ったの?」

 

 綾波が頷く。

 

「うん」

 

 短い答えだった。

 でも、その一音だけで十分だった。レイは今ここにいて、前の誰かの残響じゃなく、自分の声で返事をしている。

 

「ここに、いてもいいかな」

 

 カヲル君が言う。

 前みたいな軽さはそこになかった。自分が歓迎されるとは限らないと知っていて、それでも訊く声だった。

 

 トウジが眉をひそめる。ケンスケは露骨に戸惑っている。アスカは何も言わない。言わないけれど、その沈黙の尖り方がいちばん痛かった。

 

 委員長は皆の顔を一度だけ見た。

 それから、小さく息を吸う。

 

「いて」

 

 誰より先に、委員長が言った。

 

「いていいよ。ルールはあるけど」

 

 そこで委員長の声になる。

 

「配給は公平。勝手に一人で動かない。夜の見張りは当番制。何かあったらすぐ言うこと」

 

 カヲル君が少しだけ目を見開く。

 

「……洞木さんらしいね」

 

「渚君はまず休んで。綾波さんも。詳しい話はそのあと」

 

 実務の口調だった。

 でも、その実務の中に“受け入れる”が入っていた。

 

 トウジはしばらく黙っていたが、やがて頭をかいた。

 

「まあ、人手は多い方がええ」

 

 言い方はぶっきらぼうだ。でも拒絶ではない。

 

 ケンスケも「記録上は大事件だけどな」と変なことを言いながら、すでに毛布を探しに走っている。

 

 アスカだけがその場から動かなかった。

 綾波の顔を見て、次にカヲル君の顔を見る。その目つきは、歓迎でも軽蔑でもない。たぶんまだ、どう置けばいいのか決まっていない。

 

 それでもレイが「ただいま」と小さく言った時、アスカは目を逸らさなかった。

 

「……おそい」

 

 それだけだった。

 でも、レイは少しだけ頷いた。

 

 僕は二人の荷物を受け取った。

 綾波の袋は軽くて、カヲル君の方は思ったより重かった。缶詰と乾電池と、壊れかけの短波ラジオが入っている。

 

「どこで」

 

 訊きかけると、カヲル君は肩をわずかにすくめた。

 

「長い話になる」

 

「あとで聞く」

 

「うん」

 

 それだけで、胸のあたりが妙に熱くなった。

 前なら、ここで安心しすぎたと思う。全部元に戻るみたいに勘違いしたと思う。

 

 今はそうじゃない。

 戻ってきたからこそ、これから面倒なことが増えるのだと分かる。

 

 それでも、戻ってきた顔を今の顔として見ることから始めるしかなかった。

 

 

 

 

第五節 遅れて戻る大人

 

 レイとカヲル君が戻ってきてから、三日ほど経った夕方だった。

 

 校門の外で、古いディーゼルの音がした。

 最初は皆、また別の生存者が来たのだと思った。ケンスケが真っ先に見張り台へ駆け上がり、委員長が廊下の角から身を乗り出し、僕とアスカは反射で校門の方へ走った。

 

 見えたのは、ネルフの整備用サービス車両だった。

 

 ひしゃげたフロント。泥のついた側面。側面の剥げた塗装の下に、まだ第弐ケージ搬送班の番号が残っている。エヴァの整備車両が、そのまま人を運ぶ車になってここへ戻ってきた。

 

 荷台へ積まれた発電機と薬箱。その運転席に、加持さんがいた。

 

 助手席にはミサトさん。

 脇腹から胸元にかけて太い包帯が巻かれている。顔色は良くない。それでも、自分の足で降りるつもりの顔だった。

 

 荷台の後ろからは、マヤさん、日向さん、青葉さんが順番に顔を出した。三人とも疲れ切っているのに、誰も倒れていない。

 

 その光景を見た瞬間、僕は一歩も動けなくなった。

 

「……ただいま」

 

 先に言ったのは、ミサトさんだった。

 声は掠れている。けれど、間違いなく今ここにいる人の声だ。

 

「遅くなって悪い」

 

 加持さんが続ける。

 軽口の調子は残っているのに、前みたいな余裕だけの声ではなかった。

 

「勝手に死んだことにしてただろ」

 

 返事の代わりに、僕はようやく息を吐いた。

 吐いた途端、膝から力が抜けそうになる。

 

「……生きてたんだ」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 

「しぶといのが取り柄でね」

 

 加持さんは肩をすくめた。

 

 ミサトさんはそこで一度だけ僕の額を小突いた。

 

「泣くなら荷下ろしのあと」

 

 前と同じようで、前よりずっと現実の言い方だった。

 それだけで、本当に帰ってきたのだと分かった。

 

 あとで聞いた話は、ひどく地味で、だからこそ本当らしかった。

 

 戦自侵攻の日、加持さんは旧ゲヒルンのサービス路でミサトさんを拾い、日向さん、青葉さん、マヤさんを一つずつ繋ぎ直した。

 英雄みたいに全部を救ったわけじゃない。ただ、古い鍵と地図と回線の癖を知っていたから、閉じるシャッターの順番を少しだけずらせた。だから全員が死に損ねた。

 

 その後で世界ごと一度海へ溶けた。

 戻った場所がたまたま西側だったから、残った車と物資を拾いながら、ここまで辿り着いただけだと加持さんは言った。

 

「泥と血と燃料の匂いしかしなかった。格好つける話じゃない」

 

 そう言いながら、彼はトラックの荷台から地図ケースを下ろした。

 

「だから続きは、きっちり汗かいてやる」

 

 その一言で、学校の空気が少し変わった。

 

 マヤさんは保健室へ入るなり、消毒と仕分けの指示を出した。委員長がすぐ横につき、薬の残量表を書き直す。

 日向さんは短波ラジオとケーブルを広げ、ケンスケの見張り台を“通信室”へ変え始めた。

 青葉さんは壊れかけの発電機を分解し、校内放送の配線とチャイム系統を見直す。

 

 そしてミサトさんは、まだ顔色が悪いまま教室の真ん中へ立った。

 

「今日からここ、ほんとの意味で拠点にするわよ」

 

 黒板へ地図を貼る。ルート表を作る。水と食料と睡眠時間を、感情より先に並べていく。

 でも、それは感情を切り捨てる冷たさではなかった。遅れて戻ってきた大人が、ようやく責任の側へ立ち直るやり方だった。

 

 アスカは少し離れたところから、その様子を見ていた。

 加持さんの顔を見ても、前みたいに胸が跳ねる感じはなかった。むしろ、髭の伸びた頬や、疲れて少し遅くなった立ち上がり方の方が先に目につく。

 

 ああ、この人も生きた人間なんだと、今さら思う。

 遠くに憧れた完成品ではなく、遅れてでも責任を背負い直しに来た一人の大人として。

 

「よう、アスカ」

 

 加持さんが軽く手を上げる。

 

「……遅いのよ」

 

 アスカはそれだけ言った。

 でも、その声は前ほど尖っていなかった。

 

「悪かった」

 

 加持さんも、それ以上は軽く流さなかった。

 

 そのやり取りを見て、僕はひとつ息を吐いた。

 

 大人まで記念碑のままじゃない。

 疲れて、怪我して、遅れて、それでも戻ってくる。

 

 そのことが、今はどうしようもなくありがたかった。

 

 

 その夜、荷下ろしと見回りがひと段落したあとで、僕は黒板の前に一人で立っていた。

 当番表。探索班。見張り。通信。寝床の割り振り。白いチョークで増えていく役割の列を見ていると、世界はまだ終わっていないのだと嫌でも分かる。

 

 背後で足音がした。

 振り向くと、ミサトさんが教室の入口に立っていた。壁へ手をついている。自分の足で来ているけれど、怪我人の立ち方だ。

 

「まだ起きてたの」

 

「そっちこそ」

 

「お姉さんは大人だからね」

 

「そういう強がり、今はあんまり似合わないです」

 

 言うと、ミサトさんはかすかに笑った。

 

「生意気」

 

 その一言だけで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどけた。

 

「……死んだと思ってました」

 

 言ってから、自分の声が少し掠れているのに気づく。

 

「うん」

 

 ミサトさんは否定しなかった。

 

「たぶん、あたしもあそこで終わるつもりではいた」

 

 軽く言うには重い言葉だった。

 でも今の彼女は、それを聞こえのいい言葉で包まなかった。

 

「けど、生き残ったならその後まで引き受けるのが今度の仕事」

 

 黒板の当番表へ視線を向ける。

 

「押し出して終わる大人じゃなくて、続きまで付き合う大人になるってこと」

 

 僕は何も言えなかった。

 あの最後の通路で止まっていたミサトさんが、今ここで黒板の前を見ている。それを同じ人として受け取るのに、少し時間がかかった。

 

「だから」

 

 ミサトさんは僕を見る。

 

「あの時のあたしで止めないでよ」

 

 その言い方が、ひどく真っ直ぐだった。

 

「……うん」

 

「はいじゃなくて?」

 

「うん」

 

 言い直すと、ミサトさんは小さく頷いた。

 

 ***

 

 深夜、屋上の地図机に明かりが残っていた。

 加持さんが赤鉛筆でルートを引き、ミサトさんがその横で必要物資を書き足している。恋人どうしの顔ではない。遅れて戻ってきた大人が、死に損ねた続きの責任を分け合う顔だった。

 

「遅かったわね」

 

 ミサトさんが言う。

 

「死んだことにされてたくらいだからな」

 

 加持さんは肩をすくめる。

 

「笑えない」

 

「悪い」

 

 謝り方が少しだけ本気で、ミサトさんはそれ以上責めなかった。

 

「今度は途中で消えないでよ」

 

「お互いさまだ」

 

 加持さんが言う。

 

「俺は抜け道と回線を繋ぐ。お前は人を繋げ。そういう役割分担で行こう」

 

「都合よくまとめないで」

 

「まとめないと寝る時間なくなるぞ」

 

 その言い方に、ミサトさんは呆れたように息を吐いた。

 

「……死に損なったんだから、せめて最後までやるわよ」

 

「うん」

 

 短い返事だった。

 でも、それで十分な合意に見えた。

 

 ***

 

 翌朝、加持さんは校庭でポリタンクを運んでいた。

 怪我人がやる仕事じゃないと思ったけれど、本人は平然とした顔をしている。

 

「よう、アスカ。悪い、そっち押さえてくれるか」

 

 アスカはわずかに眉をひそめた。

 

「休んでなさいよ、怪我人」

 

「今は人手の一人だよ」

 

 軽口は前と同じなのに、胸の跳ね方はもう違った。

 遠くで憧れていた完成品みたいな大人じゃない。傷を抱えたまま、荷物を運び、地図を引き、遅れて責任を取り直している人だ。

 

「……落としたら承知しないわよ」

 

 アスカはそう言って、ポリタンクの反対側を持った。

 

「了解」

 

 加持さんも、それ以上は茶化さなかった。

 並んで歩く二人を見ながら、僕はひとつ息を吐いた。

 憧れが終わるというより、見方が変わる音がした気がした。

 

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